壁の裏側、ふたりだけの体温
調査兵団のエレン・イェーガーと幼なじみのミカサ・アッカーマンは、巨人への復讐を誓う兵士である。ある夜、訓練遠征からの帰路で激しい雷雨に見舞われた二人は、森の奥深くにひっそりと佇む古びた小屋を見つける。ずぶ濡れで震えながら、人目から完全に隔絶された空間で、互いの体温を分け合うように身を寄せ合う。その瞬間、幼い頃から続く清廉な絆は砕け散る。エレンの無骨な手が凍えたミカサの身体を抱き寄せ、彼女の秘め続けた想いが涙とともに溢れ出し、二人は初めての激しい夜を貪り合う。
それは、二人だけの秘密となった。壁の外では巨人を屠り、壁の中ではただの幼なじみとして振る舞う。しかし、盗み合うような激しい肉欲の時間は、脆く危険な均衡の上に成り立っていた。
転機は、壁外調査任務の最中に訪れる。ミカサが深手を負ったのだ。彼女を失う恐怖に直面したエレンは、かつてない凶暴性をもって巨人へと変貌する。血の海の中で最後の一匹まで巨人を惨殺し、ミカサを死の淵から救い出す。
生還した二人は、秘密の関係に終止符を打つことを決意する。もう隠し立てはしない、と。しかし、そう決意したまさにその時、憲兵団のアニ・レオンハートが冷や
壁の裏側、ふたりだけの体温 - 血と嘘の深夜 —— 全てを失う覚悟
撤退の馬列が兵舎の門をくぐったのは、日が完全に沈みきった頃だった。
松明の揺れる橙の光が、ボロボロになった兵士たちの影を地面に長く引きずる。誰もが無言だった。生きて帰れた安堵も、失った仲間への悲しみも、全てを飲み込んだ重たい沈黙だけが、蹄の音に混じって夜の空気を震わせている。
エレン・イェーガーは鞍から降りようとして、体が言うことを聞かないのに気づいた。
右足を地面につけた瞬間、膝がガクンと折れた。支えようとした左足も同じだ。両足の筋肉が、自分の意思とは関係なく崩れ落ちる。
「[angry]くそっ……」
地面に膝をつく。立ち上がれない。巨人化の反動だ。全身の筋肉が焼けるように熱く、皮膚の内側で小さな破裂が無数に起きているような痛みが走る。腕を見下ろせば、右腕の制服の下から覗く皮膚が一部ただれ、赤黒く変色していた。
「[surprised]エレン、お前!」
コニー・スプリンガーが駆け寄り、エレンの肩を支えた。坊主頭に無数の埃と血しぶきをつけたまま、彼はエレンの体の異変に顔をこわばらせる。
「[scared]その腕……やべえって! 軍医に行かないと!」
「[angry]ミカサを先に……俺はいい」
エレンは歯を食いしばって前を見た。担架に乗せられたミカサ・アッカーマンが、松明の灯りに照らされて医務室へ運び込まれていく。彼女の白い肌は紙のように青ざめ、脇腹の包帯はとっくに真っ赤に染まっている。動かない。ただ、弱々しい呼吸だけが、胸の微かな上下で確認できた。
それが、エレンには全てだった。
自分の腕の肉が溶けかけている痛みも、膝が崩れ落ちた屈辱も、今はどうでもいい。ミカサを生きて助けなければ。それだけが頭の中を支配していた。
コニーに肩を借りながら、医務室の前に辿り着く。中からは、軍医のキルシュタイン上等兵の鋭い指示と、助手の慌ただしい足音、鉄の器具がぶつかる金属音が漏れていた。
エレンは廊下の壁にもたれて座り込む。立てない。ただ、医務室の扉を見つめるしかなかった。
しばらくして、扉が開いた。
キルシュタイン上等兵が、血で濡れた白衣のまま出てくる。四十二歳のベテラン軍医は、無骨な顔に深い疲労を刻み、エレンを一瞥した。
「[serious]脇腹の傷は深い。内臓は辛うじて無事だが、出血が多すぎる。今夜が山場だ」
エレンは、言葉を失った。
喉がひくつく。声が出ない。ただ、コクリと一度だけ頷くのが精一杯だった。視界の端で、自分の右腕が震えている。痛みは感じなかった。それより先に、ミカサの容体だけが頭を占領して、他の感覚が全て麻痺していた。
