毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
春人はどこにでもある地方都市で、平穏な高校生活を送っていた。澄み渡る空、同じ教室、変わらない友人たちの笑顔。毎朝、妹の日向がベッドに飛び込んでくる。幼なじみの茉央が笑顔で迎えてくれる。後輩の日向が下駄箱で待っている。なぜ自分がこんなに好かれているのか、春人にはわからない。ただ、優しい日々をそのまま受け入れていた。
そこへ転校生の司が現れる。ツンデレで、いつも強がっているのに、どこか寂しげ。春人は彼女が気になって仕方がない。なぜか司は春人をじっと見つめ、茉央や日向に妙に近づき、時には一人で泣きそうな顔をしている。春人には理由がわからない。
教室の片隅で、司は静かに誰かを見つめている。同じ場所で、同じ人々が同じ言葉を繰り返す。その反復に誰も気づかない——司を除いては。春人もまた、「茉央はいつもこの時間にいたっけ?」と呟く。言い知れぬ不安がよぎるが、司はすぐに話をそらす。
日々は甘く、優しく流れていく。突然黙り込んだ司の横顔に、春人は説明のつかない悲しみを見る。どうしたのかと尋ねると、彼女は「なんでもない」と笑って
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける - 巻き戻る金曜日 ―― いない人のための涙
違う、と思った。
頭では分かっている。いや、分かっているつもりだった。昨日、茉央が消えた。教室から、クラス名簿から、皆の記憶から、世界から。それが現実で、夢でも何でもないことを、春人は痛いほど知っていた。なのに、今朝のこの感覚は何なのか。
(おかしい)
春人は目を閉じた。まぶたの裏に、昨日の教室の光景が浮かぶ。茉央の席が、最初からなかったかのように消えていた。皆が不思議そうな顔で春人を見ていた。司だけが、泣きそうな顔で、何度も「ごめん」と繰り返していた。
(日向、だ)
そう言い聞かせてみる。でもその言葉は、空虚に胸の中で響いた。日向がどうしたというのか。茉央が消えた翌朝に、何をそんなに不安がっているのか。自分でも説明できない。なのに、胸の奥がざわついて、どうしても落ち着かない。
金曜日の朝だった。
カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより白っぽく見える。春人はベッドの上で、しばらく天井を見つめていた。体は鉛のように重い。昨日の疲れが、骨の芯まで染み込んでいるようだった。
「お兄ちゃん、朝だよ!」
ドアの向こうから、陽菜の声がした。中学二年生の妹は、毎朝決まった時間に春人を起こしに来る。その声は、昨日も、一昨日も、きっと明日も変わらない。春人はゆっくりと体を起こした。
「起きてるよ」
声が、少し掠れていた。自分の声なのに、遠くから聞こえるみたいだった。
陽菜がドアを開けて顔を覗かせる。短い黒髪が、朝の光を弾いて揺れた。彼女は春人の顔を見て、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。
「……寝不足? 顔、すごいよ」
「ちょっとね」
春人は曖昧に笑った。陽菜はそれ以上追及せず、いつものように明るい声で「ご飯できてるからね」と言い残して、階下へ降りていった。
春人は洗面所に向かい、鏡を見た。
そこに映る自分の顔は、たしかにひどいものだった。目の下にはうっすらと隈ができ、唇は乾いて白っぽい。昨日一睡もできなかったせいだ。茉央のことを考えると、眠ることすら許されない気がした。
(それに、日向)
春人は蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。水の冷たさが、ぼんやりとした頭を無理やり覚醒させる。タオルで顔を拭いながら、もう一度鏡を見た。
(なんで、日向のことを考えてるんだ)
自分でも分からなかった。茉央が消えたことと、日向がどう関係するのか。何の根拠もない。でも、朝起きた瞬間から、ずっと引っかかっている。心の奥に、小さな棘が刺さったままで、取れない。
リビングに降りると、陽菜が朝食の準備を終えていた。テーブルの上には、ご飯と味噌汁、卵焼き、昨日の残りの煮物が並んでいる。春人の席の前にだけ、箸と茶碗がきちんと揃えられていた。
