ファイアパンチ 贖罪の焔
神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う――。
ベヘムドルグ王国の頂点、大神殿アステリオンに君臨する大巫女ユダ。百三十年もの間、神の声を演じ、国家の道具として生きてきた彼女は、再生の祝福に縛られ、傷つくたびに治る痛みを抱え続けてきた。死なないがゆえに、誰も行きたがらない場所へ送られる。そんな日々に、胸の奥の空洞はもはや痛みすら伴わない。
ある日、北部の村が炎の祝福者ドマによって焼き払われたとの報せが届く。検分任務を命じられたユダが雪原の村で見たのは、炎に焼かれ続けながらも決して死ねない青年・アグニの姿だった。彼は炭と化した妹の亡骸を抱きしめ、掠れた声で名を呼び続けている。焼けては治り、治っては焼ける――百年前、自らが三日三晩焼かれ続けた実験の記憶が蘇る。あの時、誰にも「生きて」と言われなかったユダ。目の前の青年は、妹の最期の言葉に縋って立っていた。
抹殺許可の書面を握りしめたまま、ユダは問う。「なぜ、お前はまだ立ち上がる」。それは、百三十年間立ち続けてきた自分自身への問いでもあった。そして彼女は、命令に背く言葉を口にする。「三日後、再びここへ来る。それまでに逃げるなら、逃げろ」――。
神
ファイアパンチ 贖罪の焔 - 氷縁の洞窟 ――焚き火を囲む二人
氷縁山脈の雪は、音を食っていた。
風が吹くたびに、粉雪が渦を巻いて視界を白く塗りつぶす。空の色も、山肌の輪郭も、自分たちの足跡さえも、数秒前の記憶の中にしか残らない。世界は、息を吸うたびに肺を刺す冷気と、耳の奥で唸る風の音だけになっていた。
ユダは、白い法衣の上から灰色の外套を羽織り、その襟元をぎゅっと握りしめていた。外套はもう何年も着古したもので、防寒の役目をほとんど果たしていない。布地の隙間から雪が入り込み、首筋に触れるたびに、肌が引き攣れるような冷たさが走った。
(寒い)
ユダは思った。
(百三十年、この体で生きてきたが)
(寒さに慣れることは、ついぞなかった)
再生の祝福は、傷を塞ぎ、骨を継ぎ、失われた肉を元通りにする。だが、冷えを追い払うことはしない。体温が下がれば、体は正直に震え、指先の感覚は鈍り、思考までもが緩慢になっていく。祝福は、痛みを消す力ではない。痛みを引き受けた上で、体を元に戻す力だ。
ユダは、一歩、また一歩と、膝まで埋まる雪を踏みしめながら進んだ。
彼女の後ろを、アグニが歩いていた。
いや、歩いている、という表現は正確ではない。
十五歳の少年は、両腕を背中で拘束され、首には鉄の輪がはめられ、そこから伸びる鎖をユダが握っていた。炎の祝福者に自由な手足を与えないための措置だった。鎖は祝福者管理局の特殊合金製で、アグニの炎でも容易には溶けない。
アグニの全身は、今日も消えない炎に包まれていた。
雪が彼の体に触れると、触れた瞬間に蒸発する。ジュッ、という音が絶え間なく続き、白い水蒸気が彼の体から立ち上っていた。彼が一歩進むたびに、足元の雪が溶けて地面が露出し、その地面が炎に炙られて黒く焦げる。彼の通った後には、黒い焼け跡の道が残された。
炎の中の少年は、俯いたまま歩いていた。
焦げ茶色の短髪は炎の熱で縮れ、先端が赤く燻っている。琥珀色の瞳は、痛みで潤み、焦点が合っていない。焼け爛れては再生し、再生しては焼け爛れる皮膚の下で、筋肉がひっきりなしに痙攣していた。
彼は、息をしていない。
いや、息をする必要がなかった。炎が彼の体を焼き、再生が体を修復し、その繰り返しが彼を生かしている。呼吸は、彼の体にとって不要な動作だった。
ユダは、鎖を持つ手に力を込めた。
(この少年は、痛みの中で歩いている)
(一歩ごとに、皮膚が焼けて、剥がれて、再生して)
(その苦痛を、どれほどの時間、耐えてきた?)
