悪い子はお仕置き
鈴木陸斗は、秘密の趣味を持つ高校二年生。門限を破った娘を母親がお仕置きする音声記録を密かに聴くのが癖で、叩かれる音と泣き声に心臓が高鳴る。自分はおかしいと思うけれど、やめられない。
ある日の帰り道、陸斗は路地裏で古びたボタンを見つける。押してみると、幼馴染の水無月ひなたが突然現れ、クラスメイトの柊るなのお尻を叩き始めた。パシン! るなが悲鳴を上げ、陸斗の頭は真っ白になる。ボタンには『お仕置き実行ボタン』と書かれていた。
押すたびに、女の子たちが勝手にお仕置きし合う。止められない。でも陸斗は気づく——叩かれている子も、どこか安堵した顔をしていることに。罪悪感と好奇心がぶつかり合う。
一方、校内一厳しい風紀委員長・白河真冬が陸斗をマーク。『校内の風紀の乱れ』を調査し始める。陸斗は必死に隠そうとするが、ボタンの力はお構いなしに暴走していく。
陸斗の秘密を知る謎の少女・柊るなが問い詰める。「そのボタンは危険よ。私に渡しなさい」。るなは、お仕置きされる女の子たちを操れる力のことを知っていた。
陸斗は葛藤する。ボタンを使うたび、誰かが傷つく。でも、涙目の女の子が「許してください」と言いな
悪い子はお仕置き - 月哭堂の地下書庫 —代償の理、七人の盟約—
日曜日の朝は、街の音が少しだけ柔らかい。
鈴木陸斗は、自転車のペダルを踏みながら、何度もポケットの中の固い感触を確かめていた。真鍮のボタン。緑青の吹いた、古いボタン。昨夜、自分の意思と無関係に、あの少女——柊るな——のお尻を打った。その感触が、まだ指先に残っている気がする。いや、違う。あれはボタンがやったことだ。でも、引き金を引いたのは、確かに自分の中の何かだった。
(謝らなきゃ)
常世宿通りに入ると、石畳が自転車のタイヤを軽く跳ねさせた。江戸時代の宿場町の面影を残す旧市街。和菓子屋の御影堂はまだ暖簾を下ろしていて、蕎麦屋の更科からは出汁の匂いが流れてくる。観光客の姿はまだない。日曜の朝の旧市街は、眠っているみたいに静かだった。
月哭堂の前に自転車を停めた。
古書店の看板が、朝の光の中でかすかに揺れている。店先には、虫干し用の古い巻物や和綴じ本が、昨日と同じように並べられていた。陸斗は、入り口の引き戸の前で、三秒だけ立ち止まった。
(もし、るながいなかったら。いや、いたらいたで、なんて言えば)
「……すみません」
引き戸を開けると、古い紙と、線香のような、ほんのり甘い匂いが鼻をくすぐった。
カウンターの向こうで、柊るなが顔を上げた。
腰まで届く黒髪を、今日は一つに結んでいない。ストレートのまま背中に流している。毛先だけが深い紫に染まっていて、朝の光を受けると、そこだけが透き通るように見えた。切れ長の紫色の瞳が、まっすぐに陸斗を捉える。左目の下の小さな泣きぼくろ。白い肌。古い革の文庫カバーを片手に持ったまま、彼女は動かなかった。
一瞬の間。
るなの視線が、陸斗の顔から、ポケットのあたりへ、ゆっくりと落ちた。
「……何しに来たの」
低く、淡々とした声。
陸斗は、のどが渇いていることに気づいた。
「あの、昨日のこと……ごめん。本当に、わざとじゃなかったんだ。ボタンが、勝手に。俺、どうしていいかわからなくて」
語尾が消えた。緊張すると、言葉が続かない。陸斗は自分の声が情けなくて、下を向きそうになるのを、なんとか堪えた。
るなは、しばらく黙っていた。
古書店の中は、時計の音だけが響いている。壁一面の本棚に、古い書物がぎっしり詰まっていて、光の差し込む角度だけ、埃がゆっくりと舞っている。
「自覚が遅いのよ」
るなは言った。でも、その声には、昨日のような鋭さはなかった。
「あなた、あのボタンを持っている限り、そういうことが起きる。わかってたはずよ。それでも、手放さなかった。違う?」
「……違わない」
陸斗は、ポケットの中でボタンを握った。冷たい。今は、冷たい。
「……でも、謝りに来たのね」
るなは、文庫カバーをカウンターに置いた。小さな音が、店の中に吸い込まれていく。
「昨日のあなた、すごく焦ってた。自分のせいだって、本気で思ってる顔をしてた。……あれは、嘘じゃなかったのね」
陸斗は、顔を上げた。
るなが、まっすぐにこちらを見ていた。吸い込まれそうなほど澄んだ紫の瞳。観察するように、でも、少しだけ、温度がある。
「あ、うん……本当に、ごめん」
るなは、小さく息を吐いた。
「……入って。カウンターの前で話すことじゃないわ」
店の奥へ進むと、本棚の裏に、もう一つ扉があった。るなは、首にかけていた細い鎖から、小さな鍵を外した。銀色の、古い鍵。
「ついてきて。絶対に、勝手に触らないで」
扉が開くと、ひんやりとした空気が流れ出してきた。
