ゆるキャン△ 逆さのコンパス
志摩リンは、夢に見た。大人になった自分と、なでしこの死を。冷たい指先、雪の匂い、崖に落ちたオレンジのヘアピン。目が覚めても、その感触は消えなかった。数日後、冬の本栖湖でキャンプをした二人は、湖畔で古い真鍮のコンパスを拾う。「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」——蓋を開けると、針は逆回りに回っていた。その夜、リンは再び夢を見る。猪之頭林道、ガードレールのない崖、手を振るなでしこ。飛び起きたとき、コンパスの針は前より速く、逆回転していた。これは夢なのか。それとも——。ゆるキャン△の世界で綴られる、静かで冷たい、時間を巡る冒険と探索の物語。
ゆるキャン△ 逆さのコンパス - 消えていく約束
朝が来る。
静かな朝だった。
志摩リンは、布団の中で目を開けた。
天井を見る。
白い。
何もない。
(……あれから、三日か)
体を起こす。
手が、勝手に動く。
枕元のコンパスを、握る。
冷たい。
真鍮の感触。
針は、まだ回っている。
反時計回りに。
ゆっくりと。
止まらない。
(今日も、行く)
(本栖湖へ)
(なでしこと)
(……守らなきゃ)
リンは、深く息を吐いた。
胸の奥が、重い。
――――
「リンちゃーん! おはよう!」
浜松駅前。
スクーターのところで、なでしこが跳ねていた。
明るい栗色のボブヘア。
オレンジのヘアピン。
大きな琥珀色の瞳。
白いダウンジャケットに、赤い手袋。
富士山柄のマフラー。
その笑顔は、今日も太陽みたいだ。
「……おはよう」
リンは、短く返した。
笑えなかった。
(前回、私は記憶を失った)
(初めて二人でキャンプした日の記憶)
(それが、消えた)
(でも、なでしこは知らない)
(何も)
「リンちゃん、寝不足? 顔色、悪いよ?」
なでしこが、顔を覗き込む。
近い。
琥珀色の瞳が、まっすぐ見てくる。
「……平気。早く行くぞ」
リンは、ヘルメットを被った。
「はーい! 今日はね、お弁当いっぱい作ってきたんだ! リンちゃんの好きな唐揚げも入ってるよ!」
なでしこが、大きなリュックを背負い直す。
リンは、スクーターのエンジンをかけた。
音が、静かな朝の空気に響く。
(……笑顔)
(なんで、そんなに笑えるんだ)
(お前は、死ぬかもしれないのに)
リンは、心の中で呟いた。
――――
浩庵キャンプ場。
本栖湖の西岸にある、湖畔のキャンプ場。
冬の湖面が、朝日を受けて光っている。
富士山が、正面にそびえていた。
雪を被った山頂が、青空に映える。
「わあ……! やっぱり富士山、きれいだね!」
なでしこが、両手を広げて深呼吸する。
リンは、管理棟へ向かった。
古い木造の建物。
扉を開ける。
薪の匂い。
カウンターの奥に、老人が座っている。
白髪交じりの短髪。
無精髭。
優しくも鋭い黒い瞳。
左手に古い傷跡。
北条タケシ。
六十四歳。
このキャンプ場の管理人だ。
元漁師。
「……いらっしゃい」
低く、穏やかな声。
「一泊、二人です」
リンは、受付表に名前を書いた。
北条の視線が、一瞬、リンのポケットに向く。
コンパスがある場所。
気づいている。
でも、何も言わない。
「気をつけなされ。今日は風が冷たい」
北条は、それだけ言った。
「おじいさん、こんにちは! 今日もよろしくお願いします!」
なでしこが、ぺこりと頭を下げる。
北条は、小さく頷いた。
――――
テント設営。
リンの愛用テント、モンベル・ムーンライトテント1型。
慣れた手つきで、ポールを組み立てる。
「リンちゃん、すごい! あっという間だね!」
なでしこが、感心したように拍手する。
「……慣れだ。お前も手伝え」
「えへへ、なでしこ、ペグ打ち得意だよ! 任せて!」
なでしこが、ペグを手に取る。
元気に、トンカチを振り下ろす。
小気味いい音が、湖畔に響く。
リンは、その姿を見ながら、思った。
(……今日こそ、絶対に)
(崖に近づけさせない)
(何があっても)
――――
昼。
なでしこが作ったお弁当を広げる。
唐揚げ、卵焼き、ウインナー、おにぎり。
「はい、リンちゃん! 唐揚げ、いっぱい食べてね!」
なでしこが、タッパーを差し出す。
「……ああ、もらう」
リンは、唐揚げを一口。
……うまい。
でも、味が、遠い。
(……前は、もっと)
(なでしこの料理、楽しみだった)
(今は、何か、違う)
(味が、薄い気がする)
「リンちゃん、おいしい?」
なでしこが、期待の目で見てくる。
「……うまい」
リンは、短く答えた。
嘘じゃない。
でも、前みたいに、心から「うまい」と思えない。
(……コンパスのせいか)
(記憶が消えると、感情も薄くなる?)