彼女は、自分の背中に手をやった。翼状の祝福の刻印が、外套の下で熱を持っていた。再生の祝福の刻印は、彼女の体が傷つくたびに、その傷を修復するために熱を発する。百三十年の間、この刻印が冷えたことは一度もなかった。
(私も、痛みの中で生きてきた)
(だが、私の痛みは、一瞬だ)
(傷ついて、すぐに治る。痛みは長く続かない)
(この少年の痛みは、終わらない)
(炎が消えない限り、永遠に)
ユダは、前を向いた。
視界は、相変わらず白一色だった。
―――
吹雪が、強くなった。
風が山肌を駆け上がり、雪を横殴りに叩きつける。視界は数歩先も見えず、自分の足元すらおぼつかない。ユダは足を止め、周囲を見渡そうとしたが、目に入るのは白い闇だけだった。
(まずい)
(このまま進めば、崖か、クレバスか)
(氷縁山脈の峠は、晴れていても危険な道だ)
(吹雪の中では、死地だ)
ユダは、鎖を引いた。
「止まるぞ」
アグニは、何も言わなかった。ただ、足を止めた。炎に包まれた体が、雪の中で異様なほど鮮やかに見える。白い吹雪の中で、彼の体だけが、揺らめく橙と赤の光を放っていた。
(この吹雪の中でも、この少年の炎は消えない)
(雪が、どれだけ降りかかっても)
(風が、どれだけ吹きつけても)
ユダは、周囲の地形を探った。記憶を頼りに、このあたりの山肌を思い浮かべる。氷縁山脈の南側斜面、峠まであと半日ほどの地点。このあたりには、かつて氷獣が掘ったという洞窟がいくつかあったはずだ。
彼女は、風の向きと斜面の傾きから、おおよその方角を割り出した。
「こっちだ」
ユダは、アグニの鎖を引いて、斜面を横切るように歩き出した。
アグニは、黙って従った。
彼の足元で、雪が溶け、黒い地面が露わになる。その地面が、彼の炎に照らされて、ぼんやりと浮かび上がる。ユダは、その光を頼りに、足場を確認しながら進んだ。
(この少年の炎が、こんなところで役に立つとは)
(皮肉なものだ)
やがて、斜面に黒い穴が開いているのが見えた。
洞窟だった。
入口は、大人が一人、かがんで通れるほどの大きさで、奥は暗く、深さは分からない。ユダは、入口の前で足を止めた。
(氷獣がいるかもしれない)
(だが、この吹雪の中では、洞窟に入るしかない)
(氷獣と戦う方が、吹雪に凍え死ぬよりましだ)
ユダは、外套の内側から短剣を抜いた。再生の祝福者である彼女は、本来、武器を必要としない。だが、氷獣の甲殻を砕くには、刃があった方が早い。
「入るぞ。何かいたら、お前の炎で追い払え」
アグニは、初めて顔を上げた。
炎の中で、琥珀色の瞳が、ユダをじっと見た。
「……お前が……先に入れよ……」
掠れた声だった。痛みで途切れ途切れの、かすれた声。
「俺が……後から入ったら……入口が……溶ける……」
ユダは、一瞬、言葉に詰まった。
(確かに)
(この少年の体は、常に燃えている)
(洞窟の入口が狭ければ、彼の体が触れて、岩が溶ける)
(岩が溶けて、入口が塞がる)
「……分かったわ」
ユダは、短剣を構えたまま、洞窟の中へ入った。
冷たい空気が、奥から流れてくる。雪の混じった風が、洞窟の壁に当たって、ヒュウ、と鳴った。ユダは、壁に手を触れながら、奥へと進んだ。
数歩進むと、洞窟は急に広くなった。
大人が数人、横になれるほどの空間だった。天井も高く、立って歩くのに十分な高さがある。床は岩で、乾いていた。奥の方に、古い焚き火の跡が見える。誰かが、以前にこの洞窟で夜を明かしたことがあるのだろう。
(ここなら、吹雪をやり過ごせる)
ユダは、洞窟の奥へと進み、焚き火の跡のそばで立ち止まった。
「入れ」
入口から、アグニが入ってきた。
