ゆるキャン△ 逆さのコンパス
志摩リンは、夢に見た。大人になった自分と、なでしこの死を。冷たい指先、雪の匂い、崖に落ちたオレンジのヘアピン。目が覚めても、その感触は消えなかった。数日後、冬の本栖湖でキャンプをした二人は、湖畔で古い真鍮のコンパスを拾う。「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」——蓋を開けると、針は逆回りに回っていた。その夜、リンは再び夢を見る。猪之頭林道、ガードレールのない崖、手を振るなでしこ。飛び起きたとき、コンパスの針は前より速く、逆回転していた。これは夢なのか。それとも——。ゆるキャン△の世界で綴られる、静かで冷たい、時間を巡る冒険と探索の物語。
ゆるキャン△ 逆さのコンパス - 消えない約束
管理棟の天井。木目が波打っている。古い梁。薪の匂い。遠くで湖が静かに揺れる音。
志摩リンは、ゆっくりと目を開けた。
体が重い。腕が、脚が、鉛みたいだ。指先を動かす。感覚がある。生きている。
(……ここは)
浩庵キャンプ場。管理棟の奥。北条タケシの私室。古い布団の上。天井の木目。窓の外は白い光。
朝だ。
どのくらい眠っていたのか。数時間か。それとも一晩か。わからない。
頭の奥に、白い霧がかかっている。思い出そうとすると、霧が濃くなる。見晴らし岩。崩れる崖。突き飛ばした。光。
(……なでしこは)
体を起こそうとした。
その瞬間、右手に冷たい感触。
コンパスだ。
真鍮の、古いコンパス。
針が、止まっている。
反時計回りに回り続けていた針が、ぴたりと、動かない。光も、ない。ただの、冷たい金属の塊。
「……起きたか」
低い声。
振り向くと、北条タケシが座っていた。白髪交じりの短髪。無精髭。左手の古い傷跡。優しくも鋭い黒い瞳。腰を下ろした木の椅子。手に湯飲み。湯気が細く昇っている。
六十四歳。このキャンプ場の管理人。元漁師。
「……北条さん」
声が掠れた。喉が痛い。
「水、飲むか」
北条は、枕元のコップを差し出した。
リンは体を起こした。腕が震える。北条が背中を支えてくれた。冷たい水。一口。喉を通る。生き返る感覚。
「……なでしこは」
「隣で寝ておる。泣き疲れてな」
北条の視線が、窓の外へ向いた。
「あの子は、お前さんを一人にせんかった。救急車が来るまで、ずっと手を握っておったよ」
リンの胸の奥が、きゅっと縮む。
(……そうか)
(なでしこが、いたのか)
(ずっと)
北条は、静かに続けた。
「コンパスは、もう光らん」
リンは、手の中のコンパスを見た。
針は止まっている。
「代わりに、お前さん自身が、時詠みになった」
「……時詠み」
「時を詠む者。過去へ戻る力を持つ者の呼び名だ。江戸の昔から、富士の麓にそう呼ばれる者たちがおった」
北条の声は、低く、ゆっくりだった。
「コンパスは道具にすぎん。針を回すのは、お前さんの強い後悔だ。お前さんがなでしこを救いたいと願うたび、時が巻き戻った。そして、そのたびに、お前さんの記憶が食われた」
リンは、自分の手のひらを見た。
普通の手。指先。爪。小さな擦り傷。
でも。
胸の奥に、何かが残っている。
なでしこを守りたい。
その想いだけは、確かに、ここにある。
「時詠みは、記憶を対価にする。だがな」
北条は、一呼吸置いた。
「他者が覚えていれば、記憶は完全には消えん。お前さんが忘れたことも、誰かが覚えておれば、それは消えずに残る。お前さんの胸に、想いとして残っておるだろう」
リンは、北条の言葉を、ゆっくりと噛みしめた。
(……他者が覚えていれば)
(記憶は、消えない)
(なでしこが、覚えていてくれた)
(あの約束を)
ドアが、開いた。
「リンちゃん……!」
なでしこが、立っていた。
明るい栗色のボブヘアは、乱れている。オレンジのヘアピンが、少し曲がっている。大きな琥珀色の瞳は、真っ赤に腫れていた。涙の跡が、頬に何本も光っている。
白いダウンジャケットは、泥だらけだった。
「リンちゃん、起きたんだね……よかった……よかったぁ……」