「[gentle]……五分だけだ。入ってもいい」
軍医はそう言い残し、次の患者へと去っていった。
エレンは、壁を這うようにして立ち上がる。両足が小刻みに震えたが、倒れはしなかった。歯を食いしばり、一歩、また一歩と医務室の中へ踏み込む。
消毒液のツンとした匂い。血の鉄臭さ。湿った空気。
部屋の隅のベッドに、ミカサが横たわっていた。彼女の脇腹には新しい真っ白な包帯が何重にも巻かれ、点滴の管が細い腕に刺さっている。黒く長い髪が枕の上に広がり、閉じられた碧い瞳のまつ毛が、時折かすかに震えていた。
エレンはベッドの脇の床に、崩れ落ちるように座り込んだ。
ミカサの左手を、両手で包む。包帯の巻かれた指は、氷のように冷たい。巨人化の後遺症で、エレンの指先の感覚は半分消えていた。彼女の手の温度を、正確に感じられない。
それが、何より怖かった。温かいのか、冷たいのかも分からない。ミカサが今、生きている手をしているのか、それとも死に向かっているのか。自分の壊死しかけた指では、それすらも判別できない。
「[whispers]死ぬなよ……」
声が掠れた。口だけを動かし、同じ言葉を繰り返す。
死ぬな。死ぬな。死ぬな。
ミカサのために強くなるって誓った。なのに、巨人化の暴走で彼女を守れなかった。俺の能力が、俺の存在が、ミカサを危険に晒した。
エレンは床に額を押しつけた。冷たい石の感触が、逆に現実を突きつける。
泣いた。
声を押し殺して、ただ肩を震わせて泣いた。涙が床に落ちて、小さな染みを作る。自分への怒りと、どうしようもない自責と、ミカサを失うかもしれない恐怖が、内臓をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。
──どれくらい時間が経っただろうか。
深夜二時を過ぎた頃、医務室の扉が、ほぼ無音で開いた。
エレンは顔を上げる。
そこに立っていたのは、アニ・レオンハートだった。
金色のショートボブが、ランプの灯りに鈍く輝く。氷のように冷たい青色の瞳が、床に座り込むエレンを、じっと見下ろしていた。彼女は音もなく部屋に入り、エレンの正面にしゃがみ込む。
「[cold]森の中で見ました」
淡々とした声だった。感情の欠片もない、事実をただ述べるだけの声。
「[cold]あなたが巨人に変身するところを。この目で、確かに」
エレンの背筋に、氷の針が刺さった。
必死に否定しようと口を開く。でも、掠れた声は言葉にならない。立ち上がろうとしたが、膝が言うことを聞かず、床から尻を上げることすらできなかった。
「[angry]……な、にを……」
アニは無表情のまま、ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
ゆっくりと開く。
そこには、憲兵団の紋章が押された告発状の下書きが、几帳面な文字で綴られていた。
「[cold]エレン・イェーガーの巨人化能力に関する目撃証言。それに加えて」
アニは一瞬だけ目線を落とし、文書の一部を淡々と読み上げる。
「[cold]エレン・イェーガーとミカサ・アッカーマンが、複数回にわたり兵舎内で不適切な関係を持ったという記録。それを裏付ける証人の署名が、ここに揃っています」
エレンの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
署名の列。ジャンの名前がある。訓練兵団の仲間たちの名前もある。全て捏造だ。だが、これだけ署名が並べば誰もが信じる。二人の秘密の関係を、アニは完全に暴いていた。
「……!」
震える手を伸ばし、その紙を奪おうとする。しかしアニは、さっとそれを引っ込めた。
