ファイアパンチ 贖罪の焔
神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う――。
ベヘムドルグ王国の頂点、大神殿アステリオンに君臨する大巫女ユダ。百三十年もの間、神の声を演じ、国家の道具として生きてきた彼女は、再生の祝福に縛られ、傷つくたびに治る痛みを抱え続けてきた。死なないがゆえに、誰も行きたがらない場所へ送られる。そんな日々に、胸の奥の空洞はもはや痛みすら伴わない。
ある日、北部の村が炎の祝福者ドマによって焼き払われたとの報せが届く。検分任務を命じられたユダが雪原の村で見たのは、炎に焼かれ続けながらも決して死ねない青年・アグニの姿だった。彼は炭と化した妹の亡骸を抱きしめ、掠れた声で名を呼び続けている。焼けては治り、治っては焼ける――百年前、自らが三日三晩焼かれ続けた実験の記憶が蘇る。あの時、誰にも「生きて」と言われなかったユダ。目の前の青年は、妹の最期の言葉に縋って立っていた。
抹殺許可の書面を握りしめたまま、ユダは問う。「なぜ、お前はまだ立ち上がる」。それは、百三十年間立ち続けてきた自分自身への問いでもあった。そして彼女は、命令に背く言葉を口にする。「三日後、再びここへ来る。それまでに逃げるなら、逃げろ」――。
神
ファイアパンチ 贖罪の焔 - カルケルン ――薪の真実、巫女の涙
王都ヴェルミナの地下へ続く昇降機は、鉄の檻のような箱だった。
ユダはその中で、背筋を伸ばして立っていた。白い法衣の裾が、蒸気機関の震えに合わせてかすかに揺れる。隣には祝福者管理局の制服を着た男が二人。無言。視線は前を向いたまま、ユダの顔を見ようとしない。
(この者たちは、私を何だと思っている)
ユダは心の中で呟いた。
(巫女として敬っているのか。それとも、すでに薪として見ているのか)
蒸気式昇降機が、ゆっくりと沈んでいく。壁を伝う配管が、まるで生き物の血管のように脈打っていた。鉄と油の匂いが濃くなる。地上の冷たい空気はもう届かない。代わりに、肺の奥まで焼くような熱気が、檻の中を満たしていた。
第七層。
祝福者管理局本部と、収容施設カルケルンがある場所。ユダは百三十年の人生で、一度も足を踏み入れたことがなかった。大神殿アステリオンの最上層から、神託を読み上げるためにだけ地上へ降りる日々。地下のことは、報告書で知っているだけだった。
(知っている、と思っていた)
(だが、知らなかった)
(私は、何も)
昇降機が止まった。鉄の扉が、耳障りな音を立てて開く。
「こちらへ」
男の声は平坦だった。ユダは無言で従う。廊下は薄暗く、壁の燭台が頼りない光を投げかけていた。天井からは蒸気が漏れ、床は湿っている。靴の底が、ぬかるんだ泥を踏むような音を立てた。
歩くたびに、熱気が強くなる。
廊下の両側には鉄格子が並び、その向こうから、かすかな唸り声が聞こえた。人の声か、獣の声か、区別がつかない。ユダは顔を動かさず、ただ前を見ていた。
(ここが、カルケルン)
(祝福者を薪として、都市の暖房と兵器生産に使う場所)
(王国の地下八十メートルに、こんな地獄が)
管理局員が、重い鉄の扉の前で立ち止まった。扉には「タービン室」と刻まれた札が掛かっている。男が鍵を取り出し、錠を回す。金属が擦れる音。
「中で、管理官がお待ちです」
ユダは頷いた。
扉が開く。
——熱。
一瞬で、全身が蒸し焼きにされるような熱気が押し寄せた。肌が焼ける。肺が悲鳴を上げる。ユダは思わず、法衣の襟元を握った。
(これは、熱ではない)
(痛みだ)
(この部屋全体が、痛みで満ちている)
タービン室は、想像を超えていた。
天井は高く、巨大な蒸気タービンが三基、部屋の中央で唸りを上げている。鉄の歯車が噛み合い、蒸気が噴き出し、床が震えていた。配管が壁という壁を這い回り、その先端は——
人だった。
二十人の祝福者が、金属の椅子に固定されていた。
