血の学園ライフ〜毒親ママと秘密のカレシ〜
母に支配された息子と、彼を溺愛する毒親ママ。毎朝髪を整えられ、弁当を持たされ、連絡帳の予定まで消される日々。自由のない学園生活に息苦しさを感じながらも、母の笑顔を裏切れない静一。そんな彼の日常が、ある日を境に音を立てて崩れ始める——。秘密のカレシとの出会いが、静一の運命を大きく変えていくラブコメディ。
血の学園ライフ〜毒親ママと秘密のカレシ〜 - せーいちと、片足立ちの夏
梅雨の合間の、からりと晴れた月曜日。
私立青葉ヶ丘中学の校門をくぐると、いつものように朝の喧騒が耳に飛び込んでくる。自転車置き場のざわめき、昇降口で交わされる挨拶、運動部の掛け声。そのすべてが、長部静一にとっては少し遠い世界の出来事のように感じられた。
(母さん、今日も門のところで見てた)
胸の奥が、じくじくする。映画の約束をすっぽかしてから、静子の静一を見る目は、前よりもずっと深く、重くなった気がする。毎朝の送り迎えは当然になり、昼休みには手作りのおやつを持って教室の前に現れる。そのたびにクラスメイトの好奇の視線が刺さって、静一はますます縮こまるしかなかった。
教室の引き戸を開ける。
がらり。
「おはよう、長部くん」
栗色のポニーテールが、ぴょんと跳ねた。しおりが机の間を縫って、小走りに近づいてくる。小さな花のヘアピンが、朝日を反射してきらりと光った。
「おはよう、水野さん」
「ねえ、聞いた? 今日、転校生が来るんだって!」
しおりの大きな瞳が、わくわくしたように輝いている。
「転校生?」
「うん。男子だって。楽しみだね!」
静一は曖昧にうなずいた。転校生。この教室に、また新しい誰かが入ってくる。それが自分とどう関わるのか、静一には想像もつかなかった。
ホームルームのチャイムが鳴る。野村先生が入ってきて、教壇に立った。
「はい、静かに。今日は新しい仲間を紹介します」
教室がざわめく。
「入ってきて」
扉が開いた。
入ってきたのは、明るい茶色の髪を無造作に跳ねさせた少年だった。寝癖みたいな髪が、そのまま彼のトレードマークみたいに見える。首からは、年代物のラジオのイヤホンをかけていた。
「転校生のシゲルくんです。みんな、仲良くしてあげてください」
シゲルはにっと笑った。八重歯がのぞく。
「どーも! シゲルでーす! 群馬の山の方から来ました! 好きなものはカレーとラジオ! 嫌いなものは特にナシ! よろしく!」
教室が、くすくすと笑いに包まれる。一瞬で空気が和んだ。
「じゃあ、席は……長部の隣が空いてるな。シゲル、あそこだ」
シゲルの視線が、静一に向いた。
そして。
「あっ!! せーいち!!!」
シゲルが、教室中に響き渡るような大声を出した。
静一は、固まった。
「せーいち! せーいちだよな!? 長部静一!」
シゲルは静一の席まで駆け寄ると、両手を机に叩きつけて、顔を覗き込んできた。
「……シゲル」
「久しぶり! 超久しぶりじゃん! 覚えてる? 俺だよ、俺! 小さい頃よく遊んだだろ!」
教室中の視線が、二人に集中する。
「知り合いなの?」
「長部って、ああいう明るい友達いたんだ」
ひそひそと、声が聞こえる。
静一の心臓が、どきどきと速くなる。でも、その鼓動は、嫌なものではなかった。
(シゲルだ)
(本当に、シゲルだ)
母の決めた予定表の外側に、突然、懐かしい顔が現れた。それが、嬉しかった。
「うん。覚えてるよ」
静一の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「だよな! あー、マジで懐かしい! お前、全然変わってないな!」
シゲルは、静一の肩をばしばしと叩いた。
「シゲルくん、席に着いて」
「はーい!」
シゲルは、静一の隣の席に、ぴょんと座った。
「あとで色々話そうぜ、せーいち」
いたずらっぽい黒い瞳が、静一にだけ聞こえる声で言った。
静一は、こくりとうなずいた。
休み時間になるたびに、シゲルの周りには人だかりができた。
「シゲルくん、前の学校はどこだったの?」
「山の中! クマが出るんだぜ、マジで」
