ゆるキャン△ 逆さのコンパス
志摩リンは、夢に見た。大人になった自分と、なでしこの死を。冷たい指先、雪の匂い、崖に落ちたオレンジのヘアピン。目が覚めても、その感触は消えなかった。数日後、冬の本栖湖でキャンプをした二人は、湖畔で古い真鍮のコンパスを拾う。「時を詠む者に告ぐ、振り向くなかれ」——蓋を開けると、針は逆回りに回っていた。その夜、リンは再び夢を見る。猪之頭林道、ガードレールのない崖、手を振るなでしこ。飛び起きたとき、コンパスの針は前より速く、逆回転していた。これは夢なのか。それとも——。ゆるキャン△の世界で綴られる、静かで冷たい、時間を巡る冒険と探索の物語。
ゆるキャン△ 逆さのコンパス - 反転する代償
風が冷たい。
スクーターのエンジン音が、静かな湖畔の空気に吸い込まれていく。
志摩リンは、ヘルメットのシールドを上げた。
冬の朝。空は晴れている。でも、太陽の光は薄い。肌に当たる風が、刃物みたいに鋭い。
「着いたー! 本栖湖だよ、リンちゃん!」
後ろから、弾む声。
振り返る。
各務原なでしこ。明るい栗色のボブヘア。オレンジのヘアピン。大きな琥珀色の瞳。白いダウンジャケット。赤い手袋。富士山柄のマフラー。
その笑顔は、今日も太陽みたいだ。
でも、リンは笑えなかった。
(……また、ここに来てしまった)
胸の奥が、重い。
ポケットの中のコンパスを、指先で確かめる。真鍮の冷たい感触。針が、微かに震えている気がした。
「リンちゃん、どうしたの? 顔色、悪いよ?」
なでしこが、首をかしげる。
「……別に。寒いだけ」
リンは、スクーターのスタンドを立てた。
(本当は、来たくなかった)
(でも、なでしこがどうしてもって言うから)
先週、猪之頭林道で、なでしこが崖の縁で足を滑らせた。
間一髪で、リンが手を掴んだ。
あの瞬間のことを、リンは何度も思い出す。
土が崩れる音。
なでしこの体が傾く。
リンの手が、伸びる。
掴んだ手首の細さ。
心臓が、耳の奥で鳴っていた。
(次は、本当に落ちる)
(助けられないかもしれない)
夢で見た光景。雪。朝の五時四十七分。見晴らし岩。なでしこが、落ちていく。
あの夢が、現実になる。
リンは、唇を噛んだ。
「ねえねえ、リンちゃん! 今日はどこでテント張るの? 浩庵キャンプ場だよね! 富士山が正面に見えるんだよね!」
なでしこが、ぴょんぴょん跳ねる。
「……ああ。予約してある」
「やった! 楽しみだなあ! なでしこ、昨日からお弁当いっぱい作ってきたんだよ!」
なでしこが、大きなリュックを背負い直す。
リンは、その姿を見ながら、思った。
(……なんで、こんなに無邪気でいられるんだ)
(お前が、死ぬかもしれないんだぞ)
言いたい。でも、言えない。
前にも言った。夢で見た、って。
なでしこは、笑って聞き流した。
「リンちゃん、心配性すぎ!」
そう言って、笑った。
リンの不安を、本気で受け止めてくれない。
(分かってる。夢の話なんて、誰も信じない)
(でも、あの夢は、ただの夢じゃない)
コンパスの針が、証拠だ。
反時計回りに、狂ったように回っている。
これは、何かの警告だ。
リンは、ポケットの中で、コンパスを握りしめた。
冷たい。
――――
浩庵キャンプ場。
本栖湖の西岸にある、湖畔のキャンプ場だ。
テントサイトは約八十区画。冬季も営業している。
管理棟は、古い木造の建物だった。
リンは、扉を開けた。
中は、薪の匂いがした。
カウンターの奥に、一人の老人が座っている。
白髪交じりの短髪。無精髭。優しくも鋭い黒い瞳。
左手に、古い傷跡。
腰に手を当てて、湖を見つめる癖がある。
北条タケシ。六十四歳。このキャンプ場の管理人だ。元漁師。
「いらっしゃい」
低く、穏やかな声。
「一泊、二人です」
リンは、受付表に名前を書いた。
「おじいさん、こんにちは! 今日はお世話になります!」
なでしこが、ぺこりと頭を下げる。
北条は、なでしこを見て、小さく頷いた。
「ほう。元気な子だな。気をつけなされ。湖の近くは、朝は凍る」
「はーい! ありがとうございます!」
リンは、ポケットから財布を出そうとした。
その時。
コンパスが、ポケットから滑り落ちた。
カチン。
床に落ちる音。
リンは、慌てて拾おうとした。
でも、その前に。
北条の手が、止まった。
いや、手だけじゃない。
