男子高校生の日常・真田北スクランブル
真田北高校2年A組、放課後の教室は今日も平和に騒がしい。炭酸が飲めないだけで人類の分岐点を語り出す友人、意味もなく眼鏡をかける親友、そしてツッコミに追われる俺・タダクニ。そんな日常に舞い込んだのは、妹からの一通のメール――「お兄ちゃんの下着、自販機に詰めといたから☆」。校門前の古い自販機に駆けつければ、そこにはなぜか下着を排出する謎の改造自販機と、下顎が突き出た変人・化学部元部長の姿が。次々と転がり出るブリーフ、集まる野次馬、笑いをこらえない友人たち。そして妹は、なぜか生徒会の唐沢さんに相談しているらしく……。下着と自販機と下顎が交錯する、男子高校生のシュールで騒がしい日常コメディ。笑いのあとに、ほんの少し昔の記憶がよぎる――。
男子高校生の日常・真田北スクランブル - 俺の下着が自販機から出てくるんだが
「つまり、炭酸の泡が舌の上で弾ける感覚が、どうしても虫が這ってるみたいに感じるんだよ」
真田北高校、2年A組の教室。放課後の空気は、窓から差し込む西日でオレンジ色に染まっていた。黒髪を軽く流したタダクニは、手元でペンをくるくると回しながら、半ば諦めたような顔で前の席に座る金髪の友人を見つめていた。
「お前、その話、もう五回は聞いたぞ」
「五回どころじゃないよ。俺、七回は聞いた」
茶髪で眼鏡をかけたヒデノリが、笑いながら窓枠に寄りかかる。視力は2.0のはずなのに、なぜかいつも眼鏡をかけている男だ。
「でもよ、炭酸が飲めないってのは人生の半分を損してるって話だろ? コーラもサイダーも飲めないんだぜ?」
金髪を逆立てたヨシタケが、大げさに両手を広げて立ち上がる。身長178センチの体が、夕日に照らされて妙に大きく見えた。
「別に、炭酸飲めなくても死なないだろ」
「死なないけど、シュールだよな。炭酸が飲めないってだけで、人生の選択肢が狭まるんだぜ」
「いや、狭まらないから」
タダクニはペンを指に挟んだまま、小さくため息をついた。このやりとり、放課後になるといつものことだ。ヨシタケが妙な理屈をこねて、ヒデノリがそれに乗って、自分がツッコむ。真田北高校の2年A組では、この光景が日常だった。
「なあ、タダクニ。お前は炭酸飲める派だよな?」
ヒデノリが眼鏡の奥の明るい茶色の目をこちらに向ける。身長175センチ、少し跳ねた茶髪が西日に透けて、輪郭がぼやけて見えた。
「飲めるけど、それが何か」
「ほら、タダクニは飲める! なのにヨシタケは飲めない! ここに人類の進化の分岐点があると思わないか?」
「思わない」
「俺は思うね。炭酸を飲めるかどうかで、人類は二つに分かれるんだよ。炭酸派と非炭酸派。そして、その二派は永遠に分かり合えない」
「お前、今、適当に言っただろ」
「適当じゃない。これは真面目な考察だ」
ヒデノリは真面目な顔でそう言った。こういう時のこいつは、本当に何を考えているのか分からない。タダクニはペンを一回転させて、机の上に置いた。
その時、ポケットの中で携帯が震えた。
「ん?」
画面を開くと、差出人は妹だった。普段、月に一度会話するかしないかの妹から、メールが来るなんて珍しい。嫌な予感がした。
本文を開く。
『お兄ちゃんの下着、自販機に詰めといたから。引き取りに来てね☆』
タダクニは固まった。
顔から血の気が引いていくのが分かる。手が震える。いや、待て。これは何かの間違いだ。そうに決まってる。妹が俺の下着を自販機に詰める理由なんて、どこにもない。
「どうしたの? 顔色悪いよ?」
ヒデノリが不思議そうに覗き込んでくる。タダクニは慌てて携帯を伏せた。
「い、いや、なんでもない」
「シュールだな、そのメール」
タダクニは心臓が止まるかと思った。
「お前、いつの間に後ろに!」
「いや、さっきからいたけど」
ヨシタケはタダクニの肩越しに、伏せた携帯を覗き込むような格好のまま、にやにやと笑っていた。
「なになに? 妹ちゃんから? なんて書いてあったの?」
ヒデノリが身を乗り出す。タダクニは携帯を胸に抱え込むようにして、二人から距離を取った。
「なんでもない! 本当になんでもないから!」
「その反応、絶対なんでもなくない」
「お兄ちゃんの下着、自販機に詰めといたから、だってよ」
「お前、声に出すな!」
タダクニは叫んだ。もう手遅れだった。
ヒデノリが一瞬、きょとんとした顔をして、それから腹を抱えて笑い始めた。
「ちょっと待って! 下着!? 自販機!? 何それ!?」
「いや、これはもう芸術だろ。妹ちゃんのセンス、天才的すぎる」
「黙れ! お前ら、笑い事じゃない!」
