壁の裏側、ふたりだけの体温
調査兵団のエレン・イェーガーと幼なじみのミカサ・アッカーマンは、巨人への復讐を誓う兵士である。ある夜、訓練遠征からの帰路で激しい雷雨に見舞われた二人は、森の奥深くにひっそりと佇む古びた小屋を見つける。ずぶ濡れで震えながら、人目から完全に隔絶された空間で、互いの体温を分け合うように身を寄せ合う。その瞬間、幼い頃から続く清廉な絆は砕け散る。エレンの無骨な手が凍えたミカサの身体を抱き寄せ、彼女の秘め続けた想いが涙とともに溢れ出し、二人は初めての激しい夜を貪り合う。
それは、二人だけの秘密となった。壁の外では巨人を屠り、壁の中ではただの幼なじみとして振る舞う。しかし、盗み合うような激しい肉欲の時間は、脆く危険な均衡の上に成り立っていた。
転機は、壁外調査任務の最中に訪れる。ミカサが深手を負ったのだ。彼女を失う恐怖に直面したエレンは、かつてない凶暴性をもって巨人へと変貌する。血の海の中で最後の一匹まで巨人を惨殺し、ミカサを死の淵から救い出す。
生還した二人は、秘密の関係に終止符を打つことを決意する。もう隠し立てはしない、と。しかし、そう決意したまさにその時、憲兵団のアニ・レオンハートが冷や
壁の裏側、ふたりだけの体温 - 血染めの森 —— 奪われた温もり
壁の巨大な門が、背後で鈍い音を立てて閉じた。
その重低音が、エレン・イェーガーの胸の奥にへばりつく。嫌な感じだった。まるで、もう二度と戻れないと宣告されたような——そんな不吉な震えが、背骨を這い上がってくる。
壁外の空気は、壁の中とはまるで違う。湿った土の匂い、草いきれ、そして微かに混じる、血の匂い。馬の蹄が大地を打つ音だけが、やけに頭に響いた。三十名の調査兵団選抜隊は、ウォール・マリア外の荒野を、警戒陣形を組みながら進んでいく。
エレンは馬を駆りながら、数メートル先を走るミカサの背中を見つめた。黒く長い髪が風に揺れ、立体機動装置のハーネスが彼女の細い体に食い込んでいる。昨夜の温もりが、指先に蘇る——。
その時だった。
隣に、馬が並んだ。
「[cold]エレン」
ジャン・キルシュタインだ。彼は前を向いたまま、声だけをエレンに投げてよこす。その横顔に、いつもの軽口はない。
「[cold]昨夜、お前の部屋からミカサが出てくるのを見た」
心臓が、止まった。
エレンは表情を固めた。手綱を握る拳に、ぐっと力がこもる。
「[angry]……なんのことだ」
声が、低くなる。ジャンはフン、と鼻を鳴らした。
「[cold]とぼけるな。調査が終わったら、グンタ副長に報告するかどうか——迷ってる」
言い捨てて、ジャンは馬を前に進める。その背中を見ながら、エレンの内臓がキリキリと締めつけられるような焦りがこみ上げてきた。前を向く。ミカサの後ろ姿が、やけに遠く感じる。
——バレた。
秘密の重みが、壁外の緊張と混ざり合い、胃の底に冷たく沈殿していく。
それから二時間ほど馬を走らせただろうか。
隊列が、巨大樹の森の入り口に差しかかった。樹高八十メートルを超える巨木が、空を覆い隠すように密集している。日差しが遮られ、森の中は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。巨人の森——調査兵団の遠征ルート上でも、最も危険な場所の一つだ。
「全員、陣形を狭めろ。立体機動装置の準備を怠るな」
先頭を走るリヴァイ兵長の声が、静かに隊を貫く。短く、無駄のない命令。振り返りもしない背中からは、百戦錬磨の圧倒的な気配が放たれている。エレンはその背中を見て——この人が味方で本当に良かった、と素直に思った。
木々の間を縫う陣形移動が始まる。エレンはワイヤーの射出ボタンに親指を置き、周囲を警戒しながら進む。その時、視界の端に、見慣れない後ろ姿が映った。