「えー! うそー!」
「うそじゃねーって! 朝起きたら庭にクマのフンがあってさー」
「きたねー!」
「だろ? でも慣れると、フンの形で機嫌がわかるんだよ」
「何の特技だよそれ!」
教室中が笑い声に包まれる。シゲルは、まるで昔からこのクラスにいたみたいに、自然に溶け込んでいた。
静一は、自分の席から、その様子をぼんやりと眺めていた。
(相変わらずだなあ)
シゲルは昔から、そういう奴だった。どこに行っても、いつの間にか輪の中心にいる。
昼休み。
静一が弁当箱を開けようとしていると、シゲルが机をくっつけてきた。
「せーいち、一緒に食おうぜ!」
「え、うん。いいよ」
「お前の弁当、相変わらずすげーきれいだな! 卵焼きにタコさんウインナー! 愛情たっぷりじゃん!」
シゲルが、静一の弁当箱を覗き込んで、大声で言った。
「あ、うん。ママが……」
「へえ、おばさんが。相変わらずだなあ」
シゲルの声が、ほんの少しだけ、トーンを落とした。
「……相変わらず?」
「ん? ああ、いや、なんでもねえよ」
シゲルは、自分の購買のパンにかぶりついた。
「そういえば、お前ん家、この辺なんだよな? 今度遊びに行っていい?」
「え……」
静一の手が、ぴたりと止まった。
母の顔が、頭に浮かぶ。
——友達を家に呼ぶときは、ちゃんとママに言ってね。
「……うん。たぶん、大丈夫……かな」
「たぶんって何だよ!」
シゲルが笑う。
「まあ、今日の放課後、ちょっと話したいことがあるんだ。屋上、行ける?」
「屋上?」
「うん。静かな場所、知ってるだろ?」
静一は、少し迷ってから、うなずいた。
「うん。わかった」
放課後。
静一は、シゲルと二人で、校舎の一番端にある階段を上っていた。屋上へ続く扉は、普段は鍵がかかっているはずなのに、今日はなぜか、少しだけ開いていた。
「ラッキー。開いてる」
シゲルが、音を立てないように扉を押し開ける。
屋上に出た瞬間、強い風が吹き抜けた。
六月の終わりの風は、まだ少し湿り気を帯びている。遠くに、榛名ヶ丘の稜線が見えた。
「おー、いい眺めじゃん」
シゲルは、フェンスに手をかけて、大きく伸びをした。
静一も、その隣に立つ。
「で、話したいことって?」
シゲルは、しばらく黙っていた。
風が、シゲルの跳ねた髪を揺らす。
「なあ、せーいち」
シゲルの声が、急に低くなった。
「お前のママって、今もあんな感じなの?」
「あんな感じ……?」
「なんつーか、すげぇ笑うじゃん。いつもにこにこしてて」
静一は、返事に困った。
「……うん。まあ」
「あのさ」
シゲルは、フェンスから手を離して、静一の方を向いた。
「俺、お前のママのこと、ちょっと怖いんだよね」
静一の胸が、どきりと鳴った。
「……怖い?」
「うん。笑顔のまま、目が笑ってないっていうか。小さい頃から、ずっとそう思ってた」
シゲルは、遠くの山を見た。
「小学三年の夏、覚えてる? 親戚みんなで榛名ヶ丘にハイキング行ったやつ」
「……榛名ヶ丘?」
静一は、記憶をたどる。
榛名ヶ丘。市の北側にある、低い山並み。展望台があって、子供の頃、何度か家族で出かけたことがある。
「あのときさ、俺、崖の近くで調子に乗って、片足立ちして見せたんだよ。『すげーだろ!』って」
シゲルは、片足を上げて、当時の真似をした。
「そしたら、お前のママが、にこにこしながら近づいてきて」
シゲルの動きが、止まった。
「背中を、そっと押したんだ」
静一は、息をするのを忘れた。
「……え?」
「押したっていうか、押されたように感じたっていうか。今でも、あれが本当に押したのか、俺がバランス崩しただけなのか、わかんねえんだ」
シゲルは、首を振った。
「幸い、低い崖だったから、擦り傷と打ち身で済んだけど。でも、あのときの笑顔が、ずっと忘れらんなくて」
風が、強く吹いた。
「せーいちのママは、なんかすげぇ笑うよな。あの笑顔、怖くねぇの?」
シゲルの黒い瞳が、まっすぐに静一を見つめる。
静一は、答えられなかった。
(怖くない)
そう言おうとした。
でも、喉の奥で、言葉が張り付いて動かない。
(ママの笑顔が、怖い?)
考えたこともなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
「……わかんない」
静一は、やっとの思いで、そう言った。
「そっか」
シゲルは、それ以上、何も聞かなかった。
「まあ、俺はあの一件以来、おばさんのこと、笑顔のまま距離取ってるんだ。だから、お前ん家にはあんまり行きたくないんだけど」
シゲルは、いたずらっぽく笑った。
「でも、せーいちと遊びたいから、今日は行くわ」
「え?」
「いいだろ? お前ん家」
静一は、迷った。
母の顔が、頭に浮かぶ。
(でも、シゲルなら、いとこだし)
(ママも、昔から知ってるし)
「……うん。たぶん、大丈夫だよ」
静一は、そう答えた。
夕方。
長部家の玄関の前に、静一とシゲルは立っていた。
静一の家は、桐生ヶ丘市の住宅街にある、築十五年の一戸建てだ。静子が丁寧に手入れした庭には、色とりどりの花が咲いている。
「緊張するわー」
シゲルが、冗談めかして言った。
「大丈夫だよ。ママ、シゲルのこと覚えてると思うし」
静一が、玄関のドアを開けようとした、そのとき。
ガチャリ。
内側から、ドアが開いた。
「おかえりなさい、静一」
静子が、立っていた。
肩までの艶やかな黒髪。切れ長の涼しげな瞳。いつもの、穏やかな微笑み。
「あ、ただいま。あの、シゲルが……」
静一が言い終わる前に、静子の視線が、シゲルに向いた。
「あら、しげるちゃん。久しぶりね」
静子は、にっこりと笑った。
「お、おばさん。お久しぶりです」
シゲルが、玄関の上がり框の前で、一歩、後ろに下がった。
笑顔のままだった。
でも、静一には、その一歩が、ものすごく大きな距離に見えた。
「まあ、大きくなって。中に入って。今、お茶を入れるわね」
静子は、そう言って、台所の方へ消えていった。
「……入ろう」
静一は、シゲルを促した。
シゲルは、無言でうなずいて、靴を脱いだ。
静一の部屋で、二人はしばらく、ゲームをしたり、シゲルの持ってきたラジオを聞いたりして過ごした。
でも、シゲルは、さっきまでの教室での明るさが嘘みたいに、静かだった。
「やっぱ、おばさん、すげぇ笑うな」
シゲルが、ぽつりと言った。
「……うん」
静一は、それしか言えなかった。
しばらくして、シゲルが帰った。
「じゃあな、せーいち。また明日」
「うん。また明日」
玄関で、シゲルを見送る。
シゲルの背中が、夕暮れの道に消えていくまで、静一は立っていた。
「静一」
後ろから、静子の声がした。
振り返る。
静子が、にこにこと笑って立っていた。
「しげるちゃん、帰ったの?」
「うん」
「そう。……ねえ、静一」
静子は、静一の目をじっと見た。
「シゲルちゃんとは、これからは遊ばないでね」
静一の体が、固まった。
「……え?」
「ママ、あの子、ちょっと苦手なの」
静子は、まるで天気の話をするように、笑った。
「だから、これからは遊ばないでね。約束よ」
静一は、うつむいた。
「どうして」
その言葉が、喉まで出かかった。
でも、出てこない。
「わかったわね、静一」
静子は、静一の頭を、そっと撫でた。
静一は、こくりと、うなずくしかなかった。
翌日。
昼休み、しおりが静一の席に来た。
「ねえねえ、長部くん! ちょっと来て!」
「え? どこに?」
「いいから! シゲルくんも!」
しおりは、静一とシゲルの腕を引っ張って、教室を出た。
連れて行かれたのは、体育館の裏手にある、小さな空き地だった。
校舎とフェンスに囲まれた、日当たりの悪い、誰も来ない場所。
「ここ、前から気になってたんだよね」
しおりは、空き地の真ん中で、くるりと一回転した。
ポニーテールが、ふわりと揺れる。
「この場所、なんか、もったいないじゃない? 雑草ぼうぼうで」
「たしかに。で、どうすんの?」
「ここに、花壇を作らない!?」
しおりの目が、きらきらと輝いている。
「花壇!?」
「うん! 三人で、お花を植えるの! 素敵じゃない!?」
「いいじゃん! やろうぜ、せーいち!」
シゲルが、静一の肩を叩いた。
「え、でも……」
静一の頭に、静子の言葉がよぎる。
——シゲルちゃんとは、これからは遊ばないでね。
——あの女の子と、シゲルと、これからは遊ばないでね。
「でも、放課後、僕……」
「大丈夫だよ! ちょっとだけだから!」