地下へ続く階段。一段降りるごとに、紙と、土と、古い木の匂いが濃くなっていく。薄暗い。るなが壁の紐を引くと、裸電球がオレンジ色の光を灯した。
そこは、思っていたよりずっと広い空間だった。
天井の低い部屋に、木の棚が何列も並んでいる。棚には、古い巻物や、装丁の崩れた和綴じ本、煤けた箱、積み重ねられた古文書が、所狭しと置かれていた。床は土間で、足元から冷気が這い上がってくる。
「ここが、月哭堂の地下書庫。うちに代々伝わる記録の保管庫よ」
るなは、一番奥の棚の前でしゃがみ込んだ。
「ここに、祖母の遺品があるの。あなたが持っているものについて、知っておくべきことが書かれている」
彼女は、古い木箱から、一冊の手記を取り出した。和紙の表紙。糸で綴じられた、手のひらより少し大きいくらいの本。
畳の上で向かい合って座る。地下書庫の中央に、古い畳が一枚敷かれていた。
るなは、手記を膝の上に置き、ゆっくりと開いた。
「これは、私の祖母、柊千鶴の手記。うちに代々伝わる記録の一部よ。……読む?」
陸斗は、唾を飲み込んだ。
「……読む」
るなの指が、黄ばんだ頁をめくる。墨で書かれた文字。達筆で、ところどころ掠れている。
「慶応三年。一八六七年。常世宿の有力者七名が、ある盟約を結んだの。『常世宿の盟約』。その条文が、ここに写されている」
陸斗は、手記に目を凝らした。
『一、秩序を乱す者には、等価の痛みをもって贖わせるべし』
『一、この理を背負う者は、自らの痛みを以て、街の均衡を守るべし』
『一、盟約の執行装置として、御影山の鉄と、贖いの石の砂、七人の血を以て、真鍮のボタンを鋳造せり』
(真鍮のボタン)
陸斗は、ポケットの中で、ボタンが急に重くなったように感じた。
「お仕置き執行ボタン。あなたが持っているそれは、この盟約の執行装置として、明治の初めに作られたもの。でも、本来は違うの。……本来は、持ち主が、自分自身を罰するための道具だったはずなの」
「自分を、罰する?」
「代償の理は、罰を与える者も、受ける者も、その行為によって浄化されると考える。だから、盟約を結んだ七人は、まず自分たちを罰することで、街の秩序を守ろうとした。ボタンは、そのための装置だった」
陸斗は、手記の文字を、何度も読み返した。
(自分を罰するための道具。なのに、今は、他人を罰している)
「なんで、ボタンが人を罰するんだ。俺が押したわけでもないのに」
るなは、頁をめくった。
「……ボタンは、持ち主の魂と結びついている。押すたびに、持ち主の魂が削られる。だから、代償衆は、ボタンを封印しようとした。これ以上、誰かの魂が削られるのを防ぐために」
「代償衆……って、さっきの盟約を結んだ人たちのこと?」
「そう。江戸時代末期に常世宿の商家や寺社の有力者たちが結成した、秘密の互助組織。乱れた秩序に、静かな制裁を加えることを信条としていた。今も、市内の名士や教育関係者の中に、その流れを汲む人たちがいるって、祖母は言ってた」
るなは、手記の最後の頁を開いた。
「そして、柊家は、江戸時代から盟約の記録係を務めてきた。この街の裏側を、ずっと、書き残してきたの」
地下書庫に、静寂が落ちた。
裸電球が、かすかに揺れている。陸斗の影が、畳の上でゆらゆらと動いた。
「じゃあ、俺は……俺の魂も、削られてるってことか」
声が震えた。
るなは、手記を閉じた。
「……ええ。少なくとも、祖母はそう言ってた。ボタンを使うたびに、あなたの魂は、少しずつ削られていく。それが、代償の理の代償」
陸斗は、自分の手を見た。
いつもの、何の変哲もない手。でも、その手が、見えない何かを、少しずつ失っている。
(俺、このままボタンを使ってたら、どうなるんだ)
「でもね」
るなの声が、少しだけ柔らかくなった。
「あなたがボタンを拾ったのは、偶然じゃないかもしれない。……これは、祖母の遺言の一節。私にも、その意味は、まだわからない。でも、祖母は、ボタンを見つけた人がいたら、奪うのではなく、守りなさいって、そう言い残したの」
陸斗は、顔を上げた。
「偶然じゃないって、どういう……」
るなは、首を横に振った。
「わからない。……ごめんなさい。私に答えられるのは、ここまでよ」
二人の間に、沈黙が落ちた。
でも、それは、昨日のような、張りつめた沈黙ではなかった。秘密を、少しだけ共有した者同士の、静かな沈黙。
陸斗は、るなの横顔を見た。
(この子は、俺を回収しようとしてたのに。今は、話してくれてる)
「……ありがとう。話してくれて」
るなは、少しだけ、目を伏せた。
「……別に。あなたが、本気で悩んでるように見えたから」
それから、るなは立ち上がり、手記を木箱に戻した。
「今日のことは、他の人には言わないで。ここで見たことも、聞いたことも。……約束できる?」