(分からない)
(でも、確かに、何かが違う)
リンは、黙って食べ続けた。
――――
午後。
なでしこが、立ち上がった。
「リンちゃん、薪拾いに行こう! 夕方、焚き火するでしょ!」
「……ああ。でも、崖の方には行くな」
リンの声が、硬くなる。
「もう、リンちゃん心配性すぎだよー! 大丈夫だって!」
なでしこが、けらけら笑う。
(……笑い事じゃない)
(お前が、そこで落ちるんだ)
(夢で、見た)
(何度も)
リンは、唇を噛んだ。
「……一緒に行く」
「え? いいの? リンちゃん、テントで本読んでるんじゃないの?」
「別に。今日は、体を動かしたい気分だ」
「やった! 一緒に行こ!」
なでしこが、嬉しそうに跳ねる。
リンは、ポケットのコンパスを握りしめた。
(絶対に、一人にしない)
(崖に、近づけさせない)
――――
薪拾い。
湖畔の林の中を歩く。
枯れ枝が、足元でパキパキと音を立てる。
なでしこは、落ちている枝を拾っては、リュックに入れていく。
「この枝、太くていい感じ! よく燃えそう!」
「……あんまり奥に行くな」
「大丈夫だよ! なでしこ、方向感覚はいい方なんだから!」
なでしこが、どんどん進む。
リンは、その後を追う。
心臓が、うるさい。
(……あっちは、崖だ)
(近づいてる)
(止めなきゃ)
「なでしこ、そっちは」
声をかけた瞬間。
なでしこの足元の土が、崩れた。
サラサラと、音を立てて。
「えっ……!」
なでしこの体が、傾く。
崖の縁。
下は、湖へ続く斜面。
「なでしこ!」
リンは、飛び出した。
手を伸ばす。
掴んだ。
なでしこの手首。
細い。
力いっぱい引き寄せる。
「リンちゃん……!」
なでしこの体が、リンの胸に倒れ込む。
温かい。
心臓の音が、二人分、重なる。
「……大丈夫か」
「う、うん……ありがとう、リンちゃん……」
なでしこの声が、震えている。
その時。
ポケットの中で、コンパスが、熱を帯びた。
眩い光。
視界が、白く染まる。
(……また)
(時間が、戻る)
リンは、思った。
でも、抵抗できない。
光が、すべてを飲み込む。
――――
朝。
管理棟の前。
リンは、立っていた。
風が冷たい。
「リンちゃーん! おはよう!」
後ろから、明るい声。
振り返る。
なでしこが、跳ねている。
無事だ。
笑っている。
「……おはよう」
リンは、答えた。
(……戻った)
(朝に)
(また)
そして、確認する。
記憶を。
(……見晴らし岩)
(一緒にキャンプするって、約束した)
(あの時の言葉)
(……なでしこ、何て言ってた?)