金髪のショートボブ。冷たい青色の瞳が、木々の間を素早くスキャンしている。無駄な力みが一切ない、洗練された立体機動だった。
「[surprised]誰だ、あれ」
隣を走るコニーが、声を潜めて答える。
「[whispers]憲兵団から視察で同行してる、アニ・レオンハートだ。訓練兵団の同期だろ?知らねえのかよ」
アニ・レオンハート。エレンはその名前を聞いたことがある。だが、こうして間近で見るのは初めてだった。彼女の氷のような瞳が、一瞬、エレンとミカサに向けられる。何かを測るような、値踏みするような視線。エレンは軽い不快感を覚え、思わず目を逸らした。
——異変が起きたのは、森の中腹に差しかかった時だ。
後方から、狼煙が上がった。
赤い煙が、薄暗い森の中に不気味に立ち昇る。巨人接近の合図だ。
「来るぞ!右翼に展開!」
ほぼ同時に、木々の陰から巨体が飛び出してきた。一体、二体——いや、もっといる。後方から、奇行種一体を含む、計八体の巨人が隊列に突入してくる。
奇行種は、普通の巨人とは動きが違う。ジグザグに走り、方向を読ませない。四足歩行で跳躍し、立体機動装置のワイヤーを掴んでへし折る。兵士の一人が、空中でバランスを崩した。
「うわああああ!!」
巨人の手が、兵士を掴む。次の瞬間——グシャリ、と肉の潰れる音がした。
エレンの喉が、ひきつった。でも、そんな感傷に浸る暇はない。目の前に、別の巨人が迫っている。
「エレン、奇行種を頼む!私が二体仕留める!」
ミカサの声が飛ぶ。彼女はすでに動いていた。ワイヤーを射出し、巨木の幹を蹴って加速する。その動きは一瞬の迷いもなく、双刃が弧を描く。ザシュッ——巨人のうなじが深く裂け、一体が崩れ落ちた。
「[angry]了解だ!」
エレンは奇行種に狙いを定める。こいつの動きを読まなければ、全滅する。目で追う——右、左、上——くそ、速い。ガスを全開に吹かして追跡する。巨木の間をすり抜け、奇行種の動きを先読みしようと集中する。
その時、ワイヤーが、絡まった。
巨木の枝に、ワイヤーの先端が引っかかる。ガス推進の勢いが殺され、エレンの動きが一瞬、止まる。
——しまった。
その一瞬の隙に、別の巨人が、ミカサの背後から音もなく迫っていた。ミカサは二体目の巨人のうなじを斬った直後で、着地の体勢。反応が、わずかに遅れる。
「ミカサ!!」
頭が、真っ白になった。
エレンは奇行種への意識を完全に捨て、ワイヤーを無理やり引きちぎるように射出した。ありえない角度で急加速し、ミカサの前に割り込む。奇行種の爪が、エレンの肩をかすめる——が、かまわない。彼は双刃を振り抜き、ミカサに迫っていた巨人の腕を斬り飛ばした。
「エレン、何を——」
ミカサが叫ぶ。
しかし、その声が終わるより早く——。
背後から、三体目の巨人の指先が、ミカサの脇腹を深く抉った。
ザシュッ。
嫌な音だった。肉が裂け、骨が砕ける、湿った音。ミカサの着ていた白いシャツが、一瞬で真っ赤に染まる。血が噴き出して、彼女の体が、まるで糸の切れた人形のように、木の根元に崩れ落ちた。
ドサリ。
その音が、エレンには、世界が終わる音に聞こえた。
「——ミカサぁああああ!!!」
エレンは、奇行種をなんとか躱して着地した。すぐにミカサの元へ駆け寄る。彼女はうつ伏せに倒れ、血だまりの中で、ピクリとも動かなかった。脇腹からは、今もなおドクドクと血が溢れ出している。
頭が、真っ白になる。
立体機動装置のワイヤーを射出することも忘れ、エレンは膝から崩れ落ちた。震える手で、ミカサを抱き起こす。彼女の肌は、信じられないくらい冷たく、唇は青ざめ始めている。
「[crying]死ぬなよ……死ぬな……!」
