毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
春人はどこにでもある地方都市で、平穏な高校生活を送っていた。澄み渡る空、同じ教室、変わらない友人たちの笑顔。毎朝、妹の日向がベッドに飛び込んでくる。幼なじみの茉央が笑顔で迎えてくれる。後輩の日向が下駄箱で待っている。なぜ自分がこんなに好かれているのか、春人にはわからない。ただ、優しい日々をそのまま受け入れていた。
そこへ転校生の司が現れる。ツンデレで、いつも強がっているのに、どこか寂しげ。春人は彼女が気になって仕方がない。なぜか司は春人をじっと見つめ、茉央や日向に妙に近づき、時には一人で泣きそうな顔をしている。春人には理由がわからない。
教室の片隅で、司は静かに誰かを見つめている。同じ場所で、同じ人々が同じ言葉を繰り返す。その反復に誰も気づかない——司を除いては。春人もまた、「茉央はいつもこの時間にいたっけ?」と呟く。言い知れぬ不安がよぎるが、司はすぐに話をそらす。
日々は甘く、優しく流れていく。突然黙り込んだ司の横顔に、春人は説明のつかない悲しみを見る。どうしたのかと尋ねると、彼女は「なんでもない」と笑って
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける - 巻き戻る月曜日 ―― 見てはいけない瞳
「お兄ちゃん、朝だよ! 今日も遅刻するよー!」
ドスッ、という重みが腹の上にのしかかって、春人は強制的に意識を浮上させた。目を開ける前から分かる。これは毎朝恒例の、妹による人間爆弾だ。
「……陽菜、今日はまだ早いだろ」
寝ぼけた声でそう言いながら、春人は薄目を開けた。視界いっぱいに、中学生の妹の笑顔が広がっている。陽菜はショートボブの黒髪をぴょんぴょん跳ねさせながら、春人の胸の上に馬乗りになっていた。パジャマ姿のまま、両手を春人の肩に突いて、まるで子犬が餌をねだるみたいに身を乗り出している。
「早くないよ! 時計見てよ、七時十五分だよ! お兄ちゃんが起きないから、卵焼き冷めちゃう!」
春人は仕方なく体を起こす。陽菜が器用にベッドの端に飛び降りた。彼女のまとう空気はいつも明るくて、朝の光そのものみたいだ。春人は寝癖だらけの黒髪を手のひらで適当に押さえつけながら、深い茶色の瞳をしぱしぱさせた。
トキワ市の朝は静かだ。窓の外からは鳥の声と、遠くを流れるキリハ川の気配がする。この街は山に囲まれた盆地で、空が広い。春人が物心ついたときから、ずっとこの景色の中で生きてきた。県立トキワ高校に通う、どこにでもいる高校二年生。それが春人という人間だ。
洗面所で顔を洗い、制服に着替える。白シャツのボタンを上から二つ目まで留めて、ネクタイは緩めに結ぶ。鏡に映る自分は、寝癖こそひどいが、まあ普通の高校生だ。中肉中背で、運動部でもない。強いて言えば、左手首に薄い古傷があることくらいか。
その傷跡を、春人は一瞬だけ見つめた。学生証の角で切ったような、細い白い線。いつできたのか、どうしても思い出せない。まあ、大したことじゃない。春人はネクタイを直すのを諦めて、リビングへ向かった。
食卓には、陽菜が作った朝食が並んでいた。卵焼き、味噌汁、ごはん。陽菜は中学生とは思えないほど手際が良くて、毎朝こうして春人の分まで用意してくれる。
「卵焼き、今日はちょっと甘めにしたの。お兄ちゃん、甘いの好きでしょ?」
陽菜がエプロンを外しながら、にこにこ笑う。その笑顔には裏表がなくて、春人はいつも思う。俺はなぜ、こんなに丁寧に起こしてもらってるんだろう、と。別に頼んだわけでもないのに、陽菜は毎朝必ず春人を起こす。まるで、そうすることが当たり前だと言わんばかりに。
「別に、起こしてもらわなくても起きられるんだけどな」
「うそ! アラーム三回止めてるの知ってるんだからね。私がいなかったら、お兄ちゃん毎日遅刻してるよ」
春人は反論できず、卵焼きを口に運んだ。うまい。陽菜の卵焼きは、いつも味が安定している。甘くて、ふわふわしていて、食べるとほっとする。
朝食を終えて玄関に向かうと、陽菜が先回りして立っていた。ランドセルを背負ったまま、春人の靴を揃えてくれている。
「……お兄ちゃん、今日も気をつけてね」
