ファイアパンチ 贖罪の焔
神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う――。
ベヘムドルグ王国の頂点、大神殿アステリオンに君臨する大巫女ユダ。百三十年もの間、神の声を演じ、国家の道具として生きてきた彼女は、再生の祝福に縛られ、傷つくたびに治る痛みを抱え続けてきた。死なないがゆえに、誰も行きたがらない場所へ送られる。そんな日々に、胸の奥の空洞はもはや痛みすら伴わない。
ある日、北部の村が炎の祝福者ドマによって焼き払われたとの報せが届く。検分任務を命じられたユダが雪原の村で見たのは、炎に焼かれ続けながらも決して死ねない青年・アグニの姿だった。彼は炭と化した妹の亡骸を抱きしめ、掠れた声で名を呼び続けている。焼けては治り、治っては焼ける――百年前、自らが三日三晩焼かれ続けた実験の記憶が蘇る。あの時、誰にも「生きて」と言われなかったユダ。目の前の青年は、妹の最期の言葉に縋って立っていた。
抹殺許可の書面を握りしめたまま、ユダは問う。「なぜ、お前はまだ立ち上がる」。それは、百三十年間立ち続けてきた自分自身への問いでもあった。そして彼女は、命令に背く言葉を口にする。「三日後、再びここへ来る。それまでに逃げるなら、逃げろ」――。
神
ファイアパンチ 贖罪の焔 - 三日三晩 ――消えない炎と止まらない再生
灰焼けの村の焼け跡に、雪が降っていた。
空は鉛色に垂れ込め、太陽の位置すら分からない。粉雪が風に流され、炭と化した家々の残骸に薄く積もっていく。焼け焦げた梁が黒い骨のように突き出し、雪の白さが、かえってその黒さを際立たせていた。
ユダは村の入口に立っていた。
白い法衣の裾が、灰と雪の混じった地面を擦る。腰まで伸びた白髪が風に揺れ、氷河の深部のような青い瞳が、焼け跡の奥を見つめていた。背中では翼状の祝福の刻印が、かすかに熱を持っている。
(三日)
ユダは思った。
(あの日から、三日が経った)
彼女は約束を守った。逃げるなら逃げろと言い、三日後にもう一度ここへ来ると言った。そして今、彼女はここにいる。自分でも、なぜ戻ってきたのか分からなかった。
いや、分かっていた。
(命令だからだ)
抹殺命令。祝福者管理局が下した、未登録の炎の祝福者を処分せよという命令。国家の決定。神の意志。それを実行するために、彼女はここへ来た。
それだけだ。
それだけのはずだった。
ユダは一歩、焼け跡に踏み入れた。
靴の下で、炭が砕ける音がした。サクリ、という音ではなく、もっと乾いた、崩れるような音。死んだ木の骨が折れる音に似ていた。
焼け跡には、まだ熱が残っていた。
雪が地面に触れると、ジュッと音を立てて溶ける。水蒸気が立ち上り、冷たい空気の中で白く濁る。まるで、村全体がまだ息をしているかのようだった。いや、違う。村は死んでいる。息をしているのは、村を焼いた炎の方だ。
消えない炎。
ドマの炎は、対象が焼き朽ちるまで燃え続ける。そして、その炎は三日経った今も、村のあちこちでチロチロと揺らめいていた。黒い炭の隙間から、青白い火が顔を出す。雪が降り積もっても、その火は消えない。雪を溶かし、蒸気を上げ、静かに燃え続けている。
ユダはその光景を、無表情で見つめた。
(美しい、とは思わない)
(恐ろしいとも、思わない)
(ただ、これが祝福というものだ)