しおりが、静一の顔を覗き込む。
「長部くん、最近、元気なかったでしょ? だから、一緒に楽しいことしたかったの」
しおりの無邪気な笑顔。
シゲルの、いたずらっぽいけど、どこか真剣な瞳。
「……うん。やる」
静一は、小さく、でも、はっきりと、そう言った。
「やったー!」
「よっしゃ! じゃあ、放課後、ここ集合な!」
放課後。
三人は、裏庭に集まった。
しおりが、どこからか小さなスコップと、花の苗を数株、持ってきていた。
「これはね、マリーゴールド! こっちはペチュニア! 丈夫で育てやすいんだって!」
しおりが、苗を一つずつ、自慢げに見せる。
「へえ、詳しいじゃん」
「お花屋さんで、おじさんに聞いたの! 初心者でも大丈夫なやつを選んでもらったんだ!」
「よし、じゃあ、まずは土を掘るぞ!」
シゲルが、スコップを手に取った。
「せーいち、お前もやれよ!」
シゲルが、もう一つのスコップを、静一に投げて寄越した。
静一は、慌てて受け取る。
「え、あ、うん」
三人で、土を掘り始めた。
固い土。石ころ。雑草の根っこ。
「うわ、根がすごい!」
「しおり、顔に泥ついてるぞ!」
「え!? どこどこ!?」
「ほっぺ! 右!」
「きゃー! 長部くん、取って!」
「え、えっと……」
静一は、おそるおそる、しおりの頬に手を伸ばした。
指先が、しおりの柔らかい頬に触れる。
「あ、ありがと」
しおりが、少し照れたように笑った。
静一の胸の奥が、くすぐったくなる。
(あれ?)
(なんか、変な感じ)
「おーい、せーいち! 手が止まってるぞー!」
「わっ! ご、ごめん!」
静一は、慌てて土を掘り始めた。
土を掘る。苗を植える。水をやる。
ただそれだけの作業が、不思議なくらい、楽しかった。
(これが、自由ってやつなのかな)
静一は、心の中で思った。
母の決めた予定表の外側にある時間。
誰にも何も言われず、自分で考えて、自分で動く時間。
生まれて初めての感覚だった。
「長部くん、そういう顔、するんだ」
しおりが、静一の横顔を見ながら、ぽつりと言った。
「え?」
「なんか、すごくいい顔してる」
しおりの大きな瞳が、静一をまっすぐ見つめている。
静一は、どきりとした。
「せーいち、いい笑顔じゃん!」
シゲルが、後ろから静一の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「や、やめてよ」
静一は、照れながら、シゲルの手を振り払った。
(笑顔、してたのかな)
(僕が)
静一は、自分の顔を触ってみた。
口元が、ほんの少し、緩んでいた。
それから数日。
三人は、放課後になるたびに、裏庭に集まった。
雑草を抜き、土を耕し、苗を植え、水をやる。
少しずつ、花壇らしくなっていく。
静一は、母に内緒で、放課後に残っていた。
(バレたら、どうしよう)
毎日、家に帰るたびに、胸が痛んだ。
でも、裏庭での時間は、その痛みを忘れさせてくれるくらい、温かかった。
ある日の放課後。
三人が、花壇に水をやっていると。
「静一」
聞き覚えのある声がした。
静一の体が、石になったように固まった。
ゆっくりと、顔を上げる。
校舎の角から、静子が、にこにこと笑いながら近づいてくる。
「静一、何してるの?」
優しい声。
でも、静一には、それが氷のように冷たく感じられた。
「あ、長部くんのママだ」
しおりが、無邪気に言った。
「こんにちは。いつも静一がお世話になってます」
静子は、しおりとシゲルに向かって、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは! 長部くんのママ、優しそうだね!」
しおりが、笑顔で言った。
「あら、ありがとう。……あなたが、しげるちゃんね。久しぶり」
静子の視線が、シゲルに向く。
「……どうも」
シゲルは、無言で、静子を見返した。
静子の目は、笑っていなかった。
二人の顔を、値踏みするように、ゆっくりと動く。
「いつも静一と仲良くしてくれてありがとう」
静子は、もう一度、にっこりと笑った。
でも、その目は、やっぱり笑っていない。
「でも、静一は、もう帰らなくちゃ。……静一、そろそろ帰りましょうね」
静子は、静一の手を取った。
細くて、冷たい手だった。
「あ、うん……」
静一は、しおりとシゲルに、「また明日」と言うことができなかった。