タダクニは立ち上がった。頭の中が真っ白になる。下着。自販機。校門前。今、この瞬間にも、あの古い自販機から俺のブリーフが排出されている可能性がある。
「行くぞ!」
「どこに?」
「校門前だ!」
タダクニは教室を飛び出した。廊下を走る。階段を駆け下りる。後ろからヒデノリとヨシタケが追いかけてくる。
「待ってって! 俺たちも行くから!」
「これは見逃せないイベントだろ!」
「来るな! 来るなって!」
タダクニは叫びながら、昇降口を抜けて校門へと走った。
真田北高校は、真田市の北部にある県立の男子校だ。全校生徒は約720人。校舎は築38年の3階建てで、校門の前には昭和の時代から使われている古い自販機が一台だけ設置されている。地域に愛される真面目な校風で、ゴミ拾いのボランティアなんかも行事に組み込まれているが、たまに「70時間断食」みたいな意味不明な行事もある、そんな学校だ。
そして、その古い自販機の前に、人影があった。
「なんだ、あれ」
タダクニは足を止めた。自販機の前で、制服姿の男子が何やらごそごそとやっている。背は低く、何より特徴的なのは、その下顎だった。
下顎が、突き出ている。
言葉にするとそれだけなのだが、実際に見ると、その存在感は圧倒的だった。彼の輪郭は、まるで三日月のように、顎の部分だけが前にせり出している。
「下顎野郎……」
化学部の元部長。自販機を改造して、押したボタンと違う飲み物が出る確率を操作する研究をしているという、噂の変人。
「おお、いいところに来た」
下顎野郎が振り返り、タダクニを見て嬉しそうに言った。
「今から人類の確率認識を揺るがす実験をするところだ」
「は?」
「見ていてくれ。この自販機は、私の手によって、すでにただの自販機ではない」
下顎野郎は真顔でそう言うと、自販機のコーラのボタンを押した。ガコン、という音がして、取り出し口から缶が落ちてくる。
下顎野郎はその缶を、まるで宝物のように両手で掲げた。
「見よ。押したのはコーラ。しかし、出てきたのは……」
缶のラベルには、オレンジジュースと書かれていた。
「オレンジジュースだ! どうだ、素晴らしいだろう!」
下顎野郎は誇らしげに胸を張った。その突き出た下顎が、夕日に照らされて一層強調される。
「いや、素晴らしくない。全然素晴らしくない」
「なぜだ! これは確率操作の研究において、極めて重要な一歩なんだぞ!」
「そうじゃなくて、俺の下着が出てくるんだけど」
「何?」
下顎野郎が首を傾げた。その時、自販機の取り出し口から、するすると布が押し出されてきた。水色のチェック柄。見覚えのある、いや、見間違えるはずもない、タダクニのブリーフだった。
「な、なんだこれは」
下顎野郎が自販機の内部を覗き込む。しかし、それよりも早く、取り出し口から二枚目、三枚目と、次々に下着が排出されていく。
「ちょっと待て! なんでこんなに入ってるんだ!」
タダクニは慌てて下着を回収しようとした。しかし、自販機の取り出し口は小さく、下着はするすると滑り落ちて地面に広がっていく。
「タダクニ、これってまさか……」
いつの間にか追いついてきたヒデノリが、笑いをこらえながら言った。
「シュールだな……いや、これはもはや芸術だ」
ヨシタケが意味不明なことを言いながら、地面に落ちた下着を眺めている。
「違う! 妹が勝手にやったんだ!」
「いやいや、妹ちゃんに罪をなすりつけるのは良くないよ」
「本当なんだって! メール見せただろ!」
「あれはメールの内容を読んだだけだから。実際にやったのはタダクニかもしれないじゃん」
「なんで俺が自分の下着を自販機に詰めるんだよ!」
タダクニの叫びが、放課後の校庭に響き渡った。
通りかかった生徒たちが、何事かと集まってくる。
「なにあれ」「下着が落ちてる」「あれ、タダクニのじゃね?」「マジかよ」「何してるんだあいつ」
ひそひそと、しかしはっきりと聞こえる声。タダクニは顔から火が出る思いだった。
「ふむ、これは予想外の結果だが、確率操作の研究としては興味深いデータだ」
下顎野郎は真面目な顔で、ポケットから取り出したメモ帳に何かを書き込んでいる。
「お前、人の恥をデータにするな!」
「恥ではない。これは貴重なサンプルだ。自販機に下着を投入した場合の排出確率、そして周囲の人間の反応。どちらも私の研究には欠かせない」
「欠かせないわけないだろ!」
タダクニは下着をかき集めながら、心の中で叫んだ。俺の日常、返してくれ。
その時だった。
「あーあ、お兄ちゃん、やっぱり来てたんだ」