なでしこが、駆け寄ってきた。
転びそうになりながら。
布団に、突っ込むように、抱きついてきた。
温かい。
「私、ずっと待ってた。リンちゃんが目を覚ますの、ずっとずっと待ってたんだよ」
なでしこの声が、リンの肩口で震える。
「……なでしこ」
「リンちゃん、私を助けてくれたんだよね。見晴らし岩で。私が落ちそうになって、リンちゃんが突き飛ばしてくれた。私、ちゃんと見てた。リンちゃんが、私の代わりに落ちていったの」
なでしこの涙が、リンの首筋に落ちる。
熱い。
「ありがとう。ありがとう、リンちゃん。私、リンちゃんに助けられた。生きてる。ここにいる。全部、リンちゃんのおかげだよ」
リンは、なでしこの背中に、腕を回した。
力が入らない。
でも、確かに、抱きしめた。
「……なでしこ、私」
声が、震える。
「私、お前との約束、忘れた。見晴らし岩で、一緒にキャンプするって。お前が覚えてるって言った。でも、私は、思い出せない」
なでしこが、顔を上げた。
涙で濡れた瞳。
でも、その目は、まっすぐリンを見ていた。
「うん。私、覚えてる。リンちゃんが忘れても、私がずっと覚えてる」
「だから、教えて。私が忘れたこと。お前との約束。どんな風に、どんな場所で、何を話したか。全部、お前の言葉で」
なでしこは、涙を拭いながら、笑った。
泣き笑い。
「うん。教える。いっぱい教えるよ」
なでしこは、リンの手を握った。
温かい。
「あの日、猪之頭林道を歩いててね。見晴らし岩に着いた時、リンちゃんが言ったんだよ。『ここ、いいな。今度、二人でキャンプしよう』って」
リンの胸が、ぎゅっと締まる。
(……私が、言ったのか)
(そんなことを)
「私、すっごく嬉しくて。『絶対だよ!』って言ったの。リンちゃんは、『ああ、約束だ』って。富士山が、すっごくきれいに見えてた。夕方で、空がオレンジ色で。風がちょっと冷たくて」
なでしこの声が、優しく、リンの記憶の空白を埋めていく。
「それから、帰り道で、私が足を滑らせて。リンちゃんが手を掴んでくれたんだよ。あの時も、リンちゃんは私を守ってくれた」
(……そうだったのか)
(私は、あの時も)
(なでしこを)
リンは、なでしこの言葉を、一つ一つ、胸に刻んだ。
思い出せない。
でも、なでしこの声で聞くと、胸の奥が温かくなる。
想いは、確かにある。
「なでしこ、ありがとう」
リンは、もう一度、なでしこを抱きしめた。
「私、お前を守りたかった。理由は、もう分からない。でも、お前が死ぬ未来を、変えたかった。それだけは、本当だ」
「うん。分かってる。リンちゃんは、ずっと私を守ってくれてたんだよね。一人で、ずっと、戦ってくれてたんだよね」
なでしこの声が、震える。
「リンちゃんが一人で背負ってたなんて、ずるいよ。私、何も知らなかった。リンちゃんが、どんどん忘れていってることも、苦しんでることも、何にも」
「でも、もう大丈夫。これからは、私も一緒。リンちゃんが忘れても、私が覚えてる。私が、リンちゃんの記憶になる」
リンの目から、涙が溢れた。
止まらない。
「……ああ」
声が、出ない。
「約束、しよ。見晴らし岩で、一緒にキャンプする。今度は、私が全部準備する。リンちゃんの好きなもの、いっぱい作る。それで、富士山を見ながら、ご飯食べよう」
なでしこが、笑った。
涙を流しながら。
でも、確かに、笑った。
「……約束、だな」
リンは、頷いた。
(……また、作り直せばいい)
(なでしことの、新しい思い出を)
(忘れた記憶は、戻らない)
(でも、これから作る記憶は、私のものだ)
北条が、静かに立ち上がった。
「……飯にしよう。腹が減っては、話もできん」
――――
管理棟の居間。
古いこたつ。みかん。湯気の立つ味噌汁。白米。焼き鮭。たくあん。
北条が、朝食を作ってくれた。
「わあ……! おいしそう! いただきます!」
なでしこが、手を合わせた。
リンも、箸を取った。
味噌汁を一口。
……温かい。
体の芯まで、染みる。
(……うまい)