思い出せない。
前は、覚えていた。
なでしこの声で、約束の言葉が、頭の中にあった。
でも、今は。
霧がかかったみたいに、ぼやけている。
(……消えた)
(約束の記憶が)
(コンパスの代償)
リンは、胸を押さえた。
痛い。
「リンちゃん、どうしたの? 胸、痛いの?」
なでしこが、心配そうに覗き込む。
「……別に。何でもない」
「そう? ならいいけど! ねえねえ、今日はどこでテント張る? やっぱり湖畔がいいよね!」
なでしこが、無邪気に言う。
リンは、なでしこの顔を見た。
笑っている。
太陽みたいな笑顔。
(……この笑顔を、守りたい)
(そのために、記憶を失っても)
(……いや)
(守りたい理由が、消えたら)
(どうすればいい)
リンは、唇を噛んだ。
――――
夕方。
また、なでしこが薪を拾いに行くと言い出した。
「リンちゃん、今度こそ薪、いっぱい集めるよ! 焚き火、盛大にやろう!」
「……崖には近づくな」
「大丈夫だって! なでしこ、もう転ばないよ!」
なでしこが、走り出す。
リンは、追いかける。
(……どうして)
(どうして、何度も崖に行くんだ)
(お前は、知らないから)
(危険を、知らないから)
夕日が、湖面を赤く染めている。
なでしこの背中が、光の中に溶けていく。
「なでしこ、待て!」
リンは、叫んだ。
でも、なでしこは止まらない。
崖の方向へ。
また。
「こっちの方が、いい枝がいっぱいあるんだよ! 見て、あの木!」
なでしこが、崖の縁の木を指差す。
リンは、走った。
土が崩れる音。
「わっ……!」
なでしこが、バランスを崩す。
リンは、手を伸ばした。
掴む。
今度は、腕ごと。
強く。
「……捕まえた」
リンの声が、震える。
「リンちゃん、ありがと……!」
なでしこが、リンの腕にしがみつく。
その瞬間。
また、コンパスが光る。
白い光。
視界が、消える。
(……二度目)
(また、失う)
(今度は、何を)
――――
朝。
管理棟の前。
リンは、立っていた。
「リンちゃーん! おはよう!」
なでしこが、跳ねている。
無事だ。
笑っている。
「……おはよう」
リンは、答えた。
(……二度目の巻き戻り)
(何を失った)
確認する。
記憶を。
(……本栖湖で)
(初めて、なでしことカップラーメンを食べた)
(あの日)
(……どんな味だった?)
思い出せない。
なでしこが、笑いながら「おいしいね」って言ったこと。
覚えている。
でも、その時のラーメンの味。
湯気の匂い。
湖の色。
全部、消えている。
(……また)
(なでしこに関する記憶が)
(一つ、消えた)
リンは、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
痛い。
でも、それしかできない。
「リンちゃん、今日は何して遊ぶ? ねえ、キャンプ楽しいね!」
なでしこが、笑いかけてくる。
リンは、なでしこの顔を見た。
笑顔。
太陽みたいな。
(……なんで)
(なんで、この笑顔が)
(私を、こんなに苦しくさせるんだ)
(守りたい)
(でも、守る理由が)
(少しずつ、消えていく)
「……ああ、楽しいな」
リンは、無理やり笑顔を作った。
頬の筋肉が、引きつる。
なでしこは、気づかない。
「でしょでしょ! なでしこ、リンちゃんとキャンプするの、大好きだよ!」
なでしこが、リンの腕に抱きつく。
温かい。
でも、その温かさが、逆に辛い。
(……私も)
(私も、大好きだった)
(……だった?)
(今は?)
(分からない)
リンは、心の中で、自分に問いかけた。
答えは、出なかった。
――――
夜。
テントの中。
リンは、一人、コンパスを握りしめていた。
針が、回っている。
反時計回りに。
速い。
(……これ以上、使ったら)
(なでしこを守りたい理由が)
(消えるかもしれない)
(でも、使わなかったら)
(なでしこが、死ぬ)
(……どっちを選べばいい)
(分からない)
リンは、膝を抱えた。
体が、震える。
寒さのせいじゃない。
恐怖。
(……なでしこ)
(お前との思い出が、消えていく)
(お前の笑顔の意味が)
(分からなくなるのが)
(怖い)
涙が、一粒、こぼれた。
静かに。
――――
夜中。
物音で目が覚めた。
隣の寝袋が、空いている。
(……なでしこ?)