「今日、早く行くんでしょ?」
陽菜が、味噌汁をすすりながら言った。
「え?」
「なんか、いつもより早く家出るのかなって。お兄ちゃん、金曜はよく早く行くじゃん」
春人は箸を止めた。
(金曜は、早く行く)
そうだ。金曜の朝は、いつも早く家を出る。理由は、一つしかない。
「……日向が、待ってるから」
その言葉が、口から出た瞬間、春人の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
日向。一年生の、後輩。毎朝、下駄箱の前で待ち伏せしている。春人の上履きを、いつも先に出しておいてくれる。手書きの小さなメモを、こっそり手渡してくる。そのメモには、他愛のない一言が書いてある。「今日もがんばってください」「お昼、一緒に食べたいです」「昨日、先輩が笑ってくれて嬉しかったです」——そんな、本当に些細な言葉。
(日向は、今日も来る)
春人は、箸を置いた。
「お兄ちゃん?」
「先に行くね」
春人は立ち上がり、鞄を手に取った。陽菜が何か言いたそうな顔をしたが、構っていられなかった。玄関で靴を履き、勢いよくドアを開ける。外の空気が、冷たく肌に触れた。
春人は、走った。
家からトキワ高校までは、歩いて二十分ほどの距離だ。キリハ川の土手沿いの道を抜け、商店街の裏道を通り、住宅街の坂を上る。春人は息を切らしながら、いつもの通学路を駆け抜けた。
(日向が、待ってる)
その思いだけが、春人の足を動かしていた。
校門に着いたとき、春人の呼吸は完全に乱れていた。肩で息をしながら、下駄箱へ向かう。朝の校舎はまだ静かで、廊下には誰もいない。
下駄箱の前に立つ。
誰も、いなかった。
春人は、その場に立ち尽くした。
(日向が、いない)
下駄箱の前には、誰もいない。いつもなら、ここで日向が待っている。笑顔で、両手を後ろに組んで、少し照れくさそうに。春人が来るのを見つけると、ぱあっと顔を輝かせて、小走りに近づいてくる。
それが、ない。
春人は、自分の上履きを出そうと、下駄箱の扉を開けた。
上履きは、あった。
でも、いつもと違う。日向が毎朝、先に出しておいてくれる。その上履きの上に、手書きのメモが置かれている。それが、ない。
ただ、自分の上履きが、無造作に置かれているだけだった。
(日向は、どうしたんだ)
春人は上履きに履き替えながら、頭の中で何度も同じことを繰り返した。風邪でも引いたのか。寝坊したのか。家の用事か。理由はいくらでも考えられる。
(でも)
茉央が消えた翌日に、日向が来ない。
それが、ただの偶然だとは、どうしても思えなかった。
教室に向かう。二階の廊下を歩き、2年C組の教室の前に立つ。春人は深呼吸をして、ドアを開けた。
教室の中は、まだ数人しかいなかった。窓際の席で、数人のクラスメイトが小声で話している。春人が入ってきても、誰も気づかない。
春人は自分の席に座り、鞄を机の横にかけた。それから、教室の後方、一年生の教室がある一階の方角を、ぼんやりと見つめた。
(日向の教室は、一階の……)
春人は、記憶を辿ろうとした。日向の教室がどこだったか。クラスは、何組だったか。
(分からない)
愕然とした。日向の教室が、何組だったか、思い出せない。いや、思い出せないというより、最初から知らなかったような感覚。春人は、日向のことを、どれだけ知っていたのだろう。
(いつも、下駄箱で待っててくれたから)
教室まで行ったことは、一度もない。日向がどのクラスで、どんな友達と一緒にいるのか、春人は何も知らなかった。
「春人、おはよ」
声がして、顔を上げる。同じクラスの男子生徒が、眠そうな顔で挨拶してきた。春人は軽く手を上げて応えた。
(そうだ、聞いてみよう)
春人は、近くにいたクラスメイトに声をかけた。
「ねえ、ちょっといいかな」
「ん? 何?」
「今日、日向って子、見なかった? 一年の」
クラスメイトAは、首を傾げた。
「ひなた?」
「うん。一年生の、日向。下駄箱のところで、いつも待ってる子なんだけど」
クラスメイトAは、ますます不思議そうな顔をした。
「……誰、それ?」
春人の呼吸が、止まった。
「誰って、日向だよ。一年の」
「いや、知らない。うちの学校に、そんな名前の子いたっけ?」
春人は、言葉を失った。
(知らない? 日向を知らない?)