(前は、味が薄く感じた)
(今は、ちゃんと、味がする)
「おいしい……! 北条さん、料理上手なんですね!」
なでしこが、笑顔で言った。
「元漁師でな。船の上では、飯は自分で作る。たいしたもんじゃないが」
北条は、静かに茶を啜った。
「……北条さん」
リンは、箸を置いた。
「私、これから、どうすればいいんでしょうか」
北条は、ゆっくりと、リンを見た。
「……時詠みの力は、お前さんの中に残っとる。コンパスはもう動かんが、お前さんが強い後悔を抱けば、また時が巻き戻るかもしれん」
リンの背筋に、冷たいものが走る。
「今度は、コンパスの代償がない。だが、時詠み自身が、記憶を削って時を動かす。お前さんの記憶は、もっと早く、もっと深く、消えるかもしれん」
「……それでも」
リンは、なでしこを見た。
なでしこは、心配そうに、リンを見つめていた。
「それでも、私は、なでしこを守る。また同じことが起きたら、今度は、一人で抱え込まない」
リンは、北条の目を、まっすぐ見た。
「なでしこに、話す。桜さんにも、話す。私一人で、全部背負うのは、もうやめる」
北条は、小さく頷いた。
「……ほう。いい覚悟だ」
北条の口元が、わずかに緩んだ。
「だが、無理はするな。時詠みの力は、使い方次第で、お前さん自身を壊す。気をつけなされ」
「……はい」
リンは、深く頷いた。
――――
午後。
リンは、各務原家を訪れた。
浜松市南区。駅から徒歩十二分。酒販店。昭和レトロな看板。
なでしこは、隣で、リンの手を握っていた。
「大丈夫。私も一緒に話すから」
なでしこが、優しく言った。
インターホンを押す。
しばらくして、ドアが開いた。
各務原桜。
二十一歳。なでしこの姉。甲府の大学に通っている。暗い茶色のロングヘアを、ゆるく巻いている。気怠げな茶色の瞳。いつも少し眠そうな目つき。
今日は、その瞳に、鋭さがあった。
「……上がって」
桜は、それだけ言って、奥へ歩いた。
――――
居間。
古いソファ。
リンは、座った。
なでしこが、隣に座る。
桜は、向かいの椅子に座り、腕を組んだ。
「話して。全部」
リンの手に、汗が滲む。
(……話さなきゃ)
(全部)
リンは、深呼吸をした。
「……私、なでしこが死ぬ夢を見たんです。何度も。猪之頭林道の崖から落ちる夢を」
桜の表情が、硬くなる。
「それで、本栖湖で、コンパスを拾いました。古いコンパス。そのコンパスが、時間を巻き戻す力を持ってて」
リンは、続けた。
なでしこを救うために、何度も時間を巻き戻したこと。
そのたびに、記憶が消えていったこと。
見晴らし岩で、なでしこを突き飛ばして、代わりに自分が落ちたこと。
コンパスが光を失って、時詠みの力が自分に移ったこと。
全部。
桜は、黙って聞いていた。
時々、唇を噛んだ。
指先が、白くなるほど、腕を組んでいた。
リンの話が終わった。
長い沈黙。
「……あんた」
桜の声が、震えていた。
「あんた、なでしこを、何度も危険に巻き込んだの?」
桜が、立ち上がった。
「見晴らし岩に、なでしこを連れて行った。あの危ない場所に。何度も。あんたが、あんたが連れて行ったから、なでしこは、あんな場所に行くようになったんじゃないの!」
桜の声が、居間に響く。
「あんたがコンパスなんて拾ったから。あんたが時間を巻き戻したから。なでしこは、何度も、あの崖に近づいた。違う?」
リンの胸に、刃が刺さる。
(……そうだ)
(私が、なでしこを、あの場所に)
「なでしこを守りたい? 笑わせないで。あんたのせいで、なでしこは、もっと危険になった」
「お姉ちゃん、やめて!」
なでしこが、叫んだ。
「リンちゃんは、私を助けてくれたんだよ! 私が落ちそうになった時、リンちゃんが、自分の体を張って、私を守ってくれた! リンちゃんが崖から落ちたんだよ! 私の代わりに!」
なでしこの声が、震える。
「リンちゃんは、一人で、ずっと苦しんでた。私が死ぬ未来を変えるために、自分の記憶を削って、何度も何度も、戦ってた。そんなリンちゃんを、お姉ちゃんは責めるの?」