リンは、慌ててテントを出た。
外は、闇。
星が、凍りつくように光っている。
湖畔に、人影。
なでしこ。
一人で、崖の方向を見つめている。
「なでしこ!」
リンは、走った。
「……あ、リンちゃん」
なでしこが、ゆっくり振り返る。
「何してるんだ、こんな夜中に」
リンの声が、鋭くなる。
「トイレに行ったら、星がきれいで……見て、あそこ」
なでしこが、指を差す。
見晴らし岩。
崖の上にある、大きな岩。
「あの上、星がきれいだよ。今度、一緒に登ってみない?」
なでしこの声は、穏やかだった。
でも、リンは。
(……ダメだ)
(あそこは、ダメだ)
(お前が落ちる場所だ)
「……戻るぞ。寒い」
リンは、なでしこの手を引いた。
「え? ちょっと、リンちゃん?」
強く、引く。
なでしこが、よろける。
その時。
リンの足が、石に取られた。
バランスを崩す。
崖の縁。
土が、崩れる。
(……あ)
体が、傾く。
下は、闇。
「リンちゃん!」
なでしこが、叫ぶ。
手が、伸びる。
でも、届かない。
ポケットの中で、コンパスが、激しく光る。
熱い。
白い光。
世界が、消える。
(……三度目)
(今度は)
(私が)
――――
朝。
管理棟の前。
リンは、立っていた。
風が冷たい。
「リンちゃーん! おはよう!」
なでしこが、跳ねている。
無事だ。
笑っている。
「……おはよう」
リンは、答えた。
(……三度目)
(何を失った?)
確認する。
記憶を。
(……なでしこと)
(初めて会った日)
(湖畔で)
(なでしこが、困ってて)
(私が、助けて)
(……それで?)
(どうなった?)
思い出せない。
なでしことの出会い。
その後のこと。
全部、霧の中。
(……私は)
(なんで、なでしこを守ろうとしてるんだ?)
(分からない)
(でも、守らなきゃいけない気がする)
(体が、覚えてる)
(……でも、理由が)
(消えた)
「ねえねえ、リンちゃん! 今日は何する? リンちゃんとキャンプ、楽しいね!」
なでしこが、笑いかけてくる。
太陽みたいな笑顔。
リンは、その笑顔を見た。
(……この子は)
(私の、何なんだ?)
(友達?)
(親友?)
(……分からない)
(でも、この笑顔を)
(守らなきゃいけない)
(それだけは、分かる)
「……ああ」
リンは、曖昧に頷いた。
なでしこが、首を傾げる。
「リンちゃん、ほんとに大丈夫? なんか、ぼーっとしてるよ?」
「……寝不足だ」
「そっか。じゃあ、今日はのんびりしよう! なでしこ、お昼にあったかいもの作るね!」
なでしこが、笑う。
リンは、その笑顔を見ながら、思った。
(……あったかいもの)
(なでしこが作る、あったかいもの)
(……どんな味だったっけ)
思い出せない。
胸の奥が、締め付けられる。
(……苦しい)
(なんで、こんなに苦しいんだ)
(理由が分からない)
(でも、苦しい)
リンは、無言で、管理棟へ向かった。
トイレに、駆け込む。
個室の鍵を閉める。
しゃがみ込む。
涙が、溢れた。
声を、殺す。
嗚咽が、喉の奥で潰れる。
(……なんで)
(なんで、泣いてるんだ)
(分からない)
(でも、泣ける)
(苦しい)
(胸が、張り裂けそうだ)
リンは、膝に顔を埋めた。
涙が、止まらない。
――――
どれくらい、そうしていたか。
トイレから出る。
目が、腫れている。
顔を洗う。
冷たい水が、肌に刺さる。
「……お嬢さん」
声。
振り返る。
北条タケシが、立っていた。
いつの間にか。
「……おじいさん」
リンは、目を拭った。
「無理はするなと、言ったはずだ」
北条の声は、静かだった。
「……何のことですか」
「あんた、何度も、時を戻したな」
北条の言葉に、リンは、息を呑んだ。
(……気づかれてる)
「わしには、分かる。あのコンパスが、何度も光ったのが」
北条は、湖を見つめた。
「……昔、同じコンパスを持った女がいた」
北条が、ゆっくりと語り始める。
「その女は、失うのが怖くて、何も選べなかった。時間を戻すことも、前に進むことも。結局、何も選ばずに、ここへ来なくなった。誰にも看取られずに、消えたよ」
北条の声が、重い。
「……消えた」
リンは、繰り返した。
「ああ。コンパスに、記憶を全部、喰われたのかもしれん。あるいは、自分で、ここへ来るのをやめたのか。どちらにせよ、誰も、その女の最後を知らん」
北条は、リンの方を見た。
「……あんたも、同じ道を歩むつもりか」
リンは、唇を噛んだ。
「……私がやらなきゃ、なでしこが死ぬんです」
声が、震える。
「なでしこさんを、守るために、記憶を失う。それで、最後に、守りたい理由も失ったら、あんたはどうする」
「……それでも、やるしかない」
リンは、ポケットからコンパスを取り出した。
握りしめる。
小銃を握るように。
強く。
「……あんたが、全部を抱え込む必要はない」
北条が、静かに言った。
「なでしこさん自身が、危ないと知らなければ、何度時を戻しても、同じことが起きる」
北条の言葉が、リンの胸に、突き刺さる。
(……なでしこに、話す?)
