毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
春人はどこにでもある地方都市で、平穏な高校生活を送っていた。澄み渡る空、同じ教室、変わらない友人たちの笑顔。毎朝、妹の日向がベッドに飛び込んでくる。幼なじみの茉央が笑顔で迎えてくれる。後輩の日向が下駄箱で待っている。なぜ自分がこんなに好かれているのか、春人にはわからない。ただ、優しい日々をそのまま受け入れていた。
そこへ転校生の司が現れる。ツンデレで、いつも強がっているのに、どこか寂しげ。春人は彼女が気になって仕方がない。なぜか司は春人をじっと見つめ、茉央や日向に妙に近づき、時には一人で泣きそうな顔をしている。春人には理由がわからない。
教室の片隅で、司は静かに誰かを見つめている。同じ場所で、同じ人々が同じ言葉を繰り返す。その反復に誰も気づかない——司を除いては。春人もまた、「茉央はいつもこの時間にいたっけ?」と呟く。言い知れぬ不安がよぎるが、司はすぐに話をそらす。
日々は甘く、優しく流れていく。突然黙り込んだ司の横顔に、春人は説明のつかない悲しみを見る。どうしたのかと尋ねると、彼女は「なんでもない」と笑って
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける - 巻き戻る土曜日 ―― 明日、消される私の告白
土曜日の夕方だった。
春人はキリハ川の堤に立っていた。昨日、茉央と日向を失った。いや、失ったという言葉すら生ぬるい。世界から、最初からいなかったことにされた。クラス名簿からも、皆の記憶からも、存在ごと刈り取られた。その事実が、春人の胸を冷たい手で締め上げ続けている。
(何で、俺だけが覚えてるんだ)
空はまだ明るい。夕日が川面を赤く染めていた。風が吹くたび、土手の草がざわざわと揺れる。春人はスマートフォンを手に、司からのメッセージを何度も読み返していた。
『夕方、キリハ川の堤で待ってる。話したいことがあるの』
短い文面だった。司が自分から呼び出すなんて、今までなかった。いつも強がって、軽口を叩いて、近づいてきてはすぐ離れる。そんな彼女が、たった一人で待っている。
春人は歩き出した。土手の上の道を、ゆっくりと。昨日の夜、屋上で泣き崩れた司の姿が頭から離れない。『私が守れなかった』と、何度も繰り返していた。守るって、何から。繰り返すって、何を。
分からないことだらけだった。でも、今はただ、司の顔を見たかった。
土手の途中に、司は立っていた。
明るい茶髪のサイドポニーテールが、夕風に揺れている。前髪を手で払う仕草。右耳の小さな銀色のピアスが、夕日を受けて一瞬光った。彼女はこちらに気づくと、一瞬だけ目を伏せて、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「来てくれたんだ」
その声は、いつものツンデレの仮面が薄れた、素の声だった。春人は司の前に立った。二人の間に、夕日が長い影を落としている。
「メッセージ、見たから」
「……そう」
司は小さく息を吐いて、川のほうへ体を向けた。夕日が彼女の横顔を照らしている。琥珀色の瞳が、蜂蜜のように透けて見えた。でも、その奥が、今にも溢れそうに潤んでいる。
「今日、呼び出したのはね」
司は川面を見つめたまま、言葉を続けた。
「言わなきゃいけないことがあるの。ずっと、言えなかったこと」
春人は黙って聞いていた。司の背中が、小さく震えている。
「私ね、アンタのこと……好きなの」
風が吹いた。
司の髪が、ふわりと揺れる。夕日が、川面に溶けていく。春人は、その言葉を、すぐには理解できなかった。
「ずっと、前から。最初から。何度も、何度も、アンタのことだけを……」
司の声が、震えていた。肩が、小刻みに揺れている。
「好きで、好きで、どうしようもなかった」
春人は動けなかった。