桜の目が、揺れた。
「……なでしこ」
「リンちゃんは、私の命の恩人だよ。私がここにいるのは、リンちゃんのおかげ。お姉ちゃん、それ、分かってる?」
桜は、唇を噛んだ。
長い沈黙。
桜は、ゆっくりと、椅子に座った。
「……分かってる」
桜の声は、小さかった。
「分かってるわ。あんたが、なでしこを助けてくれたこと。あんたが、崖から落ちたこと。……でも、それでも、私は、妹を危険に晒したあんたを、簡単には許せない」
桜は、リンを見た。
気怠げな瞳の奥に、怒りと、悲しみと、何か別の感情が、混ざっていた。
「……あんたが犠牲になることで解決するなら、なでしこは喜ばない。あの子は、あんたが傷つくのを、何よりも嫌がる。あんたが崖から落ちたって聞いて、あの子、泣き崩れてた。自分のせいだって、ずっと泣いてた」
リンの胸が、締め付けられる。
「それでも、あんたは、また同じことをするの?」
桜の問い。
リンは、まっすぐ桜を見た。
「……します」
桜の目が、見開かれた。
「なでしこが死ぬ未来を変えられるなら、私は、何度でも、自分を犠牲にする。なでしこが泣いても、怒っても、それでも、なでしこが生きてる方がいい」
リンは、震える声で、続けた。
「私、なでしこが死ぬ夢を、何度も見た。朝の五時四十七分。雪。見晴らし岩。なでしこが、落ちていく。手を伸ばす。届かない。あの夢を見るたび、私は、なでしこを失う。何度も、何度も」
リンの目から、涙が溢れた。
「……もう、あの夢は見たくない。なでしこが死ぬところを、もう、見たくない」
桜は、黙っていた。
なでしこが、リンの手を、ぎゅっと握った。
「リンちゃん……」
桜は、深く、息を吐いた。
「……分かった」
桜の声は、静かだった。
「あんたの覚悟は、分かった。……本物ね。あんた、本気で、なでしこのために、自分を捨てられるのね」
桜は、リンを、じっと見た。
「……私も、協力する。なでしこを守るために。あんた一人に、背負わせない」
リンは、目を見開いた。
「……桜さん」
「ただし、条件がある。これからは、何かあったら、必ず私に連絡すること。一人で勝手に動かないこと。いいわね」
桜の目は、真剣だった。
「……はい」
リンは、深く頷いた。
「……よし。じゃあ、今日は、泊まっていきなさい。あんた、まだ顔色悪いわ。なでしこ、布団出してあげて」
桜は、立ち上がった。
「うん! リンちゃん、今日はうちに泊まろう! 私、おいしいご飯作るね!」
なでしこが、笑顔で言った。
リンは、小さく頷いた。
(……一人じゃない)
(もう、一人じゃない)
――――
夕方。
リンは、浩庵キャンプ場に戻った。
なでしこは、各務原家で夕食の準備をしている。桜が、車で送ってくれた。
管理棟の前。
北条が、湖を見ていた。
富士山が、夕日に染まっている。
「……北条さん」
リンは、ポケットから、コンパスを取り出した。
真鍮の、古いコンパス。
針は、止まっている。
「これ、預かってください」
北条は、ゆっくりと振り返った。
「……いいのか」
「はい。私が持ってると、また、頼ってしまう。今は、自分の力で、なでしこを守りたい」
リンは、コンパスを、北条に差し出した。
北条は、しばらく、コンパスを見つめていた。
「……分かった。預かっておく」
北条は、コンパスを受け取った。
「だがな、時詠みの力は、お前さんの中に残っとる。コンパスがなくても、お前さんが強く願えば、時は動く。忘れるな」
「……分かってます」
「それと、もう一つ。時詠みのことは、あまり、人に話すな。昔から、そういう掟だ。お前さんが時詠みだと知られれば、面倒なことになる」
北条の目が、鋭くなった。
「特に、あのカゲロウとかいう連中には、気をつけろ」
リンの背筋に、冷たいものが走る。
「……カゲロウ」
「SNSで、コンパスの写真を投稿しとる連中だ。お前さんも、見たことがあるだろう。あいつらは、時詠みを探しておる。目的は、分からんが、ろくなもんじゃない」