(夢のことを)
(コンパスのことを)
(……できるのか)
(信じてもらえるのか)
(でも)
(このままじゃ)
(何度も、同じことが)
リンは、初めて、その選択肢を、本気で考えた。
――――
その夜。
テントの中。
リンは、眠りに落ちた。
――――
夢。
猪之頭林道。
雪が、降っている。
朝の、薄暗い光。
なでしこが、立っている。
見晴らし岩の上。
笑っている。
こっちを見て。
手を振っている。
(……ダメだ)
(下がるな)
リンは、叫ぼうとした。
でも、声が出ない。
なでしこが、一歩、後ろに下がる。
石が、落ちる。
なでしこの体が、傾く。
「リンちゃん!」
なでしこの声。
リンは、手を伸ばした。
走る。
雪を蹴る。
でも、届かない。
指先が、なでしこの手に、触れるか触れないか。
その瞬間。
なでしこの体が、闇に落ちる。
「リンちゃーん!」
声だけが、響く。
闇に。
消えていく。
「なでしこ——!」
リンは、叫んだ。
――――
飛び起きる。
心臓が、激しく脈打つ。
冷や汗が、背中を伝う。
隣を見る。
なでしこが、寝ている。
静かに。
無事だ。
(……夢だ)
(でも、リアルだった)
(手が、届かなかった)
(今までで、一番、はっきりと)
(なでしこが、落ちるのを見た)
リンは、コンパスを握りしめた。
針が、回っている。
速い。
(……明日、なでしこに話そう)
(夢のことを)
(全部)
(そうすれば、なでしこも、危険を自覚する)
(北条さんの言う通りだ)
リンは、決意した。
でも。
(……この決意も)
(消えるのか)
(約束の記憶みたいに)
(明日、起きたら)
(忘れてるかもしれない)
リンは、膝を抱えた。
体が、震える。
(……怖い)
(記憶が消えるのが)
(なでしこを守る理由が)
(私自身が)
(消えていくのが)
(怖い)
涙が、また、こぼれた。
静かに。
コンパスの針は、回り続ける。
反時計回りに。
まるで、何かのカウントダウンみたいに。
――――
朝が来る。
リンは、目を開けた。
テントの天井。
白い。
隣を見る。
なでしこがいない。
寝袋が、空いている。
まだ、温かい。
(……なでしこ?)
