ストライク・ザ・ブラッド 〜第四真祖は恋愛ができない〜
世界最強の吸血鬼なのに、鼻血は止められない。
絃神島に暮らす高校生・暁古城は、三か月前からちょっとした悩みを抱えていた。夜眠れない、昼は眠い、そしてなぜかちょっとした刺激で鼻血が出る。己の体質に振り回されながら、今日も遅刻寸前で学校へ走る。追い打ちをかけるのは、フリルドレス姿の担任・那月ちゃん(二十六歳自称)の容赦ない補習。親友の基樹には「お前、ほんとに気づかないんだな」と謎の呆れ顔をされ、クラスメイトの浅葱はなぜか顔を赤くして視線を逸らす。
そんなある日、古城の隣の空き部屋に、新しい住人が引っ越してきた。黒髪ボブの、彩海学園中等部の制服を着た女の子。廊下でばったり顔を合わせた瞬間、古城の鼻から生温かいものが滴り落ちる。慌てて弁明するも、「いやらしい人!」と平手打ちが飛んできて——。
世界最強の吸血鬼が、恋も日常もままならない。すれ違いだらけのラブコメが、ここに開幕。
ストライク・ザ・ブラッド 〜第四真祖は恋愛ができない〜 - 隣人は黒髪ボブの見習い剣巫~銃を構える少女と鼻血の誤解~
ガタン、と隣室から響く物音で、暁古城は現実に引き戻された。
昨夜、あの黒髪の少女に平手打ちを食らってから、まだ半日も経っていない。左の頬は、触れるとまだほんの少しひりつく。
「……最悪な出会いだったな」
古城は寝返りを打ち、天井を見つめた。
絃神島。東京から南へ三百三十キロ。太平洋に浮かぶ、人間と魔族が共に暮らす人工の島。面積は約百二十平方キロ、人口は約十八万人。その一割が魔族登録者だ。
この南学園区の、築十年のマンション。二階の端っこの部屋で、古城は一人暮らしをしている。
三か月前、古城は世界最強の吸血鬼、第四真祖になってしまった。本人の意思とはまったく関係なく。以来、古城はその力を隠し、普通の高校生としての平穏な日常を守ろうと必死だった。
なのに。
「隣人が、よりによって……」
あの少女は、ただの隣人じゃない。
古城には分かっていた。彼女が獅子王機関——日本政府の外郭団体で、魔族対策と監視を任務とする国家機関——の見習い剣巫だということを。剣巫とは、対魔族戦闘に特化した祈祷術と剣技を修める、戦う巫女のことだ。
(監視役、か。面倒なことになったな)
古城は鼻の頭を掻いた。
ガタガタガタ、とまた隣から音がする。引っ越しの片付けでもしているのだろう。
「……腹、減ったな」
古城はのろのろと起き上がった。時計を見る。午前十一時。今日は土曜日で、学校は休みだ。
着替えて、洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の顔は、寝不足で少し青白い。昨夜はあの後、なかなか寝つけなかった。
(隣の子、ちゃんと飯食ってるのか?)
そんなことを考えている自分に気づいて、古城は苦笑した。
(いや、俺が気にすることじゃないだろ)
でも、気になる。だって、隣の部屋には、まだ十五歳くらいの女の子が一人で住むのだ。
古城は冷蔵庫を開けた。中には卵、ベーコン、キャベツ、トマト、それから昨日買った牛乳。
「……まあ、俺の昼飯ついでだ。別に、やましい気持ちはない」
誰に言い訳しているのか。古城はエプロンを手に取った。
一人暮らしの昼食にしては、少しだけ多めに作る。卵焼き、ベーコン、トースト、それにミニトマト。古城の料理の腕は、一人暮らしの高校生としてはかなり上等なほうだ。
「よし」
出来上がった皿をテーブルに並べる。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「え、誰だ?」
古城はエプロンを外しながら、玄関に向かった。ドアを開けると、そこに立っていたのは。
黒髪のボブヘアー。毛先が内側に少し跳ねている。真剣な光を宿した黒い瞳。小柄で、華奢な体つき。彩海学園中等部のセーラー服。
「……おはようございます」
姫柊雪菜が、ぴんと背筋を伸ばして立っていた。
「あ、おう。おはよう」
古城はまさか彼女から来るとは思っていなかったので、一瞬固まった。
「昨夜は、その……大変失礼しました」
雪菜は深々と頭を下げた。
「え? ああ、平手打ちのことか。いや、俺のほうこそ、変な誤解させて悪かったな」
「あれは誤解ではありません。あなたが初対面の相手に鼻血を出すからです」
雪菜は顔を赤くして、古城を睨んだ。