彼の体が洞窟の入口を通過すると、入口の岩壁が、ジュッ、と音を立てて赤く熱され、わずかに溶けた。溶けた岩が、雫となって垂れ、床に落ちて冷える。
アグニは、洞窟の中央まで進むと、その場に座り込んだ。
彼の炎が、洞窟の壁を照らす。
岩壁に、炎の影が揺れた。赤い光が、洞窟の隅々まで届き、ユダの白い髪を、薄紅色に染めた。
ユダは、アグニから距離を取って、壁際に腰を下ろした。
(この少年の炎は、近づくだけで肌を焼く)
(だが、この洞窟の中では、その炎が唯一の光源であり、唯一の暖かさだった)
洞窟の外では、吹雪が唸りを上げていた。
風が、洞窟の入口に雪を吹き込み、白い粉が、アグニの炎に触れて消えていく。
ユダは、外套の襟を立て、膝を抱えた。
(寒い)
(吹雪の中を歩き続けたせいで、体の芯まで冷えている)
(このままでは、眠ることもできない)
ユダは、ちらりと、アグニの炎を見た。
(あの炎に、手をかざせば)
(温かいだろうか)
(いや)
(触れれば、焼ける)
(かざすだけなら、温かいかもしれない)
ユダは、ゆっくりと、手を伸ばした。
無意識だった。
凍えた体が、温もりを求めて、勝手に動いた。
白い指先が、アグニの炎に向かって伸びていく。
炎の熱が、指先に触れる。
温かい。
ユダは、はっとして、手を引っ込めた。
(何をしている、私は)
(この少年は、抹殺対象だ)
(その炎に、温もりを求めるなど)
アグニが、顔を上げた。
炎の中で、琥珀色の瞳が、ユダの手を見た。
「……お前……」
アグニの声は、かすれていた。
「……寒いのか……」
ユダは、答えなかった。
アグニは、しばらくユダを見ていたが、やがて、ゆっくりと体を動かした。
彼は、洞窟の壁際に移動し、背中を壁に預けた。
「……ここに……座れよ……」
アグニは、自分の隣の床を、顎で指した。
「……壁と……俺の間に……座れば……ちょうどいい……」
ユダは、眉をひそめた。
「何を言っている。お前の炎は、触れれば私を焼く」
「……触れなきゃ……いい……」
アグニは、自分の体を、壁にぴったりと付けた。
「……ここなら……お前が座っても……俺の体には……触れない……」
「……でも……炎の熱は……届く……」
「……寒いんだろ……」
ユダは、しばらく黙っていた。
(この少年は、何を考えている)
(私を、温めようとしているのか)
(私が、お前を拘束して、王都へ連行している張本人だというのに)
(お前を、抹殺対象として、報告書に記した張本人だというのに)
ユダは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、アグニの隣に、腰を下ろした。
壁とアグニの体の間に、わずかな隙間があった。ユダは、その隙間に体を滑り込ませ、背中を壁に預けた。
アグニの炎の熱が、彼女の左半身を包んだ。
暖かかった。
雪に濡れた外套から、湯気が立ち上る。凍えていた指先に、じわじわと感覚が戻ってくる。
ユダは、目を閉じた。
(温かい)
(どれほど、この温かさを感じていなかっただろう)
(大神殿の自室には、暖炉があった)
(だが、あの暖炉の火は、ただの道具だった)
(体を温めるための、ただの火)
(この少年の炎は、違う)
(この炎は、彼の体そのものだ)
(彼の痛みであり、彼の命であり、彼の存在そのものだ)
(その炎に、私は今、温められている)
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちた。
洞窟の外では、吹雪が続いていた。
―――
どれほどの時間が経っただろうか。
アグニの呼吸が、不意に荒くなった。