「[cold]これは写しです。原本は既に、憲兵団本部にあります」
冷たい。氷のような声。怒りも嫌悪もない、ただ純粋な計算だけがそこにあった。それが、エレンには激怒されるより深く胸に刺さる。アニはこの状況を、将棋か何かのように進めている。
エレンの呼吸が、荒くなる。拳を握る。爪が手のひらに食い込み、血が滲んだ。
「[cold]あなたに選択肢をあげます」
アニは静かに立ち上がり、エレンを見下ろした。
彼女の影が、ランプの灯りでエレンの全身を覆う。
「[cold]一つ目。明日の朝礼で、あなたの巨人化能力と、ミカサ・アッカーマンとの秘密の関係を、団全体に公開する」
エレンの喉が、ひきつった。頭が真っ白になる。
団全体に公開――そんなことになれば、二人は終わりだ。ミカサの兵士としての経歴も、エレンの存在そのものも、完全に破壊される。調査兵団に居場所はなくなる。
「[cold]二つ目」
アニは、一度だけベッドのミカサに目をやった。そして、冷たい瞳を再びエレンに向ける。
「[cold]あなたが自らの意志で憲兵団に出頭し、実験体として協力する。そうすれば、ミカサ・アッカーマンの関与は一切問わないと約束します」
「……なっ……!」
「[cold]あなた一人が消えれば、ミカサ・アッカーマンの経歴は守られる。強い人なのに、あなたのせいで危険な場所に立っている」
その言葉が、エレンの胸の真ん中に深く突き刺さった。
俺のせいで――全部、俺のせいだ。
怒りと絶望と自責が渦を巻き、頭の中が割れそうになる。怒鳴ろうとした。でも声が掠れて出ない。立ち上がろうとした。でも足に力が入らず、膝が床にめり込んだまま動かない。
「[angry]く……そ……」
拳を床に叩きつけた。
痛い。骨が軋む。皮膚が裂けて血が滲む。でもその痛みすら、胸の痛みの前ではあまりに小さかった。
アニは、その様子を冷たく見下ろしている。
「[cold]答えは明朝、朝礼前までに。それまでに連絡がなければ、公開します」
彼女は背を向けた。退室しようとしてから、一度だけ振り返り、意識のないミカサを見る。
「[cold]強い人なのに、あなたのせいで、こんな場所に倒れている」
一言だけ残して、アニは音もなく医務室を出ていった。
扉が閉まる音も、彼女の足音も、何も聞こえない。
エレンは一人、医務室の床に取り残された。
天井を見上げる。ひび割れた石組みが、ぼんやりと見える。頭の中で二つの選択肢がぐるぐると回るが、どちらを選んでも誰かが壊れる。自分が消えればミカサは守られる。でも、それはミカサを一人残すことだ。ミカサが生きていればそれでいいのかと自問すれば、答えは出ない。
涙はもう出切っていた。
乾いた目で、ただ天井を見つめ続ける。体中の痛みが、少しずつ蘇ってくる。筋肉が壊死しかけた腕が、ズキズキと脈打つ。足の感覚はまだ戻らない。
(どうすれば、二人とも守れる)
ボロボロの頭で、必死に考える。答えは出ない。
エレンは、震える手を伸ばし、包帯の巻かれたミカサの手をもう一度握った。
その手が――ほんの少しだけ、握り返した。
意識のないはずのミカサの指が、かすかにエレンの指に絡む。反射的なものだ。でも、確かに、彼女の小さな力が伝わってきた。
エレンは息を飲んだ。
諦めるな、と言われた気がした。細い指の小さな力だけが、彼を完全に折れさせない、たった一つの理由だった。
「[whispers]……絶対に、諦めない」
かすれた声で呟き、ミカサの手を握り返す。
朝まで時間はない。エレンは床に座ったまま、ミカサの手を握り、壊れそうな頭で必死にもがき続けた。答えは出ないが、考えることだけはやめない。
やめられない。
医務室のランプが、静かに揺れていた。
夜の闇が、まだ明ける気配もなく、全ての重さをエレン一人にのしかからせている。
朝礼まで、あと数時間。