ゆるキャン△ 逆さのコンパス
志摩リンは、夢に見た。大人になった自分と、なでしこの死を。冷たい指先、雪の匂い、崖に落ちたオレンジのヘアピン。目が覚めても、その感触は消えなかった。数日後、冬の本栖湖でキャンプをした二人は、湖畔で古い真鍮のコンパスを拾う。「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」——蓋を開けると、針は逆回りに回っていた。その夜、リンは再び夢を見る。猪之頭林道、ガードレールのない崖、手を振るなでしこ。飛び起きたとき、コンパスの針は前より速く、逆回転していた。これは夢なのか。それとも——。ゆるキャン△の世界で綴られる、静かで冷たい、時間を巡る冒険と探索の物語。
ゆるキャン△ 逆さのコンパス - 見晴らし岩、最後の賭け
夜。
部屋の明かりは消えている。
志摩リンは布団の上に座っていた。
膝を抱えている。
手の中に、コンパスがある。
真鍮の冷たい感触。
針は回っている。
反時計回りに。
ゆっくりと。
止まらない。
(……もう、決めた)
リンの目は、暗い天井を見ていた。
何も見えない。
でも、見えているものがある。
雪。
朝の五時四十七分。
見晴らし岩。
なでしこが、落ちていく。
手を伸ばす。
届かない。
あの夢だ。
何度も見た。
何度も、なでしこが死んだ。
(……私が、落ちればいい)
リンは、コンパスを握りしめた。
指先が、白くなる。
(なでしこを守るには、それしかない)
(私が危険を引き受ける)
(私が落ちる)
(それで、終わり)
胸の奥が、冷たい。
でも、迷いはなかった。
失った記憶。
初めて二人でキャンプした日。
なでしこが作った汁物の味。
約束。
何も思い出せない。
思い出そうとすると、頭の奥が真っ白になる。
怖い。
でも、一つだけ残っている。
なでしこを、守りたい。
理由は、もう分からない。
でも、その想いだけは、消えていない。
リンは、コンパスを胸に押し当てた。
冷たい。
(……明日、全部終わらせる)
――――
朝。
空が白み始めている。
リンは、スクーターに乗っていた。
向かう先は、各務原家。
浜松市南区の酒販店。
駅から徒歩十二分。
なでしこの実家だ。
エンジン音が、静かな朝の住宅街に響く。
リンは、ヘルメットのシールドを上げた。
冷たい風が、頬を刺す。
(……桜さんに、頼む)
(なでしこを、お願いします、って)
店の前に着いた。
スクーターを止める。
スタンドを立てる。
インターホンを押す。
しばらくして、ドアが開いた。
各務原桜。
なでしこの姉。
二十一歳。
甲府の大学に通っている。
暗い茶色のロングヘアを、ゆるく巻いている。
気怠げな茶色の瞳。
いつも少し眠そうな目つき。
スマホを片手に、リンの顔を見た。
「……リンちゃん? 朝早いわね」
桜の声は、寝起きで掠れている。
「話がある」
リンは、まっすぐ桜を見た。
桜は、一瞬だけリンの顔をじっと見て、小さく息を吐いた。
「……上がって」
――――
居間。
古いソファ。
昭和レトロな空気。
桜は、向かいの椅子に座った。
「で、何?」
リンは、立ったままだった。
俯く。
拳を、ぎゅっと握る。
「……なでしこを、お願いします」
声が、震えないように。
「私が、いなくなっても。なでしこを、一人にしないでください」
桜の目が、わずかに見開かれた。
気怠げな雰囲気が、消える。
「……どういうこと?」
「そのままの意味です」
「あんた、何をしようとしてるの」
桜が、立ち上がる。
リンの腕を、掴んだ。
「答えなさい。なでしこに何かあったの?」
リンは、桜の手を振りほどかなかった。
代わりに、桜の目を、まっすぐ見た。
「……なでしこが、死にます」
桜の手から、力が抜ける。
「……は?」
「夢で見たんです。何度も。なでしこが、猪之頭林道の崖から落ちる夢を」