茉央と日向を矢継ぎ早に失った直後で、心が麻痺していた。誰かの想いを受け止める余裕なんて、どこにも残っていない。司の言葉が、耳には届いている。でも、心の奥まで届かない。表面を滑って、どこか遠くへ流れていく。
(好き、って)
その言葉の重さを、春人は感じられなかった。
司は、春人の無反応を、責めなかった。ただ、ゆっくりと振り返った。
その顔を見た瞬間、春人の胸が、ぎゅっと音を立てた。
司は、泣いていた。
大粒の涙が、琥珀色の瞳から溢れて、頬を伝って、顎の先から落ちていく。夕日に照らされて、涙の粒が金色に光った。司は、泣きながら、笑おうとしていた。
「ありがとう、聞いてくれて」
その笑顔は、春人が今まで見たどんな表情よりも、痛々しかった。
何度もこの告白を繰り返して、何度も届かぬまま消えてきた人間の、静かな諦念と祈りが、その笑顔の奥に張り付いていた。春人には、その理由は分からない。でも、司の笑顔が、悲鳴のように見えた。
「ごめんね、急に。でも、言わないと、もう……」
司は、涙を手の甲で拭った。でも、涙は止まらなかった。次から次へと溢れて、彼女の頬を濡らしていく。
春人は、一歩、司に近づいた。
何か言わなければ。そう思った。でも、言葉が出てこない。茉央と日向の顔が浮かぶ。消えた二人の笑顔が、春人の喉を塞いでいる。
「でもね、明日、私も消されるの」
司の言葉が、夕暮れの空気に染み込んでいった。
春人は、その意味を、一瞬理解できなかった。
「……消されるって、何を」
声が、掠れた。
司は、春人の問いには答えなかった。ただ、涙に濡れた瞳で、春人をまっすぐに見つめている。
「私、ずっと守ってきたの。茉央も、日向も、アンタも。誰も消えないように、誰も死なないようにって」
司の声が、堰を切ったように溢れ出した。
「横断歩道で車道側に立って、階段で転びそうな子を支えて、危ない場所に近づかないように、ずっと、ずっと見張ってきた。何度も、何度も、同じ一週間を繰り返して」
(同じ一週間を、繰り返して)
その言葉が、春人の頭の中で、こだました。
「でも、守るだけじゃ、救えないの」
司は、声を絞り出した。
「私が守っても、茉央は消えた。日向も消えた。何度繰り返しても、同じ場所で、同じように消えていく。私が何をしても、結果は変わらない」
司の涙が、夕日に溶けて消えていく。
「だから、もう、守るだけじゃ足りないの。私が消えても、アンタが気づけば、世界は変わるかもしれない」
春人は、司の言葉を、理解しようと必死だった。でも、言葉の意味が、バラバラになって、頭の中で散らばっていく。
(俺が気づけば、世界が変わる?)
「アンタにしか、できないことがあるの」
司は、一歩、春人に近づいた。
夕日が、二人を包み込む。川のせせらぎが、静かに響いていた。司の涙の匂いが、春人の鼻先に届く。
「お願い、春人。私のことも、茉央のことも、日向のことも、忘れないで」
司の手が、春人の胸に触れた。
小さな手だった。震えていた。でも、その手のひらから、確かな熱が伝わってくる。
「私が消えても、アンタだけは、覚えていて」
その瞬間、春人の左手首に、じわりと熱が広がった。
古い傷跡が、夕日の下で、うっすらと赤く浮かび上がる。鼓動のように、脈打っていた。
(まただ)
春人は、左手首を見下ろした。傷跡が、熱を帯びている。司の言葉と、茉央の言葉と、日向の言葉が、頭の中で重なり始めた。
『この道、前も歩いた気がする』
『なぜか、先輩のそばが落ち着くんです』
『私が消えても、アンタが気づけば』
(何かが、繋がってる)
春人の胸の奥で、何かが動いた。でも、それが何かは、まだ形にならない。もやもやとした霧のように、掴もうとすると逃げていく。
「返事は、いらないから」
司は、ゆっくりと春人から離れた。
「ただ、聞いてほしかっただけ。それだけで、いいの」
司は、涙を拭いながら、微笑んだ。その笑顔は、夕日に溶けて消えそうだった。
