毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
春人はどこにでもある地方都市で、平穏な高校生活を送っていた。澄み渡る空、同じ教室、変わらない友人たちの笑顔。毎朝、妹の日向がベッドに飛び込んでくる。幼なじみの茉央が笑顔で迎えてくれる。後輩の日向が下駄箱で待っている。なぜ自分がこんなに好かれているのか、春人にはわからない。ただ、優しい日々をそのまま受け入れていた。
そこへ転校生の司が現れる。ツンデレで、いつも強がっているのに、どこか寂しげ。春人は彼女が気になって仕方がない。なぜか司は春人をじっと見つめ、茉央や日向に妙に近づき、時には一人で泣きそうな顔をしている。春人には理由がわからない。
教室の片隅で、司は静かに誰かを見つめている。同じ場所で、同じ人々が同じ言葉を繰り返す。その反復に誰も気づかない——司を除いては。春人もまた、「茉央はいつもこの時間にいたっけ?」と呟く。言い知れぬ不安がよぎるが、司はすぐに話をそらす。
日々は甘く、優しく流れていく。突然黙り込んだ司の横顔に、春人は説明のつかない悲しみを見る。どうしたのかと尋ねると、彼女は「なんでもない」と笑って
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける - 巻き戻る木曜日 ―― 前も歩いた気がする道
教室の窓から差し込む光が、いつもより少しだけ白く感じられた。
春人は自分の席に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。キリハ川の土手沿いに植えられた桜の木が、風に揺れている。木曜日の朝の空気は、昨日の雨の名残を少しだけ含んでいて、ひんやりとしていた。
(今日は、何曜日だっけ)
そんなことを考えた。いや、分かっている。木曜日だ。時間割も、日直も、全部頭に入っている。なのに、胸の奥に小さな違和感があった。何かが、少しだけずれている気がする。
「おはよう、春人」
隣の席から声がした。茉央だ。腰まで届く長い黒髪を一つ結びにして、柔らかな茶色の瞳でこちらを見つめている。彼女は笑っていた。口元に小さなえくぼが浮かぶ。いつもの笑顔だ。
「ああ、おはよう」
春人は軽く手を上げて応えた。茉央は鞄を机の横にかけると、椅子に座ってこちらを向く。
「ねえ、今日の放課後、部活あるの知ってる? イチカワ先生が顔出すって」
「へえ、そうなんだ」
春人は相づちを打ちながら、ふと、あることを思い出した。いや、思い出したというより、引っかかった、が近い。
(茉央のバイト、いつだっけ)
茉央はアリエッタ・モールのノクト・カフェでアルバイトをしている。週に何度か、放課後に入っているはずだ。春人は昨日、茉央と一緒にそのカフェへ行った。そして、茉央は確か——
「茉央ってさ」
春人は口を開いた。
「バイト、木曜だったっけ」
茉央が、一瞬だけ手を止めた。
ほんの一瞬だった。教科書を机の上に出す動きが、止まった。でも、すぐに彼女は笑った。
「何それ、ずっと木曜だよ。今さら何言ってるの?」
茉央は笑いながら、春人の肩を軽く叩いた。その仕草は、いつも通りだった。何のためらいもない、幼馴染としての自然な距離感。
「そうだっけ。なんか、火曜だった気がして」
「火曜? 火曜は部活でしょ。春人、ボケてるの?」
茉央が首を傾げて、いたずらっぽく笑う。春人は曖昧に笑い返した。
(火曜は部活……そうだよな)
文芸部の活動日は月・水・金。火曜は部活がない。だから茉央は火曜にバイトを入れることが多い。それは、ずっと前から知っているはずなのに。
(でも、昨日、茉央は火曜にバイトって言ってなかったか)
春人は頭の奥で、何かが引っかかるのを感じた。小さな棘が、指先に刺さっているような感覚。確信はない。ただ、何かが違う。
でも、それを言葉にするには、あまりにも漠然としていた。
「まあ、気のせいかもね」
春人はそう言って、窓の外に視線を戻した。
茉央は一瞬、何かを言いたそうに春人を見た。でも、結局何も言わずに、前を向いた。
教室に、担任の足音が近づいてくる。朝のホームルームが始まる。春人は違和感を、心の奥のほうへ押し込んだ。
——でも、それは確かに、初めて自覚した「疑い」だった。
昼休み。
春人は机の上に弁当を広げていた。今日の弁当は、陽菜が作ってくれたものだ。卵焼きと、昨日の夕食の残りの唐揚げ。彩りがきれいで、食欲をそそる。
「へえ、自分で作ったの? 意外と家庭的」
突然、上から声が降ってきた。
顔を上げると、司が立っていた。明るい茶髪のサイドポニーテール。前髪が目にかかりそうで、彼女はそれを手で払いながら、春人の弁当を覗き込んでいる。琥珀色の瞳が、光の加減で蜂蜜のように透けて見えた。
