ファイアパンチ 贖罪の焔
神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う――。
ベヘムドルグ王国の頂点、大神殿アステリオンに君臨する大巫女ユダ。百三十年もの間、神の声を演じ、国家の道具として生きてきた彼女は、再生の祝福に縛られ、傷つくたびに治る痛みを抱え続けてきた。死なないがゆえに、誰も行きたがらない場所へ送られる。そんな日々に、胸の奥の空洞はもはや痛みすら伴わない。
ある日、北部の村が炎の祝福者ドマによって焼き払われたとの報せが届く。検分任務を命じられたユダが雪原の村で見たのは、炎に焼かれ続けながらも決して死ねない青年・アグニの姿だった。彼は炭と化した妹の亡骸を抱きしめ、掠れた声で名を呼び続けている。焼けては治り、治っては焼ける――百年前、自らが三日三晩焼かれ続けた実験の記憶が蘇る。あの時、誰にも「生きて」と言われなかったユダ。目の前の青年は、妹の最期の言葉に縋って立っていた。
抹殺許可の書面を握りしめたまま、ユダは問う。「なぜ、お前はまだ立ち上がる」。それは、百三十年間立ち続けてきた自分自身への問いでもあった。そして彼女は、命令に背く言葉を口にする。「三日後、再びここへ来る。それまでに逃げるなら、逃げろ」――。
神
ファイアパンチ 贖罪の焔 - 鍵を握る老巫女 ――カルケルンへの侵入、神じゃない者の笑み
雪が、窓の外で音もなく降っていた。
大神殿アステリオンの最上層、ユダの自室は静かだった。石の壁に囲まれた質素な部屋。木の寝台、小さな机、壁際に据えられた古い鏡。それだけの空間に、雪の降る夜の気配が冷たく染み込んでいた。
机の上には、二日後に迫った神託市の原稿が置かれている。
ユダは椅子に腰掛けたまま、その原稿をじっと見つめていた。白い法衣の袖から覗く指先が、かすかに震えている。カルケルンから戻って以来、この手の震えは止まらなかった。
(あの場所で、私は何を見た)
地下八十メートル。蒸気タービンの唸り。二十人の祝福者が金属の椅子に固定され、背中から管を突き刺され、悲鳴を上げながら痩せては戻り、戻っては痩せる。再生の祝福者たち。自分と同じ力を持つ者たち。彼らが「薪」として燃やされ続ける光景。
(あれは、私の未来だ)
ユダは目を閉じた。瞼の裏に、タービン室の光景が蘇る。老婆の声が耳の奥で繰り返される。
——あんたもか。
——特別じゃないよ。
——みんな、ただの薪じゃ。
指先が、膝の上で白くなるほど握りしめられた。
(私は、百三十年、神の声を演じてきた)
(その声は、民を救うためのものだと信じていた)
(だが、本当は)
(私自身が、いつか燃やされるための薪だった)
机の上の原稿に目を落とす。
『神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う』
『未登録の炎の祝福者、その処分は神の意志なり』
この言葉を、二日後、民の前で読み上げる。神の意志として。アグニの処分を。
喉の奥に、棘が刺さったような痛みがあった。唾を飲み込もうとしても、飲み込めない。
その時だった。
扉を叩く音が、静かな部屋に響いた。
控えめで、しかし迷いのないノック。三回。
ユダは顔を上げた。
「……入れ」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。百三十年の巫女としての仮面が、勝手に口を動かす。
扉が開いた。
銀色の髪を後ろで厳格に束ねた老女が、静かに入ってきた。深い緑の瞳。左手には数珠が握られ、指先でゆっくりと繰られている。白い法衣に身を包んだ、小さな体。だが、その立ち姿には、大神殿の頂点に立つ者としての威厳があった。
大神官セラフィナ。
ユダの先輩であり、かつて巫女として神託を読み上げていた老女。今は大神殿アステリオンを統括する立場にある。ユダが百三十年の人生で、最も長く側にいた人物だった。
