毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける
春人はどこにでもある地方都市で、平穏な高校生活を送っていた。澄み渡る空、同じ教室、変わらない友人たちの笑顔。毎朝、妹の日向がベッドに飛び込んでくる。幼なじみの茉央が笑顔で迎えてくれる。後輩の日向が下駄箱で待っている。なぜ自分がこんなに好かれているのか、春人にはわからない。ただ、優しい日々をそのまま受け入れていた。
そこへ転校生の司が現れる。ツンデレで、いつも強がっているのに、どこか寂しげ。春人は彼女が気になって仕方がない。なぜか司は春人をじっと見つめ、茉央や日向に妙に近づき、時には一人で泣きそうな顔をしている。春人には理由がわからない。
教室の片隅で、司は静かに誰かを見つめている。同じ場所で、同じ人々が同じ言葉を繰り返す。その反復に誰も気づかない——司を除いては。春人もまた、「茉央はいつもこの時間にいたっけ?」と呟く。言い知れぬ不安がよぎるが、司はすぐに話をそらす。
日々は甘く、優しく流れていく。突然黙り込んだ司の横顔に、春人は説明のつかない悲しみを見る。どうしたのかと尋ねると、彼女は「なんでもない」と笑って
毎朝おなじ朝がくる。だからわたしは、きみを一番愛する者を守りつづける - 巻き戻る水曜日 ―― 何度目の雨か、私は知っている
放課後になると、空はまだ明るかった。窓の外の青が、少しだけ白っぽく濁り始めている。春人は鞄を肩にかけ直しながら、教室の時計をちらりと見た。四時を少し回ったところだ。
「春人、今日さ、バイトまで時間あるんだよね」
隣の席から茉央が声をかけてきた。長い黒髪を一つ結びにした、幼い頃からずっと隣にいる少女だ。彼女は笑いながら、机の上に置いたままのノートを鞄にしまっている。その動きはいつも通りで、まるで毎日同じ朝が来るように、茉央は毎日同じ調子で春人の隣にいる。
「うん、まあ。部活は今日ないし」
春人は曖昧に答えた。文芸部の活動日は月・水・金のはずだが、今日の水曜日は顧問のイチカワ先生が会議で来られないらしく、部室は使えないと朝の連絡で回っていた。だから春人は今日、真っ直ぐ家に帰るつもりでいた。
「じゃあさ、ノクト来なよ。私、今日シフト入ってるの。サービスしてあげる」
ノクト——トキワ駅前のショッピングモール、アリエッタの一階に入っているカフェだ。茉央はそこで週に何度かアルバイトをしている。春人は何度か行ったことがある。木の温もりが感じられる内装で、学生でも入りやすい雰囲気の店だった。
「サービスって、茉央が何かしてくれるの?」
「ふふ、行ってからのお楽しみだよ」
茉央はいたずらっぽく笑った。口元に小さなえくぼが浮かぶ。春人はその笑顔を見て、まあいいか、と思う。断る理由も特にない。家に帰っても陽菜はまだ学校だし、一人で過ごすには少し長い午後だった。
「じゃあ、行こうかな」
「決まり! じゃ、準備して校門で待ち合わせね」
茉央は嬉しそうにそう言って、先に教室を出ていった。春人はその後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと立ち上がる。窓の外では、風が校庭の木々を揺らしていた。遠くで、下校する生徒たちの声が聞こえる。
春人は教室を出る前に、ふと窓際の一番後ろの席を見た。そこには誰もいない。転校生の司の席だ。彼女は今日もどこかへ消えてしまったらしい。昼休みまでは教室にいたのに、放課後になるとすぐにいなくなる。春人は少しだけ気になったが、深く考えることなく廊下へ出た。
校門で茉央と合流し、二人は並んで歩き出す。トキワ高校からトキワ駅までは、歩いて十五分ほどの道のりだ。途中、キリハ川の土手沿いを抜ける。川面が午後の光を反射して、きらきらと細かく揺れていた。
「今日、部活なかったから久しぶりに春人と帰れるね」