ただ、母に手を引かれて、裏庭を後にするしかなかった。
振り返ると、しおりが、心配そうな顔でこちらを見ていた。
シゲルは、何も言わずに、じっと静子の背中を見つめていた。
その夜。
居間で、静子は静一に言った。
「静一、あの女の子と、シゲルちゃんと、これからは遊ばないでね」
静子の声は、静かだった。
「……どうして?」
静一は、聞いた。
聞いてしまった。
静子は、静一を見た。
「だって、ママがさびしいじゃない」
静子は、静かに微笑んだ。
それは、怒りでも悲しみでもない、ただ静かな微笑みだった。
静一の背中に、いままで感じたことのない圧力が、のしかかる。
「静一が、ママの知らないところで、他の子と遊んでるなんて、ママ、さびしくて、さびしくて、どうにかなっちゃいそうよ」
静子の手が、静一の手に、そっと重ねられた。
「だから、お願い。ママのそばにいて」
静一は、喉の奥が、ひりひりした。
「でも、花壇……」
言いかけて、飲み込んだ。
「花壇? 何のこと?」
静子が、首をかしげる。
「……なんでもない」
静一は、うつむいた。
「そう。ならいいのよ。……今日はもう、お部屋に行って、休みなさい」
静子は、静一の頭を撫でた。
静一は、逃げるように、自分の部屋へ向かった。
部屋のドアを閉めて、布団に潜り込む。
(どうして)
(どうして、いつも、こうなんだろう)
シゲルの言葉が、頭の中で繰り返される。
——あの笑顔、怖くねぇの?
(怖い)
(僕は、ママの笑顔が、怖いのかもしれない)
静一は、生まれて初めて、自分の母の笑顔を、怖いと思った。
翌朝。
教室に入ると、しおりとシゲルが、静一を待っていた。
「長部くん、おはよう! 今日も花壇やる?」
しおりが、無邪気に聞く。
シゲルは、静一の顔を見て、何も言わずに、待っている。
静一の頭の中に、母の声が響く。
——遊ばないでね。
そして、裏庭での、三人の笑い声。
土の感触。
しおりの笑顔。
シゲルの声。
(僕は、どうしたいんだろう)
静一は、自分自身に問いかけた。
「……やる」
静一は、小さく、でも、はっきりと、そう答えた。
「やったー! じゃあ、放課後、裏庭集合ね!」
しおりが、嬉しそうに笑った。
「……そうか」
シゲルは、静一の肩を、ぽんと叩いた。
「無理すんなよ、せーいち」
シゲルが、静一にだけ聞こえる声で言った。
静一は、うなずいた。
放課後。
三人は、裏庭へ向かおうと、廊下を歩いていた。
「今日は、水やりの当番、私がやるね!」
「お前、昨日、水やりすぎて、苗が溺れかけてたじゃん!」
「うっ……あれは、加減がわからなかっただけで……」
「まあ、今日は俺がやるから、お前は見てろって!」
「なによー! 私だって、ちゃんとできるもん!」
二人の楽しそうな声。
静一の口元も、自然と緩む。
(今日も、花壇ができる)
(それだけで、こんなに嬉しい)
そのときだった。
校門の方を見た静一の足が、ぴたりと止まった。
「……長部くん?」
しおりが、不思議そうに振り返る。
「せーいち?」
シゲルも、足を止めた。
静一の視線の先。
校門のところに、静子が立っていた。
にこにこと、静一を見つめている。
「静一、おかえりなさい。迎えに来たわ」
静子の声が、静一の耳に、はっきりと届いた。
静一の体が、金縛りにあったように動かなくなる。
(ママが、いる)
(なんで、ここに)
静子の笑顔が、静一の選ぶという小さな勇気に、静かに影を落とす。
「……長部くん、ママ、迎えに来てくれたんだ。優しいね」
しおりが、無邪気に言った。
その言葉が、静一の胸に、ちくりと刺さる。
「せーいち、行くなよ」
シゲルが、静一の腕を、そっと掴んだ。
静一は、シゲルの手を見た。
それから、校門の母を見た。
「……ごめん」
静一は、シゲルの手を、そっと振りほどいた。
「せーいち!」
シゲルの声が、後ろから追いかけてくる。
でも、静一は、振り返らなかった。
振り返れなかった。
静子の笑顔が、近づいてくる。
「静一、帰りましょう」
静子が、静一の手を取った。
冷たい手。
静一は、その手を振り払うことができずに、ただ、母に引かれるまま、校門を出た。
裏庭の花壇は、今日も、水を待っている。
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