セラフィナは、部屋に入ると、まず机の上の原稿に目をやった。それから、ユダの顔を見た。
「夜分に失礼しますわ、ユダ」
セラフィナの声は、古い神殿の廊下に響く鈴の音のように澄んでいた。だが、その奥に、何かを測るような鋭さが潜んでいる。
ユダは、立ち上がらなかった。
「大神官が、こんな夜更けに何の用だ」
セラフィナは、かすかに眉を動かした。叱るでもなく、悲しむでもなく。ただ、その深い緑の瞳で、ユダの顔をじっと見つめる。
「あなた、カルケルン最深部に呼ばれたそうですね」
ユダの指先が、ぴくりと動いた。
(知っていたのか)
(この女は、いつも、そうだ)
(私が何を経験したか、すべてを見透かしている)
セラフィナは、ゆっくりと部屋の中へ進み、机の横に立った。数珠を繰る指の動きが、かすかに速くなる。
「管理局長官から報告を受けました。あなたが、カルケルン最深部で何を見たのかも」
ユダは、セラフィナを見上げた。
青い瞳と、深い緑の瞳が、静かに交差する。
「それで、私を叱りに来たのか」
「ええ。建前としては、そういうことになりますわ」
セラフィナは、そこで初めて、かすかに口元を緩めた。だが、それは笑みではなかった。疲れと、諦めと、ほんの少しの慈しみが混ざった、複雑な表情だった。
「巫女が、薪の実態を見て動揺するなど、あってはならないことです。あなたは神の声を民に伝える者。そのお方が、地下の真実ごときで心を乱してはなりません」
建前の叱責。ユダには、それが分かっていた。
セラフィナは、国家の論理に忠実な管理者だ。神を信じていない。神託は政治だと割り切っている。それでも、民の信仰を守るために、生涯をかけて嘘を演じ続けてきた女。
そのセラフィナが、今、ユダの前に立っている。
「心を乱した覚えはない」
「そう。ならば、なぜあなたの手は震えているのですか」
ユダは、自分の手を見た。
白い指。かすかに震えている。カルケルンから戻って以来、ずっと。
「寒いだけだ」
「この部屋は、大神殿の中でも最も暖かい場所の一つですわ」
沈黙が落ちた。
窓の外では、雪が降り続けている。風の音が、遠くで唸っていた。
セラフィナは、机の上の原稿に手を伸ばした。
「二日後、あなたはこの言葉を民の前で読み上げる。神は、あの炎の少年の死を望んでいると」
ユダは、原稿から目を離せなかった。
「そうだ」
「そして、あなたは、その嘘に喉を焼かれている」
ユダの呼吸が、一瞬、止まった。
(この女は、どこまで見えている)
セラフィナは、原稿を机の上に戻した。指先が、紙の端をなぞる。
「ユダ。私があなたと初めて会ったのは、今から百年前。あなたが三十歳の頃でしたわね」
セラフィナの声が、少しだけ柔らかくなった。
「あの頃のあなたは、まだ、笑うことを知っていた。泣くことも。怒ることも。……神の声を演じることに、まだ慣れていなかった」
ユダは、何も言わなかった。
「百三十年。あなたは、感情を削り取って生きてきた。そうしなければ、正気を保てなかった。私には、それが分かっています」
セラフィナは、数珠を握りしめた。左手の、指が三本ない手。若い頃、神託の代償として失った指。
「私も、そうでした。神を信じていないのに、神の声を読み上げる。民が涙を流して祈るたびに、自分の喉から出る嘘が、体を腐らせていくような気がした」
セラフィナの緑の瞳が、遠くを見た。
「それでも、私は演じ続けた。民の信仰を守るために。この国が、この寒さの中で、人々が正気を保つために、神は必要なのです。たとえ、それが嘘であっても」
ユダは、セラフィナの横顔を見つめた。
(この女も、私と同じだ)
(嘘を演じ続けて、疲れ果てている)
(それでも、まだ、民のことを考えている)
「神は、沈黙している」
ユダの口から、言葉がこぼれた。