「……う……あ……」
アグニが、苦しげに身をよじった。
彼の炎が、急に激しくなる。洞窟の壁が、炎の熱で赤く輝き、天井から小さな岩片が落ちてきた。
「……ルナ……」
アグニの唇から、妹の名が漏れた。
「……ルナ……どこだ……」
彼の目は、焦点が合っていなかった。琥珀色の瞳が、虚ろに揺れ、炎の中で何かを見ている。幻覚だ。ユダには、何も見えない。だが、アグニには、見えている。
「……ルナ……ごめん……」
アグニが、うわ言のように繰り返す。
「……ごめん……俺が……俺が……もっと……強かったら……」
ユダは、アグニの背中を見た。
彼の背中は、焼け爛れていた。炎に焼かれて、皮膚が剥がれ、赤黒い肉が露出している。再生の祝福が、その傷を塞ごうとしているが、ドマの炎の残滓が、傷口に黒い結晶となって残っていた。
(あの黒い結晶)
(ドマの炎の残滓だ)
(消えない炎の、燃えかす)
(あれが、この少年の再生を妨げている)
ユダは、立ち上がった。
「動くな」
ユダは、アグニの背中に手を伸ばした。
炎の熱が、彼女の手を焼いた。皮膚が、ジュッ、と音を立てて焦げる。ユダは、痛みを無視して、黒い結晶に指をかけた。
(この結晶を、削り取れば)
(再生が、傷を塞ぐ)
ユダは、短剣を取り出し、黒い結晶を削り始めた。
彼女の指先は、炎に焼かれ、再生し、また焼かれた。痛みが、腕を駆け上がる。だが、ユダは手を止めなかった。
(この程度の痛み)
(百三十年の間に、何度も味わってきた)
黒い結晶が、少しずつ、削り取られていく。
アグニは、うわ言を続けていた。
「……ルナ……お前は……悪くない……」
「……俺が……自分で……やったんだ……」
「……村のためだって……思ったんだ……」
「……でも……ルナ……お前は……泣いてた……」
「……毎晩……毎晩……」
ユダの手が、止まった。
(村のため)
(自分で、やった)
(毎晩、妹が泣いていた)
ユダは、アグニの背中の傷を見つめた。
黒い結晶の下から、新しい皮膚が、再生しようとしている。だが、結晶が邪魔をして、皮膚が塞がらない。ユダは、再び短剣を動かした。
「……なぜ……」
アグニの声が、震えた。
「……なぜ……俺を……置いて……死んだんだ……」
「……ルナ……」
「……お前が……生きてって……言ったから……」
「……俺は……生きてるのに……」
「……お前は……なんで……」
ユダは、短剣を握る手に、力を込めた。
(百年前)
(私も、炎に焼かれた)
(祝福者管理局の検定で、炎の祝福者に、三日三晩、焼かれ続けた)
(あの時、私は、何を思った?)
(痛い、と)
(熱い、と)
(死にたい、と)
(それだけだ)
(誰かのために生きようとは、思わなかった)
(誰かの死を、悲しみもしなかった)
(ただ、焼かれて、再生して、また焼かれて)
(その繰り返しの中で、感情が、少しずつ、削り取られていった)
(この少年は、違う)
(この少年は、妹のために生きている)
(妹の言葉を守るために、痛みに耐えている)
(妹の死を、悲しみ、怒り、恨んでいる)
(この少年は、まだ、人間だ)
ユダは、黒い結晶を、最後の一片まで削り取った。
結晶が、床に落ちて、カチリ、と音を立てた。
アグニの背中の傷が、再生を始める。赤黒い肉が、ゆっくりと、新しい皮膚で覆われていく。
アグニは、うわ言をやめ、静かになった。
炎が、少しだけ、穏やかになる。
ユダは、焼け焦げた自分の指先を見た。
指先は、再生の祝福によって、すでに元通りになっていた。
(痛みは、消えた)
(だが、何かが、胸の奥に残っている)
(この感覚は、痛みではない)
(では、何だ?)