「だから、あれは体質なんだって。お前を見て興奮したとか、そういうんじゃなくて」
「どちらにしても変態です」
雪菜はきっぱりと言い放った。
古城は深いため息をついた。
「……で、何か用か?」
「引っ越しの挨拶に伺いました。これ、つまらないものですが」
雪菜はそう言って、小さな紙袋を差し出した。中には、包装されたクッキーが入っている。
「お、おう。ありがとう。……まさか、手作りか?」
「いいえ、駅前の店で買いました。手作りのほうが良かったですか?」
「いや、買ったので十分だって。気を使わせて悪いな」
古城は紙袋を受け取った。
雪菜は、ちらりと古城の部屋の中を見た。テーブルの上に並んだ昼食が目に入ったようだ。
「……すごい。全部、先輩が作ったんですか?」
「ん? ああ、まあな。一人暮らしだから、料理は自分でするしかないし」
「……そうですか」
雪菜は何か言いたそうに、もじもじとしていた。
古城は、その様子を見て、つい口を開いた。
「……お前、朝飯食ったか?」
「え? いえ、まだです。引っ越しの片付けが終わってなくて」
「なら、ちょっと待ってろ。お前の分も作ってやる」
古城はそう言うと、雪菜の返事も待たずにキッチンへ戻った。
「ちょ、ちょっと待ってください! 結構です! 一人でできます!」
雪菜は慌てて後を追ってきた。
「遠慮すんなよ。隣人だし。それに、どうせ一人で食うより二人で食ったほうがうまい」
古城は冷蔵庫から卵を追加で取り出し、手早くフライパンを温めた。
「ですから、あなたの世話になるつもりはありません! 私はあなたを監視するために来たんです!」
その瞬間、空気が止まった。
ジュウ、と卵が焼ける音だけが、やけに大きく響く。
古城は、ゆっくりと振り返った。
雪菜は、自分の口を両手で押さえていた。まずいことを言ってしまった、という顔をしている。
「……監視?」
古城は、平静を装って聞き返した。
「ち、違うんです。今のは、その……」
雪菜は真っ青な顔で、しどろもどろになっている。
(こいつ、任務のこと、うっかり口にしやがったな)
古城は心の中で苦笑した。
(まあ、知ってたけどな。最初から)
古城は、雪菜が獅子王機関から派遣された見習い剣巫であることを知っていた。彼女が「監視役」として、自分の隣に引っ越してきたことも。
でも、今それを知っていると言えば、話がややこしくなる。
「……お前、面白い奴だな。監視って、俺が何か悪いことするとでも思ってんのか?」
古城は、わざととぼけた。
「え……?」
「まあ、何でもいいけどよ。とりあえず、飯食え。腹が減ってると、ろくなこと考えられないだろ」
古城は、雪菜に背を向けて、卵を皿に盛り付けた。
「……あなた、私の言ったこと、聞かなかったことにしてくれるんですか?」
雪菜が、おそるおそる尋ねてきた。
「何のことだ? 腹減ってて、よく聞こえなかった」
古城は、肩をすくめた。
雪菜は、複雑そうな顔で古城を見つめていた。
「ほら、座れよ。卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちが好きだ?」
「……しょっぱいほうが、好きです」
雪菜は、小さな声で答えた。
「お、俺と一緒だ。よし、しょっぱい卵焼き、特製だ」
古城は笑った。
雪菜は、おそるおそる椅子に座った。その仕草は、警戒心が抜けきっていない。でも、古城の作った卵焼きを、じっと見つめている。
「食っていいぞ」
「……いただきます」
雪菜は丁寧に手を合わせてから、箸を取った。卵焼きを一口、口に運ぶ。
「……おいしい」
雪菜の表情が、ふっと緩んだ。
「だろ? 俺の卵焼きは、凪沙も認める味なんだ」
「凪沙さんが? 暁凪沙さんですよね? 私のクラスメイトの」
「ああ、知ってるのか? あいつ、俺の妹なんだ」
「はい。転入してすぐ、凪沙さんが話しかけてくれて。……先輩のことも、少し」
「あいつ、俺のこと、ろくな風に言ってないだろ」
「ふふっ」
雪菜が、初めて笑った。
その笑顔を見た瞬間、古城は少しだけ、自分の心臓が跳ねるのを感じた。
(……やっぱり、笑ったほうが可愛いな)
古城は、慌てて目を逸らした。
「……先輩は、どうして私にこんなに親切にしてくれるんですか?」
雪菜が、真剣な顔で尋ねてきた。
「え? 別に、親切ってほどのことじゃないだろ。隣に住んでる奴に、飯を食わせるくらい」