背中から、腕から、太ももから、無数の管が突き刺さっている。管の中を、赤黒い液体が流れていた。祝福のエネルギーを吸い出すための管だ。収容者たちは皆、意識を保ったままだった。
「ああああああっ!!」
「やめろ……やめてくれ……!」
「死なせて……もう死なせてくれよ……!」
悲鳴が、部屋中に響き渡っていた。
一人の男が、椅子の上で背中を反らせた。彼の体は、管から吸い出されるたびに、見る見るうちに痩せ細っていく。だが、次の瞬間には、再生の祝福が働いて、失われた肉が元に戻る。痩せる。戻る。痩せる。戻る。そのたびに、男の口から悲鳴が漏れた。
(再生の祝福者)
ユダは、足が床に張り付いたように動かなくなった。
(私と同じ)
(私と同じ力を持つ者たちが、ここで)
(痛みを、無限に)
「ようこそ、大巫女ユダ様」
声がした。
ユダはゆっくりと顔を向けた。
タービンの影から、一人の男が歩み出てきた。四十代半ば。痩せた体に、管理局の灰色の制服をぴったりと着込んでいる。眼鏡の奥の目が、笑っていた。
「私はこの施設の管理官です。どうぞ、こちらへ」
男は、ユダを手招きした。
ユダは男の顔を見た。
(この男は、笑っている)
(この地獄の真ん中で)
(何の感情もなく)
ユダは、足を踏み出した。一歩。また一歩。床が、自分の足の重さを拒むように感じた。
管理官は、タービンの傍らに立っていた。彼の背後では、再生系の祝福者が、悲鳴を上げながら何度も何度も、痩せては元に戻るを繰り返している。
「美しいでしょう」
管理官が言った。
「彼らは、この都市を温めています。この冬の寒さから、二十八万人の民を守っているのです」
ユダは黙っていた。
「再生の祝福者は、特に素晴らしい。どれだけエネルギーを吸い出しても、すぐに元通りになる。まるで、無限に燃え続ける薪です」
管理官は、眼鏡の位置を直しながら、ユダに微笑みかけた。
「あなたも、ご存知でしょう?」
ユダの指先が、かすかに震えた。
(知っている)
(知っていた)
(私の再生の祝福が、この国にとって、燃料として最高の価値を持つことを)
(知っていて、目を背けてきた)
「単刀直入に言います」
管理官の声が、急に低くなった。
「あなたの再生の祝福は、永続する薪として、最高評価が確定しました」
ユダは、息を吐いた。
(最高評価)
(永続する薪として)
(私が、この場所で)
「ここに、あなたの検定記録があります」
管理官が、懐から一枚の書類を取り出した。黄ばんだ紙。古いインクの文字。
「百年前、あなたが十五歳の時です」
管理官が、書類を読み上げ始めた。
「『被験体ユダ。再生の祝福者。炎の祝福者による焼灼検定を実施。三日三晩、連続して焼かれる。再生速度、損傷許容量、痛覚耐性、すべて最高値を記録。適性:永続薪。評価:特級』」
ユダの視界が、揺れた。
(三日三晩)
(焼かれた)
(十五歳の私が)
記憶が、蘇る。
百年前。まだ感情が、今よりずっと生々しかった頃。鉄の部屋。炎。焼ける皮膚。剥がれる肉。溶ける骨。悲鳴を上げた。泣いた。助けを求めた。誰も来なかった。三日三晩。焼かれて、治って、また焼かれて。
(あれは、検定だったのか)
(あれは、訓練だったのか)
(この日のための)
「あの検定があったからこそ、あなたは今日、ここに立てているのです」
管理官が、微笑んだ。
「巫女として大神殿に迎えられたのも、民の信仰を集めるための飾りでした。本命は、このカルケルンで、永遠に燃料となること。あなたの百三十年は、そのための準備期間だったのですよ」
ユダの喉が、ひくりと動いた。
(私の百三十年は)
(神の声を聞くためではなかった)
(民を導くためではなかった)
(燃料になるための)
(準備だった)
管理官は、書類を畳み、懐に戻した。
「では、私はこれで。ゆっくり見学していってください」
男は、軽い足取りで去っていった。
タービンの唸りが、耳の奥で響き続ける。悲鳴が、途切れることなく続く。熱気が、肌を焼く。