北条の、すべてが止まった。
視線が、床に落ちたコンパスに、釘付けになっている。
「……あ」
リンは、コンパスを拾い上げた。
北条の顔を、見る。
その瞳が、わずかに見開かれている。
何かを、知っている目だ。
「……おじいさん?」
リンが声をかけると、北条は、ゆっくりと瞬きをした。
「……ああ、すまんな。料金は、一人千円。二人で二千円だ」
北条は、何事もなかったように、手を差し出した。
でも、リンには分かった。
この人は、コンパスを見て、動揺した。
明らかに。
(……知ってるのか)
(このコンパスのことを)
リンは、二千円を払った。
北条は、無言で受け取った。
その指先が、ほんの少しだけ、震えている気がした。
「……あんた」
北条が、低い声で言った。
「そのコンパス、大事にしなされ」
それだけ言って、北条は、また湖の方を見た。
リンは、何か言おうとした。
でも、言葉が出なかった。
(大事にしろ?)
(どういう意味だ)
北条の横顔は、何も語らなかった。
――――
テントを張る。
リンは、手際よく作業を進めた。
モンベルのムーンライトテント。慣れた手つきで、ポールを通し、ペグを打つ。
「リンちゃん、すごい! あっという間にテントができた!」
なでしこが、拍手する。
「……別に。慣れだ」
「なでしこも手伝うよ! 何すればいい?」
「……じゃあ、そっちのペグ、打って」
「はーい!」
なでしこが、ペグを手に取る。
トンカチで、ペグを打ち始めた。
トン。トン。トン。
小気味いい音が、湖畔に響く。
リンは、その音を聞きながら、空を見た。
青い空。
富士山が、白く輝いている。
(……きれいだ)
(なでしこと、こんな景色を見られるのは、いつまでだろう)
胸が、チクリと痛む。
「リンちゃん! 見て見て! 富士山、すっごくきれい!」
なでしこが、湖の向こうの富士山を指さす。
「……ああ。今日は、よく見えるな」
「ねえ、リンちゃん。写真撮ろうよ! 二人で!」
なでしこが、スマホを取り出す。
「……別に、いいけど」
「やった! じゃあ、こっち来て!」
なでしこが、リンの腕を引っ張る。
距離が、近い。
肩が、触れる。
なでしこの体温が、厚着越しに伝わってくる。
(……近い)
でも、嫌じゃない。
「はい、チーズ!」
シャッター音。
なでしこが、画面を確認する。
「あはは、リンちゃん、顔こわいよ! もっと笑って!」
「……笑ってる」
「笑ってないよ! ほら、もう一枚!」
なでしこが、またリンの腕を引っ張る。
リンは、仕方なく、口元をほんの少し緩めた。
(……これでいいだろ)
シャッター音。
「お、今度はいい感じ! リンちゃん、ちょっとだけ笑った!」
なでしこが、嬉しそうに画面を見せる。
そこには、少しだけ口元を緩めたリンと、満面の笑みのなでしこが写っていた。
(……別に、普通だ)
リンは、そう思った。
でも、胸の奥が、ほんの少しだけ、温かくなった。
――――
昼食。
なでしこが、持ってきた弁当を広げた。
「今日はね、リンちゃんの好きなものばかり作ってきたよ! 卵焼きと、唐揚げと、あと、おにぎり!」
「……お前、どんだけ食う気だ」
「えへへ。キャンプは、お腹すくからね!」
二人で、湖畔に座って、弁当を食べる。
風は冷たい。でも、日差しは暖かい。
湖面が、キラキラと光っている。
「おいしい! やっぱり外で食べると、何でもおいしいね!」
なでしこが、唐揚げを頬張る。
その食べっぷりは、本当に気持ちがいい。
(……こいつは、いつもこうだ)
(食べて、笑って、元気で)
(だから、守らなきゃいけない)
リンは、おにぎりを一口かじった。
鮭の味が、口に広がる。
「……うまい」
小さく呟く。
「でしょ! なでしこ、朝早く起きて作ったんだよ!」
なでしこが、嬉しそうに笑う。
リンは、なでしこの笑顔を見ながら、思った。
(……この時間が、ずっと続けばいいのに)
でも、分かっている。
この時間は、続かない。
夢が、現実になる。
なでしこが、崖から落ちる。
朝の五時四十七分。
猪之頭林道。
見晴らし岩。
(……絶対に、そんなこと、させない)
リンは、箸を置いた。
「なでしこ」
「うん?」
「今日は、絶対に、林道の方には行くな」
リンの声が、低くなる。
なでしこが、きょとんとした。
「え? どうして?」
「……あそこは、危ない。崖が崩れやすい」