「じゃあね、春人」
司は、くるりと背を向けた。
そして、夕闇の中へ、走り去っていく。
春人は、追いかけようとした。足が、動かなかった。名前を呼ぼうとした。声が、出なかった。
司の後ろ姿が、みるみる小さくなっていく。サイドポニーテールが、夕闇に吸い込まれていく。右耳のピアスが、最後に一度だけ、きらりと光った。
(司さん)
春人は、その場に立ち尽くした。
川のせせらぎだけが、いつまでも響いていた。
——
日曜日の朝。
春人は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。布団の中で、司の言葉を反芻していた。
『明日、私も消される』
(まさか)
そう思いながらも、胸の奥では、確信に近いものがあった。茉央が消えた。日向が消えた。ならば、司が消えてもおかしくない。いや、消える順番からすれば、むしろ自然なのかもしれない。
春人は、勢いよく起き上がった。
リビングでは、陽菜が朝食の準備をしていた。中学生の妹は、春人の顔を見るなり、眉をひそめた。
「お兄ちゃん、また寝不足? 顔、すごいよ」
「ちょっとね」
春人は、朝食もそこそこに家を出た。陽菜が何か言っていたが、聞こえなかった。
外は、よく晴れていた。日曜日の朝の空気は、ひんやりとしていて、肌に心地いい。春人は、キリハ川の土手沿いの道を早足で歩いた。
(司さんは、学校にいるはず)
日曜日なのに、そんな根拠のない確信があった。司は、教室にいる。あの窓際の席で、一人で待っている。
トキワ高校の校門をくぐった。休日の校舎は、しんと静まり返っている。春人は、昇降口で上履きに履き替え、2年C組の教室へ向かった。
教室の扉を開ける。
誰もいなかった。
当たり前だ。日曜日だ。でも、春人の目は、真っ先に窓際の席に向かった。
(ない)
司の席が、なかった。
正確には、席はある。でも、司の名前が書かれた札が、ない。机の上には、何も置かれていない。まるで、最初から誰も座っていなかったかのように、整然と並んでいる。
春人は、教室の後ろの掲示板を見た。クラス名簿が貼ってある。
名前を探す。
春人。
(司の名前が、ない)
茉央の時と同じだった。日向の時と同じだった。世界が、司という存在を、最初からなかったことにしている。
春人は、教室を飛び出した。
屋上へ向かった。立ち入り禁止の扉を押し開ける。
誰もいなかった。
図書室へ行った。日曜日は閉まっている。でも、窓から中を覗いた。
誰もいなかった。
春人は、校舎を出て、アリエッタ・モールへ向かった。駅前のショッピングモールは、日曜日とあって人で賑わっている。春人は、1階のノクト・カフェへ走った。
カフェのドアを開けると、カウンターの奥から店長のシオリ・マドックが顔を出した。40代の穏やかな女性で、いつも柔らかい笑顔を浮かべている。
「あら、春人くん。珍しいわね、日曜に来るなんて」
「あの、司さん、来てませんか?」
春人は、息を切らしながら尋ねた。
シオリ・マドックは、首を傾げた。
「司さん……? ごめんなさい、誰かしら」
その言葉に、春人の体から、力が抜けていった。
(やっぱり)
茉央の時も、日向の時も、同じだった。皆、消えた人間のことを、最初から知らない。記憶の刈り取り。世界からの削除。
「春人くん、顔色が悪いわよ。座って、何か飲む?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
春人は、カフェを後にした。
アリエッタ・モールの外に出ると、日曜日の陽射しが、容赦なく照りつけていた。家族連れやカップルが、楽しそうに歩いている。その光景が、遠い世界のもののように感じられた。
春人は、一人で歩いた。
(茉央も、日向も、司も、消えた)
(全員、世界から消された)
(俺だけが、覚えてる)
春人の足が、自然とキリハ川の堤へ向かっていた。
——
夕方、春人は一人でキリハ川の堤に立っていた。