体を起こす。
外に出る。
湖が、白く光っている。
朝靄。
誰もいない。
「なでしこ?」
声が、掠れる。
返事はない。
ポケットに手を入れる。
コンパス。
握る。
針が、止まっている。
回っていない。
指した方向は、見晴らし岩。
崖の上。
(……なんで)
(なんで、止まってるんだ)
リンは、走った。
朝靄の中を。
息が、白い。
足が、もつれる。
崖への道。
見晴らし岩。
その下に。
なでしこが、倒れていた。
白いダウンジャケット。
赤い手袋。
富士山柄のマフラー。
「なでしこ!」
リンは、駆け寄った。
抱き起こす。
軽い。
体が、冷たい。
「なでしこ、なでしこ!」
呼ぶ。
返事はない。
琥珀色の瞳が、半分開いている。
でも、光がない。
「……いやだ」
リンの声が、震える。
「いやだ、いやだ、なでしこ、起きて」
揺さぶる。
でも、動かない。
(……なんで)
(なんで、コンパスが止まってるんだ)
(まだ、時間は戻せるはずだ)
(戻せば、助かるはずだ)
リンは、コンパスを握りしめた。
強く。
願う。
(戻れ)
(時間を、戻せ)
(なでしこを、助けさせてくれ)
針は、動かない。
回らない。
光らない。
ただ、そこにある。
沈黙。
「……なんで」
リンの声が、漏れる。
「なんで、動かないんだよ」
コンパスを、地面に叩きつける。
真鍮の音。
跳ねる。
針は、動かない。
「……なんで」
膝が、崩れる。
なでしこを、抱いたまま。
「……お願いだ」
声が、潰れる。
「もう一回だけでいい」
「もう一回、戻してくれ」
「そしたら、今度こそ」
「今度こそ、ちゃんと」
「なでしこに、話すから」
「危ないって、言うから」
「だから」
「だから、お願い」
風が吹く。
湖面が、揺れる。
朝靄が、ゆっくりと晴れていく。
富士山が、青空に浮かぶ。
美しい。
静かだ。
コンパスは、動かない。
なでしこは、動かない。
リンは、ただ、抱きしめていた。
(……これが)
(選んだ結果か)
(何度も、時間を戻して)
(記憶を、失って)
(最後に、残ったのが)
(これか)
なでしこの顔を見る。
目が、閉じかけている。
笑顔じゃない。
苦しそうでもない。
ただ、静かだ。
(……なでしこ)
(お前の笑顔を、守りたかった)
(でも、守れなかった)
(なんで)
(なんで、コンパスは止まったんだ)
リンは、コンパスを見た。
針が、指している。
見晴らし岩。
崖の上。
(……三度目までは、戻せた)
(四度目は、戻せない)
(限界だったのか)
(それとも)
(私が、守る理由を、全部、失ったからか)
(……分からない)
(もう、何も)
リンは、なでしこを抱いたまま、動かなかった。
朝日が、登る。
湖が、光る。
鳥が、鳴いている。
世界は、何事もなく、続いていく。
「……なでしこ」
リンは、囁いた。
「……寒いな」
返事はない。
なでしこの体は、冷たい。
リンは、マフラーを、なでしこの首に巻き直した。
富士山柄のマフラー。
自分の首には、何もない。
風が、吹く。
冷たい。
(……これから)
(私は、どうすればいいんだ)
(なでしこを、守る理由も)
(守る相手も)
(全部、消えた)
(でも、私は、まだ、ここにいる)
(なんで)
(なんで、私は、生きてるんだ)
リンは、空を見た。
青い。
どこまでも、青い。
コンパスの針は、もう、動かない。
見晴らし岩を指したまま。
止まっている。
まるで、なでしこが落ちた場所を、指し示すみたいに。
リンは、ゆっくりと、立ち上がった。
なでしこを、抱き上げる。
軽い。
「……帰るか」
誰にともなく、呟いた。
湖畔を、歩く。
テント。
お弁当の残り。
薪。
全部、そのまま。
片付ける気力も、ない。
「……なあ、なでしこ」
歩きながら、話しかける。
「今日、何食べる?」
返事はない。
「……唐揚げ、うまかったな」
風が、頬を切る。
「……また、作ってくれよ」
声が、震える。
「……なあ」
リンは、立ち止まった。
湖を見る。
本栖湖。
青い。
静かだ。
「……お前の笑顔」
リンは、目を閉じた。
「……もう、思い出せない」
涙が、頬を伝う。
それでも、歩き続けた。
なでしこを抱いて。
コンパスは、ポケットの中で、冷たかった。
針は、動かない。
止まったまま。