その声が、いつもの明るさとは違う、静かなトーンだった。春人は靴ひもを結びながら、顔を上げる。陽菜は微笑んでいたけれど、目が少しだけ、何かを堪えているように見えた。
「うん。陽菜もな」
春人はそう返して、家を出た。後ろで玄関の鍵がかかる音がする。陽菜のあの静かな声が、ほんの少しだけ耳に残っていた。
通学路は、キリハ川の土手沿いだ。トキワ市の中央を流れるこの川は、街の暮らしに溶け込んでいて、朝は犬の散歩をする人や、ジョギングをする人でにぎわう。春人は川面に反射する朝日を浴びながら、ゆっくりと歩いていた。
土手の途中、桜の木の下に、長い黒髪の少女が立っている。腰まで届く艶のある黒髪を一つ結びにして、柔らかな茶色の瞳で春人を見つめていた。トキワ高校の制服を着て、白いソックスが朝の光に浮かんでいる。
「遅いよ、春人。また陽菜ちゃんに起こしてもらったでしょ」
幼馴染の茉央だ。彼女は笑いながら、春人の隣に並んだ。身長差は十センチほど。茉央が少し見上げる形になる。その距離感は、幼い頃からずっと変わらない。
「別に、起こしてもらったわけじゃないし」
「嘘。春人が自分で起きられるわけないじゃん。小学校のときから、私が迎えに来てたんだから」
茉央はそう言って、春人の腕を軽く小突いた。彼女の笑い声は、川のせせらぎみたいに耳に心地いい。
二人は土手を並んで歩く。春人は茉央の横顔をちらりと見た。昔から、茉央は春人の隣にいるのが当たり前だった。家が近所で、幼稚園の頃から一緒にこの土手を歩いてきた。春人が転んで泣いたときも、茉央が手を引いてくれた。
「そういえばさ、春人って昔この川で溺れかけたことあったよね」
茉央が突然、そんなことを言い出した。春人は首を傾げる。
「……そんなことあったっけ」
記憶を探ってみるが、何も出てこない。キリハ川で溺れかけた? 自分が? 春人は眉を寄せた。
「覚えてないの? あのとき私が助けたのに!」
茉央は頬を膨らませて、拗ねた顔をする。その表情は幼い頃と全然変わらなくて、春人は思わず笑ってしまった。
「ごめん、本当に覚えてないんだよ」
「もう……私の勇気ある行動が、なかったことになってる」
茉央は大げさにため息をついた。けれど、その目は笑っていた。春人は茉央の言葉の重みに気づかないまま、いつものように歩き続ける。
学校に着くと、下駄箱の前で小さな影がぴょんぴょん跳ねていた。明るい栗色のショートボブが、動きに合わせて揺れている。丸くて大きな黒い瞳が、春人を見つけて輝いた。
「先輩! おはようございます!」
後輩の日向が、満面の笑みで駆け寄ってきた。彼女は春人の一学年下で、毎朝こうして下駄箱で待ち伏せしている。身長は一五二センチと小柄で、春人を見上げる姿は小動物みたいだ。
「おはよう、日向。今日も元気だな」
「はい! 先輩に会えるだけで、今日も一日頑張れます!」
日向は真っ直ぐな目でそう言い切った。裏表のない、太陽みたいな後輩だ。春人は照れくささよりも、無邪気なその様子が可愛くて、自然と笑顔になる。
日向は春人の靴箱を勝手に開けて、上履きを取り出した。
「はい、先輩! どうぞ!」
「いや、そこまでしなくていいよ」
「いいんです! 私がやりたくてやってるんですから!」
日向はにこにこしながら、春人の上履きを両手で差し出してくる。その無邪気さに、春人は苦笑いしながら受け取った。
そのとき、日向の視線がふと校門の方へ向いた。彼女の表情が、ほんの一瞬だけ曇る。春人が振り返ると、そこには見慣れない女子生徒が立っていた。
明るい茶髪のサイドポニーテール。毛先が少し跳ねていて、前髪が目にかかりそうなのを、彼女は無意識に手で払った。琥珀色の瞳が、朝の光を受けて蜂蜜みたいに透けている。小柄な体を制服に包んで、彼女はこちらをじっと見ていた。
春人はその視線に気づいた。気づいたけれど、その目が何を語っているのかは分からなかった。彼女はすぐに視線を外し、校舎の方へ歩いていく。
日向が、春人の袖を無意識に掴んでいた。
「……先輩、あの人、転校生ですよね」
「ああ、確か二組に来た子だよ」
日向は何かを言いたそうにしていたが、結局何も言わず、笑顔を作った。
二〇三号室。春人のクラスである二年C組の教室には、すでに何人かの生徒がいた。春人が席に着くと、隣の席の茉央が小さく手を振ってくる。
教室の隅、窓際の一番後ろの席。そこに、さっきの転校生が座っていた。彼女は頬杖をついて、窓の外を眺めている。サイドポニーテールが、風でゆらゆら揺れていた。