「妹が作ったんだよ。司さんは、弁当ないの?」
「私は購買。別に、アンタの弁当に興味があるわけじゃないから」
司はそう言いながら、春人の机の前に立ったままでいる。興味がないと言いつつ、視線は弁当に向いている。
「卵焼き、食べる?」
「は?」
「一個、余ってるから」
春人が箸で卵焼きを差し出すと、司は一瞬固まった。それから、耳の先をほんの少し赤くして、横を向く。
「別に、いらないし。アンタの箸で触ったものとか、気持ち悪いし」
「そう? 美味しいのに」
春人は卵焼きを自分の口に運んだ。甘い。陽菜の卵焼きは、いつも少し甘めだ。
司はしばらく春人の顔を見ていたが、やがて、不器用に口を開いた。
「……ねえ、何か考え事してるでしょ」
春人は箸を止めた。
司の目が、真っ直ぐに春人を見ている。その視線は、いつもの強気な態度とは違って、何かを探るように真剣だった。
「考え事ってほどじゃないけど」
「朝、茉央と何話してたの。バイトの曜日がどうとか」
春人は少し驚いた。司がそんなことを聞いてくるとは思わなかった。
「ああ……茉央のバイトって、木曜だったっけって。なんか、火曜だった気がして」
司の指先が、ほんの一瞬、震えた。
春人は気づかなかった。いや、気づいたとしても、その意味を理解できなかっただろう。
「茉央は、木曜よ」
司の声は、即答だった。あまりにも速すぎる答え。まるで、春人が何を言うか、最初から分かっていたかのように。
「そうなの? 司さん、茉央のバイトの曜日、よく知ってるね」
司は答えなかった。窓の外へ視線を逃す。その横顔は、何かを必死に隠しているように見えた。
(この人、なんでこんなに……)
春人は司の異様な素早さに、違和感を覚えた。でも、その理由は分からない。分かるはずがない。
司は、自分の指先が震えているのを隠すように、春人の机の上に置いてあったノートを手に取った。
「字、綺麗ね。意外」
「それ、褒めてるの?」
「褒めてない。字が綺麗なだけで、中身は空っぽでしょ」
司はノートを乱暴に机の上に置いた。でも、その指先は、まだ微かに震えていた。
春人は、司の顔をじっと見た。
(なんで、そんな顔をするんだろう)
司の瞳の奥が、潤んでいるように見えた。泣きそうな顔。でも、次の瞬間には、いつもの強気な表情に戻っている。
「何、じろじろ見てんの。キモいんだけど」
「あ、ごめん」
春人は慌てて視線を外した。司は鼻を鳴らして、自分の席へ戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、春人は胸の奥がざわつくのを感じていた。
(司さん、何か隠してる)
でも、それが何なのか、春人には分からなかった。
放課後。
文芸部の部室は、校舎三階の東端にある。古い木の扉を開けると、紙とインクと、少しの埃が混ざった匂いがした。夕日が窓から差し込んで、部屋の中をオレンジ色に染めている。
春人が部室に入ると、茉央がすでに来ていた。机に向かって、原稿用紙に何かを書いている。その横顔は真剣で、長い黒髪が夕日を浴びて、青みがかって見えた。
「お疲れ」
「あ、春人。お疲れ様。今日、部誌の原稿、進んだ?」
茉央が顔を上げて、笑った。春人は曖昧に笑い返しながら、彼女の向かいの席に座る。
「全然。書くことないんだよね」
「またそれ? 春人ってばさぁ、毎回それ言ってるじゃん」
茉央が笑う。その声は、部室の静けさに溶けていく。春人は、茉央の笑顔を見ていると、朝の違和感が少し薄れるのを感じた。
(やっぱり、気のせいだよな)
そう思おうとした。その時だった。
コンコン、と扉がノックされた。
「失礼するよ」
入ってきたのは、文芸部の顧問、イチカワ先生だった。五十代の男性で、白髪混じりの短髪に、丸い眼鏡をかけている。いつも穏やかな笑みを浮かべていて、生徒からは「イチカワ先生」と親しまれていた。
「あ、先生。こんにちは」
「こんにちは。二人とも、ちゃんと活動してるね」
イチカワ先生は、ゆっくりとした足取りで部室に入ってきた。手には、一冊の原稿用紙の束を持っている。
「茉央さん、これ、君が書いた小説だね」
先生は、茉央の前に原稿用紙の束を置いた。表紙には、丁寧な字で「川の向こう」と書かれている。茉央が文芸部の部誌に向けて書いている小説だ。
「あ、はい。まだ途中なんですけど」
茉央が少し照れたように言った。イチカワ先生は、眼鏡の奥の目を細めて、微笑んだ。
「このラスト、誰かを待つ人の目線だね。とても温かい。五十七回目の推敲としては、完璧だよ」
春人は、その言葉に、一瞬引っかかった。
(五十七回目?)