ユダは、立っていた。
ただ、立っていた。
どれほどの時間が経ったのか、分からない。
やがて、彼女の膝が、折れた。
——音もなく。
ユダは、タービン室の壁にもたれて、ずるずると崩れ落ちた。冷たい石の壁。背中を預ける。翼状の刻印が、壁に押し付けられて、熱を発していた。
(私は、何のために生きてきた)
(神の声を聞くため)
(民を導くため)
(この国に仕えるため)
(違う)
(燃料になるためだ)
(最初から、そう決まっていた)
(私の痛みも、苦しみも、孤独も)
(全部、薪としての価値を高めるための、部品だった)
涙が、出た。
百三十年。痛みにも、恐怖にも、絶望にも、涙を流さなかった。感情が摩耗し、涙の出し方さえ忘れていた。
だが、今、彼女の頬を、熱い雫が伝っていた。
声は出ない。
ただ、涙だけが、止まらなかった。
(ああ)
(私は)
(泣いている)
(百三十年ぶりに)
(人間のように)
「……あんたもか」
声がした。
ユダは、顔を上げた。
隣の接続台に固定された老婆が、こちらを見ていた。痩せ細った体。管が何本も突き刺さっている。白い髪は抜け落ち、頭皮が透けていた。それでも、老婆の目は、しっかりとユダを見ていた。
「あんたも……ここに来たのか」
ユダは、何も言えなかった。
「きれいな法衣だね。巫女様か。……あんたみたいな偉い人でも、結局は薪になるんだね」
老婆は、かすかに笑った。
「わしも昔は、村の祈祷師だった。神様の声が聞こえるって、村の者に崇められておったよ。……全部、嘘じゃった。わしの声は、神様の声なんかじゃなかった。ただの、祝福の副作用じゃ」
老婆の体が、管からエネルギーを吸い出され、一瞬、痩せ細った。再生の祝福が、すぐに元に戻す。老婆の顔が、痛みで歪む。
「……あんた、特別じゃないよ」
老婆が、言った。
「ここにいる全員、同じじゃ。神に選ばれた者なんて、一人もおらん。みんな、ただの薪じゃ」
ユダの涙が、また溢れた。
(私は、特別ではなかった)
(巫女でも、神の声を聞く者でもなかった)
(無数の薪の、一人に過ぎなかった)
(それが、こんなに)
(こんなに)
(痛い)
ユダは、声もなく泣き続けた。
タービンの唸りが、彼女の嗚咽を呑み込んでいった。
——
その頃、地上の祝福者管理局地下牢では。
アグニが、鉄格子の向こうで、燃えていた。
両腕を鎖で吊り上げられ、背中を壁に押し付けられている。ドマの炎の残滓が、彼の背中に張り付いて、消えることなく燃え続けていた。焼ける。治る。焼ける。治る。アグニの口から、声にならない唸りが漏れる。
(ルナ)
(ルナ……)
(どこだ……)
アグニの視界は、炎の熱で歪んでいた。
暗い牢獄の天井が、揺らめいて見える。鉄格子の影が、炎に照らされて、壁に長く伸びている。
——兄ちゃん。
声がした。
アグニは、顔を上げた。
牢獄の隅に、白い髪の少女が立っていた。青い目。小さな手。妹のルナだった。
「兄ちゃん、生きて」
ルナの姿は、炎の向こうで、ぼんやりと揺れていた。
「ルナ……!」
アグニは、手を伸ばした。
鎖が、ガチャリと鳴る。拘束具が、彼の手首を食いしばり、それ以上、腕を動かせない。
「ルナ……待って……俺も……!」
「生きて、兄ちゃん」
ルナは、微笑んだ。
「私の分まで、生きて」
ルナの姿が、炎の中に消えていく。
「行くな……!ルナ……!!」
アグニは叫んだ。鎖が、彼の腕を引き裂く。血が流れ、すぐに炎で焼かれて蒸発する。再生が、傷を塞ぐ。また、引き裂く。
その時、牢獄の鉄格子の向こうに、白い法衣の女が立っているのが見えた。
白い髪。青い瞳。
ユダだった。
いや、違う。
(あれは……)
アグニの視界の中で、ユダの姿が、ルナの姿と重なった。白い髪。青い目。同じ顔。
「お前は……神じゃないな」
アグニは、呟いた。
「お前も……俺と、同じだ」
視界が、暗転した。
アグニは、気を失った。
炎だけが、彼の背中で、消えることなく燃え続けていた。