春人が何気なく彼女の方を向いたとき、彼女もこちらを見ていた。視線が合う。琥珀色の瞳が、春人を捉えていた。
その目が、一瞬だけ、泣きそうに揺れた。
春人はどきりとした。何か言いたげな、何かを必死に堪えているような、そんな目だった。けれど彼女はすぐに窓の外へ目を逸らし、何事もなかったかのように前髪を払った。
気のせいだ。春人はそう思うことにした。転校生と目が合っただけだ。それ以上でも以下でもない。
昼休み。春人が机の上で弁当を広げていると、不意に影が落ちた。顔を上げると、転校生が立っていた。近くで見ると、彼女は本当に小柄だ。春人より十五センチ以上低い。彼女は腕を組んで、少しだけ不機嫌そうな顔をしていた。
「あんた、この街にずっと住んでるの?」
いきなりすぎる質問に、春人は箸を止めた。彼女の声は、思っていたより低くて、少し掠れていた。
「うん、生まれてからずっと」
春人がそう答えると、彼女は一瞬だけ目を伏せた。長いまつげが、白い頬に影を落とす。
「……そっか。いいね」
小さく呟いて、彼女は笑った。強がったような、でもどこか寂しそうな笑顔だった。春人はその笑顔を見て、胸の奥がざわつくのを感じた。理由は分からない。分からないけれど、その笑顔をずっと見ていたいような、でも見てはいけないものを見ているような、変な感覚だった。
「えっと、君は……司さん、だっけ」
「別に、さん付けしなくていいし。つかさでいいわ」
司はそう言うと、くるりと背を向けて自分の席へ戻っていった。春人はその後ろ姿を、弁当を食べるのも忘れて見つめていた。
放課後。春人は茉央と一緒に、校舎三階の東端にある文芸部の部室へ向かった。部室には古い本棚が三つと、机が四つ。窓からは夕日が差し込んで、部屋中をオレンジ色に染めていた。
茉央は机に向かって、ノートに小説を書いている。彼女の書く物語は、いつも優しくて繊細だ。春人はその隣で、部誌のための短編を書くふりをしながら、窓の外を眺めていた。
「春人、この部室って、なんだかいつもと同じ匂いがするんだよね。古い本と、窓から入る夕日と。ずっと変わらない感じ」
茉央がぽつりと呟いた。春人は窓から視線を戻す。
「毎日同じだから、安心するんじゃない?」
「そうだね。春人がいると、私、安心するの」
茉央は顔を上げて、柔らかく笑った。夕日に照らされた彼女の黒髪が、青みがかって見える。春人はその笑顔を、いつものように受け取った。
帰宅して、自室で制服を脱ごうとしたときだった。春人は鏡の前に立ち、ふと左手首を見た。薄い傷跡。古い、白い線。
学生証の角で切ったような痕。でも、いつどうやってできたか、全く覚えがない。春人は首を傾げた。また知らないうちに切ったのか。大したことじゃない。そう思って、鏡から離れた。
同じ頃、学校の屋上では、司が一人でフェンス越しに夕日を見つめていた。風が彼女のサイドポニーテールを揺らす。琥珀色の瞳は、沈みゆく太陽を映して、ゆらゆらと揺れていた。
司の手には、古びたノートが握られている。表紙は擦り切れ、ページは何度もめくり返された跡があった。彼女はノートを開く。そこには、同じ週の記録が何十回と書き連ねられていた。
最後のページ。震える文字で、こう記されている。
茉央——消失。
日向——消失。
春人——なし。
司はノートを握りしめた。指先が白くなる。唇を噛み、彼女は小さく呟いた。
「……また、月曜日」
その声は、誰にも届かない。夕日が沈み、空が藍色に染まっていく。司は目を閉じた。明日もまた、同じ一日を生き直さなければならない。その静かな絶望と、それでも春人だけは守りたいという祈りを、彼女は一人の夜に沈めた。
その夜、春人はベッドの中で天井を見上げていた。眠気がゆっくりと押し寄せてくる。目を閉じようとした瞬間、左手首の傷跡が、一瞬だけ熱を持った。
「……なんだ?」
春人は手首を見た。傷跡はいつも通り、白い線のままだ。熱はもう消えている。気のせいか。春人はそう思い、目を閉じた。
窓の外では、月明かりに照らされたキリハ川が静かに流れていた。街の時計は、また明日の月曜日を刻もうとしている。春人はそのことに気づかないまま、深い眠りに落ちていった。Noveliaとは?
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