新妹魔王の日常契約
魔王の血を引く義妹との、甘くて危険な二重生活が始まる——。
母を亡くし、海外出張ばかりの父を持つ高校生・東城刃更。ある日突然、父から「お前には義理の妹ができる」と告げられる。しかも、相手は魔族で、一人は先代魔王の血を引いているという。戸惑いながらも、かつて自分も居場所を失った経験から、二人を迎え入れる決意をする刃更。
しかし、妹たちとの日常は、決して穏やかなものではなかった。魔族と勇者の血を引く者が出会うとき、運命の歯車が静かに動き出す。守りたいものと、封印してきた力の狭間で揺れる刃更。そして、義妹たちが抱える秘密とは——。
夕暮れの台所、交わされる契約、紫に輝く瞳。日常の裏側に潜む非日常が、いま幕を開ける。
新妹魔王の日常契約 - どん底の夜~消えそうな光~
病院の廊下は、夜の底に沈んでいた。
白い壁。白い床。消毒液の匂い。遠くで、誰かの点滴が落ちる音だけが、規則正しく響いている。
成瀬澪は、集中治療室の扉の前で、立ち尽くしていた。
長い黒髪が、背中に張り付いている。紫色の瞳は、開いたまま、何も映していない。
「……刃更」
声は、空気に溶けて消えた。
あの後、何が起きたのか、澪は半分しか覚えていない。
救急車のサイレン。駆けつけた教師たち。担架に乗せられた刃更。
自分の名前を呼ぶ、万理亜の声。
柚希が、誰かと電話で話していた。
「毒が回っています。今夜が山です」
白衣の男の、その一言だけが、頭の中で繰り返される。
今夜が、山。
——死ぬかもしれない、ということだ。
澪は、自分の両手を見つめた。
白い指。震えている。
(私のせいだ)
声にならない声が、胸の中で木霊する。
(私が、魔族だから。私が、あの男に狙われたから。私が、刃更のそばにいたから)
呼吸が、浅くなる。
肺が、うまく動かない。
「……っ」
喉が、締め付けられる。
目の前が、白く、霞んでいく。
——違う。
これは、あの時の。
血の匂い。
焼け焦げた匂い。
暗い森の中。
「澪、逃げなさい!」
養母の叫び声。
「早く! 振り返らないで!」
養父の背中。
——ゾルギア。
あの老人の、歪んだ笑み。
「残念だ。素直に渡してくれれば、命までは取らなかったものを」
刃が、光る。
赤い、赤い、赤い、赤い、赤い。
「いやあああああああっ!!」
澪は、耳を塞いで、その場にしゃがみ込んだ。膝が床にぶつかる音が、やけに大きく響いた。
「いや、いや、いや……来ないで、来ないで……!」
声が、裏返る。
呼吸が、できない。
心臓が、暴れる。
視界が、歪む。
(また、失う。また、私のせいで。大切な人が、血まみれで——)
「お姉ちゃん!」
ピンクのツインテールが、視界の端で揺れた。
成瀬万理亜が、澪の肩を掴んで、正面から抱きしめる。細い腕が、澪の背中に回った。
「お姉ちゃん、落ち着いて! 私の声、聞いて!」
「……まりあ……?」
澪の焦点が、わずかに合う。
万理亜のピンクの瞳が、涙でいっぱいになっていた。
「大丈夫。お姉ちゃんは、悪くない。悪くないの」
「……違う……私のせいよ……」
澪は、首を振った。
「私が、あの男に狙われたから。私が、刃更のそばにいたから。私が、私が——」
「違う!」
万理亜の声が、廊下に響いた。
「お兄ちゃんは、自分の意思でお姉ちゃんを守ったの。お姉ちゃんのせいじゃない!」
「でも……でも……!」
澪の瞳から、涙が溢れ出した。
「もう、誰も守れない。私、また、大切な人を、目の前で……!」
澪は、万理亜の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