ユダは、答えを見つけられないまま、壁に背を預けた。
―――
アグニが、目を覚ました。
炎の中で、琥珀色の瞳が、ゆっくりと開いた。
「……お前……」
アグニは、ユダを見た。
「……俺の背中……手当てしたのか……」
ユダは、目を閉じたまま答えた。
「気にするな。任務の一環だ」
「……嘘だ」
アグニの声は、かすれていたが、はっきりしていた。
「……任務なら……俺の傷を……治す必要は……ない……」
「……お前は……俺を……王都に連れて行けば……それでいい……」
ユダは、黙っていた。
アグニは、炎の中で、自分の手を見た。
「……俺は……死ねない……」
「……ドマを……殺すまで……死ねない……」
ユダは、目を開けた。
「なぜ、そこまでして生きる」
ユダの声は、平坦だった。
「お前は、毎日、焼かれ続けている。痛みの中で、正気を保つことすら難しいだろう。それでも、なぜ、生きようとする」
アグニは、しばらく黙っていた。
炎が、パチリ、と音を立てた。
「……ルナが……」
アグニは、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「……ルナが……最後に……言ったんだ……」
「……生きて……って……」
「……焼かれながら……崩れながら……それでも……俺に……生きてって……」
「……だから……俺は……生きるんだ……」
「……どんなに痛くても……どんなに苦しくても……」
「……ルナの言葉を……守るために……」
ユダは、アグニの言葉を聞いていた。
(妹の、最後の言葉)
(生きて)
(たった一言の、その言葉のために)
(この少年は、消えない炎の中で、生き続けている)
(私の百三十年は、誰のためでもない)
(ただ、再生し続けてきただけだ)
(誰かのために生きる理由も、誰かのために死ぬ理由も、なかった)
(この少年は、十五歳で、それを知っている)
ユダは、自分の胸の奥で、何かが軋むのを感じた。
(この感覚は、なんだ)
(妬みか)
(羨望か)
(それとも)
(もっと、別の何かか)
洞窟の外では、吹雪が、少しずつ弱まっていた。
―――
夜になった。
洞窟の中は、アグニの炎の光に照らされて、薄明るい。ユダは、洞窟の奥から、古い薪の残りを集めてきて、小さな焚き火を作った。
アグニの炎がある以上、焚き火など必要ない。
だが、ユダは、焚き火を作らずにはいられなかった。
(この少年の炎は、暖かい)
(だが、その暖かさは、彼の痛みだ)
(焚き火の暖かさは、痛みではない)
(ただの、火の暖かさだ)
ユダは、焚き火に、細い枝をくべた。
炎が、枝を包み、パチパチと音を立てて燃える。
アグニは、焚き火を挟んで、ユダの向かいに座っていた。
二人の間に、焚き火の炎が揺れていた。
アグニの炎と、焚き火の炎が、洞窟の壁に、二つの影を映し出していた。
「……なあ……」
アグニが、ぽつりと言った。
「……俺の村……灰焼けの村……知ってるか……」
ユダは、焚き火を見つめたまま答えた。
「知っている。北部村落群の一つだ。ドマに焼かれた村だろう」
「……そうだ……」
アグニは、炎の中で、膝を抱えた。
「……俺の村は……冬になると……食い物が……なくなるんだ……」
「……畑は……雪で……駄目になる……」
「……狩りも……氷獣が……出てきて……危ない……」
「……だから……村の連中は……毎年……何人か……死んでた……」
ユダは、黙って聞いていた。
アグニは、続けた。
「……俺は……再生の祝福者だった……」
「……腕を……切っても……また……生えてくる……」
「……だから……俺は……自分の肉を……村の連中に……食わせた……」
ユダの指先が、焚き火の枝を折った。
パキリ、と乾いた音が、洞窟に響いた。
アグニは、淡々と語り続けた。
「……冬の間……俺の肉を……少しずつ……切って……煮て……食わせた……」
「……俺は……再生するから……何度でも……切っても……大丈夫だって……」
「……村の……みんなが……飢えで……死なないように……」