彼女は歩を進めた。焼け崩れた家の間を縫うように、村の奥へと向かう。かつてこの村に四十人の人々が住んでいたという痕跡が、あちこちに残っていた。半分溶けた鍋。砕けた陶器の破片。炭化した布の切れ端。そして——
骨。
小さな骨が、灰の中に埋もれていた。
ユダは足を止めずに通り過ぎた。
(死体は、もう残っていない)
(ドマの炎は、骨まで焼き尽くす)
(残っているのは、灰と炭と、消えない炎だけだ)
村の中央に、広場があった。
かつては井戸があり、集会が開かれ、子供たちが走り回っていたのだろう場所。今は、黒い灰が厚く積もっただけの空き地になっていた。
そして、その中央に——
彼はいた。
アグニ。
十五歳の少年。焦げ茶色の短髪は炎の熱で縮れ、先端が焦げている。琥珀色の瞳は痛みで潤み、焦点が定まっていない。全身が、消えない炎に包まれていた。
皮膚は焼け爛れては再生し、再生しては焼け爛れる。赤黒い肌が、炎の下で蠢いている。服はとっくに焼け落ち、裸の体が炎に覆われていた。左腕には、妹の名を刻んだ焼け跡——「ルナ」の文字が、くっきりと浮かび上がっていた。
彼は立っていた。
三日間、ずっと。
炎に焼かれながら、痛みに苛まれながら、それでも立ち続けていた。
ユダは広場の端で足を止めた。
(まだ、立っている)
彼女は思った。
(三日間、ずっと)
(炎に焼かれながら)
(痛みの中で)
アグニの唇が、かすかに動いた。
「ルナ……」
掠れた声。炎の音に紛れて、ほとんど聞こえない。だがユダの耳には、確かに届いた。
「まだ、燃えてる……」
アグニの体が、ゆっくりとユダの方へ向いた。
炎の中で、琥珀色の瞳が揺れる。その目は、痛みで濁っていた。幻覚と幻聴に苛まれ、現実と夢の区別がついていない。そんな目だった。
ユダは、静かに口を開いた。
「祝福者管理局の命により、未登録の炎の祝福者を抹殺する」
声は平坦だった。神託を読み上げる時と同じ、感情のない声。百年以上も繰り返してきた、国家の言葉を代弁するための声。
「神の意志により、お前の存在は否定される」
そこまで言って——
ユダは、言葉を止めた。
(……おかしい)
喉の奥に、何かが詰まっている。
最後の一文が出てこない。
「神の意志により、お前は死ぬべきである」——その言葉が、喉の奥で引っかかって、出てこない。
ユダは無表情のまま、自分の内側で起きている異変を感じていた。
(なぜだ)
(私は、この言葉を何度も口にしてきた)
(神託を演じる時も、処刑の宣告を代読する時も)
(何の感情もなく、ただ音として発してきた)
(なのに)
(なぜ、今)
アグニが、ユダを見た。
白い法衣。背中の翼状の刻印。そして、その冷たい青い瞳。
アグニの顔が、歪んだ。
「……お前、管理局の……!」
声が、炎の音を切り裂いた。
「国の……側の……!」
アグニの体から、炎が噴き上がった。
ゴウッ、という音とともに、周囲の雪が一瞬で蒸発する。熱風がユダの白い髪を激しく揺らし、法衣の裾をはためかせた。
「妹を……焼いた国の……!」
アグニが、叫んだ。
「お前らが……ドマを……英雄にして……!」
彼の右腕が、炎を纏って振り上げられる。
「ルナを……返せよ……!!」
炎の塊が、ユダに向かって放たれた。
ユダは、避けなかった。
避ける必要がないと思ったのか、それとも、避ける気力すらなかったのか。自分でも分からなかった。ただ、彼女はその場に立ったまま、迫り来る炎を見つめていた。