「でも、私は先輩のことを監視するために来たんです。あなたにとって、私は敵のはずです」
雪菜は、まっすぐに古城を見た。
古城は、箸を置いた。
「……お前は、俺を敵だと思ってるのか?」
「え……?」
「俺は、お前のことを敵だとは思ってない。少なくとも、今この瞬間は、隣に住む後輩だと思ってる」
古城は、雪菜の目を見て言った。
雪菜は、何かを言いかけて、口を閉じた。
「……まあ、難しいこと考えなくていいよ。飯は、うまいだろ?」
「……はい。とても、おいしいです」
雪菜は、小さく頷いた。
その後、二人はほとんど会話もなく、黙々と食事を続けた。
でも、その沈黙は、昨夜のような刺々しいものではなかった。
むしろ、少しだけ、居心地のいい沈黙だった。
食事を終えると、雪菜は丁寧に礼を言って、隣の部屋に戻っていった。
古城は、一人片付けをしながら、さっきの雪菜の笑顔を思い出していた。
(監視役、か。やっぱり、そういうことだったんだな)
古城は、鼻の頭を掻いた。
(でも、あいつ、あんなに真面目で、不器用で。任務に忠実であろうとして、でも、うっかり口を滑らせて)
(……放っておけないな)
古城は、苦笑した。
これは、監視役と監視対象の関係だ。分かっている。
でも、古城は、雪菜のことを、ただの監視役としては見られなかった。
夕方。
古城は、妹の凪沙に電話をかけていた。
「凪沙、今日の晩飯、何がいい?」
「お兄ちゃん! ミネストローネ! それと、オムライス!」
電話の向こうで、凪沙が元気な声を上げた。
「欲張りだな。まあ、いいけど。明日の弁当に入れる分も作るから、楽しみにしとけ」
「やった! お兄ちゃんのオムライス、大好き!」
「ああ、分かってるって。じゃあ、また明日な」
「うん! お兄ちゃんも、夜更かししちゃダメだよ!」
電話を切ると、古城はエプロンを着けた。
凪沙のリクエストに応えるため、ミネストローネとオムライスの材料を確認する。冷蔵庫には、昨日買った野菜がまだ残っている。
「よし、作るか」
古城は手際よく、野菜を切り始めた。玉ねぎ、にんじん、セロリ、じゃがいも。ミネストローネは、じっくり煮込むのが美味い。
トントントン、と包丁の音がリズムよく響く。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「ん? また誰だ?」
古城がドアを開けると、そこには。
「……こんばんは」
雪菜が、少し困ったような顔で立っていた。
「雪菜? どうした?」
「……あの、お隣から、とてもいい匂いがして。何を作っているのか、気になってしまって」
雪菜は、恥ずかしそうに言った。
「ああ、今からミネストローネ作るところだ。妹のリクエストでな」
「ミネストローネ……おいしそうですね」
雪菜の目が、わずかに輝いた。
「……食ってくか? どうせ、たくさん作るし」
「い、いいえ! 昼もごちそうになったのに、そんな、悪いです!」
雪菜は、ぶんぶんと首を振った。
「遠慮するなって。一人で食うより、二人で食ったほうがうまい。それに、お前、ちゃんと夕飯食うつもりなかっただろ」
「……それは、その、引っ越しの片付けがまだ終わってなくて」
雪菜は、目を泳がせた。
「ほら、図星だ。入ってこいよ。片付けは、飯食ってから手伝ってやる」
「え!? 手伝ってくれるんですか!?」
「困ってる奴は、放っておけないタチなんだよ。俺は」
古城は、雪菜を部屋の中に招き入れた。
雪菜は、おずおずと靴を脱いで、上がってきた。
「……すみません。本当に、何から何まで」
「気にすんな。ほら、座って待ってろ」
古城はキッチンに立ち、ミネストローネの続きを作り始めた。
雪菜は、テーブルの前に正座して、古城の手元をじっと見つめている。
「……先輩は、料理が得意なんですね」
「まあな。一人暮らしが長いと、嫌でも上手くなる」
「私も、料理は一応できます。サバイバル訓練で、必要最低限は」
「サバイバル訓練って、お前、やっぱり普通の中学三年生じゃないんだな」
古城は、軽く笑った。
雪菜は、はっとしたように口を閉じた。
「……まあ、いい。お前が何者でも、俺の隣人なのは変わらない。それより、手伝ってくれるか? 野菜を切るのを」
「はい! お手伝いします!」
雪菜は、嬉しそうに立ち上がった。
「じゃあ、包丁を……」
古城が包丁を差し出そうとした、その時。
雪菜が、スカートのポケットから、何かを取り出した。
