血の学園ライフ〜毒親ママと秘密のカレシ〜
母に支配された息子と、彼を溺愛する毒親ママ。毎朝髪を整えられ、弁当を持たされ、連絡帳の予定まで消される日々。自由のない学園生活に息苦しさを感じながらも、母の笑顔を裏切れない静一。そんな彼の日常が、ある日を境に音を立てて崩れ始める——。秘密のカレシとの出会いが、静一の運命を大きく変えていくラブコメディ。
血の学園ライフ〜毒親ママと秘密のカレシ〜 - 公開処刑のおやつ
昼休みの教室は、窓から差し込む六月の光で明るかった。
長部静一は自分の席で、母の作った弁当箱を開けようとしていた。水色の布をほどく。中には卵焼き、ミニトマト、タコさんウインナー、ほうれん草のおひたし。全部、静一の好きなものばかり。静子は毎朝、静一が残さず食べられるようにと、少しずつ味見をしながら作っている。
(今日も、ママの味だ)
静一は箸を手に取った。そのときだった。
「ねえねえ、長部くん!」
明るい声が、教室のざわめきを割って飛び込んできた。
顔を上げる。そこにいたのは、栗色のポニーテールを揺らした少女だった。動くたびに髪が跳ねる。大きなまん丸の茶色い瞳が、静一をまっすぐ見つめている。笑うとできるえくぼが、今は少し緊張したように消えたり現れたりしていた。小さな花のヘアピンが、窓からの光を反射してきらりと光る。
水野しおり。同じクラスの、明るくて元気な女の子。静一とは入学してからずっと同じクラスだった。
「あ、うん。水野さん」
静一は箸を置いて、彼女の方を向いた。
しおりは静一の机の前に立つと、両手を後ろで組んで、少しだけ前かがみになった。ポニーテールが肩の上で跳ねる。
「あのね、聞きたいことがあるの」
「なに?」
しおりは一瞬だけ下を向いて、それから顔を上げた。頬が、ほんのり赤い。
「週末、映画を見に行かない?」
静一の指が、制服の袖口を無意識にいじった。
「映画……?」
「うん! 桐生ヶ丘駅前のシネマで、今、面白そうなのやってるんだよ。ずっと気になってて」
桐生ヶ丘シネマ。駅前の再開発でできた、五つのスクリーンを持つ映画館だ。中学生には少しおしゃれな場所で、休日はカップルや家族連れで賑わっている。
「それでね、もしよかったら、一緒にどうかなって」
しおりの声は、いつもより少しだけ小さい。でも、その目は静一から逸らされない。
静一の頭の中に、母の顔が浮かんだ。
——帰りはまっすぐ帰ってくるのよ。寄り道はだめ。
——ママがさびしいじゃない。
にこにこ笑っている静子の顔。優しい声。でも、その目は笑っていない。
(だめだ。断らないと)
静一は口を開きかけた。
「ごめん、僕、ちょっと——」
「あ、もしかして予定ある? じゃあ日曜でもいいんだけど」
しおりが、少しだけ早口で言った。
「そうじゃなくて……」
「じゃあ、なに? 映画、嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ決まりだね!」
しおりがぱっと笑った。えくぼがくっきり浮かぶ。ポニーテールが、まるで喜んでいるみたいに揺れた。
静一は、断る言葉を探した。でも、しおりの笑顔が眩しくて、頭の中が真っ白になる。
「……うん。行く」
自分の声が、教室の空気に溶けていった。
言ってしまった。
静一は、自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いていた。
(僕が、行くって言った)
胸の奥が、じわりと温かくなる。心臓が、いつもより少し速く動いている。
「ほんと!? やったあ!」
しおりは両手を合わせて、飛び跳ねるように喜んだ。
「何時がいいかな? 土曜日の午後とか、どう?」
「うん、いいよ」
「じゃあ、また明日、詳しく決めようね!」
しおりはそう言って、自分の席へ戻っていった。スキップしそうなほど軽い足取りだった。
静一は、まだ胸がどきどきしているのを感じながら、弁当箱をもう一度開けた。
(映画か……)
(僕、映画館なんて、何年ぶりだろう)
静子と一緒に、幼い頃に一度行ったきりだ。
(ママに、どう話そう)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の温かさが少しだけ冷えた。
でも、しおりの笑顔を思い出すと、不思議と大丈夫な気がした。
(ちゃんと話せば、わかってくれる)
静一は、卵焼きを口に入れた。甘い。静子の味。
(ママは、優しいから)
そう思うことにした。
放課後。
チャイムが鳴って、教室が一斉に騒がしくなる。