炎が、ユダの左肩に命中した。
ジュッ、という音。
白い法衣が一瞬で焼け焦げ、その下の肌が炎に包まれる。肉が焼ける匂い。骨に達する熱。皮膚が溶け、筋肉が焦げ、神経が焼き切れる。
——痛い。
ユダの表情が、かすかに歪んだ。
(痛い)
(痛い痛い痛い痛い)
彼女は再生の祝福者だった。傷は自動修復される。焼けた皮膚は再生し、焦げた筋肉は元に戻る。だが、痛覚は常人と同等。痛みは、そのまま彼女の体を貫いた。
ユダの肩の傷が、見る間に修復されていく。焼け爛れた皮膚が剥がれ落ち、その下から新しい肌が生まれてくる。血が滲み、肉が盛り上がり、傷口が塞がっていく。
だが、炎は消えない。
アグニの炎は、ドマの炎と同じ性質を持っていた。触れた対象が焼き朽ちるまで、燃え続ける。ユダの再生が追いついても、炎はその新しい肌を再び焼く。焼いて、焼いて、焼き尽くそうとする。
ユダの肩は、再生と焼失を繰り返していた。
(これは)
ユダは思った。
(百年前の、検証と同じだ)
彼女の記憶の奥で、古い光景が蘇る。
百年前。祝福者管理局の検証室。冷たい石の壁。拘束具。そして、炎の祝福者。彼女は三日三晩、その炎に焼かれ続けた。再生能力の限界を測るための、実験。痛みの閾値を調べるための、拷問。
(あの時の私は、まだ若かった)
(痛みに泣き叫び、神に祈り、死を願った)
(そして、三日目の夜に)
(感情が、消えた)
ユダはアグニを見た。
炎に包まれた少年は、痛みに顔を歪めながら、それでも立ち続けていた。
「お前も……燃えろ……!」
アグニが、再び炎を放った。
今度は、ユダの右腕に命中した。
法衣が焼け、肌が焦げ、肉が燃える。ユダの右腕が、一瞬で炭化した。骨が露出し、指が焼け落ちる。
——痛い。
ユダは歯を食いしばった。
(痛い)
(でも、死なない)
(私は、死なない)
焼け落ちた指が、再生する。骨が繋がり、筋肉が戻り、皮膚が覆う。だが、炎はその再生した指を再び焼く。焼いて、焼いて、焼き尽くそうとする。
ユダの右腕は、再生と焼失を繰り返していた。
(お前も、同じだ)
ユダはアグニを見つめた。
(お前の炎は、私を殺せない)
(私の再生は、お前の炎に追いつかない)
(だが、お前自身も炎に焼かれている)
(お前の再生は、お前の炎に追いついていない)
(つまり)
(私たちは、互いに殺し合えない)
ユダは、最初の数分でそれを理解した。
アグニの炎は、ユダを焼き尽くすことができない。ユダの再生は、炎の焼失に追いつかないが、完全に焼き尽くされることもない。傷は常に修復され、炎は常に燃え続ける。
そして、アグニ自身も、自分の炎に焼かれ続けている。彼の再生能力は、炎の焼失に追いついていない。皮膚は常に焼け爛れ、肉は常に焦げている。だが、彼も死なない。炎の祝福者が自分の炎で死ぬことはない。
互いに、相手を殺すことができない。
互いに、自分も死ぬことができない。
これは、殺し合いではなく、消耗戦だった。
「お前……何で……倒れない……!」
アグニの声が、動揺していた。
「何で……燃えてるのに……!」
ユダは、静かに答えた。
「私も再生の祝福者だ」
声は、やはり平坦だった。
「お前の炎は、私を殺せない」
「……黙れ……!」
アグニが、炎を連続で放った。
ゴウッ、ゴウッ、ゴウッ!