「私は、百三十年、神の声を待った。だが、神は一度も、私に語りかけたことはない。私は、ただ、自分の言葉を神の言葉として読み上げてきただけだ」
セラフィナは、静かに頷いた。
「ええ。神は沈黙しておられます。ずっと、そうでした」
「ならば、私が演じる神託に、何の意味がある」
ユダの声が、わずかに震えた。
「私は、民に嘘をつき続けてきた。神の意志だと偽って。その嘘が、あの少年を殺す。炎の祝福者を、薪として、処分する。……私は、その嘘を、二日後に、また読み上げる」
「それが、巫女の務めです」
「巫女の務めとは、何だ」
ユダは、セラフィナをまっすぐに見た。
「私は、燃料として生かされてきた。百三十年、神の声を演じるために。だが、その実態は、薪になるための準備期間だった。カルケルンで、私はそれを知った。私の再生の祝福は、永遠に燃やし続けられるための力だ。痛みを感じ続けながら、死ぬこともできず、エネルギーに変換され続ける。……それが、私の未来だ」
ユダの声は、平坦だった。感情を乗せない、神託を読み上げる時の声。
だが、その言葉は、あまりにも重かった。
セラフィナは、しばらく、ユダの顔を見つめていた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「ユダ。神は沈黙しています。けれど、あなたはまだ、人間の声を持っています」
ユダの胸の奥で、何かが、かすかに動いた。
(人間の、声)
(私に、まだ、そんなものが)
セラフィナは、一歩、ユダに近づいた。
「あなたは、神の声を演じる巫女である前に、一人の人間です。百三十年、感情を殺して生きてきた。でも、今、あなたの手は震えている。あなたの喉は、嘘に焼かれている。それは、あなたがまだ、人間だからです」
ユダは、自分の手を見た。
震えている。
(これは、寒さのせいではない)
(これは、私がまだ、何かを感じている証拠だ)
セラフィナは、法衣の内側に手を入れた。
そして、何かを取り出した。
金属の、小さな鍵だった。
「これは、カルケルンの予備鍵です」
ユダは、鍵を見た。
鉄の色。冷たい輝き。地下牢の鍵。
「あなたが、あの炎の少年をどうするのか、私には分かりません。神託を読み上げて、彼を処分するのか。それとも、別の道を選ぶのか」
セラフィナは、ユダの手を取った。
老女の手は、驚くほど温かかった。
「私が保証人になれば、あなたはまだ巫女でいられます。神託市の後、管理局に何を問われても、私が守ります。……だから、あなたの選んだ道を行きなさい」
セラフィナは、ユダの手のひらに、鍵を握らせた。
金属の冷たさが、震える指に食い込む。
「なぜ、私にこれを」
セラフィナは、静かに微笑んだ。
「百三十年、あなたの孤独を、私は側で見てきました。神の声を演じるあなたを、誰よりも近くで。……あなたが、自分の言葉を話す日を、ずっと待っていたのかもしれません」
ユダは、鍵を握りしめた。
冷たい。
だが、その冷たさが、なぜか、胸の奥に熱を灯した。
(私は、百三十年で、初めて)
(誰かに、人間と呼ばれた)
セラフィナは、身を翻した。
「神は沈黙しておられます。あなたはよくやっています。……それでは、おやすみなさい、ユダ」
セラフィナは、扉に向かって歩き出した。
「セラフィナ」
ユダの声に、セラフィナは足を止めた。
振り返らない。
「……お前は、神を信じていないのに、なぜ、民の信仰を守る」
セラフィナは、しばらく沈黙した。
それから、静かに答えた。
「民は、寒さの中で生きています。氷河が迫り、作物は育たず、明日の命も分からない。そんな世界で、人々が正気を保つためには、何かを信じるしかないのです。神でも、運命でも、あるいは、明日は今日より良くなると信じることでも」
セラフィナの声は、古い神殿の香のように、静かに部屋に満ちた。