推敲。文章を書き直すこと。茉央が何度も書き直しているのは知っている。でも、五十七回目。その数字は、あまりにも具体的すぎる。
「五十七回も書き直したの? すごいね、茉央」
春人が言うと、茉央は首を傾げた。
「え? そんなに書き直したかな……まあ、結構直したけど」
茉央は、イチカワ先生の言葉を特に気にしていないようだった。イチカワ先生も、穏やかな笑顔のままだ。
(先生、なんで五十七回って分かるんだろう)
春人は、その疑問を口にしなかった。イチカワ先生の笑顔を見ていると、そんなことを聞くのは野暮な気がした。
「先生、私、この小説の続き、書きますね。もっと良いラストにしたいんです」
茉央が、春人の方をちらりと見て、笑った。
「続き、書くね」
その言葉は、春人に向けられたものだった。春人は、何となく照れくさくなって、目を逸らした。
「うん、楽しみにしてる」
茉央の笑顔が、夕日の中で、柔らかく輝いていた。
部室を出ると、空は茜色に染まっていた。
「ねえ、帰り、土手の方から帰らない?」
茉央が、春人の左側に並びながら言った。彼女は昔から、春人と並ぶときは自然に左側に来る。春人はそのことを、当たり前のように受け入れていた。
「いいよ。遠回りになるけど」
「たまにはいいじゃん。夕日が綺麗だよ」
二人は校門を出て、キリハ川の土手へ向かった。
その途中で、前方に人影があった。
司だった。
彼女は土手の入り口のところで、一人で立っていた。夕日を背に、こちらを見ている。サイドポニーテールの毛先が、風に揺れていた。
「あれ、司さん。どうしたの?」
茉央が声をかけると、司は一瞬、ばつが悪そうな顔をした。
「別に。たまたま通りかかっただけ」
「そうなんだ。ね、よかったら一緒に帰らない? これから土手を歩くの」
茉央が、にこにこ笑いながら司を誘う。司は少し迷ったような顔をしたが、結局、小さく頷いた。
「……別に、暇だから付き合ってあげてもいいけど」
三人は、土手の道を並んで歩き始めた。
キリハ川の水面が、夕日を反射して、きらきらと光っている。空はオレンジと紫が混ざり合った色で、遠くの山々がシルエットになって浮かんでいた。風は柔らかく、川の匂いが鼻をくすぐる。
「綺麗だね」
茉央が、ぽつりと呟いた。
「うん」
春人は、茉央の横顔をちらりと見た。夕日に照らされた彼女の顔は、輪郭が柔らかく光っていて、とても綺麗だった。
(あれ、茉央って、こんなに綺麗だったっけ)
春人は、自分の胸の奥が、小さく跳ねるのを感じた。なんだか、急に意識してしまう。幼い頃からずっと隣にいるのに、こんなふうに茉央のことを見たのは、初めてかもしれない。
「この道、前も歩いた気がする」
茉央が、突然、そんなことを言った。
春人は、どきりとした。
「え?」
「ううん、何でもない。なんか、すごく懐かしい気分になっただけ」
茉央は、笑った。でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ、迷子になったような表情が見えた気がした。
「ね、夕日が綺麗だからでしょ。そういう気分になるのよ」
司が、すかさず口を挟んだ。その声は、明るくて、軽くて、でも、どこか必死だった。
「そうだね。夕日のせいかも」
茉央は、司の言葉に、ほっとしたように笑った。
春人は、茉央の手が、不意に自分の袖に触れたのを感じた。
(え)
心臓が、小さく跳ねる。茉央の指先が、春人の制服の袖を、軽く摘んでいた。それは、ほんの一瞬の出来事で、茉央自身は気づいていないようだった。
「明日も、一緒に帰ろうね」
茉央が、夕日を見ながら言った。
「うん」
春人は、頷いた。
茉央の指先の温もりが、袖を通して、春人の腕に伝わってくる。
(明日も、一緒に)
春人は、その約束が、当たり前に果たされるものだと思っていた。