エレンは包帯を取り出した。でも、指が震えて上手く動かない。傷口に当てようとするが、血が噴き出してくるだけで、何もできなかった。
「[whispers]……エレ、ン……」
ミカサが、薄く目を開けた。その声は、普段の力強さがどこにもなく、ひどく頼りない。彼女の細い指が、エレンの腕をかすかに掴む。
「[crying]ミカサ!喋るな!今、助ける!絶対に助けるから——死ぬな!死ぬなよ!」
声が、割れた。涙なのか、血なのか、顔中が濡れていた。巨人への憎しみも、復讐も、何もかも——全部吹き飛んでいた。ただ、腕の中のミカサだけが、全てだった。ミカサを失う恐怖が、自分を完全に支配している。生まれて初めての感覚だった。
その様子を——離れた樹上から、アニ・レオンハートは見下ろしていた。
彼女はすでに、担当の巨人を一体仕留め終えていた。その動きは、まるで舞うように無駄がなく、金髪が風に揺れる。彼女の冷たい青色の瞳は、血だまりの中で錯乱しているエレンと、傷ついたミカサを、じっと観察していた。
(ああ、そういうこと)
アニは、内心でそう結論づける。兵士があそこまで錯乱する相手は、普通の仲間じゃない。これは、利用できる。彼女は誰にも気づかれないように、静かに唇の端を上げた。
その表情に、偶然気づいた者がいた。ジャンだ。
(……あいつ、何笑ってんだ)
ジャンは不快感を覚えたが、戦闘の混乱の中で、それ以上考える余裕はない。彼は別の巨人に向けて、ワイヤーを射出した。
残る巨人たちは——リヴァイ・アッカーマンが、全てを終わらせた。
彼の動きは、まさに神業だった。ワイヤーを何度も切り替え、巨木の間を流星のように駆け抜ける。双刃が、巨人のうなじを正確に捉え、一体、また一体と沈黙させていく。
圧倒的だった。
最後の奇行種が、断末魔の叫びを上げて崩れ落ちる。リヴァイは血まみれの刃を振り払い、エレンの傍らに降り立った。
「[cold]……深いな」
ミカサの傷を一瞥したリヴァイの声は、いつも通り冷静だった。
「[crying]兵長……!ミカサが、ミカサが……!」
エレンは手が震えたまま包帯を当てているが、全く上手くできない。リヴァイは無言でエレンの手を払いのけ、自分の手でミカサの脇腹に圧迫止血を施す。
その手際の速さと、迷いのなさ。エレンは呆然としながら、リヴァイの横顔を見た。そこには、ほんの一瞬だけ、苦いものが通り過ぎる。
「[serious]感傷は後でしろ。今はこいつを生かすことだけ考えろ」
それは、命令ではなかった。何か別の、経験から来た言葉のように、エレンには感じられた。
「[sad]……はい」
エレンは、黙って頷く。リヴァイへの信頼と、畏敬の念が、胸の奥に小さく灯った。
撤退の指示が出され、部隊は急ぎ馬を駆る。
エレンは、ミカサを前に乗せて抱えながら走った。傷口を押さえ続ける手は、もう血でグチョグチョだ。ミカサの意識は朦朧としており、時折、苦しそうな吐息が漏れる。
「[whispers]……エレン」
ミカサが、かすれた声で呟き、エレンの腕を指先で掴んだ。
細い、小さな力。
「[crying]喋るな、ミカサ……すぐに、兵舎に着くから……」
喉が、詰まった。これ以上、言葉が出なかった。
後方からは、ジャンがグンタ副長に馬を寄せる姿が、視界の端に映る。また、前方を走るアニが、一度だけこちらを振り返り、エレンとミカサを見てから、何も言わずに前を向いた。
その冷たい視線の意味を、エレンは理解できない。でも——何か、良くないことが始まった。
確かなのは、それだけだった。ミカサの命の保証はなく、ジャンの密告の危機と、アニの冷たい視線の意味が、重くのしかかる。
兵舎までの撤退路、まだ数時間はかかる。エレンは歯を食いしばり、ただ前だけを見て、馬を走らせ続けた。腕の中の、ミカサの冷たい重さだけが、この世の全てだった。