北条は、コンパスを、管理棟の奥へ持っていった。
金庫の音が、小さく響く。
「……さあ、暗くなる前に、帰りなされ。なでしこが待っとる」
北条は、静かに笑った。
「……はい。ありがとうございました」
リンは、深く頭を下げた。
――――
夜。
各務原家。
なでしこの部屋。
二人で、布団を並べた。
「リンちゃん、お風呂入ってきた? ご飯、まだ温かいよ! カレー作ったの!」
なでしこが、笑顔で言った。
「……ああ、食べる」
カレー。
なでしこ特製。
具だくさんで、甘口。
「……うまい」
「えへへ、よかった! リンちゃん、ちゃんと食べてくれてるね。最近、あんまり食べてなかったでしょ? 私、気づいてたんだよ」
なでしこが、リンを見た。
「……心配かけたな」
「ううん。リンちゃんが元気になってくれて、嬉しい」
なでしこが、微笑んだ。
食後。
二人で、布団に横になった。
部屋の明かりを消す。
窓の外から、月明かりが差し込む。
「リンちゃん」
「……なんだ」
「私、リンちゃんに、いっぱい思い出を作ってほしい。これから、いっぱい。キャンプして、ご飯食べて、富士山見て。そしたら、リンちゃんが忘れても、私が覚えてる。私が、リンちゃんの記憶になるから」
リンの胸が、温かくなる。
「……ああ。頼む」
「うん! 任せて! 明日、早速、キャンプの計画立てようね! 見晴らし岩で、一緒にキャンプする約束、ちゃんと果たそう!」
「……ああ」
リンは、天井を見た。
(……見晴らし岩で、キャンプ)
(なでしこと、二人で)
(楽しみだ)
胸の奥が、じわりと温かい。
――――
深夜。
リンは、目を覚ました。
なでしこは、隣で、すやすやと寝ている。
静かな寝息。
リンは、スマホを手に取った。
画面が、暗い部屋に、青白く光る。
通知が、一件。
見知らぬアカウントから。
『@kagerou_time』
リンは、指を止めた。
(……カゲロウ)
北条の言葉が、蘇る。
通知を開く。
メッセージが、一件。
写真が、添付されている。
古いコンパスの写真。
真鍮の、古いコンパス。
針が、反時計回りに、回っている。
リンの胸が、凍りつく。
メッセージが、添えられていた。
『時詠みは、一人で背負うには、重すぎる。我々は、仲間だ。』
リンは、息を呑んだ。
指先が、震える。
(……誰だ)
(なぜ、私のことを)
リンは、アカウントを開いた。
プロフィール。
何も書かれていない。
フォロワー、ゼロ。
フォロー、ゼロ。
投稿、一枚だけ。
コンパスの写真。
リンは、返信しようとした。
『あなたは誰ですか』
送信。
——エラー。
『このアカウントは存在しません』
リンは、もう一度、アカウントを開いた。
消えている。
ついさっきまで、あったのに。
跡形もなく。
リンの背筋を、冷たい汗が伝う。
(……カゲロウ)
(時詠みの会)
(私を、見ている)
その時、スマホが、震えた。
着信。
各務原桜。
リンは、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「リンちゃん、起きてた?」
桜の声は、低く、緊張していた。
「なでしこのスマホ、見守りアプリで確認したんだけど」
桜が、一呼吸置いた。
「なでしこ、また猪之頭林道に行く予定を立ててる。今週末。一人で」
リンの心臓が、跳ねた。
「……なんで」
「分からない。でも、なでしこ、あの場所に、一人で行こうとしてる」
リンは、寝ているなでしこを見た。
無邪気な寝顔。
(……なでしこ)
(お前、なぜ)
(あの場所へ)
リンの胸に、新たな恐怖が、静かに、しかし確かに、広がっていく。
カゲロウのメッセージ。
なでしこの予定。
二つの影が、リンの周りに、ゆっくりと、迫っていた。
(……まだ、終わってない)
(何かが、始まっている)
リンは、スマホを握りしめた。
画面の光が、暗い部屋に、青白く、揺れていた。Noveliaとは?
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