「……でも……ルナは……」
アグニの声が、震えた。
「……ルナは……毎晩……泣きながら……俺の傷を……洗ってくれた……」
「……『ごめんね』って……『ごめんね、お兄ちゃん』って……」
「……俺は……大丈夫だって……言った……」
「……でも……ルナは……泣き止まなかった……」
「……毎晩……毎晩……」
ユダは、焚き火の炎を見つめていた。
(食人の村)
(北部村落群では、冬を越すために、飢えた村が旅人を食らうことがある)
(だが、この少年の村は、旅人ではなく、この少年の肉を食っていた)
(再生の祝福者の肉を)
(何度でも再生する、この少年の体を)
(村人たちは、食糧として、切り刻んでいた)
(この少年は、それを、自ら差し出していた)
(妹は、それを知りながら、泣きながら、兄の傷を洗っていた)
アグニが、顔を上げた。
「……ドマは……言ったんだ……」
「……食人を……許す村など……生きる価値がないって……」
「……だから……村を……焼き払ったって……」
「……正義だって……」
「……あいつは……自分の炎を……正義だって……言ったんだ……」
ユダの喉が、詰まった。
(ドマ)
(国家の英雄)
(北部の食人村を焼き払った、正義の炎)
(その正義が、この少年の村を焼き、妹を殺し、この少年を永遠の炎の中に閉じ込めた)
(そして、私は)
(そのドマの正義を、神の意志として、民に伝える立場だ)
ユダの脳裏に、大神殿の神託の言葉が蘇った。
「神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う」
(あの言葉を、私は、何度も口にしてきた)
(民の犠牲を、神の名で正当化してきた)
(この少年の村の犠牲も、この少年の痛みも、私の言葉で、正当化される)
(私は、ドマと同じだ)
(国家の論理で、誰かの死を、誰かの苦痛を、正しいと決めつけてきた)
ユダは、焚き火に、新しい枝をくべた。
炎が、枝を包み、燃え上がる。
(何も言えない)
(この少年に、かける言葉が見つからない)
(謝罪すればいいのか)
(私が、何をしたというのだ)
(私は、ただ、命令に従ってきただけだ)
(だが、その命令が、この少年の村を焼くことを、正当化した)
(私は、共犯者だ)
ユダは、焚き火を見つめ続けた。
炎が、彼女の青い瞳に映り込んで、揺れていた。
―――
夜半になった。
アグニは、焚き火のそばで、眠っていた。
いや、眠っているのかどうかは、分からない。彼の体は、炎に包まれたまま、横たわっていた。炎が、彼の体を焼き続け、再生が、その傷を塞ぎ続けている。眠りは、彼にとって、休息ではない。ただ、意識を手放す時間だ。
ユダは、焚き火の番をしていた。
正確には、番をする必要はなかった。洞窟の入口は狭く、氷獣が入ってくる気配はない。吹雪も、すでに止んでいる。
だが、ユダは、眠れなかった。
アグニの言葉が、頭の中で、繰り返し響いていた。
(毎晩、泣きながら、俺の傷を洗ってくれた)
(生きて)
(俺は、ルナの言葉を守るために、生きる)
(お前は、神じゃないな)
最後の言葉は、アグニが眠る前に、ぽつりと呟いた言葉だった。
「……お前は……神じゃないな……」
ユダは、その言葉に、答えられなかった。
(神じゃない)
(当たり前だ)
(私は、神の声を演じているだけの、ただの人間だ)
(いや、人間ですらないのかもしれない)
(国家の道具だ)
(祝福者管理局の、使い捨ての、再生する道具)
ユダは、自分の手を見下ろした。
焚き火の光に照らされた、白い手。
その指先が、細かく震えていた。
ユダは、目を凝らした。
(震えている)
(なぜ)
(寒いのか)
(いや、寒くない)
(焚き火のそばにいる。アグニの炎の熱も、届いている)
(では、なぜ)
ユダは、自分の手を、もう片方の手で握りしめた。
震えは、止まらなかった。
(百三十年)
(私は、痛みにも、恐怖にも、慣れてきた)
(手が震えることなど、なかった)