聞き覚えのある声。タダクニが振り返ると、そこには妹が立っていた。黒髪を肩のあたりで切りそろえた、小柄な少女。兄と同じ焦げ茶色の目が、じとりとこちらを見つめている。
「お前、何してくれてんだ!」
タダクニは怒鳴った。しかし、妹はまったく動じなかった。
「お兄ちゃんがだらしないからでしょ。下着を放置してるから、こんなことになるのよ」
「放置してない! ちゃんと洗濯かごに入れてた!」
「洗濯かごに入れてたって、洗濯してないじゃない。お母さんがいつも困ってるよ」
「それは……いや、そうだけど……」
タダクニは言葉に詰まった。確かに、洗濯物をため込んでいたのは事実だ。しかし、だからといって自販機に詰める理由にはならない。
「それに、いつも唐沢さんに相談に乗ってもらってるんだから、お兄ちゃんも少しはしっかりしてよ」
「唐沢さん?」
タダクニは眉をひそめた。唐沢さん。生徒会の唐沢としゆき。額に傷があって、いつも帽子を被っている、あの唐沢さん。
「なんで生徒会の唐沢さんが出てくるんだ?」
「別に」
妹はそれだけ言うと、くるりと背を向けて歩き出した。
「おい、待てよ! 説明しろ!」
しかし、妹は振り返らなかった。その背中は、あっという間に校門の向こうへ消えていく。
「タダクニの妹って、昔から行動力あるよな」
ヒデノリが、しみじみとした口調で呟いた。
「お前の言い方、なんか引っかかるんだよな」
タダクニはモヤモヤした表情で、妹が消えた校門の先を見つめた。
夕焼けの教室に戻ったタダクニは、机に突っ伏していた。下着の回収は終わった。しかし、失ったものは大きい。クラスメイトからの視線、校門前での恥辱、そして、妹が唐沢に相談しているという事実。
「でもよ、下顎野郎の自販機改造って、なんかすげえよな」
ヨシタケが窓の外を眺めながら言った。
「確率を操作できるとか、もしかしたら俺たちも何かできるんじゃねえか?」
「だよな! 俺もそう思った! ちょっと配線いじったら面白いことできるかも」
ヒデノリがノリノリで言い出す。
「やめろ、また爆破されるぞ」
タダクニは顔を上げて言った。
「大丈夫だって、今回はちゃんとやるから」
「前回もそう言って、部室が焦げたんだろ」
「あれは想定外の出来事だったんだよ。今回は想定内に収める」
「想定内に収めるって、お前、何を想定してるんだ」
タダクニは深いため息をついた。しかし、ヒデノリとヨシタケは、すでに自販機改造計画で盛り上がっている。こいつらは、本当に懲りない。
その時、携帯が震えた。
また妹からだった。
『お兄ちゃん、今日はごめんね。でも、本当に大事な話があるの。明日、生徒会室に来てくれる?』
タダクニは画面を見つめた。今日はごめんね。でも、本当に大事な話。
あの妹が、謝るなんて。しかも、大事な話。
タダクニは少しだけ、胸がざわつくのを感じた。
「どうしたの?」
ヒデノリが覗き込んでくる。
「いや、なんでもない」
タダクニは携帯を閉じて、夕焼けの空を見上げた。オレンジと紫が混ざり合った空。今日は、本当に色々なことがあった。
放課後、生徒会室の前を通りかかった時のことだ。
「唐沢さん、相談があるんですけど……」
中から、妹の声が聞こえた。タダクニは思わず立ち止まった。
「ああ、構わないよ。どうしたんだい?」
低く、落ち着いた声。唐沢としゆきの声だ。
「実は……」
妹が何かを言いかけた、その時だった。
「タダクニ、何してるの?」
突然、後ろから声をかけられ、タダクニは飛び上がった。
「な、な、な、何でもない!」
タダクニは慌ててその場を離れた。心臓がバクバクと鳴っている。妹が唐沢に何を相談しているのか。気になる。でも、盗み聞きするのは良くない。いや、盗み聞きしてたわけじゃない。たまたま通りかかっただけだ。
「まあ、いっか」
タダクニは自分に言い聞かせた。
しかし、その夜、タダクニは妙な夢を見た。
昔の夢だった。自分がまだ小学生だった頃。公園で、いじめられていたヒデノリを助けた日の夢。
指鉄砲から輪ゴムを飛ばす。パシン、という音。いじめっ子たちが驚いて逃げていく。ヒデノリが、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
お面とマフラー。パッヘルベルのカノンを口ずさみながら、去っていく。
ラバーシューター。
それが、自分だった。
目が覚めた。天井を見つめる。暗い部屋。時計の針は、午前三時を指していた。
「なんで、今……」
タダクニは呟いた。
なぜ今、あの夢を見たのか。分からなかった。
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