司は、二人の後ろを、半歩遅れて歩いていた。
彼女の顔は、夕日に照らされても、どこか青ざめていた。唇を噛みしめて、何かを耐えているような表情。
(明日も、一緒に)
司は、春人と茉央の背中を見ながら、心の中で、その言葉を繰り返した。
(その明日が、来なければいいのに)
でも、司には分かっていた。
この明日が、来ないことを。
茉央が消えることを。
何度も、何度も、繰り返してきたことだから。
その夜。
茉央は、自室の机に向かっていた。
部屋の灯りは、柔らかなオレンジ色のスタンドライトだけ。窓の外では、月がキリハ川の水面を照らしている。
茉央は、日記を開いた。
今日あったことを、書く。それは、小学生の頃から続けている習慣だった。
『今日は、春人と司さんと三人で帰った。土手の夕日が綺麗だった。春人が、夕日の中ですごくかっこよく見えて、ちょっとドキドキした』
茉央は、そこまで書いて、ペンを止めた。
(なんでだろう)
胸の奥に、小さな引っかかりがある。
『前も、こんな日があった気がする』
茉央は、日記の端に、そう書き足した。
でも、すぐに消しゴムで消した。
「なんでだろう、前もこんな日があった気がする」
茉央は、声に出して呟いた。
消したはずの文字の跡が、ページに薄く残っている。
茉央は、日記を閉じようとして、ふと、洗面所へ行きたくなった。
立ち上がって、部屋の隅にある姿見の前に立つ。
鏡の中の自分。長い黒髪。茶色の瞳。左耳の後ろの小さなほくろ。いつもの自分の顔。
(疲れてるのかな)
茉央は、鏡の中の自分に、笑いかけた。
その瞬間。
鏡の中の自分の顔の輪郭が、一瞬、ぼやけた。
「……え?」
茉央は、目をこすった。
もう一度、鏡を見る。
そこには、いつもの自分の顔があった。
「疲れてるんだ、きっと」
茉央は、自分に言い聞かせるように、笑った。
(大丈夫。明日も、学校。春人に会える)
茉央は、机に戻って、日記を閉じた。
その時、左手首に、微かな熱を感じた。
「……あれ?」
茉央は、自分の左手首を見た。
そこには、何もない。熱は、もう消えていた。
「気のせいだよね」
茉央は、部屋の電気を消した。
暗闇の中、月明かりだけが、部屋の中を青白く照らしている。
茉央は、ベッドに横になった。
(明日、春人に、小説の続き、見せよう)
そう思って、目を閉じた。
その夜、茉央は、不思議な夢を見た。
自分が、キリハ川の土手を一人で歩いている夢。
夕日が綺麗で、でも、隣に誰もいなくて。
「春人?」
呼んでも、返事はない。
「司さん?」
呼んでも、誰もいない。
茉央は、土手の上で、一人で立ち尽くしていた。
(あれ、私、なんでここにいるんだっけ)
夢の中で、茉央は、自分の輪郭が、少しずつ薄くなっていくのを感じていた。
翌朝。
春人は、いつものように教室に入った。
朝の光が、窓から差し込んでいる。クラスメイトたちのざわめき。机を動かす音。いつもの朝の風景。
春人は、自分の席に向かいながら、隣の席を見た。
(あれ)
春人は、足を止めた。
隣の席に、何もない。
いや、正確には、机も椅子も、存在しなかった。
茉央の席が、なかった。
「……え?」
春人は、教室の中を見回した。
クラスメイトたちは、それぞれに朝の準備をしている。誰も、茉央の席がないことを気にしていない。いや、そもそも、茉央の席があったことすら、覚えていないようだった。
「ねえ、茉央の席、どこ?」
春人は、近くにいた男子生徒に声をかけた。
「茉央? 誰それ?」
男子生徒は、本気で首を傾げた。
「茉央だよ。隣の席の、黒髪の、文芸部の」
春人の声が、大きくなる。
教室の中の空気が、一瞬、止まった。
クラスメイトたちが、一斉に春人を見る。その目は、不審そうで、戸惑っていて、そして、少しだけ、春人を気味悪がっているようにも見えた。