茉央が春人の左側を歩きながら言う。彼女は昔から、春人と並ぶときは自然に左側に来る。春人はそのことを、意識したことすらなかった。ただ、茉央が左にいるのが当たり前だった。
「そうだね。最近、部活ばっかりだったし」
「春人、部誌の原稿全然進んでないでしょ。イチカワ先生に怒られても知らないよ」
「別に、怒られないよ。先生、優しいし」
「そういう問題じゃないんだよ、もう」
茉央が笑う。その声は、川のせせらぎと混ざって、春人の耳に心地よく届いた。空は少しずつ雲が増えてきている。朝は晴れていたのに、午後からは天気が崩れるかもしれない。春人は空を見上げて、傘を持ってきていないことを思い出した。
「あれ、もしかして雨降るのかな」
「天気予報では夕方からにわか雨って言ってたよ。春人、傘ないの?」
「忘れちゃった。朝は晴れてたから」
「相変わらずだね。まあ、私の折り畳み傘、店に置いてあるから。帰りはそれ使えば?」
茉央はそう言って、自分の鞄をぽんぽんと叩いた。彼女はいつも準備がいい。春人は曖昧に頷いて、再び前を向いた。
トキワ駅前のアリエッタ・モールに着くと、平日の夕方ということもあって、館内は学生や買い物客でにぎわっていた。一階の奥にあるノクト・カフェは、ガラス張りの入り口から中の暖かな照明が見える。木目調のカウンターと、小さな丸テーブルが並ぶ、落ち着いた店だ。
「いらっしゃい、春人。今日は店長がサービスしてくれるって」
茉央が店の奥から顔を出した。制服の上に、ノクトの焦げ茶色のエプロンを着けている。白いシャツの袖をまくって、手際よくカップを拭いている姿は、学校で見る彼女とは少し違って見えた。春人はその姿に、なんとなく気恥ずかしさを覚える。幼馴染の、知らない一面を見たような気分だった。
「サービスって、店長がしてくれるの?」
「そうだよ。私がサービスするって言ったら、店長が『じゃあ私も』って。春人、もてるね」
茉央がからかうように言う。春人は困って、頭をかいた。奥のカウンターから、四十代くらいの女性が笑顔でこちらを見ている。柔らかな茶色の髪を一つにまとめた、穏やかな雰囲気の女性だ。ノクト・カフェの店長、シオリ・マドックさん。春人は何度か会ったことがある。いつも優しい声で、客に話しかける人だった。
「いらっしゃい、春人くん。今日は茉央ちゃんが朝から楽しみにしてたのよ」
「え、そうなんですか?」
「店長、そういうこと言わないでください!」
茉央が顔を赤くして、店長の腕を軽く叩く。シオリ・マドックはくすくすと笑いながら、カウンターの奥へ引っ込んでいった。春人はそのやりとりを見ながら、なんだか温かい気持ちになる。こういう時間が、自分は好きだ。穏やかで、何も変わらない時間。
春人は窓際の席に座った。テーブルの上には、小さな花瓶に一輪の花が飾られている。白い花。名前は分からない。春人は鞄からスマホを取り出して、時間を確認した。四時半。茉央のシフトは六時までらしい。
「春人、何飲む? 今日はサービスだから、好きなの頼んでいいよ」
茉央が注文を取りに来た。エプロンのポケットにオーダー表を挟んで、笑顔で春人を見下ろしている。春人はメニューを開いた。ブレンド珈琲、カフェラテ、ミルクレープ。どれも美味しそうだ。
「じゃあ、カフェラテと……ミルクレープもいいかな」
「いいね。私のおすすめはミルクレープなんだよ。すぐ持ってくるね」
茉央はそう言って、軽やかにカウンターへ戻っていった。春人はその背中を見送りながら、窓の外を眺める。空はさらに雲が厚くなって、遠くで雷の音が聞こえたような気がした。
それからしばらくして、春人の前にカフェラテとミルクレープが運ばれてきた。ミルクレープには粉砂糖がかかっていて、断面の層が綺麗に見える。春人はフォークを手に取った。
「いただきます」
一口食べる。クリームが柔らかくて、甘さが控えめで食べやすい。春人は素直に美味しいと思った。茉央がおすすめするだけのことはある。