昨日、司が告白した場所。茉央と歩いた桜並木。日向と走った土手。そのすべてが、ここにある。
夕日が、川面を赤く染めていた。昨日と同じ夕日。でも、昨日とは違う。司がいない。茉央も、日向も、いない。
春人は、ポケットに手を入れた。指先が、一枚の紙切れに触れた。
取り出す。
茉央の小説の切り抜きだった。丁寧な字で、一文だけ書かれている。
『その人は、私が忘れても私を覚えていてくれる』
春人は、その紙切れを、夕日に透かした。
(茉央)
『私が忘れても、私を覚えていてくれる』
(日向)
『なぜか、先輩のそばが落ち着くんです』
(司)
『私が消えても、アンタが気づけば、世界は変わるかもしれない』
三人の言葉が、頭の中で、一斉に重なった。
その瞬間だった。
春人の左手首の傷跡が、強く熱を帯びた。
(あつい)
春人は、左手首を押さえた。古い傷跡が、まるで燃えているかのように熱い。鼓動のように、脈打っている。ドクン、ドクン、ドクン。
(何だ、これは)
春人の脳裏に、映像が走馬灯のように流れ込んできた。
司の告白の涙。
茉央の『この道、前も歩いた気がする』という呟き。
日向の笑顔。
そして、毎晩見る、忘れられない夢の断片。
同じ朝。同じ教室。同じ言葉。同じ笑顔。繰り返される日常。何度も、何度も、何度も。
(俺は……)
春人は、川面に映る自分の顔を見つめた。
夕日に染まった水面に、自分の顔が揺れている。
(俺は、同じ週を、何度も繰り返してるんじゃないのか)
その考えが、初めて、意識の表面に浮上した。
漠然とした違和感ではなかった。根拠のない不安でもなかった。確かな疑いとして、春人の心を掴んだ。
(茉央が消えた。日向が消えた。司が消えた。でも、俺は覚えてる)
(なら、今度こそ)
春人は、拳を握りしめた。
左手首の傷跡が、まだ熱い。その熱が、春人の体の奥に、小さな火を灯していた。
——
日曜日の夜。
春人は、自室の机に向かっていた。
部屋の明かりは、デスクライトだけ。窓の外では、キリハ川が静かに流れている。街の明かりが、遠くで瞬いていた。
春人は、真っ白なノートを開いた。
新品のノートだった。文芸部で使うために買った、何の変哲もないノート。春人は、ペンを手に取った。
(もし、明日がまた同じ月曜日なら)
ペン先が、震えていた。
(もし、俺の考えが正しいなら)
春人は、ノートの一ページ目に、ペンを置いた。
『月曜日』
たった三文字。でも、その三文字を書くのに、春人は全身の力を振り絞った。
ペン先が震え、インクが一点に滲む。黒い染みが、白い紙の上で、ゆっくりと広がっていった。
(俺は、今度こそ)
春人は、左手首の傷跡を見つめた。
デスクライトの光の下で、古い傷跡が、白く浮かび上がっている。
(この傷は、何度も反復の中で、刻まれた痕跡なんじゃないか)
根拠はない。でも、確信があった。この傷が、ループの鍵を握っている。何度も繰り返される中で、自分自身に刻まれた、唯一の印。
春人は、ノートに書き足した。
『茉央』
『日向』
『司』
三人の名前。消えた三人の、存在の記録。
(絶対に、忘れない)
春人は、ペンを置いた。
窓の外では、キリハ川が静かに流れている。街の時計が、明日の月曜日を刻もうとしていた。
春人は、眠らなかった。
朝まで、ずっと、ノートを見つめていた。
(もし、明日が本当にまた同じ月曜日なら)
(今度こそ、茉央を、日向を、司を——)
言葉にならない決意が、春人の胸の中で、静かに燃えていた。
司は、もういない。
でも、春人は、確かに動き始めていた。
受け身の被害者から、反復に抗う主体へ。
その変化は、まだ誰にも見えない。
でも、確かに、始まっていた。
窓の外で、夜が明けようとしている。
新しい月曜日が、静かに近づいていた。Noveliaとは?
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