リンは、一気に話した。
予知夢のこと。
コンパスのこと。
時間が巻き戻ること。
記憶が消えること。
全部。
桜は、黙って聞いていた。
時々、唇を噛んだ。
リンの話が終わると、長い沈黙が落ちた。
「……それで」
桜の声は、低かった。
「あんたが、落ちるの?」
リンは、頷いた。
「私が落ちる。それで、なでしこの未来が変わる」
「ふざけないで」
桜が、リンの肩を掴んだ。
指が、食い込む。
「あんたが犠牲になって、なでしこが喜ぶとでも思ってるの? あの子が、それで笑えると?」
「笑えなくても、生きてればいい」
「そういう問題じゃないでしょ!」
桜の声が、居間に響く。
「あんたが落ちたら、なでしこは一生自分を責める。あんたのせいでリンちゃんが落ちたって。それがあの子にとって、死ぬより辛いことだって、あんたには分からないの?」
リンは、何も言わなかった。
桜の言うことは、分かる。
でも、それでも。
「……分かってます」
リンは、静かに言った。
「それでも、なでしこが死ぬよりは、いい」
「リンちゃん……」
桜の手が、リンの肩から離れる。
桜は、深く息を吐いた。
「……本気なのね」
「本気です」
桜は、リンの目を、じっと見た。
何かを、確かめるように。
それから、小さく頷いた。
「……分かったわ」
桜の声は、震えていた。
「あんたが落ちたら、うちがなでしこを連れて帰る。約束よ」
リンは、深く頭を下げた。
「……お願いします」
「……あんたも、絶対に死なないで。なでしこを一人にしないって、あんたが言ったんでしょ」
リンは、答えなかった。
答えられなかった。
――――
本栖湖。
浩庵キャンプ場。
湖畔の駐車場に、スクーターを止める。
空は、青い。
富士山が、正面に見える。
雪を被った山頂。
湖面が、朝日を受けて光っている。
リンは、ヘルメットを脱いだ。
深呼吸。
冷たい空気が、肺を満たす。
「リンちゃーん!」
声。
振り返る。
各務原なでしこ。
明るい栗色のボブヘア。
オレンジのヘアピン。
大きな琥珀色の瞳。
白いダウンジャケット。
赤い手袋。
富士山柄のマフラー。
その笑顔は、今日も太陽みたいだ。
「お待たせ! 今日はどうしたの? 急に呼び出すなんて!」
なでしこが、小走りで近づいてくる。
リンは、なでしこの顔を見た。
(……この笑顔を、守る)
「……話がある」
リンは、短く言った。
なでしこが、首をかしげる。
「リンちゃん、顔色悪いよ? 大丈夫?」
「大丈夫。……湖の近く、歩こう」
――――
湖畔。
砂利道。
二人で歩く。
風が、冷たい。
湖面が、さざ波を立てている。
リンは、歩きながら、話した。
全部。
予知夢のこと。
なでしこが死ぬ未来。
コンパスのこと。
時間が巻き戻ること。
記憶が消えていくこと。
今日、その未来を終わらせる決意をしたこと。
なでしこは、黙って聞いていた。
足音だけが、砂利を踏む。
「……リンちゃん」
なでしこが、立ち止まった。
リンも、止まる。
なでしこの顔を見る。
琥珀色の瞳が、涙で揺れていた。
「……ずるいよ」
声が、震えている。
「リンちゃんが、一人で背負ってたなんて、ずるいよ」
なでしこの頬を、涙が伝う。
「私、知らなかった。リンちゃんが、そんなに苦しんでたなんて。私、笑ってた。大丈夫だよって、笑ってた」
「……なでしこ」
「ごめんね。私、リンちゃんの話、ちゃんと聞いてなかった。夢でしょって、笑って。ごめんね」
なでしこが、両手で顔を覆う。
肩が、震えている。
リンは、なでしこの手を、そっと握った。
「……謝るな。私が、言わなかった」
「でも、私が気づけなかった」
「気づかなくていい。私が、勝手に決めたことだ」
なでしこが、顔を上げる。
涙で濡れた顔。
でも、その目は、まっすぐリンを見ていた。
「私も、一緒に考える」
「……え?」