「でも、前に行った時は、大丈夫だったよ?」
「今回は、ダメだ。絶対に、行くな」
リンは、なでしこの目を、じっと見た。
真剣な目。
なでしこは、一瞬、驚いた顔をした。
でも、すぐに、笑った。
「もう、リンちゃん、心配性すぎ! 大丈夫だよ! なでしこ、落ちたりしないもん!」
「……そういう問題じゃない」
「分かってるよ。ありがとね、心配してくれて」
なでしこが、リンの手を、そっと握った。
「でも、本当に大丈夫。なでしこ、リンちゃんと一緒なら、どこでも安全だよ」
なでしこの手は、温かかった。
リンは、何も言えなかった。
(……違う)
(私と一緒でも、安全じゃない)
(お前が死ぬのは、私が止められないからだ)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
でも、なでしこは、笑っている。
リンの不安を、本気で受け止めてくれない。
(……どうすれば、分かってもらえるんだ)
リンは、握られた手を、振りほどけなかった。
――――
夕方。
空が、オレンジ色に染まり始める。
湖面が、夕日を反射して、金色に輝く。
「ねえ、リンちゃん! 焚き火しようよ! 薪、拾ってくるね!」
なでしこが、立ち上がる。
「……私も行く」
「大丈夫だよ! 一人で行けるって! すぐそこだし!」
「……ダメだ。一人で行くな」
「もう、リンちゃん、過保護すぎ! じゃあ、ちょっと待ってて! すぐ戻るから!」
なでしこが、笑いながら、歩き出した。
湖畔の、崖の方へ。
「……なでしこ!」
リンは、声をかけた。
でも、なでしこは、振り返って手を振るだけだ。
「大丈夫! すぐ戻るよー!」
その背中が、遠ざかっていく。
リンの胸に、嫌な予感が広がる。
(……ダメだ)
(あっちは、崖だ)
(夢と、同じだ)
リンは、走り出した。
なでしこを追いかける。
足元の砂利が、音を立てる。
心臓が、ドクドクと鳴る。
「なでしこ! 待て!」
声が、裏返る。
なでしこは、湖畔の崖の縁に近づいていく。
薪を探している。
落ちている枝を、拾おうと、身をかがめる。
崖の縁。
土が、乾いて、ひび割れている。
「なでしこ!」
リンの声が、響く。
なでしこが、振り返る。
「え? リンちゃん、どうしたの……きゃっ!」
その瞬間。
なでしこの足元の土が、崩れた。
ザザザッ。
土の塊が、崖下に落ちていく。
なでしこの体が、傾く。
「なでしこ!!」
リンは、全速力で駆けた。
手を伸ばす。
なでしこの手が、空を掻く。
リンの指先が、なでしこの手首に、触れた。
掴む。
強い力で、握りしめる。
「っ……!」
なでしこの体重が、リンの腕にかかる。
重い。
でも、離さない。
絶対に、離さない。
「リンちゃん! リンちゃん!」
なでしこが、叫ぶ。
恐怖に、顔が歪んでいる。
「……大丈夫だ。掴まってろ」
リンは、歯を食いしばった。
腕が、悲鳴を上げる。
肩が、外れそうだ。
でも、離さない。
「……う、あああっ!」
リンは、全身の力で、なでしこを引き上げた。
なでしこの体が、崖の上に、戻ってくる。
二人は、地面に倒れ込んだ。
「はあっ……はあっ……」
リンは、息を切らしながら、なでしこを見た。
無事だ。
怪我はない。
「リンちゃん……ありがとう……ごめんね……なでしこ、言うこと聞かなくて……」
なでしこが、涙を流している。
「……別に。無事で、よかった」
リンは、そう言って、なでしこの頭を、そっと撫でた。
その時。
ポケットの中で、何かが、熱くなった。
「……え?」
リンは、ポケットに手を入れた。
コンパス。
熱い。
燃えるように、熱い。
「……なんで」
リンが、コンパスを取り出した瞬間。
コンパスが、落下した。
手から、滑り落ちた。
地面に、当たる。
カチン。
その音と同時に。
コンパスが、光った。
眩い、白い光。
「なに、これ……!」
光が、周囲を包み込む。
湖も、空も、なでしこも。
すべてが、白く染まっていく。
景色が、歪む。
音が、消える。
世界が、回転する。
リンの意識が、遠くなっていく。
(……なでしこ)
(なでしこ、無事で……)
リンの意識は、そこで、途切れた。
――――
目を開ける。
朝の光。
空は、青い。
風は、冷たい。
リンは、立っていた。
管理棟の前。
「……え?」
何が起きた?