「私の嘘は、民を生かすための嘘です。あなたの嘘も、そうでした。……けれど、あなたの嘘は、もう、あなた自身を殺そうとしている。だから、鍵を渡しました」
セラフィナは、それ以上何も言わず、扉を開けて出て行った。
扉が閉まる音が、静かな部屋に響いた。
ユダは、一人、椅子に座っていた。
手のひらの中で、鍵が冷たく光っている。
(私の嘘は、もう、私自身を殺そうとしている)
(この女は、百年前から、私を見てきた)
(私が、人間であることを、知っていた)
ユダは、鍵を胸の前で握りしめた。
金属の冷たさが、指から腕へ、腕から胸へと伝わってくる。
(私は、まだ、人間だ)
(ならば、私が選ぶ道は)
窓の外で、雪が降り続けていた。
――
神託市の前夜。
大神殿アステリオンの最上層から、王都ヴェルミナの七層市街を見下ろす。街は、雪に覆われていた。白い雪が、石畳を埋め、屋根を覆い、人々の息を白く染めている。
だが、街は静かではなかった。
明日の神託市の準備が、下層の市場で進められていた。商人たちが雪を掻き分け、露店を組み立て、商品を並べている。ろうそくの灯りが、雪に反射して、街全体がぼんやりと明るかった。
ユダは、自室の窓から、その光景を眺めていた。
白い法衣の上に、灰色の外套を羽織っている。祝福者管理局の外套。管理局員から奪ったものではない。大神殿の備品庫に、昔から置かれていたものだ。誰が残したのかは知らない。
(今日、大神殿の警備は手薄になる)
(祭壇の準備に、神官たちが総出で駆り出される)
(第七層への道も、見張りが減る)
ユダは、外套の襟を立てた。
手のひらに、セラフィナから渡された鍵の感触が残っている。
(私は、これから、国家の論理に逆らう)
(百三十年、初めてのことだ)
胃の奥が、冷えた。
氷を飲み込んだような、重い冷たさ。
だが、足は、もう動き始めていた。
ユダは、部屋を出た。
大神殿の長廊下は、静かだった。壁の燭台が、かすかな光を投げかけている。石の床に、ユダの足音だけが響く。
(この廊下を、私は何度歩いただろう)
(神託を読み上げるために、何度)
(今日は、神託のためではない)
(神の意志に逆らうために、歩いている)
ユダは、非常階段へ向かった。
蒸気式昇降機は使わない。あれは音が大きい。管理局に記録も残る。非常階段なら、誰にも気づかれずに第七層へ降りられる。
非常階段の入り口は、神殿の裏手にあった。
鉄の扉を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
階段は、暗かった。
壁に沿って、細い螺旋階段が、地下へと続いている。手すりは錆び、壁は湿っていた。蒸気配管が、天井に沿って走り、時折、熱い蒸気を吐き出している。
ユダは、階段を下り始めた。
一段、また一段。
足音が、暗闇に吸い込まれていく。
(この先に、カルケルンがある)
(この先に、あの少年がいる)
(この先に、私の選んだ道がある)
蒸気配管が、うなり声を上げた。
熱気が、下から昇ってくる。地下の空気。鉄と油と、何かが焦げる匂い。
ユダは、外套の下で、鍵を握りしめた。
――
第七層に近づくにつれ、空気が変わった。
熱い。
肺の奥まで焼くような、蒸気の熱気。壁を伝う配管が、生き物のように脈打っている。床は湿り、靴底がぬかるみを踏む音を立てた。
ユダは、足を止めた。
前方に、灯りが見える。
管理局の巡回だ。
二人の管理局員が、蒸気灯を手に、廊下を歩いてくる。灰色の制服。胸に炎の徽章。
ユダは、物陰に身を隠した。
(見つかれば、終わりだ)
(巫女が、こんな地下に、何の用だと問われる)
心臓が、胸の奥で激しく脈打った。
だが、足は、物陰から踏み出した。
「止まれ」
若い管理局員が、蒸気灯をユダに向けた。
光が、白い法衣と灰色の外套を照らし出す。
「ここは立ち入り制限区域だ。所属と用件を」