「お前、昨日から変だよ。大丈夫か?」
クラスメイトAは、本気で心配そうな顔をして、春人の顔を覗き込んだ。
「……うん、ごめん。なんでもない」
春人は、かすれた声で答えた。
クラスメイトAは、まだ心配そうだったが、それ以上は何も言わずに自分の席へ戻っていった。
春人は、机の上に突っ伏した。
(まただ)
昨日と同じだ。茉央が消えた時と、全く同じ。誰も、日向のことを知らない。名前すら、認識していない。
(日向も、消えたのか)
春人の胸の奥で、何かが音を立てて崩れていくのを感じた。茉央に続いて、日向まで。世界が、春人の周りから、大切な人を一人ずつ、奪っていく。
(なんで、俺だけが覚えてるんだ)
春人は、唇を噛みしめた。口の中に、鉄の味が広がる。
昼休み。
春人は、教室の自分の席で、ぼんやりと窓の外を見ていた。空は、朝の白っぽさが嘘のように、澄み切った青を広げている。雲一つない、完璧な晴天。
(日向が、いない)
午前中の授業は、全て上の空だった。先生の声も、クラスメイトの話し声も、遠くの雑音のようにしか聞こえない。頭の中は、日向のことだけでいっぱいだった。
日向の笑顔。日向の声。日向が差し出してくれた、手書きのメモ。
「先輩、おはようございます!」
いつもの、明るい声。
「今日も、がんばりましょうね!」
無邪気な、笑顔。
「あの、これ……読んでください」
少し照れたように差し出される、小さな紙切れ。
(あのメモ、全部捨てちゃったな)
春人は、ふと、そう思った。日向からもらったメモは、その場で読んで、いつもポケットに入れたままにしていた。洗濯の時に、母が捨ててしまっていたかもしれない。
(一枚も、残ってない)
日向が存在していた証拠は、何も残っていない。
「春人くん」
突然、声をかけられた。顔を上げると、茉央の親友だった女子生徒が、心配そうな顔で立っていた。
「……うん」
「大丈夫? 昨日から、すごく顔色悪いよ」
彼女は、春人の席の前にしゃがみ込んで、春人の顔を覗き込んだ。
「ありがとう。ちょっと、寝不足なだけだから」
春人は、曖昧に笑った。
「無理しないでね。……あのさ、春人くん」
「なに?」
「昨日も思ったんだけど、春人くん、なんか変だよ。ずっと、誰かを探してるみたいな顔してる」
春人は、何も言えなかった。
「私でよければ、話聞くよ?」
彼女の優しさが、今はただ、苦しかった。話したところで、信じてもらえるはずがない。茉央のことも、日向のことも、世界から消えてしまった人間のことを、誰が信じてくれるというのか。
「ありがとう。でも、大丈夫だから」
春人は、そう言うのが精一杯だった。
放課後。
春人は、一人でキリハ川の土手に来ていた。
(日向と、茉央と、三人で遊んだ場所)
幼い頃、春人と茉央と日向は、よくこの土手で遊んでいた。日向はまだ小さくて、茉央が面倒を見て、春人は二人の後ろをゆっくり歩いていた。
(日向が、歌ってた)
日向は、よく鼻歌を歌っていた。春人は、そのメロディを覚えている。題名は知らない。でも、日向が歌うと、いつも楽しい気持ちになった。
春人は、土手の上を歩きながら、日向の鼻歌を口ずさんでみた。
(♪——)
音にはならない。でも、頭の中で、確かにメロディが流れる。日向の声で、日向の笑顔と一緒に。
河川敷公園のベンチに座る。
(ここで、よく三人で座った)
茉央が真ん中で、春人と日向が両側。夕方になると、空がオレンジ色に染まって、川の水面がきらきら光って。日向が「きれいだね」と言って、茉央が「そうだね」と笑って、春人が「うん」と頷く。
(あの日々は、確かにあった)
春人は、ベンチの背もたれに体を預けて、空を見上げた。
(でも、今は、誰も覚えていない)
日向がここで遊んでいたことも、茉央と三人で笑っていたことも、世界は全部、なかったことにした。
春人は、立ち上がった。
土手の桜の木の下へ行く。幼い頃、三人でこの木に登ろうとして、日向が転んで泣いたことがあった。茉央が慌てて駆け寄って、春人が日向の頭を撫でた。