「お姉ちゃん……」
万理亜は、澪の背中を、小さな手で、何度も、何度も撫でた。
「大丈夫。お兄ちゃんは、死なないよ。絶対に、死なない」
でも、万理亜の声も、震えていた。
——私、お母さんと約束したのに。
万理亜は、心の中で呟いた。
(お姉ちゃんを、絶対に守るって。一人で泣かせないって。そう、約束したのに)
万理亜の脳裏に、母の顔が浮かぶ。
優しい、でも、どこか悲しそうな、母の笑顔。
「まりあ、澪のことをお願いね」
あの時、何も知らなかった自分。
何も、守れなかった自分。
「……ごめんね、お母さん」
万理亜は、誰にも聞こえない声で、呟いた。
涙が、澪の髪に落ちた。
■
野中柚希は、病院の別の廊下で、壁にもたれて立っていた。
水色のショートヘアが、蛍光灯の光を吸って、青白く見える。
手の中の通信機が、小さく震えた。
着信。
表示された名前は、『ミスター・K』。
クレセント・ウォッチャー、霧ヶ丘支部。柚希の上司だ。
柚希は、一瞬、ためらった。
でも、出ないわけにはいかない。
「……もしもし」
『野中くん、状況を報告してくれ』
低い、感情のない声。
「……学園で、ヴァルグリンド派の刺客と交戦。対象の魔力暴走は、なんとか沈静化しました」
『対象の容態は』
「……無事です。精神的に、かなり不安定ですが」
『そうか』
間。
『——上からの通達だ。よく聞け』
柚希の手が、通信機を握りしめる。
『ヴァルグリンド派の刺客が、複数、霧ヶ丘市内に潜入している。対象の危険度は、最大に引き上げられた』
「……最大」
『場合によっては、抹殺許可も下りている。監視員として、そのつもりでいろ』
柚希の呼吸が、止まった。
肺の動きが、止まった。
「……抹殺、許可」
『そうだ。これは、里の決定でもある。お前の姉妹にも、伝わっているはずだ』
柚希は、壁にもたれたまま、ゆっくりと床に崩れ落ちた。背中が壁を滑る感触だけが、やけに生々しい。
水色の瞳が、見開かれる。
「……なんで、今なんよ」
関西弁が、漏れた。
『何か言ったか』
「……いえ。なんでも、ありません」
『とにかく、対象から離れるな。監視を継続しろ。何かあれば、すぐに報告を』
「……了解、しました」
通信が、切れた。
柚希は、通信機を握りしめたまま、うつむいた。
(抹殺、許可)
(澪ちゃんを、殺せってこと)
(里が、それを決めた)
柚希の頭の中に、病室で眠る刃更の顔が浮かぶ。
血まみれで、倒れた、幼馴染の顔。
「……刃更」
柚希は、小さく、その名前を呼んだ。
(あんたは、澪ちゃんを守るって決めた。命をかけて、守った)
(なのに、私は、その澪ちゃんを、殺さなきゃいけないの?)
通信機を持つ手が、震える。
(里の命令は、絶対。監視員として、従わなきゃいけない)
(でも……)
柚希の目に、涙が浮かんだ。
(でも、私は……)
「……ほんまに、なんでやねん」
柚希は、壁に頭を預けて、天井を見上げた。
蛍光灯の光が、滲んで見える。
涙が、一筋、頬を伝った。
■
東城迅が、病院に到着したのは、深夜だった。
革ジャンを着た、長身の男。カメラバッグを肩に掛け、髪は乱れている。
「……迅さん」
柚希が、ロビーで待っていた。
「柚希か。刃更は」
迅の声は、いつも通り、落ち着いていた。
「集中治療室です。毒が回っていて、今夜が山だと」
「そうか」
迅は、短く頷いた。
「澪と万理亜は」
「……病室の前です。澪ちゃんが、かなり落ち込んでいて」
「わかった」
迅は、迷いなく歩き出した。
その後ろ姿を、柚希は、ただ見つめていた。
(迅さんは、知っているの?)