ギラリ、と光る、黒い刃。
「……おい、それ、何だ?」
「コンバットナイフです。訓練で使い慣れています。料理にも問題ありません」
雪菜は、真顔で言った。
「いやいやいや、問題あるだろ! 包丁でいいから! それしまって!」
古城は、思わず後ずさった。
「包丁は、刃渡りが長くて使いにくいです。コンバットナイフのほうが、小回りが利きます」
「そういう問題じゃない! 普通の家庭料理にコンバットナイフは出てこないの!」
「慣れの問題です。見ていてください」
雪菜は、コンバットナイフを握り直すと、まな板の上の玉ねぎに刃を入れた。
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
小気味よい音を立てて、玉ねぎがみじん切りになっていく。
「……お、おお」
古城は、思わず見入ってしまった。
雪菜の包丁さばきは、見事なものだった。コンバットナイフで、あれほど繊細に野菜を切れるとは。
「どうですか?」
雪菜が、得意げな顔で振り返った。
「すげえな。でも、やっぱり包丁使ってほしい」
「……なぜですか? 問題なく切れています」
「気分の問題だよ。こっちが落ち着かない」
古城は、深いため息をついた。
その後、なんとか雪菜に包丁を使ってもらうことに成功し、二人でミネストローネを完成させた。
「わあ……おいしそう」
雪菜が、鍋の中を覗き込んで、嬉しそうに言った。
「だろ? 雪菜が切った野菜も入ってるから、格別だ」
古城は、雪菜の分のミネストローネを器によそった。
二人は、向かい合って座った。
「熱いから、気をつけろよ」
「はい。……いただきます」
雪菜は、スプーンでミネストローネをすくい、口に運んだ。
「……おいしい……です」
雪菜の顔が、ほんのりと赤らんだ。
「だろ? また食うか?」
古城は、笑いながら聞いた。
雪菜は、こくんと頷いた。
「……はい。おかわり、お願いします」
雪菜の声は、少しだけ弾んでいた。
その夜。
古城は、風呂から上がり、自室でごろごろしていた。
隣の部屋からは、相変わらずガタガタと物音が聞こえる。
(片付け、手伝うって言ったけど、結局ほとんど一人でやらせちまったな)
古城は、天井を見つめながら、ぼんやりと考えていた。
(明日は日曜だし、朝、顔出してみるか)
そんなことを考えていると、突然、隣の部屋から大きな物音がした。
ガシャーン!
「え!? 今の音、なんだ!?」
古城は、飛び起きた。
何かが倒れたような、割れたような、すごい音だ。
「おい、雪菜! 大丈夫か!?」
古城は、部屋を飛び出し、隣の部屋のドアを叩いた。
返事がない。
「雪菜! 入るぞ!」
古城は、ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
勢いよくドアを開けると、部屋の中は段ボール箱で散らかっていた。
そして、その中央で。
雪菜が、床に倒れていた。
「おい、大丈夫か!?」
古城は、雪菜に駆け寄った。
「……すみません。足を、滑らせてしまって」
雪菜は、痛そうに顔をしかめながら、起き上がろうとした。
「無理するな。どこか打ったか?」
「……大丈夫です。少し、足首をひねっただけで」
雪菜は、古城の手を借りて、なんとか立ち上がった。
その時、雪菜の体が、ぐらりと傾いた。
「おっと!」
古城は、とっさに雪菜の体を支えようとした。
だが、バランスを崩した雪菜の手が、古城の胸に、どん、とついた。
二人は、至近距離で見つめ合う形になった。
雪菜の黒い瞳が、大きく見開かれる。
古城の鼻の奥に、つーん、と痛みが走った。
(やばい)
古城は、直感的に思った。
つーっ。
生温かい液体が、古城の鼻から垂れ落ちる。
「な、な、な……」
雪菜の顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「ち、違う! これは体質で! お前が近かったから、その、興奮したとかじゃなくて!」
古城は、慌てて鼻を押さえながら弁解した。
「い、いやらしい人!」
雪菜は、古城から飛びのくと、近くに置いてあった長いケースを手に取った。
ケースを開け、中から取り出したのは。
銀色に輝く、槍。
「ちょ、待て! なんで槍なんか持ってるんだ!」
「雪霞狼です。私の武器です。……言い訳は結構です。近づかないでください」