炎の塊が、ユダの体に次々と命中する。胸、腹、脚、顔。白い法衣が焼け落ち、肌が焦げ、肉が燃える。ユダの全身が、炎に包まれた。
——痛い痛い痛い痛い痛い。
ユダの体が、再生と焼失を繰り返す。皮膚が溶け、骨が露出し、内臓が焼ける。だが、次の瞬間には再生している。再生して、また焼かれる。焼かれて、また再生する。
(これは)
(百年前の)
(検証の)
(再演だ)
ユダは、炎の中で思った。
(あの時と同じ)
(焼かれて、再生して、また焼かれる)
(痛みの中で、感情が削り取られていく)
(人間だった何かが、少しずつ死んでいく)
炎が、ユダの顔を焼いた。
左目の眼球が、熱で破裂する。視界が、真っ赤に染まる。だが、次の瞬間には新しい眼球が再生され、視界が戻る。
(痛い)
(でも、慣れてきた)
(百年前も、そうだった)
(三日目の夜に、慣れた)
(そして、感情が消えた)
ユダの唇が、かすかに動いた。
「……そうか」
彼女は、炎の中で呟いた。
「神は、そう言わない」
口癖。心の内で常に別の言葉を呑み込んでいる彼女が、無意識に口に出す言葉。
アグニが、叫んだ。
「何を……言ってるんだ……!」
炎が、激しくなる。
「お前らが……ドマを……英雄にしたから……!」
「ルナは……死んだんだ……!」
「俺の……妹は……!」
アグニの言葉が、途切れ途切れになる。
「お前らは……何も……知らない……!」
「国のお飾り巫女が……!」
「神の声を聞く……? 笑わせるな……!」
「お前らが……神なんか……信じてるから……!」
「ドマみたいな……狂人が……英雄になるんだ……!」
ユダは、炎に焼かれながら、アグニの言葉を聞いていた。
(国のお飾り巫女)
(その通りだ)
(私は、神の声など聞いていない)
(神託を演じているだけだ)
(民を騙し、信仰を集め、国家の論理を正当化する)
(ただの道具だ)
アグニの炎が、ユダの背中を焼いた。
翼状の刻印が、熱で浮かび上がる。祝福の刻印が、まるで悲鳴を上げるかのように、白く光った。
——痛い。
ユダの体が、一瞬、大きく傾いた。
(再生が、追いつかない)
(アグニの炎は、強すぎる)
(ドマの炎と同じ、消えない炎)
(私の再生では、完全に消し去ることができない)
ユダは、膝をついた。
焼け焦げた地面に、白い灰が舞い上がる。彼女の白い髪が、炎に焼かれて黒く焦げる。法衣はすでに原形を留めておらず、焼け爛れた肌が露出していた。
(でも)
(死なない)
(私は、死なない)
(百年前も、死ななかった)
(三日三晩、焼かれ続けて)
(それでも、生き延びた)
ユダは、ゆっくりと立ち上がった。
焼け落ちた皮膚が、再生する。焦げた髪が、新しい白い髪に生え変わる。露出した骨が、筋肉に覆われる。
アグニの顔が、恐怖に歪んだ。
「……化け物……!」
ユダは、無表情でアグニを見た。
「お前も、同じだ」
「……違う……!」
アグニが、炎を放つ。
だが、その炎は、さっきまでよりも弱かった。
(消耗している)
ユダは思った。
(当然だ)
(三日間、炎に焼かれ続けてきた)
(再生能力も、限界に近づいている)
(私も、同じだが)
戦いは、続いた。
三日三晩。
ユダとアグニは、灰焼けの村の焼け跡で、互いに相手を殺せないまま、戦い続けた。
アグニの炎がユダを焼き、ユダの再生が傷を修復する。ユダの攻撃がアグニに届いても、アグニの再生が傷を修復する。そして、アグニ自身の炎が、アグニ自身を焼き続ける。
消耗戦。
終わりのない、苦痛の応酬。
夜が来て、朝が来て、また夜が来た。
雪は降り続け、焼け跡の熱で溶けては、また積もった。
ユダは、焼かれては再生するたびに、百年前の検証を追体験していた。
(あの時、私は)
(炎の祝福者に、三日三晩焼かれた)
(そして、感情が消えた)