さっきまで、夕方だったはずだ。
なでしこが、崖から落ちかけて。
コンパスが、光って。
「リンちゃん! 何ぼーっとしてるの? テント張ろうよ!」
隣から、明るい声。
なでしこ。
無事だ。
笑っている。
白いダウンジャケット。赤い手袋。富士山柄のマフラー。
「……なでしこ」
「うん? どうしたの、リンちゃん? 顔、真っ青だよ?」
なでしこが、心配そうに、リンの顔を覗き込む。
リンは、周囲を見回した。
管理棟。
テントサイト。
湖畔。
朝だ。
(……時間が、戻った)
(コンパスが、時間を巻き戻した)
リンの心臓が、激しく脈打つ。
(……これが、コンパスの力)
(時間を、逆戻りさせる力)
リンは、ポケットの中のコンパスを、握りしめた。
冷たい。
さっきまでの熱は、もうない。
でも、針は、回っている。
反時計回りに。
ゆっくりと。
「ねえ、リンちゃん! 早くテント張ろう! 今日は、なでしこが張り方教えてほしいな!」
なでしこが、リンの手を引っ張る。
「……ああ。分かった」
リンは、歩き出した。
足が、震える。
(……助かった)
(なでしこは、無事だ)
(でも……)
リンは、なでしこの横顔を見た。
なでしこは、楽しそうに笑っている。
さっきの恐怖なんて、覚えていない。
いや、そもそも、起きていない。
時間が、巻き戻ったから。
(……そうか。これが、コンパスの力)
(なでしこを、救える)
(何度でも、時間を戻して、救える)
リンは、安堵した。
でも、その安堵は、長く続かなかった。
――――
テントを張り終えた後。
なでしこが、突然、言った。
「ねえ、リンちゃん! 前に二人でキャンプした時さあ、楽しかったね!」
「……ああ」
リンは、適当に相槌を打った。
「あの時、リンちゃんが作ってくれたカレー、すっごくおいしかった! また食べたいなあ!」
なでしこが、嬉しそうに言う。
リンは、首をかしげた。
(……カレー?)
(私が、作った?)
(……いつ?)
リンの頭の中に、何も浮かばない。
なでしこと、初めて二人でキャンプした日。
その記憶が、ない。
「リンちゃん? どうしたの?」
なでしこが、リンの顔を覗き込む。
「……いや、別に」
リンは、笑顔を作った。
でも、心の中は、真っ白だった。
(……思い出せない)
(初めて二人でキャンプした日のこと)
(カレーを作った記憶も、ない)
リンの全身から、血の気が引いていく。
指先が、冷たい。
(……なんで)
(なんで、思い出せないんだ)
「あの時は、本当に楽しかったよね! また、あの場所に行きたいなあ!」
なでしこは、笑っている。
無邪気に。
でも、リンは、その笑顔を見ながら、恐怖していた。
(……私の記憶が、消えてる)
(コンパスを使ったから?)
(時間を巻き戻した代償?)