そのとき、店の入り口のドアが開く音がした。春人が顔を上げると、そこには見慣れた茶色のサイドポニーテールが揺れていた。明るい茶髪の毛先が少し跳ねていて、前髪が目にかかりそうなのを、彼女は手で払う。琥珀色の瞳が、店内を見回して、春人を見つけた。
転校生の司だった。
司は一瞬、足を止めた。春人と目が合う。彼女の表情が、ほんの少しだけ固くなる。けれどすぐに、いつもの強がった顔に戻った。
「なんでアンタがここにいるのよ」
司が近づいてきて、春人の席の前に立った。小柄な体を制服に包んで、腕を組んでいる。その姿勢はいつも通りで、春人は思わず笑ってしまった。
「茉央に誘われて来たんだよ。司さんこそ、どうしたの?」
「べ、別に。私がどこにいようと、アンタには関係ないでしょ」
司はそう言って、春人の向かいの席に座ろうとした。けれど、その前に茉央が奥から出てきて、司を見つけた。
「あ、司さん! こっち空いてるよ!」
茉央が笑顔で手を振る。司は一瞬、茉央の顔を見て、それから春人を見た。春人は何も言わずに、ただ笑って頷いた。司は少し迷ったような顔をしたが、結局、春人の向かいの席に腰を下ろした。
「別に、来たかったわけじゃないから。雨が降りそうだったから、雨宿りに寄っただけよ」
司が言い訳をするように言う。春人は「ふぅん」と相槌を打った。本当に雨宿りなら、別にこの店じゃなくてもいいはずだ。でも、それを指摘するほど野暮ではない。
「司さん、何飲む? 今日は店長がサービスしてくれるんだって」
茉央が司の前に水の入ったグラスを置きながら言った。司はメニューを手に取って、しばらく眺める。それから、小さな声で「ブレンドでいいわ」と答えた。
「かしこまりました」
茉央は笑って、カウンターへ戻っていく。司はその後ろ姿を、何かを確かめるように見つめていた。春人はその視線に気づいたが、何も言わなかった。
「……アンタ、よくあの子と一緒にいるわね」
司が、ぽつりと言った。春人はカフェラテを一口飲んでから答える。
「茉央とは、幼稚園の頃から一緒だから。もう、家族みたいなものだよ」
「家族、みたいなもの……」
司が小さく繰り返した。その声は、春人に聞こえるか聞こえないかの、かすかなものだった。春人は司の顔を見る。彼女は窓の外を見ていた。厚い雲が空を覆っていて、さっきよりも外は暗くなっている。
「司さんは、この街に来てまだ日が浅いよね。友達とか、できた?」
春人が尋ねると、司は肩をすくめた。
「別に、友達なんていらないし。一人で十分よ」
その言い方は、いつもの強がりだった。けれど春人には、その言葉の裏に、何か別のものが隠れているように感じられた。寂しさ、というほど大げさではない。もっと小さな、言葉にしにくいもの。
「でもさ、茉央は司さんと話すの、楽しそうだったよ。昨日も、階段で日向を助けてくれたって聞いたし」
司の手が、一瞬だけ止まった。彼女は春人を見て、それから視線を落とす。
「あれは、たまたまよ。あの子が転びそうだったから、支えただけ」
「たまたまでも、助かったんだから。ありがとう」
春人が素直に礼を言うと、司は照れたように前髪を払った。その仕草が、妙に子供っぽくて、春人は少し笑ってしまう。
「何笑ってんのよ」
「いや、別に。司さんって、意外と素直なところあるんだなって」
「は? 別に、素直でもなんでもないし。勘違いしないでよ」
司が声を荒げる。その反応が面白くて、春人はもう一度笑った。すると、奥から茉央がトレーを持って戻ってきた。
「二人とも、何話してるの? 司さんのブレンド、持ってきたよ」
茉央は司の前に、湯気の立つコーヒーカップを置いた。それから、春人の前に小さな皿を置く。皿の上には、ミルクレープがもう一切れ乗っていた。
「え、これ、もう食べたよ」
「サービスだよ、サービス。店長が、司さんにもって。あ、司さんのはこれね」
茉央はそう言って、司の前にも同じミルクレープを置いた。司は驚いたように目を丸くする。
「え、私にも?」