(痛み以外の、すべての感情が)
(今、それが再演されている)
(この戦いは、私の感情の摩耗の原点を)
(私自身に、再確認させている)
三日目の夜。
ユダは、焼け跡の中央で、アグニと対峙していた。
二人とも、満身創痍だった。ユダの体は焼け爛れては再生し、アグニの体は炎に包まれては再生していた。どちらも、立っているのがやっとの状態だった。
アグニの唇が、動いた。
「……ルナ……」
掠れた声。
「……生きて……」
ユダは、その声を聞いた。
(幻聴)
(アグニは、妹の声を聞いている)
(幻覚と幻聴に苛まれている)
(この三日間、ずっと)
アグニの目が、ユダを見た。
だが、その目は、ユダを見ていなかった。
「……ルナ……お前……そこに……?」
アグニの手が、空に向かって伸びた。
「……兄ちゃん……?」
ユダの胸の奥で、何かが動いた。
(ルナ)
(アグニの妹)
(ドマの炎に焼かれて、死んだ少女)
(炭と化して、崩れ落ちた)
(その少女が、今、アグニに語りかけている)
(幻聴の中で)
アグニが、笑った。
痛みに歪んだ顔で、それでも、笑った。
「……うん……生きてるよ……」
「……兄ちゃんは……大丈夫……」
「……ルナ……心配すんな……」
ユダは、動けなかった。
(なぜ)
(なぜ、私は)
(攻撃の手を止めている)
(この少年は、抹殺対象だ)
(危険な炎の祝福者だ)
(国家の命令で、殺さなければならない)
(なのに)
ユダの手が、震えていた。
(この声は)
(百年前の私が)
(誰かに言ってほしかった言葉だ)
(「生きて」)
(「大丈夫」)
(「心配すんな」)
(百年前、検証室で焼かれながら)
(私は、誰にそんな言葉をかけてほしかった?)
(誰も、いなかった)
(神官も、管理局員も、ただ私の再生を観察していた)
(痛みに泣き叫ぶ私を、無表情で見ていた)
(だから、感情が消えた)
(だから、私は)
(神の声を演じるだけの、道具になった)
ユダは、一歩、アグニに近づいた。
「……なぜ」
声が、かすれていた。
「なぜ、お前は、まだ立ち上がる」
アグニは、答えなかった。
代わりに、彼は呟いた。
「……俺は……妹の仇を……討つまで……死ねない……」
ユダは、その言葉を聞いた。
(妹の仇)
(ドマ)
(国家の英雄)
(食人を許さない、歪んだ正義感の持ち主)
(その男を、この少年は殺そうとしている)
(だから、死ねない)
(だから、生きている)
(痛みの中で、幻聴の中で、それでも)
ユダは、アグニの顔を見た。
炎に包まれた少年の顔。痛みで歪み、幻覚に苛まれ、それでも、その奥に——
(人間がいる)
ユダは、初めて、抹殺対象を人間として見た。
(この少年は、ただの道具ではない)
(国家が管理すべき危険物でもない)
(妹を愛し、妹を失い、復讐のために生きている)
(一人の、人間だ)
アグニの体が、ゆっくりと傾いた。
「……ルナ……」
彼は、そのまま倒れた。
炎に包まれた体が、焼け焦げた地面に崩れ落ちる。消えない炎が、雪を溶かし、灰を焦がし、それでも燃え続けていた。
ユダは、倒れたアグニを見下ろした。
(気を失った)
(限界だった)
(当然だ)
(三日間、戦い続けた)
(炎に焼かれ続けた)
(私も、限界に近い)
ユダは、懐から拘束具を取り出した。
祝福者用の拘束具。特殊な合金で作られた鎖と枷。炎の祝福者でも、これを破ることはできない。
ユダは、アグニの手足に拘束具を巻き付けた。
炎が、拘束具に触れる。合金が熱で赤くなるが、溶けることはない。祝福者管理局が、祝福者を捕らえるために開発した、特別な道具だった。
(これで、動けない)
ユダは、アグニを担ぎ上げた。
炎の熱が、彼女の肌を焼く。だが、彼女の再生が、その傷を修復する。
(王都へ連行する)
(それが、私の任務だ)