(澪ちゃんに、抹殺許可が出たこと)
(刃更が、こんなになってまで守ったことを)
柚希は、唇を噛んだ。
■
集中治療室の前。
澪は、壁にもたれて座り込んでいた。万理亜が、その隣に寄り添っている。
二人とも、顔を上げる気力もないように見えた。
「……お前たち」
迅の声に、万理亜が顔を上げた。
「……おじさま」
澪は、反応しなかった。
迅は、澪の前にしゃがみ込んだ。
「澪」
「……」
「顔を上げろ」
澪は、ゆっくりと顔を上げた。
紫色の瞳は、涙で腫れ、焦点が合っていない。
「……私の、せいです」
澪の声は、掠れていた。
「私が、あの男に狙われたから。私が、刃更のそばにいたから。私が、魔族だから」
「違うな」
迅は、静かに言った。
「刃更は、自分の意思で、お前を守った。誰に命令されたわけでもない。あいつが、そうしたかったんだ」
「でも……!」
「お前が魔族だからじゃない。お前が、刃更にとって、大切な妹だからだ」
澪の瞳が、大きく揺れた。
「……妹」
「そうだ。あいつは、家族を守る。何があってもな。それは、昔から変わらない」
迅は、澪の頭に、そっと手を置いた。
「お前たちが、守ろうとしたんだな」
迅の言葉に、万理亜が、涙をこぼした。
「……はい。でも、私、何もできなくて」
「万理亜、お前は、澪を抱きしめていた。それでいい。それで、十分だ」
「……おじさま」
万理亜は、迅の腕にしがみついた。
迅は、万理亜の背中を、優しく叩いた。
「医者から聞いた。上出来だ、刃更」
迅は、病室の扉を見つめた。
「よく、毒刃を受けながら、澪の前に立ち続けたな」
その声には、誇りと、わずかな痛みが混ざっていた。
「……でも」
迅の声が、低くなる。
「ヴァルグリンド派は、一度で終わらん。明日には、また来る」
澪と万理亜の体が、硬直した。
「……明日、また」
澪の声が、震える。
「そうだ。奴らは、お前を殺すまで、何度でも送り込んでくる」
「……じゃあ、私は、どうすれば」
澪は、自分の手を見つめた。
「私が、いなくなれば。私が、ここから消えれば、刃更は、みんなは、傷つかないで済むの?」
「お姉ちゃん、何言ってるの!?」
万理亜が、澪に詰め寄った。
「お姉ちゃんがいなくなったら、私、どうすればいいの!? お兄ちゃんも、きっと悲しむよ!」
「でも……でも……!」
澪の瞳から、再び涙が溢れた。
「私がいるから、みんなが危険な目に遭うのよ! 私が、私が……!」
「澪」
迅の、低い声が、澪の言葉を遮った。
「お前が消えたら、刃更は、自分を責める。自分が、守れなかったからだと。お前が、そう思っているのと同じようにな」
澪は、はっとしたように、迅を見た。
「……刃更が、自分を責める」
「ああ。あいつは、そういう男だ。大切なものを、失ったら、二度と立ち直れないかもしれない。特に、自分の手で守れなかったとなれば」
迅の言葉に、澪は、唇を噛みしめた。
「……私は」
澪は、うつむいた。
「私は、どうすればいいの」
「簡単なことだ」
迅は、澪の目を、まっすぐに見つめた。
「生きろ。そして、刃更が目を覚ましたら、お前の口で、ありがとうと言え」
「……ありがとう」
澪は、小さく繰り返した。
「そうだ。それだけで、あいつは、またお前のために戦う」
迅は、立ち上がった。
「今夜は、俺がここにいる。お前たちは、少し休め」
「……でも」
「澪、お前が倒れたら、刃更が悲しむ。万理亜もだ。二人とも、顔色が真っ青だぞ」
迅は、二人の肩を、軽く叩いた。
「休め。ここは、俺に任せろ」
万理亜は、澪の手を握った。
「……お姉ちゃん、少しだけ、休も?」
澪は、黙って、小さく頷いた。
二人は、待合室のソファに向かって、ゆっくりと歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、迅は、一人、呟いた。
「……すまないな、刃更。お前に、全部背負わせてしまった」