「お友達? いいわね、青春ね」
店長のシオリ・マドックが、カウンターの向こうから笑顔で声をかけてきた。司はその声に、ますます戸惑ったような顔をする。春人はその様子を見て、なんだか温かい気持ちになった。
「店長さん、優しいから。遠慮しなくていいよ」
「……別に、遠慮してるわけじゃないし」
司はそう言って、フォークを手に取った。ミルクレープを一口食べる。その瞬間、司の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……美味しい」
小さな声だった。春人には聞こえた。茉央にも聞こえたらしい。茉央は嬉しそうに笑った。
「でしょ? うちの店のミルクレープ、絶品なんだよ」
司は何も言わずに、もう一口食べた。その横顔は、いつもの強がった表情ではなくて、ただ美味しいものを食べている十七歳の少女の顔だった。春人は、その顔を初めて見た気がした。
それから、三人はしばらく他愛のない話をした。学校のこと、好きな食べ物のこと、テレビの話。司は最初こそ「別に」「知らない」と素っ気なかったが、茉央が根気よく話しかけるうちに、少しずつ会話に混ざるようになった。
「司さんって、意外と甘いもの好きなんだね」
茉央が司の空になった皿を見て言った。司は顔を赤くして、前髪を払う。
「別に、好きってわけじゃないし。たまたま、お腹が空いてただけよ」
「そういうことにしておくね」
茉央が笑う。司はむっとした顔をしたが、その口元は少しだけ緩んでいた。春人は、二人のやりとりを見ながら、カフェラテを飲んだ。なんか、いい感じだな。そう思った。
そのとき、茉央がふと、司のコーヒーカップに手を伸ばした。司が驚いて、茉央を見る。茉央は笑いながら、カップを自分の方に引き寄せた。
「あ、ごめん。カップ、端っこに置いてあると、手が当たったら落としそうだなって思って」
茉央はそう言って、司のカップをテーブルの中央寄りに置き直した。それは、本当にさりげない動作だった。司はしばらく、茉央の顔をじっと見つめていた。
「……あんた、気が利くわね」
その声は、今までの強がった口調とは違っていた。素の、柔らかい声。司はすぐに、しまったという顔をして、窓の外を見た。春人は、その声を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
茉央は、司の言葉に嬉しそうに笑った。
「えへへ、よく言われるんだ」
「調子に乗らないでよ」
司が憎まれ口を叩く。けれど、その声には棘がなかった。春人は、二人の間に流れる空気が、さっきまでと違うことに気づいた。表面上はライバルみたいな関係に見えていたのに、今は、もっと柔らかい。
(なんか、いい感じだな)
春人は、心の中で同じ言葉を繰り返した。
それから一時間ほどして、茉央のシフトが終わった。外はすっかり暗くなっていて、予報通り、大粒の雨が降り始めていた。アスファルトを叩く雨音が、店内にまで聞こえる。
「わ、すごい雨。春人、傘ある?」
茉央が心配そうに春人を見た。春人は首を振る。
「やっぱりないんだ。私は折り畳み傘あるけど、春人、どうする?」
「まあ、少し待てば弱くなるかもしれないし」
春人がそう言うと、茉央は困ったように笑った。
「でも、私、これから上がりだけど、店の片付けがあるから。先に帰ってていいよ。傘、私の使って」
茉央はそう言って、自分の折り畳み傘を春人に差し出した。春人は受け取ろうとしたが、その前に司が口を開いた。
「ちょっと、アンタ、その傘一本しかないんでしょ。それ貸したら、あんたが濡れるじゃない」
司が茉央に言う。茉央は笑って首を振った。
「大丈夫だよ。駅まで走ればすぐだし。それに、春人と司さん、二人で使えるでしょ?」
茉央はそう言って、春人の手に傘を押し付けた。それから、司に向かって笑う。
「司さん、春人のこと、よろしくね」
「は? なんで私が……」