静一が鞄に教科書を詰めていると、後ろから声がした。
「長部くん、一緒に帰らない?」
振り返ると、しおりが鞄を抱えて立っていた。
「うん、いいよ」
静一は、母の「まっすぐ帰ってくるのよ」という言葉を頭の片隅で再生しながら、しおりと並んで教室を出た。
校門までの道を、二人で歩く。
夕方の光が、校舎の壁をオレンジ色に染めていた。中庭の木々が風に揺れて、葉っぱがさらさらと音を立てる。
「長部くんってさ、いつも一人で帰ってるよね」
しおりが、静一の顔を覗き込むように言った。
「うん。家が近いから」
「そうなんだ。私、駅の向こう側だから、ちょっと遠いの」
しおりは、歩きながら時々スキップするように跳ねた。ポニーテールが、そのたびに左右に揺れる。
「あのね、長部くん」
「なに?」
しおりは少しだけ歩くスピードを落とした。
「私ね、小学四年のとき、この辺りに引っ越してきたの」
「そうなんだ」
「転校初日って、すごく緊張するじゃない? 教室のどこに座ればいいかもわかんなくて」
しおりは、遠くを見るように校門の方を眺めた。
「その日、私、窓際で一人でいたの。誰も話しかけてくれなくて、ずっと下向いてて」
静一は、しおりの横顔を見た。いつも明るい彼女が、少しだけ遠い目をしている。
「そしたらね、男の子が来て、『一緒に帰らない?』って言ってくれたの」
しおりが、静一の方を向いた。
「それ、長部くんだったんだよ」
静一は、足を止めた。
「……え?」
「覚えてない?」
静一は、必死に記憶を探った。
小学四年の頃。転校生。窓際。
(……ごめん、思い出せない)
「ごめん、僕、あんまり覚えてなくて」
静一が正直に言うと、しおりは少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか。でも、私にとってはすごく大事な思い出なの」
しおりは、花のヘアピンに手を触れた。
「あのときから、長部くんのこと、ずっと見てたんだ」
静一の顔が、かっと熱くなった。
「ずっと……?」
「うん。長部くんって、いつも優しいから。誰にでも、大丈夫って笑うでしょ。そういうところ、すごいなって思ってた」
しおりの言葉が、静一の胸に染み込んでいく。
(僕、そんなふうに見られてたんだ)
恥ずかしいような、嬉しいような、くすぐったいような気持ち。
「……ありがとう」
静一は、それだけ言うのが精一杯だった。
校門に着いた。
「じゃあ、また明日ね!」
しおりは大きく手を振った。夕日を背にした彼女の笑顔は、絵に描いたみたいに明るかった。
「うん、また明日」
静一も小さく手を振り返した。
しおりが、駅の方へ歩いていく。ポニーテールが、だんだん小さくなっていく。
静一は、しばらくその背中を見ていた。
(映画、楽しみだな)
心の中に、ふわふわした温かいものが広がる。
(ちゃんと、ママに話そう)
静一は、家へ向かって歩き出した。
長部家に着くと、玄関の鍵を開けた。
「おかえりなさい、静一」
静子が、いつものように玄関で待っていた。
「ただいま」
静一は靴を脱いで、居間へ向かう。
静子は、静一の後ろをついてきた。手入れの行き届いた黒髪が、肩の上でさらりと揺れる。切れ長の黒い瞳が、静一の背中を見つめている。
「今日は、学校で何かあった?」
静子が、優しい声で聞いた。
静一は、鞄を置きながら答えた。
「うん。あのね、ママ」
「なあに?」
「週末、友達と映画に行く約束をしたんだ」
静一は、なるべく普通に、さらっと言った。
静子は、一瞬だけ、目を細めた。
ほんの一瞬。
でも、静一には、その一瞬がやけに長く感じられた。
「あら、そうなの」
静子は、にこやかに笑った。
「どのお友達?」
「クラスの、水野さんっていう子」
「女の子?」
静子の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「うん。映画、一緒に見に行かないかって誘われて」
「そう。よかったわね、静一」
静子は、静一の頭をそっと撫でた。
「ママ、静一に友達ができて、嬉しいわ」
その手は、いつもと同じように温かかった。
でも、静一は、その温かさに少しだけ違和感を覚えた。
(ママ、笑ってる)
(怒ってない)
(よかった)
静一は、自分にそう言い聞かせた。
夕食の後。
静一は自分の部屋で宿題をしていた。
一階から、静子の声がかすかに聞こえる。
電話だ。
静一は、特に気にせず、ノートにペンを走らせていた。
でも、その声が、だんだん耳に入ってくる。
「ええ、そうなんです。うちの子、最近友達ができたみたいで」