(あの時、日向の手に、擦り傷ができた)
春人は、桜の木の幹に触れた。
(三人で、ここに落書きしたはずだ)
幹の根元に、三人の名前を書いた記憶がある。春人と茉央と日向、三人の名前を、小さく。
春人は、しゃがみ込んで、桜の木の根元を探した。
何も、なかった。
(落書きが、ない)
幹の表面は、つるりとしていた。傷も、文字も、何も残っていない。
春人は、河川敷公園のあちこちを歩き回った。三人で遊んだ滑り台。日向がよく隠れていた茂み。茉央が花を摘んでいた場所。
どこにも、三人の痕跡はなかった。
(写真も、思い出の品も、全部ない)
春人は、膝をついた。
(日向の鼻歌だけが、俺の中に残ってる)
それが、残酷だった。世界から消えた日向の存在を、春人の中にだけ残っている記憶が、証明している。
(なんで、俺だけが)
春人は、川面を見つめた。
川の水は、夕日を反射して、赤く染まっていた。その水面に、自分の顔が映っている。
(俺は、何もできなかった)
茉央も、日向も、消える前に、何かできたはずだ。違和感は、あった。何かがおかしいと、心のどこかで気づいていた。
(なのに、何もしなかった)
春人は、拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。痛みが、現実を引き戻す。
(この世界が、二人を奪った)
春人の胸の奥で、初めて、明確な怒りが湧き上がった。世界そのものへの、怒り。何の理由もなく、大切な人を消していく、この穏やかな街への、恐怖と怒り。
「……くそ」
春人は、声を絞り出した。
涙は、出なかった。悲しみが、怒りに変わる瞬間だった。
夕暮れの土手。
春人は、ポケットから、一枚の紙切れを取り出した。
昨日、この土手で拾った、茉央の小説の切り抜き。
『私は、川の向こうで、ずっとあなたを待っている』
丁寧な字で、そう書かれていた。
春人は、その紙切れを、夕日に透かして見た。
(茉央は、消える前に、何かを感じていた)
茉央は、消える前の日、「この道、前も歩いた気がする」と言った。「明日も、一緒に帰ろうね」と言った。
(茉央は、知っていたのかもしれない)
自分が、消えるかもしれないことを。無意識のうちに、感じ取っていたのかもしれない。
春人は、紙切れを握りしめた。
(司さんに、全部、聞く)
司は、何かを知っている。茉央が消えた時、司は「ごめん」と繰り返した。それは、ただの謝罪ではなかった。司は、茉央が消えることを、知っていた。
(司さんは、何を知ってるんだ)
春人は、立ち上がった。
夕日が、土手を赤く染めている。川の向こうに、トキワ市の街並みが広がっていた。
(あの街で、司さんは、何を知ってるんだ)
春人は、スマホを取り出した。司の連絡先を探す。
着信音が、数回鳴った。
——出ない。
春人は、もう一度かけた。
——出ない。
(司さん、どこにいるんだ)
春人は、土手を駆け出した。
夜。
春人は、学校の校門の前に立っていた。
(司さんが、屋上にいる)
なぜか、そう思った。根拠はない。でも、司は、あの屋上にいる気がした。
春人は、校門をくぐり、校舎へ向かった。夜の校舎は、静かで、不気味だった。月明かりが、廊下を白く照らしている。
屋上へ続く階段を上る。
屋上のドアは、少しだけ開いていた。
春人は、ドアを押し開けた。
屋上には、風が吹いていた。
フェンスの前に、司が立っていた。
明るい茶髪のサイドポニーテールが、夜風に揺れている。彼女は、フェンスに手をかけて、街の明かりを見下ろしていた。
「司さん」
春人が声をかけると、司の肩が、ぴくりと震えた。
司は、ゆっくりと振り返った。
月明かりに照らされた司の顔は、青白くて、今にも泣き出しそうだった。琥珀色の瞳が、潤んでいる。
「……来たんだ」
司の声は、かすれていた。
「話があるんだ」
春人は、司に近づいた。
「茉央のことも、日向のことも、知ってるんだろ」