「なあ、春人、大丈夫か? 隣の席なんて、最初から誰もいなかっただろ」
「そんなわけない! 昨日まで、茉央がいたんだよ!」
春人は、叫んでいた。
自分でも、何を言っているのか分からなくなりそうだった。
茉央の親友だったはずの女子生徒が、こっちを見ている。
「茉央って……誰?」
彼女は、本気で、何も覚えていなかった。
春人は、全身から力が抜けていくのを感じた。
(なんで。なんで、みんな)
その時、春人の腕を、強く掴む手があった。
振り返ると、司が立っていた。
司の顔は、青白かった。唇を噛みしめて、琥珀色の瞳が、今にも溢れそうな涙を必死に堪えている。
「春人……」
司は、春人の腕を掴んだまま、何も言えなかった。
「司さん、茉央は? 茉央はどこに行ったんだよ!」
春人は、司に詰め寄った。
司は、唇を震わせて、ただ、小さく首を振った。
「ごめん」
その一言だけが、司の口から、絞り出されるように出てきた。
「ごめんって、何が! 茉央はどこにいるんだよ! 昨日まで、一緒に帰っただろ!」
春人の声は、教室中に響いていた。
でも、誰も、茉央のことを知らない。
春人以外、誰も。
司だけが、春人の腕を掴んで、泣きそうな顔で、何度も「ごめん」と繰り返した。
その謝罪の意味を、春人は、まだ理解できなかった。
放課後。
春人は、一人でキリハ川の土手に来ていた。
教室には、いられなかった。茉央のいない教室は、あまりにも静かで、あまりにも残酷だった。
春人は、昨日、茉央と三人で歩いた道を、一人で歩いた。
夕日が、川の水面を赤く染めている。
(茉央)
春人は、昨日の茉央の言葉を思い出していた。
『この道、前も歩いた気がする』
『明日も、一緒に帰ろうね』
(明日も、一緒に)
春人は、昨日、確かに茉央とここを歩いた。確かに、茉央の指先が、自分の袖に触れた。
なのに、誰も茉央を覚えていない。
(これは、何なんだ)
春人は、土手の桜の木の下で、足を止めた。
風が吹いて、桜の葉が、さわさわと揺れた。
その時、春人の足元に、一枚の紙切れが落ちているのが目に入った。
春人は、それを拾い上げた。
紙切れには、丁寧な字で、一文だけ書かれていた。
『私は、川の向こうで、ずっとあなたを待っている』
それは、茉央が書いていた小説「川の向こう」の一文だった。
春人は、その紙切れを、両手で握りしめた。
(茉央は、確かにいたんだ)
この紙切れが、証拠だ。茉央の存在が、確かにあったという証拠。
春人の目に、涙が滲んだ。
(俺だけが、覚えてる)
春人は、初めて、この世界そのものへの怒りを感じた。
(なんで、茉央が消えなきゃいけないんだ)
風が吹いた。
川の水面に、夕日が乱反射して、きらきらと光っている。
春人は、紙切れをポケットにしまい、顔を上げた。
(司さんに、全部、聞く)
春人は、決意した。
司は、何かを知っている。茉央のことを、消えたことを、全部。
だから、問いただす。
春人は、土手を駆け出した。
夕日が、春人の背中を、赤く染めていた。
その夜、春人は、司を探した。
教室にもいない。屋上にもいない。司の家の前まで行ったが、灯りはついていなかった。
司は、どこにもいなかった。
春人は、キリハ川の土手で、一人で立ち尽くした。
(司さん……どこにいるんだよ)
ポケットの中で、茉央の小説の一文が書かれた紙切れが、くしゃりと音を立てた。
春人は、空を見上げた。
星が、瞬いている。
この街の、いつもの夜。
でも、何かが、決定的に変わってしまった。
茉央がいない世界。
春人は、その夜、一睡もできなかった。
そして、司は——
春人の知らない場所で、一人、茉央の消えた現実と向き合っていた。
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