何も、教えてくれない。
何も、戻してくれない。
ただ、そこに、ある。
リンは、管理棟の前まで来た。
北条タケシが、立っていた。
リンを見て、目を閉じた。
何も、言わなかった。
「……おじいさん」
リンは、声を振り絞った。
「……コンパス、止まりました」
北条は、静かに頷いた。
「……そうか」
それだけだった。
「……中へ入れ。あったかいものでも、飲め」
リンは、首を振った。
「……この子を、病院に」
北条は、リンの腕の中のなでしこを見た。
「……もう、遅い」
リンは、北条を睨んだ。
「……それでも」
声が、震える。
「それでも、連れて行きます」
北条は、何も言わなかった。
リンは、歩き出した。
なでしこを抱いて。
駐車場へ。
スクーターのところへ。
「……なあ、なでしこ」
リンは、歩きながら、話しかけた。
「……スクーター、二人乗り、怒られるかな」
返事はない。
「……お前、軽すぎるぞ」
風が、吹く。
マフラーが、なでしこの首で、揺れた。
「……ちゃんと、食べろよ」
リンは、スクーターに、なでしこを乗せた。
後ろに。
自分は、前に座る。
なでしこの腕を、自分の腰に回す。
冷たい。
「……しっかり、掴まれよ」
エンジンをかける。
音が、静かな朝に響く。
「……行くぞ」
スクーターが、走り出す。
湖を、離れる。
富士山が、後ろに小さくなる。
リンは、運転しながら、思った。
(……これから)
(私は、どうやって、生きていけばいいんだ)
(なでしこを守るために、全部、使った)
(記憶も、時間も、コンパスも)
(残ったのは、これか)
(この、冷たい体と)
(思い出せない、笑顔と)
(止まった、針と)
風が、目に染みる。
涙か、風か、分からない。
「……なあ、なでしこ」
リンは、呟いた。
「……今度、いつ、キャンプ行く?」
返事はない。
「……なあ」
声が、潰れる。
「……返事、してくれよ」
スクーターは、走り続ける。
道は、真っ直ぐに。
どこまでも。
リンは、前を向いていた。
でも、見えているのは、何もなかった。
(……ああ)
(そうか)
(私が、守りたかったのは)
(なでしこの笑顔で)
(その笑顔が、もう、思い出せないなら)
(私は、何を守ってたんだ)
(……分からない)
(もう、何も)
コンパスは、ポケットの中で、冷たい。
針は、動かない。
止まったまま。
まるで、リンの時間も、止まってしまったみたいに。
「……なあ、なでしこ」
リンは、もう一度、呼んだ。
「……寒くないか」
風が、答えた。
冷たい風が。
ただ、吹いていた。
――――
朝が来る。
でも、リンにとっては、もう、朝は来ない。
なでしこがいない朝は。
針が止まった朝は。
笑顔を思い出せない朝は。
「……なあ」
スクーターの音だけが、響く。
静かな、静かな、冬の道。
富士山が、遠ざかっていく。
後ろに。
もう、二度と、戻れないみたいに。
リンは、前を向いていた。
唇を、噛んで。
噛んで。
噛みしめて。
それでも、涙は、止まらなかった。
「……なでしこ」
風に、消える声で。
「……ありがとう」
それだけ、言った。
何に対しての「ありがとう」なのか。
自分でも、分からなかった。
でも、言わずには、いられなかった。
スクーターは、走る。
止まらない。
時間も、止まらない。
コンパスだけが、止まっている。
ポケットの中で。
冷たく。
静かに。
針は、見晴らし岩を、指したまま。
もう、何も、戻せない。
何も、変わらない。
何も、救わない。
ただ、そこに、ある。
リンは、走らせた。
どこへともなく。
なでしこを、後ろに乗せて。
冷たい体を、支えながら。
「……なあ」
リンは、前を向いたまま、言った。
「……今度は、ちゃんと」
「……お前の話、聞くから」
返事は、ない。
「……なあ」
声が、消える。
「……なあ」
風だけが、答えた。
冷たい風が。
静かに。
吹いていた。
コンパスの針は、動かない。
止まったまま。
まるで、リンの心のように。
まるで、なでしこの笑顔のように。
もう、戻らない。
もう、動かない。
もう、笑わない。
リンは、走った。
走って。
走り続けた。
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