「リンちゃんが一人で決めるのは、もう終わり。私も一緒に考える。リンちゃんが落ちるなら、私も落ちる」
「ばか、何言って」
「ばかじゃないよ。私、本気だよ」
なでしこの声は、震えていた。
でも、強かった。
「リンちゃんが私を守ってくれるなら、私もリンちゃんを守る。一人で行かせない」
リンは、何も言えなかった。
胸の奥が、熱い。
(……こいつ、本当に)
(なんで、そうなんだ)
なでしこが、リンに抱きついた。
「……お願い。一人で行かないで」
リンの肩に、なでしこの涙が落ちる。
温かい。
リンは、そっとなでしこの背中に手を回した。
「……分かった」
声が、掠れる。
「一緒に、行こう」
――――
猪之頭林道。
本栖湖東岸から猪之頭方面へ抜ける林道。
全長約八キロ。
幅員三メートル。
ガードレールなし。
路肩崩落箇所あり。
冬季凍結注意。
二人は、歩いていた。
リンのスクーターは、林道入口に止めてある。
そこから、徒歩。
未舗装の道。
砂利と土。
枯れ木が、風に揺れる。
「ねえ、リンちゃん」
なでしこが、隣を歩きながら、口を開いた。
「リンちゃんが失った記憶のこと、話してくれたよね」
「……ああ」
「私、覚えてるよ。リンちゃんが忘れちゃったこと、いっぱい」
なでしこが、笑った。
でも、その笑顔は、少し寂しそうだった。
「初めて二人でキャンプした日のこと。リンちゃん、すごく寒くて、でも焚き火が綺麗で。私、カップラーメン作ったの。リンちゃん、おいしいって言ってくれた」
リンの胸が、締め付けられる。
(……覚えてない)
(でも、なでしこの言葉で、何かが、ぼんやり浮かぶ)
「それから、見晴らし岩で約束したこと。一緒にキャンプしようって。リンちゃんが、私と一緒にキャンプしてくれるって言ったの。私、すごく嬉しかった」
なでしこの声が、震える。
「その約束、私が覚えてる。リンちゃんが忘れても、私が覚えてるから」
リンは、足を止めた。
なでしこを見る。
「……なでしこ」
「だから、リンちゃん。約束、守ってよ。一緒にキャンプしよう。見晴らし岩で」
リンは、頷いた。
「……ああ、約束する」
声が、震えた。
(……約束)
(私が、忘れてた約束)
(なでしこが、覚えててくれた)
胸が、痛い。
でも、温かい。
――――
見晴らし岩。
猪之頭林道沿い、標高九百メートル。
本栖湖を一望できる岩場。
ガードレールなし。
崖の縁。
眼下に、湖が広がっている。
冬の湖面。
青く、静か。
「わあ……きれい」
なでしこが、崖の縁に近づく。
「なでしこ、あんまり近づくな」
リンが、なでしこの手首を掴む。
「大丈夫だよ、リンちゃん。私、落ちたりしないから」
なでしこが、笑う。
でも、リンの手は、離さなかった。
風が、吹く。
冷たい風。
湖面が、揺れる。
その時だった。
足元で、音がした。
ザッ。
土が、崩れる音。
「え——」
なでしこの体が、傾く。
崖の縁が、崩れた。
土と小石が、崖下へ落ちていく。
なでしこのバランスが、崩れる。
「リンちゃん!」
なでしこが、叫ぶ。
リンの体は、動いていた。
考えるより先に。
なでしこに、飛びつく。
両手で、なでしこの体を、押す。
突き飛ばす。
安全な岩場の方へ。
「なでしこ——!」
リンの叫び。
なでしこが、岩場に倒れ込む。
「リンちゃん!!」
なでしこの悲鳴。
でも、リンの体は、もう。
崖の縁。
足が、空を踏む。
重力が、体を引きずる。
視界が、傾く。
空。
湖。
なでしこの顔。
手を伸ばす。
届かない。
(……これで、いい)
(なでしこが、生きてる)
(それで、いい)
体が、落ちていく。
その瞬間。
ポケットの中で、熱。
コンパスが、光った。
眩しい。
白い光。
世界が、白に染まる。
――――
意識が、ない。
暗い。
何も見えない。
何も聞こえない。
体が、冷たい。
(……私、死んだ?)