司が抗議しようとしたが、茉央はもう店の奥へ引っ込んでいた。春人と司は、二人で店の入り口に取り残される。外は、さっきよりも雨が激しくなっていた。
「……仕方ないわね。駅まで一緒に行くから、傘、開きなさいよ」
司がため息をつきながら言った。春人は茉央の折り畳み傘を開いた。思ったより小さい。二人で入るには、かなり窮屈だ。
「じゃあ、行こうか」
春人が傘を持って、店の外に出る。雨が傘を叩く音が、一気に大きくなった。司は少し迷ってから、春人の隣に並んだ。肩が、触れるか触れないかの距離。春人は、傘を司の方に傾けた。
「別に、アンタのためじゃないから。傘が一本しかなかっただけよ」
司が、顔を赤らめながら言った。雨音で、その声は少し聞き取りにくい。春人は笑って、「うん、分かってるよ」と答えた。
二人は、雨の中を駅に向かって歩いた。アリエッタ・モールからトキワ駅までは、歩いて五分ほどだ。けれど、相合傘で歩く五分は、春人にとって、もっと長く感じられた。
傘の柄を握る春人の手に、司の肩が触れる。小柄な彼女の体温が、濡れた空気の中で、やけに温かく感じられた。春人の胸の奥で、何かが跳ねる。ドキドキというより、もっと不規則な、落ち着かない感覚。
(なんだ、これ)
春人は、傘を持つ手に力を込めた。雨の匂いがする。アスファルトの匂いと、司の髪から漂う、ほんのり甘いシャンプーの匂い。春人は、自分が司のことを、こんなに近くに感じていることに、少し戸惑っていた。
「……この雨、何度目かな」
司が、ぽつりと呟いた。その声は、雨音に紛れて、ほとんど聞こえなかった。春人は聞き返す。
「え、今、何て言ったの?」
司は、はっとしたように春人を見た。それから、無理に笑顔を作る。
「なんでもない。早く行くわよ」
司はそう言って、歩く速度を上げた。春人は、その横顔を見た。笑っているのに、その目は笑っていなかった。濡れた前髪の下で、琥珀色の瞳が、何かを堪えるように揺れている。
春人は、その表情に、説明のつかない寂しさを感じた。
(司さんは、今、何を考えてるんだろう)
聞きたかった。でも、聞けなかった。春人は、司の「なんでもない」という言葉を、それ以上追いかけることができなかった。
駅の改札前に着いた。雨は、まだ降り続いている。司は改札の前で立ち止まり、春人に向き直った。
「ここまででいいわ。傘、ありがと」
「ううん、こちらこそ。駅まででごめんね。家、遠いのに」
「別に、これくらい平気よ。じゃあね」
司はそう言って、改札を抜けていった。その後ろ姿が、人混みの中に消えていく。春人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。傘の柄に残った、濡れた指の感触。司の肩が触れた時の温かさ。それらが、なぜか春人の胸に残っていた。
(なんでだろう)
春人は、傘を畳みながら、小さく息をついた。雨が、まだ降り続いている。空は暗く、街の明かりが、濡れた路面に滲んでいた。
家に帰ると、陽菜がリビングで宿題をしていた。春人が濡れた髪を拭きながら入ると、陽菜が顔を上げて笑う。
「お兄ちゃん、おかえり! びしょ濡れじゃん!」
「途中で雨に降られてさ。茉央の傘、借りたんだけど、駅で司さんに貸しちゃった」
「司さんって、転校生の? へぇ、お兄ちゃん、仲良くなったんだ」
陽菜が興味深そうに身を乗り出した。春人は曖昧に笑って、自分の部屋へ向かう。制服を脱いで、部屋着に着替えた。
スマホを見ると、茉央からメッセージが届いていた。
『今日は楽しかったね。司さん、意外と可愛いとこあるじゃん』
春人は、そのメッセージに笑った。返信を打とうとして、指が止まる。メッセージの末尾に、打ち消し線が引かれたような文字が残っている。
『前に一緒に歩いた気がする』
打ち消し線の文字は、送信されていない。下書きのまま消された文章だ。でも、春人の画面には、その文字がはっきりと表示されていた。
(前に一緒に歩いた? 俺と茉央が?)