(抹殺命令は、実行できなかった)
(だが、捕縛して連行すれば)
(管理局は、きっと満足する)
(この少年は、カルケルンに送られる)
(そして、薪にされる)
ユダは、そのことを考えた。
(薪)
(祝福者をエネルギー源として酷使する施設)
(カルケルン)
(あの場所に、この少年を送るのか)
ユダは、首を振った。
(今は、考えるな)
(任務を遂行するだけだ)
(私は、道具だ)
(国家の道具だ)
(道具は、考える必要がない)
彼女は、アグニを背負い、灰焼けの村を後にした。
北へ。
氷縁山脈の麓へ。
王都ヴェルミナへ向かうためには、氷縁山脈の峠を越えなければならない。北部村落群から王都へ至る唯一の陸路。三つの峠のうち、最も近いのは北峠だった。
雪が、降り続けていた。
ユダは、焼け爛れた体で、雪道を歩いた。
背中のアグニの炎が、彼女の背中を焼き続ける。再生が追いつかず、焼け焦げた肉の匂いが、雪の冷たい空気に混ざった。
(痛い)
(でも、慣れた)
(百年前も、そうだった)
(痛みは、私から感情を奪う)
(痛みは、私を道具にする)
(それでいい)
(道具の方が、楽だ)
ユダは、歩き続けた。
どれだけ歩いただろう。
雪は止まず、視界は白く濁っていた。氷縁山脈の影が、遠くに見えてくる。黒い岩肌と白い雪のコントラスト。標高三千二百メートルの最高峰、ゲルム峰が、雲の切れ間から顔を覗かせていた。
その時——
獣の唸り声が、聞こえた。
ユダは、足を止めた。
(氷獣)
彼女の青い瞳が、周囲を走査する。
雪の向こうから、複数の気配が近づいてくる。大型の獣。氷の甲殻を持つ、危険度Bの魔物。体長三メートルから五メートル。
(群れだ)
(三頭……いや、四頭)
(この時期に、麓まで降りてくるとは)
(獲物が少ないのか)
ユダは、背中のアグニを地面に下ろした。
(私は、戦闘力が低い)
(再生能力は高いが、攻撃手段がない)
(氷獣の群れを、一人で倒すのは難しい)
(逃げるのが、最善だ)
だが、氷獣はすでに、ユダの周囲を包囲していた。
雪の向こうから、氷の甲殻がギラリと光る。白い体毛に覆われた巨体が、ゆっくりと間合いを詰めてくる。口から漏れる白い息。鋭い牙。そして、氷のように冷たい目。
ユダは、アグニの拘束具に手をかけた。
(この少年を、解放する)
(共闘する)
(それしか、生き延びる道はない)
彼女は、拘束具を外した。
アグニの体が、炎とともに地面に転がる。
「……起きろ」
ユダは、アグニの顔を叩いた。
「氷獣だ。お前の炎が必要だ」
アグニの目が、ゆっくりと開いた。
琥珀色の瞳が、ぼんやりとユダを見る。
「……何……?」
「氷獣の群れに囲まれた」
ユダは、淡々と言った。
「私一人では対処しきれない。お前の炎で、氷の甲殻を溶かせ」
アグニは、数秒間、ぼんやりしていた。
だが、氷獣の唸り声が聞こえると、彼の目に力が戻った。
「……氷獣……?」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
炎が、彼の体を包む。
「……分かった……」
アグニは、氷獣の群れに向き直った。
「……お前らも……邪魔すんな……!」
彼の手から、炎が放たれた。
ゴウッ!
炎の塊が、先頭の氷獣に命中した。
氷の甲殻が、一瞬で蒸発する。体毛が燃え上がり、肉が焼ける。氷獣が、断末魔の叫びを上げた。
ギャアアアアア!
ユダは、その光景を見た。
(これが、炎の祝福者の力)
(氷獣の甲殻を、一撃で溶かす)
(国家が、この炎を兵器として欲しがる理由が分かる)
(ドマが、英雄と呼ばれる理由も)
氷獣の群れが、アグニに襲いかかった。
一頭が、アグニの右腕に噛みつく。氷の牙が、彼の肉を引き裂く。だが、アグニは痛みに顔を歪めながらも、その氷獣の頭に炎を叩き込んだ。
ゴウッ!