雪菜は、槍の切っ先を古城に向けて、仁王立ちした。
「誤解だって! 俺はただ、お前が倒れたから助けようとしただけで!」
古城は、両手を挙げた。
「鼻血を出しながら言われても、説得力がありません」
雪菜の槍は、ぴくりとも動かない。
「だから、それは体質なんだよ! ほんとに!」
古城は、半泣きで叫んだ。
しばらく、二人はにらみ合った。
やがて、雪菜のほうが、ふっと息を吐いた。
「……分かりました。今は、信じます」
雪菜は、ゆっくりと槍を下ろした。
「え、信じてくれるのか?」
「あなたの鼻血が体質によるものかどうかは、置いておきます。でも、私を助けようとしてくれたのは、事実ですから」
雪菜は、少しだけ、古城の目を見て言った。
「……でも、やっぱり、いやらしいです」
雪菜は、小さく付け加えた。
「そこは否定しろよ!」
古城は、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
鼻血は、まだ止まらない。
「……ティッシュ、ありますか?」
雪菜が、おそるおそる古城に近づいてきた。
「……ポケットに入ってる」
古城は、ポケットからティッシュを取り出し、鼻に詰めた。
「……本当に、体質なんですか?」
雪菜が、しゃがみ込んで、古城の顔を覗き込んだ。
「本当だ。三か月前から、ちょっとした刺激で鼻血が出るようになった。女の子と近づいた時とかに、よく出る」
「それは、やっぱりいやらしい人の症状じゃないですか」
雪菜は、冷たい目で古城を見た。
「だから、体質だって言ってるだろ! 俺のせいじゃないんだ!」
古城は、涙目で反論した。
雪菜は、しばらく古城を見つめていたが、やがて、ふっと表情を緩めた。
「……変な人です」
雪菜は、そう言って、小さく笑った。
「え?」
「監視対象のくせに、私にご飯を作ってくれて、片付けを手伝おうとしてくれて、私が倒れたら飛んでくる。……変な人です」
雪菜は、そう言って、立ち上がった。
「……今日は、本当にありがとうございました。おかげで、引っ越しの疲れが、少し取れました」
雪菜は、古城に頭を下げた。
「あ、ああ。……また、何かあったら言えよ」
古城は、鼻にティッシュを詰めたまま、間の抜けた顔で言った。
雪菜は、くすっと笑った。
「……はい。おやすみなさい、先輩」
「おう、おやすみ」
雪菜は、部屋のドアを閉めた。
古城は、しばらくその場に座り込んでいた。
(……変な人、か)
古城は、鼻の頭を掻いた。
(お前のほうが、よっぽど変な奴だよ)
でも、嫌な気はしなかった。
むしろ、少しだけ、雪菜との距離が縮まった気がした。
翌朝。
古城が部屋の前で新聞を取っていると、隣の部屋から雪菜が出てきた。
「……おはようございます」
雪菜は、少し気まずそうに、小さく会釈した。
「おう、おはよう。足、もう大丈夫か?」
「はい。おかげさまで、もう痛みません」
「そうか。なら良かった」
古城は、笑った。
雪菜は、ちらりと古城の顔を見て、何か言いたそうにした。
「……昨夜は、その、すみませんでした。槍を向けたりして」
雪菜は、申し訳なさそうに言った。
「気にすんな。俺の鼻血が悪い。……これからも、よろしくな」
古城は、雪菜に手を差し出した。
雪菜は、一瞬ためらった後、そっと古城の手を握った。
小さくて、少し冷たい手だった。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
雪菜は、少し照れたように微笑んだ。
古城は、その笑顔に、また少しだけ、心臓が跳ねるのを感じた。
(……やっぱり、こいつは、笑ったほうが可愛い)
古城は、そう思いながら、雪菜の手を離した。
絃神島の朝は、今日も穏やかだ。
でも、古城の日常は、確実に、昨日までとは違うものになっていた。
隣に住む、黒髪ボブの見習い剣巫。
彼女との、ぎこちないながらも、少しずつ始まった隣人関係。
それが、これからどうなっていくのか。
古城には、まだ、何も分からなかった。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
(……俺の平穏な日常は、やっぱり、遠くに行ってしまったらしい)
古城は、青い空を見上げて、小さく息をついた。Noveliaとは?
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