迅の拳が、固く握られた。
■
深夜。
集中治療室の外の廊下。
澪は、一人、扉の前に立っていた。
万理亜は、ソファで、疲れ果てて眠っている。
迅は、医師と話があると言って、診察室に向かった。
澪は、扉の小さな窓から、中を覗いた。
白いベッド。
たくさんの管につながれた、刃更の姿。
心電図のモニターが、規則正しく、小さな音を立てている。
澪は、扉に手を当てた。
「……入っても、いい?」
誰に聞くでもなく、呟いた。
扉は、静かに開いた。
澪は、音を立てないように、病室に入った。
消毒液の匂い。
機械の音。
刃更の、浅い呼吸。
澪は、ベッドの横に立った。
刃更の顔は、青白く、唇は紫色に変わっている。
「……刃更」
澪は、刃更の手を、両手で握った。
冷たい。指先の体温が、吸い取られていくようだった。
「お願い、起きてよ……」
澪の声が、震える。
「私、ちゃんと謝りたいの。私のせいで、あんたが、こんなことになって……本当に、ごめんなさい」
涙が、刃更の手の上に落ちた。
「私、あんたに、言いたいことが、いっぱいあるの。あんたが、作ってくれたご飯、美味しかったって。あんたが、守ってくれて、嬉しかったって。あんたが、いてくれて、よかったって」
澪は、刃更の手を、額に押し当てた。
「だから、お願い。目を、開けて。私を、一人にしないで」
応答は、ない。
心電図の音だけが、無機質に響く。
澪は、涙を、止めることができなかった。
「……私、あんたに、甘えてばかりだった。あんたが、優しいから。あんたが、何でも許してくれるから。私、あんたに、何も返せてない」
澪の声が、掠れる。
「だから、お願い。起きて。私に、返させて。私に、あんたを守らせて。今度は、私が、あんたを——」
その時。
澪の手の中で、刃更の指が、ぴくりと動いた。
澪は、息を呑んだ。
「……刃更?」
——光。
刃更の左腕に浮かぶ、契約の腕輪。
その紋様が、かすかに、淡い光を放った。
澪は、目を見開いた。
「腕輪が……光ってる」
腕輪の光は、弱々しく、でも、確かに脈打っていた。
まるで、刃更の心臓の代わりのように。
澪の手の中で、刃更の指が、もう一度、動いた。
「……刃更! 聞こえるの!? 私の声が、聞こえるの!?」
澪は、刃更の手を握りしめた。
涙が、止めどなく溢れる。
「お願い、返事をして! 刃更!」
でも、刃更の目は、開かない。
腕輪の光も、次第に、弱まっていく。
「……やだ、消えないで。お願い、消えないで……!」
澪は、腕輪に、自分の額を押し当てた。
「私、あんたの僕でしょ? あんたが、主でしょ? だったら、命令してよ。目を覚ませって。私に、そばにいろって!」
澪の涙が、腕輪の上に落ちた。
その瞬間、腕輪が、もう一度、強く光った。
澪の体に、温かいものが流れ込む。
——契約の力。
主と僕を繋ぐ、見えない糸。
澪は、刃更の存在を、すぐ近くに感じた。
(……刃更は、まだ、生きてる)
澪は、顔を上げた。
紫色の瞳が、涙で濡れながらも、強い光を宿していた。
「……待ってる。あんたが、目を覚ますまで、ずっと、待ってるから」
澪は、刃更の手を、離さなかった。
心電図のモニターが、変わらぬリズムを刻み続ける。
でも、澪には、わかっていた。
刃更は、まだ、ここにいる。
まだ、自分を、見捨てていない。
澪は、ナースコールに、手を伸ばした。
「……お願い。もう少しだけ、時間をちょうだい」
澪は、ボタンを押す代わりに、刃更の手を、もう一度、強く握った。
腕輪の光が、消え入りそうなほど、小さく、小さく、脈打っていた。
でも、それは、確かに、消えていなかった。
——夜は、まだ、明けない。
でも、闇の中に、一つの小さな光が、灯っていた。
澪は、その光を、祈るように、見つめ続けていた。Noveliaとは?
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