血の学園ライフ〜毒親ママと秘密のカレシ〜
母に支配された息子と、彼を溺愛する毒親ママ。毎朝髪を整えられ、弁当を持たされ、連絡帳の予定まで消される日々。自由のない学園生活に息苦しさを感じながらも、母の笑顔を裏切れない静一。そんな彼の日常が、ある日を境に音を立てて崩れ始める——。秘密のカレシとの出会いが、静一の運命を大きく変えていくラブコメディ。
血の学園ライフ〜毒親ママと秘密のカレシ〜 - ママの決めた一日
「はい、できたわ。今日もかわいい」
鏡の中の自分を、静一はぼんやり見ていた。母の静子が後ろから手を伸ばして、くせのない黒髪を丁寧に整えていく。耳が隠れる程度に伸ばした柔らかな髪を、静子の細い指が何度もとかした。少し垂れ目がちな、こげ茶色の瞳が鏡の中で揺れている。
六月の朝。窓から差し込む光が、居間の床を明るく照らしていた。
「静一、前髪が伸びてきたわね。今度切ってあげる」
静子はそう言いながら、静一の肩に手を置いた。手入れの行き届いた、肩までの艶やかな黒髪。切れ長で涼しげな黒い瞳。笑うと三日月のように細くなるその目は、今は静一の髪だけを見つめている。
静一は黙ってうなずいた。制服の袖口を、無意識に指でいじる。
「はい、これ。お弁当よ」
水色の布に包まれた弁当箱を、静子が差し出す。静一は両手で受け取った。
「ありがとう、ママ」
声は小さかった。でも静子は満足そうに微笑む。
静子は若くて、きれいだった。162センチの背筋をまっすぐ伸ばして、静一を見下ろしている。専業主婦の静子は、毎朝こうして静一の身支度を整え、弁当を持たせ、玄関まで見送る。それが長部家の朝だった。
父の一郎はサラリーマンで、朝はいつも早い。静一が起きる頃には、もう家を出ている。だから朝の時間は、いつも静一と静子の二人きりだった。
「今日も暑くなりそうね。水筒、ちゃんと持った?」
「うん」
「帰りはまっすぐ帰ってくるのよ。寄り道はだめ」
「うん」
静一は玄関で靴を履いた。紺のブレザーに白いシャツ、紺のネクタイ。細身で、少し猫背ぎみの体に、制服がぴったりと張りついている。158センチの背丈は、同級生の中では小さい方だった。
静子は玄関の外、門のところまで出て、静一を見送る。
「行ってらっしゃい、静一」
にこにこ笑っている。優しい笑顔。でも、その目が笑っていないことを、静一は知っていた。
「行ってきます」
静一も笑った。笑顔は控えめで、目が笑っていないとよく言われる。自分でもわかっていた。
門を出て、角を曲がる。静子の視線が背中に貼りついているような気がして、静一は小さく息をついた。
桐生ヶ丘市の住宅街は、朝の光に包まれていた。駅から徒歩二十分ほどの静かな場所に、長部家はある。築十五年程度の一戸建てで、庭には静子が手入れをした花が咲いている。白い花。名前は知らない。
静一は歩き出した。母の決めた通学路を、毎日同じように歩く。
桐生ヶ丘市は、群馬県の地方都市だ。人口は十二万人くらい。市の中央を鏡ヶ瀬川が流れていて、川沿いには桜並木が続いている。市街地の北側には榛名ヶ丘という低い山並みが連なっていて、南側は関東平野へと開けている。
静一は鏡ヶ瀬川の河川敷に出た。遊歩道には、朝の光が川面に反射してきらきら光っている。桜の葉が風に揺れて、さらさらと音を立てた。
ジョギングする人。犬を散歩させる人。ベビーカーを押す若いお母さん。
静一は川沿いの遊歩道を歩きながら、ぼんやりと考えた。
(この時間だけが、自由なのかもしれない)
家を出てから学校に着くまでの十五分。母の決めた通学路だけど、それでも、誰にも見られていない。静子の視線も、ここまでは届かない。
母の決めた予定表には、自由時間の欄はない。
学校から帰れば、家の手伝い。勉強。夕食。風呂。就寝。全部、静子が決めた時間通りに動く。テレビを見る時間も、ゲームをする時間も、静子が決める。
(普通のことだ)
静一は自分に言い聞かせる。
(みんな、そうなのかもしれない)
でも、心のどこかで、違うと思っている自分もいた。
桜並木の下を、風が吹き抜ける。六月の桜は葉桜で、花はもう散ってしまった。でも、木陰は気持ちよかった。
静一は学校に着く直前、校門の前で立ち止まった。
私立青葉ヶ丘中学。全校生徒約四百八十名、各学年四クラス編成。創立から三十年ほどの学校で、地域の資産家だった青葉家が寄付して作った。紺のブレザーが校風を表している。
静一は大きく深呼吸した。
(よし)
校門をくぐる。
教室に入ると、もう何人かのクラスメイトが来ていた。
「おー、長部、おはよー」
声をかけてきたのは、前の席の男子だった。
「おはよう」
静一は小さく笑って、自分の席に座った。窓際の後ろから二番目。静子が「ここがいい」と決めた席ではない。でも、なんとなく、ここに落ち着いた。
朝のホームルームが終わって、一時間目。二時間目。授業は淡々と進んでいく。静一はノートを取る。先生の話を聞く。時々、窓の外を見る。
(今日も、何もない一日になる)
そう思っていた。
昼休みになった。
静一が弁当箱を開けようとしたとき、クラスメイトの男子二人が近づいてきた。
「長部、今日放課後、きりゅう銀座の喫茶こもれび行こうぜ」
「新作のパフェが出たんだって。おごるよ」
きりゅう銀座は、桐生ヶ丘駅前の商店街だ。全長四百メートル、六十店舗ほど。喫茶こもれびは、学生の溜まり場になっている。