ペンが止まった。
「映画に誘われたんですって。女の子に。水野さんっていう、クラスの子なんですけど」
静一の背中が、すっと冷たくなった。
(なんで)
(なんでママ、水野さんの名前を知ってるの)
静一は、今日、静子に「水野さん」としか言っていない。
なのに、静子は電話の相手に、まるで前から知っていたかのように、その名前を話している。
「ええ、かわいい子らしいわ。でも、まだ早いと思うの。静一は、ママがちゃんと見てあげないと」
静子の声は、いつものように柔らかく、優しい。
でも、その内容は、静一の胸をぎゅっと締めつけた。
(誰と話してるの)
(どうして、そんなことまで知ってるの)
静一は、ペンを置いた。
手が、少し震えている。
「ふふ、そうでしょう? 男の子は、放っておくとすぐ悪い子に引っ張られちゃうから」
静子の笑い声が、階段を上がって、静一の部屋まで届いた。
静一は、耳を塞ぎたくなった。
(やめて)
(ママ、やめてよ)
でも、声は出せない。
静一は、ノートに視線を落とした。文字が、ぼやけて見える。
その夜、静一は布団に入っても眠れなかった。
(ママは、どこまで知ってるんだろう)
(僕の予定、友達、全部)
天井を見つめる。
(連絡帳を消したときと同じだ)
(ママは、僕のことを全部、知ってる)
静一は、布団を頭までかぶった。
(こわい)
心の中で、小さく呟いた。
翌朝。
「静一、準備はできた?」
静子が、いつもより早く、玄関に立っていた。
「え? うん。できたけど」
「今日から、ママも一緒に学校に行くわ」
静子は、にこにこ笑いながら言った。
「え……なんで?」
「静一が心配だからよ。最近、物騒でしょう? 女の子に誘われて、浮かれて変なところに行ったら大変だもの」
静子の口調は、まるで天気の話でもするかのように軽やかだった。
「でも、学校まで一人で行けるよ」
静一は、小さく抵抗した。
「ダメよ。ママが送っていくの。静一は、ママの言うことを聞いてくれないの?」
静子の笑顔が、すっと消えた。
声は、静かになった。
静一は、息を呑んだ。
「……うん。わかった」
静一は、うつむいた。
「いい子ね。さあ、行きましょう」
静子は、再び笑顔になって、静一の手を取った。
校門までの道。
静子は、静一の隣を歩いた。
手は、つないでいない。でも、静子の気配が、ずっと静一のすぐ横にある。
「今日は、何時間目まで授業?」
「六時間」
「そう。じゃあ、帰りも迎えに来るわね」
「……うん」
静一は、下を向いて歩いた。
(みんな、見てる)
(中学生にもなって、ママと登校)
(恥ずかしい)
顔から火が出そうだった。
校門に着くと、何人かのクラスメイトが、静一と静子をちらちら見ていた。
「じゃあ、行ってらっしゃい、静一」
静子は、静一の髪を整え、制服の襟を直した。
「行ってきます」
静一は、逃げるように校門をくぐった。
昼休み。
静一が弁当を食べていると、教室の入り口がざわついた。
「ねえ、あれ、誰のお母さん?」
「長部くんのママだって」
静一は、心臓が縮むのを感じた。
顔を上げる。
教室の入り口に、静子が立っていた。
手には、小さな紙袋。
「静一、おやつにしましょう」
静子は、教室の中に向かって、にこやかに手を振った。
クラスメイトの視線が、一斉に静一に集まる。
(やめて)
(お願いだから、やめて)
静一は、心の中で叫んだ。
でも、体は勝手に動いていた。
「……ママ」
静一は、笑顔を作って、静子のところへ歩いていった。
「今日は、クッキーを焼いたの。それと、ゼリーも。静一の好きな、ぶどう味よ」
静子は、紙袋から小さなタッパーを取り出した。
「あ、ありがとう」
静一は、タッパーを受け取った。
「お友達にも、分けてあげてね。みんな、静一と仲良くしてくれてる?」
静子は、教室の中を見渡した。
その視線が、しおりの席で一瞬止まった。
「あら、あの子が水野さんかしら。かわいい子ね」
静一の背中に、冷たい汗が流れた。
「ママ、もういいでしょ。授業始まるし」
静一は、静子の腕を軽く引いた。
「そうね。じゃあ、帰りに迎えに来るから。待っててね」
静子は、静一の頭を撫でて、教室を出ていった。
静一は、タッパーを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
「長部くんのママ、すごく優しそうだね!」
しおりが、ぱたぱたと静一のところへ駆け寄ってきた。
「おやつまで持ってきてくれるなんて、すごい! いいなあ」
しおりの目は、キラキラと輝いている。