司は、何も言わなかった。
「なんで、誰も覚えてないんだ。なんで、二人とも消えなきゃいけないんだ」
春人の声が、震えていた。
司は、唇を噛みしめた。
「お前は、何を知ってるんだ」
春人が、一歩踏み出す。
司は、一歩後ずさった。
「……ごめん」
司の口から、小さな声が漏れた。
「ごめんじゃない。答えてくれ」
「ごめん……私が、守れなかった」
司の声が、震えていた。
「守るって、何からだよ」
「茉央も、日向も、私がちゃんとできなかったから……」
司の瞳から、涙が溢れた。
「ちゃんとできなかったから、消えたの。私のせいなの」
「何を言ってるんだよ!」
春人の声が、屋上に響いた。
「お前のせいなわけないだろ! お前が何をしたって、茉央が消えるはずないだろ!」
「でも、私が……私が、もっと早く気づいていれば……」
司は、その場に崩れ落ちた。
膝をつき、両手で顔を覆って、声を押し殺して泣き始めた。
「茉央も、日向も、私が守れなかった。何度も、何度も、同じことを繰り返して……それでも、私は、また……」
司の言葉は、途切れ途切れで、意味をなしていなかった。
春人は、泣き崩れる司の前に立ち尽くした。
(何を言ってるんだ、この人は)
何度も、同じことを繰り返して——。
その言葉が、春人の頭の中で、こだました。
(繰り返して?)
春人は、司の隣にしゃがみ込んだ。
「司さん」
春人は、司の震える肩に、そっと手を置いた。
司の体が、びくりと震えた。
「私のせいなの……全部、私が悪いの……」
司は、泣きながら、何度も同じことを繰り返した。
春人は、何も言えなかった。
司の言っていることが、理解できない。守るって何か。繰り返すって何か。何度も、何度も——。
(でも、司さんは、苦しんでる)
春人には、それだけは分かった。司が、茉央と日向のことで、自分を責めている。理由は分からない。でも、司は、本気で苦しんでいて、本気で泣いている。
春人は、司の肩を、抱き寄せた。
司の体が、春人の胸に、凭れかかってきた。
「ごめん……ごめんね、春人……」
司は、春人の胸元で、泣き続けた。
春人は、何も言わずに、司の背中を、そっと撫でた。
(俺は、何も分からない)
茉央が消えた理由も、日向が消えた理由も、司が泣いている理由も、何も分からない。
(でも、今は、こうすることしかできない)
春人は、司を抱きしめたまま、フェンスにもたれかかった。
夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
司の泣き声が、風に混じって、消えていく。
(この街は、何かを隠してる)
春人は、フェンス越しに、トキワ市の街明かりを見下ろした。
穏やかな、静かな、どこにでもある地方都市。
(この街が、俺から、何かを奪い続けてる)
その疑念は、まだ、言葉にならなかった。
でも、春人の胸の奥で、確かに、何かが動き始めていた。
司は、春人の胸元で、顔を上げた。
涙で濡れた瞳で、春人の顔を見上げる。
「春人」
司の唇が、動いた。
「明日、私も……」
司は、そこまで言って、言葉を飲み込んだ。
春人は、司の言葉の続きを待った。
でも、司は、何も言わなかった。
ただ、春人の胸に、顔を埋めた。
春人は、司の背中に回した手に、力を込めた。
その時だった。
春人の左手首に、じわりと、熱が広がった。
(まただ)
春人は、左手首を見た。
古い傷跡が、月明かりの下で、うっすらと白く浮かび上がっている。
その傷跡が、熱を帯びていた。
(この傷は、いったい)
春人は、傷跡に触れた。
指先に、熱が伝わる。
(何かが、繋がってる)
茉央の消失。日向の消失。司の涙。左手首の傷跡。
全てが、何か大きなものと繋がっているような気がした。
でも、それが何かは、まだ分からない。
春人は、司を抱きしめたまま、静かに目を閉じた。
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