リンの呼吸が、浅くなる。
胸が、苦しい。
「リンちゃん、本当に大丈夫? 顔色、すごく悪いよ?」
なでしこが、心配そうに、リンの肩に触れる。
「……大丈夫。ちょっと、寒いだけ」
リンは、なでしこの手を、そっと外した。
「……ごめん、ちょっと、管理棟に行ってくる」
「え? どうしたの?」
「……トイレ」
リンは、なでしこに背を向けて、歩き出した。
足が、もつれる。
(……消えてる)
(私の、なでしこに関する記憶が)
(初めて二人でキャンプした日のことが)
(全然、思い出せない)
リンの目に、涙が滲む。
でも、泣けない。
なでしこに、気づかれないように。
リンは、唇を噛みしめて、管理棟へ向かった。
――――
管理棟。
リンは、建物の影に、隠れるようにして、座り込んだ。
膝を抱える。
体が、震える。
寒さのせいじゃない。
恐怖だ。
(……コンパスを使うと、記憶が消える)
(なでしこに関する、大切な思い出が)
(一つずつ、消えていく)
リンは、コンパスを取り出した。
蓋を開ける。
針は、回っている。
反時計回りに。
(……これを使えば、なでしこを救える)
(でも、使うたびに、記憶を失う)
(なでしことの思い出を、失っていく)
(……それでも、私は)
リンは、コンパスを握りしめた。
冷たい。
「……あんた」
突然、声がした。
リンは、顔を上げた。
北条タケシが、立っていた。
いつの間に、そこにいたのか。
「……おじいさん」
「大丈夫か。顔色が、真っ青だぞ」
北条が、ゆっくりと、リンの隣にしゃがみ込む。
「……大丈夫です」
「……そうは、見えんがな」
北条は、リンの手の中のコンパスを見た。
「……やはり、持っておったか」
「……え?」
「そのコンパス。わしは、昔、同じものを持った女を、ここで見たことがある」
北条の声が、低くなる。
リンの背筋に、冷たいものが走る。
「……同じもの?」
「ああ。そっくりな、真鍮のコンパスだ。針が、逆に回っておった」
北条は、湖の方を見た。
「あの女は、何度も、時間を戻した。大切な人を救うために」
「……それで、どうなったんですか」
リンの声が、震える。
「……分からん。わしが知っとるのは、あの女が、だんだん、大事なものを失っていったということだけだ」
「……大事なものを」
「記憶だよ。あのコンパスは、時間を戻す代わりに、持ち主の記憶を喰う」
北条の言葉が、リンの胸に、突き刺さる。
(……やっぱり)
(記憶が、消えてる)
(コンパスのせいで)
「……あんたも、何か、失ったか」
北条が、リンの顔を、じっと見た。
リンは、答えられなかった。
「……おじいさん、教えてください」
リンは、北条に、詰め寄った。
「このコンパスは、何なんですか。どうすれば、記憶を失わずに、時間を戻せるんですか」
「……わしにも、詳しいことは分からん」
北条は、首を振った。
「ただ、一つだけ、言えることがある」
「……何ですか」
「あの女も、大事なものを失って、最後には、ここへ来なくなった」
北条の声は、静かだった。
「何を失ったのか、どこへ行ったのか、誰も知らん。ただ、消えた。まるで、最初から、いなかったかのようにな」
リンは、息を呑んだ。
(……消えた)
(コンパスを使い続けたら、私も、消える?)
「……気をつけなされ。そのコンパスは、あんたの大事なものを、確実に奪っていく」
北条は、そう言って、立ち上がった。
「無理はするな。……今日は、ゆっくり休みなされ」
北条は、管理棟の中へ、消えていった。
リンは、一人、取り残された。
コンパスを、握りしめる。
冷たい。
(……記憶を、失う)
(なでしこに関する、大切な記憶を)
(でも、使わなければ、なでしこが死ぬ)
リンの頭の中で、二つの選択が、ぐるぐると回る。
(……どっちを選べばいい)
(なでしこを救うために、なでしこの記憶を失う)
(……それって、意味があるのか)
リンは、膝に顔を埋めた。
体が、震える。
(……分からない)
(でも、一つだけ、分かることがある)
リンは、顔を上げた。
なでしこが、テントの前で、手を振っている。
「リンちゃーん! おーい! こっちだよー!」
無邪気な笑顔。
太陽みたいな、明るさ。
(……あの笑顔を、守りたい)
(守るためなら、何だってする)
(たとえ、私の記憶が、全部消えても)
リンは、立ち上がった。
コンパスを、ポケットにしまう。
針は、まだ、回っている。
反時計回りに。
まるで、何かのカウントダウンみたいに。
リンは、なでしこの元へ、歩き出した。
笑顔を作って。
でも、心の中では、泣いていた。
(……ごめん、なでしこ)
(私、お前との思い出を、もう、一つ失った)
(これからも、きっと、失っていく)
(それでも、お前を、守る)
(お前の笑顔を、絶対に)
リンの決意は、固かった。
でも、その決意の重さが、リンの心を、静かに、締め付けていた。
湖面が、夕日に染まっている。
美しい。
でも、リンには、その美しさが、悲しく見えた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。