(この手は、神託を読み上げ、報告書を書き、命令を実行してきた)
(この手は、震えなかった)
(なのに、今)
ユダは、自分の内側で、何かが壊れていくのを感じていた。
(国家の兵器と、人間の境界が)
(揺らいでいる)
(この少年と過ごした、たった一日で)
(百三十年の間、揺るがなかった境界が)
ユダは、翼状の祝福の刻印に手を当てた。
刻印が、熱を持っていた。
再生の祝福の刻印が、まるで、彼女の内側の変化に反応するかのように、じわじわと熱を帯びていた。
(私は、どうすればいい)
(この少年を、王都へ連行する)
(それが、任務だ)
(だが)
(この少年を、王都へ連行すれば)
(この少年は、カルケルンに送られる)
(ドマの前で、晒し者にされる)
(神の意志として、死を宣告される)
(私が、その宣告を、読み上げる)
ユダは、ぎゅっと目を閉じた。
(神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う)
(あの言葉を、この少年に、読み聞かせるのか)
(私が)
(この少年の妹の死を、神の意志として、正当化するのか)
ユダは、目を開けた。
焚き火の炎が、揺れていた。
―――
翌朝。
ユダは、洞窟の外に出た。
吹雪は、完全に止んでいた。空は、雲一つない青空だった。雪が、朝日を反射して、眩しいほどに輝いている。
ユダは、洞窟の入口の周囲を、注意深く観察した。
雪の上に、足跡があった。
複数の足跡だ。
洞窟の入口から、少し離れた場所に、いくつもの足跡が、山の下の方から続いている。そして、その足跡のそばに、黒い結晶が落ちていた。
ユダは、その結晶を拾い上げた。
(これは)
(ドマの炎の残滓と同じだ)
(黒い結晶)
(ドマの偵察隊が、このあたりを調べている)
ユダは、足跡の向きを確認した。
足跡は、洞窟の前を通り過ぎて、峠の方へと続いていた。偵察隊は、この洞窟には気づかずに、通り過ぎたようだ。
(だが、いつ、引き返してくるか分からない)
(ドマの偵察隊が、北部村落群の検分に来ている)
(彼らは、灰焼けの村の焼け跡を調べ、未登録の炎の祝福者を探している)
(アグニのことを)
ユダは、洞窟の中に戻った。
アグニは、起きていた。
焚き火は、すでに消えていた。アグニの炎だけが、洞窟の中を照らしていた。
「……外は……」
「吹雪は止んだ」
ユダは、洞窟の入口に立ち、外の光を背に、アグニを見下ろした。
「ドマの偵察隊が、近くまで来ている」
アグニの炎が、一瞬、激しくなった。
「……ドマの……」
アグニの声が、低くなる。
「……あいつが……近くにいるのか……」
「ドマ本人かどうかは分からない。偵察隊だ」
ユダは、外套の内側から、拘束具の鍵を取り出した。
小さな鉄の鍵。アグニの首輪と、腕の拘束具を外すための鍵。
ユダは、その鍵を、手のひらに載せた。
(この鍵を、この少年に渡せば)
(この少年は、拘束を解いて、逃げることができる)
(ドマの偵察隊に見つかる前に、山を越えて、どこかへ)
(だが、私が鍵を渡せば)
(私は、管理局への背任で、処罰される)
(最悪の場合、私自身が、カルケルンに送られる)
(薪として、蒸気タービンに接続され、エネルギーに変換される)
(私の再生能力は、永続する薪として、最高評価を受けている)
(私は、この国のために、永遠に燃やされ続ける)
ユダは、鍵を握りしめた。
鉄の冷たさが、手のひらに食い込む。
(どちらを選ぶ)
(国家の道具として、任務を遂行するか)
(それとも)
(この少年を、逃がすか)
ユダは、動けなかった。
鍵を握った手が、震えていた。
アグニが、そんなユダを、じっと見つめていた。
炎の中で、琥珀色の瞳が、静かに、ユダを見ていた。
洞窟の外では、朝日が、雪原を白く照らしていた。
峠へ続く道が、白く、どこまでも開けていた。Noveliaとは?
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