氷獣の頭が、炎に包まれて溶ける。
別の一頭が、ユダに襲いかかった。
ユダは、避けようとしたが、間に合わない。氷獣の爪が、彼女の腹を引き裂いた。
——痛い。
内臓が飛び出る。血が雪を染める。だが、次の瞬間には再生している。傷が塞がり、内臓が戻り、血が止まる。
(私は、死なない)
(だが、痛い)
(痛みは、私を削る)
ユダは、氷獣の目を狙って、拳を振り下ろした。
再生の祝福者は、戦闘力が低い。だが、痛みに耐えながら戦うことはできる。彼女の拳が、氷獣の目を潰した。
ギャン!
氷獣が、悲鳴を上げて後退する。
アグニが、その氷獣に炎を放った。
ゴウッ!
氷獣が、炎に包まれて倒れる。
「……お前……意外と……やるな……」
アグニが、痛みに顔を歪めながら言った。
「……再生だけの……お飾り巫女かと……思ってた……」
ユダは、無表情で答えた。
「私も、お前がただの火柱かと思っていた」
アグニが、一瞬、笑った。
痛みに歪んだ顔で、それでも、笑った。
「……は……火柱……かよ……」
その笑顔は、ほんの一瞬だった。
だが、ユダは、その笑顔を見た。
(この少年は、笑えるのか)
(痛みの中で、幻聴の中で、それでも)
(人間らしさが、残っている)
氷獣の群れは、残り二頭になっていた。
アグニの炎が、氷獣の甲殻を溶かし、ユダがその隙に目を潰す。二人の連携は、決して良いものではなかった。むしろ、噛み合っていなかった。アグニの炎は、ユダの体も焼いた。ユダの再生は、アグニの炎を消すことができなかった。
だが、それでも、二人は氷獣を退けた。
最後の一頭が、アグニの炎に包まれて倒れる。
ギャアアアア……。
断末魔が、雪原に響いて消えた。
静寂。
雪が、降り続けていた。
アグニが、膝をついた。
「……はあ……はあ……」
彼の呼吸が、荒い。炎が、彼の体を包み続けている。
「……終わった……か……?」
ユダは、周囲を見回した。
氷獣の死体が、四つ。どれも、炎に焼かれて黒く焦げている。氷の甲殻は溶け、体毛は燃え尽き、肉は炭化していた。
「……ああ、終わった」
ユダは、アグニに近づいた。
「お前の背中を見せろ」
「……何で……?」
「手当てをする」
アグニは、警戒した目でユダを見た。
「……お前……俺を……王都に連れて行くんだろ……?」
「ああ」
ユダは、淡々と答えた。
「だから、死なせるわけにはいかない。お前は、生きたまま管理局に引き渡す」
「……ふざけ……るな……」
アグニが、炎を弱めた。
「……勝手に……しろ……」
彼は、地面に座り込んだ。
ユダは、アグニの背中を見た。
焼け爛れた背中。再生と焼失を繰り返した痕跡。赤黒い皮膚が、炎の下で蠢いている。
そして——
ユダの目が、一点で止まった。
アグニの背中の中央。肩甲骨の間。そこに、黒い結晶が埋まっていた。
(これは)
ユダは、息を呑んだ。
(ドマの炎の残滓)
(黒い結晶)
(消えない炎が、対象を焼き尽くした後に残る、結晶化した炎の残骸)
(ドマの炎に焼かれた者だけが、これを残す)
ユダは、その結晶を見つめた。
(アグニは、ドマの炎に焼かれた)
(当然だ。村はドマに焼かれた)
(アグニは、その炎の中で生き延びた)
(だが、この結晶は)
(焼かれた直後に残るものだ)
(三日や四日で、この形になるものではない)
(これは、もっと長い時間をかけて形成される)
(つまり)
(アグニは、村が焼かれる前から)
(ドマの炎に焼かれていた?)