春人は首を傾げた。茉央と一緒に歩いたことなんて、数え切れないほどある。でも、この文面は、そんな日常のことを言っているのとは違う気がした。もっと特別な、何か。
(デジャヴってやつかな)
春人は、そう結論づけようとした。左手首の古い傷跡に、無意識に触れる。その瞬間、傷跡が、ほんの少しだけ熱を持った。
「……またか」
春人は呟いた。傷跡を見る。白い線は、いつもと変わらない。熱は、もう消えている。
(気のせいだ)
春人は、スマホをベッドに置いて、窓の外を見た。雨は、まだ降り続いている。窓ガラスを伝う水滴が、街の明かりを歪ませていた。
心の奥が、ざわつく。理由は分からない。分からないけれど、茉央の打ち消し線の言葉と、左手首の傷の熱が、この世界の何かと繋がっているような気がした。
その夜。
司は自室の机に向かっていた。雨に濡れた制服を脱ぎ、部屋着に着替えている。小さな部屋には、ベッドと机と本棚だけ。窓の外では、雨がまだ降り続いていた。
司は机の引き出しから、一冊の古びたノートを取り出した。表紙は擦り切れ、ページは何度もめくり返された跡があった。
彼女はノートを開く。几帳面な字で、同じ週の記録が幾十にも重ねられている。
司はペンを取り、今日のページに文字を書き足した。
『水曜日:ノクト・カフェ、茉央と初めて笑えた。春人は相合傘で赤くなっていた。七三回目の確認』
その字は、震えていた。
そして、その下に、もっと震える文字で、こう記されている。
『茉央——消失(残り一日)』
司はペンを握ったまま、動けなくなった。
「今回は、ここまで来たのに……」
声が、震える。茉央と心を通わせた喜び。それと同時に、その茉央が、明日には消えてしまうかもしれないという恐怖。二つの感情が、司の胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
「守るだけじゃ、足りない……」
司は、声もなく涙を一粒だけ零した。涙が、ノートの文字の上に落ちて、インクを滲ませる。
守るだけでは足りない。何度繰り返しても、茉央は消える。日向も消える。自分が守ろうとすればするほど、世界は彼女たちを奪っていく。
(じゃあ、どうすればいいの)
司は、ノートを胸に抱きしめた。雨音が、窓を叩いている。その音は、何度も聞いた音だった。何十回も、何百回も、この雨の音を聞いてきた。
でも、春人と相合傘で歩いたのは、今回が初めてだった。茉央と笑い合えたのも、初めてだった。
(だから、諦められない)
司は、涙を拭って、ペンを握り直した。ノートの最後のページに、震える文字で、一つの言葉を書き足す。
『春人——気づいて』
司は、その言葉を書き終えると、ノートを閉じた。窓の外では、雨がまだ降り続いている。
この雨が、何度目の雨なのか。司だけが知っている。
そして、この雨の後、何が起きるのかも。Noveliaとは?
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