(……いや、違う)
(コンパスが、光った)
(時間が、巻き戻った)
でも、今回は。
意識が、戻らない。
体が、動かない。
(……なでしこ)
(なでしこは、無事か)
声が出ない。
目も、開かない。
ただ、暗い。
――――
目を開けた。
白い天井。
木の匂い。
(……ここは)
体を起こそうとする。
痛み。
全身が、痛い。
「……起きたか」
低い声。
リンは、声のした方を見た。
北条タケシ。
六十四歳。
浩庵キャンプ場の管理人。
白髪交じりの短髪。
無精髭。
優しくも鋭い黒い瞳。
左手に、古い傷跡。
「無理はするな。体を休めなされ」
「……ここは」
声が、掠れる。
「管理棟の奥だ。わしが、崖下から運んできた」
北条は、腰に手を当てて、リンを見た。
「……あんた、落ちたんだ。見晴らし岩から」
リンは、目を見開いた。
(……落ちた)
(私が、落ちた)
(なでしこは?)
「なでしこは! なでしこは、無事ですか!」
リンは、叫んでいた。
体の痛みも、忘れて。
「大丈夫だ。あの子は、無事だ」
北条の声は、穏やかだった。
「あの子が、泣きながらわしを呼んだ。リンちゃんが落ちたって。すぐに駆けつけた。あんたは、崖下で動かなくなっておった」
リンの体から、力が抜ける。
(……よかった)
(なでしこが、無事)
(よかった)
涙が、溢れた。
止まらない。
「……よかった」
リンは、声を押し殺して、泣いた。
その時。
ドアが、勢いよく開いた。
「リンちゃん!!」
なでしこが、飛び込んできた。
泣き腫らした顔。
栗色のボブヘアが、乱れている。
オレンジのヘアピンが、落ちそう。
なでしこは、ベッドに駆け寄り、リンに抱きついた。
「リンちゃん! リンちゃん! よかった! 目を覚ました!」
なでしこの体が、震えている。
温かい。
「私、見てたんだよ。ちゃんと見てた。リンちゃんが、私を突き飛ばしてくれたの。私を助けてくれたんだよね」
「……なでしこ」
「ありがとう。ありがとう、リンちゃん。私、リンちゃんに助けられた」
なでしこの涙が、リンの頬に落ちる。
温かい。
「約束、覚えてる?」
なでしこが、顔を上げる。
涙で濡れた瞳。
でも、その目は、まっすぐリンを見ていた。
「見晴らし岩で、一緒にキャンプするって。あれ、リンちゃんが失った記憶でしょ」
リンの胸が、締め付けられる。
(……約束)
(私が、忘れた約束)
「私、覚えてる。ずっと覚えてる。リンちゃんが忘れても、私が覚えてるから」
リンの目から、涙が溢れた。
止まらない。
「……ありがとう」
声が、震える。
「ありがとう、なでしこ」
リンは、なでしこを、ぎゅっと抱きしめた。
二人で、泣いた。
しばらく、そうしていた。
――――
北条が、静かに口を開いた。
「……リン」
リンは、なでしこを抱いたまま、北条を見た。
北条の手に、コンパスがあった。
真鍮のコンパス。
でも。
針が、止まっている。
光も、消えている。
「コンパスは、もう光らん」
北条の声は、静かだった。
「代わりに、お前さん自身が、時詠みになった」
「……時詠み」
リンは、繰り返した。
「コンパスは道具にすぎん。使うたびに記憶を食うが、それはお前さん自身が時を詠み始めた証拠でもある」
北条は、コンパスを、リンの手に置いた。
冷たい。
でも、もう、動かない。
「お前さんの胸に、時詠みの力が移った。これからは、コンパスがなくても、お前さんは時を詠むことがあるかもしれん」
リンは、自分の手のひらを見つめた。
何も変わらない。
普通の、手。
でも。
胸の奥に、何かが残っている。
なでしこを守りたいという想い。
理由は、まだ分からない。
でも、その想いだけは、確かに、消えていない。
(……これが、時詠み)
(私の、力)
リンは、なでしこを見た。
なでしこは、まだ泣いていた。
でも、その顔には、笑みも浮かんでいた。
「リンちゃん、一緒にキャンプしようね。見晴らし岩で」
リンは、頷いた。
「……ああ、約束だ」
声は、まだ震えていた。
でも、確かに、言えた。
失った記憶は、戻らない。
でも、なでしこが、覚えていてくれた。
その事実が、リンの胸に、新しい何かを芽生えさせる。
(……また、作り直せばいい)
(なでしことの、新しい思い出を)
リンは、コンパスを、握りしめた。
動かない針。
でも、リンの胸の中では、何かが、静かに動き始めていた。Noveliaとは?
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