ユダの指が、黒い結晶に触れた。
——熱い。
指先が、焼ける。だが、彼女の再生が、すぐに修復する。
(ドマの炎の残滓)
(国家の英雄が、この少年に関与している)
(北部村落群の焼失事件に、ドマが関わっている)
(それは、報告書に書かれていた事実と一致する)
(ドマが村を焼いた。それは、公式の報告書にもある)
(だが、この結晶は)
(ドマが、もっと以前から、この少年を焼いていた証拠だ)
(なぜ、ドマは、この少年を焼いていた?)
(なぜ、この少年は、生き延びた?)
ユダは、懐から報告書を取り出した。
「抹殺対象・炎の祝福者・捕縛」
彼女は、そこまで書いて、筆を止めた。
(ドマの名を書くか)
(書かないか)
国家の論理に従えば、ドマの関与は黙殺すべきだ。ドマは英雄だ。食人を許さない正義の炎。民の支持を集める、国家の象徴。その英雄が、一人の少年を焼き続けていたなど、公にできるはずがない。
だが。
ユダの内側で、三十年ぶりに動いた何かが、囁いた。
(真実を書け)
ユダは、筆を握りしめた。
(書けば、何が起きる?)
(管理局は、ドマを調査するだろう)
(あるいは、私の報告書をもみ消すだろう)
(どちらにせよ、私の立場は危うくなる)
(だが)
(書かなければ、この少年の真実は、闇に葬られる)
ユダは、報告書を見つめた。
雪が、報告書の上に落ちて、インクを滲ませる。
(私は、道具だ)
(国家の道具だ)
(道具は、真実を書く必要がない)
(道具は、命令に従うだけだ)
ユダは、報告書を懐に収めた。
(まだ、書けない)
(書くべきか、書かざるべきか)
(私には、判断できない)
(だから、今は、保留する)
夜が来た。
ユダは、氷縁山脈の麓に、簡単な野営地を作った。焚き火を起こし、雪を溶かして水を作る。アグニは、拘束具を付けられたまま、焚き火の傍らに横たわっていた。
炎が、彼の体を包んでいる。焚き火の炎と、彼の炎が、闇の中で揺らめいていた。
「……ルナ……」
意識のないアグニが、妹の名を呼んだ。
「……ルナ……ごめん……」
ユダは、焚き火を見つめた。
(この少年は、夢の中で、妹に謝っている)
(何を、謝っている?)
(妹を守れなかったことか)
(それとも)
(もっと、別の何かか)
アグニが、身じろぎした。
「……村人は……俺の肉を……喰って……冬を越した……」
ユダの体が、硬直した。
(今、何と)
(俺の肉を、喰った?)
アグニは、うわ言のように続けた。
「……俺は……再生するから……何度でも……切っても……大丈夫だって……」
「……村の……みんなが……飢えで……死なないように……」
「……でも……ルナは……毎晩……泣きながら……俺の傷を……洗ってくれた……」
「……『ごめんね』って……『ごめんね、お兄ちゃん』って……」
ユダは、息を止めた。
(食人の村)
(北部村落群では、冬を越すために、飢えた村が旅人を食らうことがある)
(だが、この少年の村は)
(旅人ではなく、この少年の肉を喰っていた)
(再生の祝福者の肉を)
(何度でも再生する、この少年の体を)
(村人たちは、食糧として、切り刻んでいた)
アグニの声が、震えた。
「……ルナ……お前は……悪くない……」
「……俺が……自分で……やったんだ……」
「……村のためだって……思ったんだ……」
「……でも……ルナ……お前は……泣いてた……」
「……毎晩……毎晩……」
ユダは、焚き火の炎を見つめた。
(ドマは、食人を絶対悪として、村を焼いた)
(食人を許す村など、生きる価値がないと)
(だから、村人四十人を焼き殺した)
(英雄として、称えられた)
(だが、この少年は)
(自分の肉を、村人に差し出していた)
(飢えで死ぬ村人を、救うために)
(妹は、それを知りながら、泣きながら、兄の傷を洗っていた)
(この村には、別の真実があった)
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