——
昇降機が、地上へ向かって上昇していく。
ユダは、檻の中で、壁にもたれていた。白い法衣は涙と汗で濡れ、白髪が顔に張り付いている。隣の管理局員たちは、相変わらず無言で、前を見ていた。
(あの悲鳴が、まだ聞こえる)
(耳の奥で)
(ずっと)
昇降機が、第七層の入口を通過した。
その時、地下牢の方向から、かすかな唸り声が聞こえた。
炎の祝福者の声だった。
ユダの足が、止まった。
(アグニ)
(あの少年も、今、地下牢で)
(焼かれている)
(私と同じように)
「大巫女様、お急ぎください」
管理局員が、ユダを急かした。
ユダは、一瞬だけ、地下牢の方向を見た。
(私は、あの少年を、ここに連れてきた)
(私が、連れてきた)
(私が)
ユダは、歩き出した。
足が、鉛のように重かった。
——
大神殿アステリオン。
ユダの自室。
石の壁。木の寝台。小さな机。窓の外では、雪が降っていた。
ユダは、机の前に座っていた。
机の上に、一枚の書面が置かれている。明日の神託市で読み上げる神託の原稿だった。
彼女は、その書面を手に取った。
文字が、並んでいる。
『神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う』
『未登録の炎の祝福者、その処分は神の意志なり』
ユダは、その文言を、目で追った。
(この言葉を、明日、読み上げる)
(神の意志として)
(アグニの処分を、公示する)
喉が、詰まった。
何かが、喉の奥に引っかかっている。唾を飲み込もうとしても、飲み込めない。棘が刺さっているように、痛い。
(神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う)
(この言葉は、私が、何度も読み上げてきた言葉だ)
(何の疑問もなく)
(何の感情もなく)
(だが、今は)
(この言葉が、私の喉を、刺す)
ユダは、立ち上がった。
部屋の隅にある、小さな鏡の前に立つ。
鏡の中の女。白い髪。青い瞳。能面のような無表情。
(これが、私だ)
(百三十年、この顔で、神の声を演じてきた)
(民は、この顔に、神を見た)
(だが、この顔は)
(薪の顔だ)
ユダは、法衣の襟元を緩め、背中を鏡に映した。
翼状の祝福の刻印。
背中に広がる、白い翼のような紋様。
(この刻印は、神の祝福の証ではない)
(薪としての、烙印だ)
(私は、十五歳の時、この刻印を焼き付けられた)
(その時、私は知らなかった)
(この刻印が、何を意味するのかを)
(知らされなかった)
ユダは、刻印に触れた。
熱い。
(今も、熱い)
(この熱が、私を生かしている)
(この熱が、私を薪にする)
窓の外では、神託市の準備が進んでいた。
七層市街に、民の灯りが、無数に揺れている。上層から下層まで、雪に覆われた街が、ろうそくの光で照らされていた。
(民は、明日の神託を待っている)
(神の言葉を)
(私の口から)
ユダは、机に戻り、神託の原稿をもう一度、手に取った。
涙は、乾いていた。
だが、彼女の手は、震えていた。
原稿を持つ指が、白くなるほど、強く握りしめられていた。
(私は、明日も、神託を読み上げる)
(神の意志として、あの少年の処分を、公示する)
(それが、私の役割だ)
(私に、それ以外の何ができる)
ユダは、目を閉じた。
暗闇の中で、タービン室の悲鳴が、まだ聞こえていた。
老婆の言葉が、繰り返し響く。
——あんたもか。
——特別じゃないよ。
——みんな、ただの薪じゃ。
ユダは、原稿を胸に抱いた。
白い法衣の上から、紙の冷たさが、肌に伝わった。
窓の外で、雪が、静かに降り続けていた。
王都ヴェルミナの灯りが、雪に滲んで、ぼんやりと揺れていた。
彼女の背中の刻印は、朝まで、熱を帯びたままだった。Noveliaとは?
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