静一の顔が、一瞬、ぱっと明るくなった。
行きたい。
でも、その次の瞬間、頭の中で声が再生される。
——ママがさびしいじゃない。
静子の声。静子の笑顔。静子の目。
「ごめん、家の手伝いがあるから」
静一は笑った。
「そっか、長部んち大変だな」
「また今度な」
二人は軽く手を振って、教室を出ていった。
静一は机の上で、こっそり拳を握りしめた。
(断りたくない)
(本当は、行きたい)
でも、言葉が出ない。
静一は弁当箱を開けた。静子が作った弁当。卵焼き、ミートボール、ほうれん草のおひたし、そしてタコさんウインナー。全部、静一の好きなものばかり。
(ママは、優しい)
静一は卵焼きを口に入れた。甘い。静子の味。
(ママは、俺のことを思ってくれている)
そう思うことにした。
放課後。静一はまっすぐ家に帰った。
「おかえりなさい、静一」
玄関で静子が待っていた。
「ただいま」
静一は靴を脱いで、居間へ向かう。ランドセルではなく、学生鞄を肩にかけたまま。
居間に入ったとき、静一の足が止まった。
静子が、静一の連絡帳を開いている。
学校と家庭の連絡用のノート。担任の野村先生が、時々コメントを書く。そして、生徒が自分の予定を書き込む欄もある。
静子は、その連絡帳に鉛筆で線を引いていた。
静一が昨日、友達と交わした放課後の約束の欄。
「金曜日、図書室で宿題」
その文字が、静子の鉛筆で消されていく。
「ママ、それ……」
静一は言いかけた。
静子はゆっくり振り返った。にこやかに。
「ママがちゃんと見てあげないとね。静一はまだ、どこで誰と何をしているか、ママに教えてくれないでしょう?」
静子の黒い瞳が、静一を見つめる。笑っている。でも、目は笑っていない。
静一はうつむいた。
「……うん」
それしか言えなかった。
連絡帳を取り上げることもできない。
静子は静一の隣に来て、頭を撫でた。
「静一はいい子ね。ママの言うことを聞いてくれて」
静子の手は、温かかった。
でも、その温かさが、静一の胸をぎゅっと締めつける。
夕食の時間。
父の一郎が帰ってきた。
「ただいま」
スーツ姿の一郎は、疲れた顔で居間に入ってきた。
「おかえりなさい、あなた」
静子はにこやかに一郎を迎えた。
食卓には、ハンバーグ、サラダ、味噌汁、ご飯。静子が作った夕食。
「静一、学校どうだった」
一郎が聞いた。
「……普通だった」
「そうか」
会話はそれで終わった。
一郎はテレビを見ながらご飯を食べる。静子は静一の隣に座って、静一の食べる様子をじっと見ている。
「静一、野菜も食べてね」
「うん」
静一はサラダを口に運んだ。
一郎は、静子の静一への接し方を、特に何も言わない。それが普通だと思っているのか、気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか。
静一にはわからなかった。
夜。
静一は自分の部屋で、布団に入った。
二階の自室。窓から月明かりが差し込んでいる。
(眠れない)
静一は天井を見つめた。
(連絡帳、消されちゃった)
(金曜日、みんなと宿題する約束だったのに)
(どうしてママは、あんなことをするんだろう)
考えても、答えは出ない。
静一は目を閉じた。
そのとき。
ドアの外に、気配がした。
足音が、静一の部屋の前で止まった。
ノックもない。声もない。
ただ、立っている。
静一は息を殺した。
布団を頭までかぶる。
(ママだ)
わかった。
静子が、ドアの外に立っている。
何をしているのかは、わからない。でも、静一の部屋の前で、じっとしている。
一分。二分。
気配は動かない。
静一の心臓が、どくどくと音を立てる。
(お願い、入ってこないで)
(お願い)
喉まで出かかった言葉。
——ママ、もうやめてよ。
静一はその言葉を、飲み込んだ。
言えるわけがない。
母を悲しませる言葉を、言えるわけがない。
静一はぎゅっと目を閉じた。
しばらくして、気配が遠ざかった。
階段を下りる音が、かすかに聞こえた。
静一は布団から顔を出した。
(助かった)
でも、安心はできなかった。
(明日も、同じだ)
静一は壁の方を向いて、体を丸めた。
窓の外で、風が木々を揺らす音がする。
遠くで、電車の走る音。
静一は、眠りにつくまで、ずっとその音を聞いていた。
翌朝。
静子は何事もなかったように、静一の髪を整えた。
「今日も暑くなるわね。水筒、持った?」
「うん」
静子は弁当を渡し、門まで送る。
「行ってらっしゃい、静一」
にこにこ笑っている。
静一は笑おうとした。
でも、昨日の夜のことを思い出して、笑顔が少しだけぎこちなくなった。
「行ってきます」
門を出る。
角を曲がる。
静一は小さく息をついた。
(今日も、同じ一日が始まる)
(ママの決めた一日が)
でも、静一はまだ知らなかった。
この繰り返しが、もうすぐ、音を立てて崩れ始めることを。
鏡ヶ瀬川の河川敷に出た。
朝の光が、川面をきらきらと照らしている。
桜並木の下を、静一は歩いた。
風が吹いて、葉っぱがさらさらと揺れる。
(この時間だけは)
静一は、川の流れを見つめた。
(自由だ)
水は、上流から下流へ、止まることなく流れていく。
(俺も、こんなふうに)
(どこかへ行けたら)
でも、静一は歩き続ける。
母の決めた通学路を。
学校へ。
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