「……うん」
静一は、笑った。
「長部くんのママ、毎日来るの?」
「わかんない」
「そっかあ。でも、優しいママでよかったね!」
しおりは、無邪気に笑った。
静一は、その笑顔を見ながら、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
(しおりさんは、何も知らない)
(ママが、本当はどんな人か)
静一は、タッパーを開けた。
中には、星形のクッキーがきれいに並んでいる。
「わあ、かわいい! 私も食べていい?」
「うん、どうぞ」
しおりは、星形のクッキーを一つ手に取った。
「おいしい! 長部くんのママ、お菓子作りも上手なんだね!」
「うん、上手だよ」
静一は、クッキーを口に入れた。
甘い。静子の味。
(おいしい)
(おいしいのに、なんで)
(なんで、こんなに苦しいんだろう)
静一は、ゆっくりとクッキーを噛みしめた。
放課後。
静一が校門を出ると、静子が立っていた。
「おかえりなさい、静一」
にこにこ笑っている。
「……ただいま」
静一は、静子の隣に並んだ。
「今日は、どんな一日だった?」
「普通」
「水野さんと、お話しした?」
静子の声が、少しだけ弾んでいる。
「……少しだけ」
「そう。あの子、明るくていい子そうね。でも、静一にはまだ早いわ」
静子は、静一の手を握った。
「静一は、ママが守ってあげるから」
静一は、何も言えなかった。
翌日。
また、静子は静一を学校まで送った。
昼休みには、またおやつを持って現れた。
「静一、今日はプリンよ」
クラスメイトの視線。
「長部って、マザコンなの?」
誰かが、ひそひそと言った。
静一は、聞こえないふりをした。
(違う)
(僕は、マザコンなんかじゃない)
でも、言い返せない。
しおりが、また静一のところへ来た。
「長部くん、映画、楽しみだね! 何時にする?」
しおりの笑顔は、今日も明るい。
「えっと……」
静一は、答えようとした。
そのとき、頭の中で、静子の声が再生された。
——週末は、家の手伝いがあるのよ。
昨日の夜、静子が言っていた。
「……ごめん、まだわかんない」
静一は、うつむいた。
「そっか。じゃあ、決まったら教えてね!」
しおりは、少し首をかしげた。
「長部くん、大丈夫?」
「え? 大丈夫だよ」
静一は、笑った。
でも、その笑顔は、自分でもわかるくらい、ぎこちなかった。
「……うん。ならいいんだけど」
しおりは、少しだけ眉をひそめた。
(ごめん)
(僕、うそついてる)
静一は、心の中で謝った。
その夜。
静一は、自分の部屋で、スマホを見つめていた。
いや、見つめていたのは、スマホのなかった場所だ。
静一のスマホは、今、静子に預けられている。
「夜は、スマホを見ないで寝なさい。体に悪いわ」
そう言われて、取り上げられた。
(しおりさんに、連絡できない)
(映画の時間、どうやって伝えればいいんだろう)
静一は、枕に顔を埋めた。
(ママに、もう一度聞くしかない)
(でも、ママは、行かせてくれないかもしれない)
静一の頭の中で、二つの笑顔が重なる。
にこにこ笑う静子の顔。
キラキラ笑うしおりの顔。
(どっちの大丈夫が、本物なんだろう)
静一は、自分が言った「大丈夫」を思い出した。
しおりに言った「大丈夫」。
静子に言う「大丈夫」。
(僕の大丈夫は、どっちも、うそかもしれない)
静一は、ぎゅっと目を閉じた。
そのとき。
ドアの外に、気配がした。
足音が、静一の部屋の前で止まる。
ノックはない。
声もない。
ただ、立っている。
(ママだ)
静一は、布団の中で息を殺した。
一分。二分。
気配は動かない。
静一の心臓が、どくどくと音を立てる。
(お願い)
(入ってこないで)
(お願いだから)
静一は、布団を頭までかぶった。
しばらくして、気配が遠ざかった。
階段を下りる音。
静一は、布団から顔を出した。
(助かった)
でも、安心できなかった。
(映画、どうしよう)
(ママに、なんて言おう)
静一は、窓の外を見た。
月明かりが、静かに部屋を照らしている。
(しおりさん、待ってるのに)
静一は、静子の笑顔を思い浮かべた。
(ママは、きっと、だめって言う)
(笑顔で、優しく、でも、絶対に)
静一は、枕に顔を埋めた。
(どうすればいいんだ)
答えは、出なかった。
窓の外で、風が木々を揺らす音がする。
遠くで、電車の走る音。
静一は、眠りにつくまで、ずっとその音を聞いていた。
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