「うん。約束する」
るなは、陸斗の目を、数秒間じっと見つめた。
「……信じるわ」
その一言が、妙に胸に響いた。
地下書庫を出ると、店の中は、朝よりも少し明るくなっていた。
「気をつけて帰りなさい。ボタンには、あまり触れない方がいいわ」
「……うん。ありがとう。また、来てもいい?」
るなは、一瞬だけ、困ったような顔をした。
「……好きにすれば」
ぶっきらぼうに言って、カウンターの向こうへ引っ込んでいった。
陸斗は、月哭堂を後にした。
自転車を押しながら、常世宿通りを歩く。
(るなは、いい人だ)
心から、そう思った。秘密を共有できる相手がいる。それだけで、胸の奥が、ほんの少し軽くなった気がした。
(信じたい。るなの言うことを、信じたい)
その瞬間だった。
ポケットの中で、ボタンが、微熱を帯びた。
かすかな振動。
陸斗は、足を止めた。
(え……)
ボタンを取り出す。真鍮の縁が、ほんのりと温かい。指先に伝わる、あの感覚。お仕置きが起きる前の、前兆。
(なんで。今、誰も、何も)
陸斗は、周囲を見回した。日曜の旧市街に、人影はまばらだ。向かいの和菓子屋の前で、小さな女の子が母親と手を繋いで歩いている。
(まさか)
陸斗は、自分の胸に手を当てた。
(今、俺は、るなを信じたいと思った。好意を、持った。……それが、ボタンの力になるのか?)
怒りや、罰を与えたいという衝動だけじゃない。信頼や、好意。そういう感情すらも、ボタンは力に変える。
(誰かと親しくなること自体が、危険だ)
陸斗は、ボタンを握りしめた。温かい。その温かさが、怖かった。
翌朝。
月曜日の月哭堂は、定休日だった。
るなは、店の奥で、昨日の手記を読み返していた。祖母の文字。代償の理。常世宿の盟約。そして、ボタンのこと。
(鈴木くんに、どこまで話していいのか)
彼女は、文庫カバーを手に取り、表紙を撫でた。
そのとき、店の外から、声がした。
「ごめんください。柊さん、いらっしゃいますか」
凛とした、よく通る声。
るなは、顔を上げた。
引き戸の向こうに、銀色がかったプラチナブロンドの髪が見えた。肩までの髪を、ゆるく内巻きにしている。氷のような淡い水色の瞳。左耳に、小さな銀のピアス。右手には、黒い手帳。
白河真冬。県立常世ヶ丘高校の風紀委員長。
るなは、引き戸を開けた。
「……定休日よ。何か用?」
真冬は、背筋を伸ばしたまま、るなを見た。
「わかっています。だから、お店の用ではなく、個人的な話をしに来ました」
「私に、個人的な話?」
「ええ。柊さん、あなたは、この街の古いしきたりに詳しい。……代償の理、というものを、ご存知ですね?」
るなの指が、文庫カバーの縁を、ぎゅっと掴んだ。
「……それが、何か」
真冬は、一歩、店の中へ踏み込んだ。
「最近、この街で、不可解な体罰が増えています。校内でも、生徒が原因不明の痛みを訴える事例が、三件確認されました。……あなたの家の文献に、心当たりはありませんか?」
真冬の声は、静かだった。でも、その水色の瞳は、るなの表情の変化を、一瞬たりとも逃すまいとしていた。
るなは、息を吸った。
「……知らないわ」
真冬は、じっと、るなを見つめた。
「柊さん。あなたは、昔から、この街の裏側を知っている。私も、初代風紀委員長から続く家系として、代償の理を感じ取る宿命にあります。……だから、わかるのです。あなたが、今、嘘をついていることが」
るなは、唇を噛んだ。
「私は、風紀委員として、校内の秩序を守る。もし何か知ったら、私に話してください。……これは、お願いではありません。この街の歪みを、これ以上、放置したくないのです」
真冬は、それだけ言うと、背筋を伸ばしたまま、店を出て行った。
るなは、引き戸の前で、しばらく立ち尽くしていた。
その一部始終を、店の外の電柱の陰から、陸斗は見ていた。
(真冬さんが、月哭堂に……)
陸斗は、学校へ向かう途中だった。たまたま、旧市街を抜ける近道を選んだ。たまたま、月哭堂の前を通りかかった。
(真冬さんは、ボタンのことに、気づいてる)
心臓が、早鐘を打つ。
(校内でも、三件。俺が、あの教室で起こしたお仕置き。あれも、きっと、数に入ってる)
真冬の背中が、通りの向こうへ消えていく。
陸斗は、電柱の陰から、そっと出た。
月哭堂の引き戸は、もう閉まっていた。
(真冬さんは、代償の理を感じ取る宿命。るなは、ボタンのことを隠した。……俺は、どうすればいい)
ポケットの中で、ボタンが、静かに冷たかった。
学校へ向かう足取りは、鉛のように重かった。Noveliaとは?
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