ユダは、外套の襟を開いた。
背中の翼状の刻印を、かすかに見せる。
「大神殿アステリオンの命令による立ち入りだ」
管理局員の目が、刻印を見た。
翼状の紋様。再生の祝福者の証。
「こ、これは……大巫女様?」
もう一人の管理局員が、慌てて姿勢を正した。
「し、失礼いたしました! このような場所に、大巫女様が直々に……」
「神託市の前夜、祭壇の祝福に必要な儀式がある。急ぎ、地下の祭具を確認するようにと大神官から命を受けた」
ユダの声は、神託を読み上げる時と同じ、完璧な平坦さだった。
(私は、今、嘘をついている)
(国家の論理に逆らうための、嘘を)
管理局員たちは、顔を見合わせた。
「し、しかし、第七層への立ち入りには管理局の許可が……」
「許可なら、ここにある」
ユダは、外套の内から、一枚の書面を取り出した。
それは、セラフィナが残していったものだった。大神官の署名と印が押された、白紙の通行証。ユダは、それに必要な文言を書き込んでいた。
管理局員は、書面を検めた。
「……た、確かに、大神官様の印です。失礼いたしました、大巫女様。お通りください」
管理局員たちは、道を開けた。
ユダは、無言で通り過ぎた。
背中に、管理局員たちの視線を感じる。
(私は、初めて、国家の論理に逆らう嘘をついた)
(胃の奥が、氷のように冷たい)
(だが、足は、止まらない)
ユダは、廊下を進んだ。
蒸気配管の迷宫。第七層の奥深く。カルケルンへの入口が、近づいている。
――
カルケルンの地下牢は、薄暗かった。
壁の燭台が、頼りない光を投げかけている。鉄格子が並び、その向こうから、かすかな唸り声が聞こえた。人の声か、獣の声か、区別がつかない。
ユダは、足音を殺して、廊下を進んだ。
(あの少年は、どこだ)
(三日間、ドマの炎に焼かれ続けた)
(消えない炎に)
(痛みの中で)
鉄格子の一つ一つを、ユダは覗き込んだ。
収容者たちの姿。痩せ細った体。虚ろな目。鎖に繋がれた手足。彼らは皆、ユダの存在に気づいても、反応を示さなかった。長い収容生活で、希望を失った者たち。
ユダは、廊下の奥へ進んだ。
その時だった。
かすかな声が、聞こえた。
「……ルナ……」
ユダの足が、止まった。
声のする方へ、目を向ける。
廊下の突き当たり。最も奥の牢。
鉄格子の向こうに、炎があった。
消えない炎。赤黒く、絶え間なく燃え続ける炎。その中心に、一人の少年が繋がれていた。
アグニ。
焦げ茶色の短髪は、炎の熱で縮れ、皮膚は焼け爛れては再生を繰り返している。背中と腕には、黒い結晶がこびりついていた。ドマの炎の残滓。焼かれた箇所が、結晶化している。
両腕は、壁に打ち込まれた鉄の枷に繋がれ、首には特殊合金の首輪。足首にも鎖。
アグニは、目を閉じていた。
いや、開いていた。だが、その琥珀色の瞳は、何も見ていなかった。痛みで濁り、幻覚に囚われている。
「……ルナ……生きて……」
アグニの唇が、かすかに動く。
「……生きて……お願いだ……生きてくれ……」
炎の中で、少年は、妹の幻聴に手を伸ばしていた。
ユダは、鉄格子の前に立った。
(この少年は、三日間、ずっとこうしていたのか)
(ドマの炎に焼かれながら)
(妹の声を聞きながら)
(死ぬこともできず)
ユダは、セラフィナから渡された鍵を取り出した。
鉄格子の鍵穴に、鍵を差し込む。
カチリ。
小さな音が、静かな地下牢に響いた。
鉄格子が、ゆっくりと開く。
ユダは、牢の中へ足を踏み入れた。
熱気。
炎の熱が、肌を焼く。
(この熱は、あの時と同じだ)
(灰焼けの村で、この少年と戦った時の)
(三日三晩、焼かれ続けた時の)
ユダは、アグニの前に立った。
白い髪が、炎の熱で揺れる。
青い瞳が、炎の光を反射した。
アグニの目が、ゆっくりと、ユダの顔を捉えた。
濁った琥珀色の瞳。
痛みに潤み、幻覚に揺れている。
だが、その目は、確かに、ユダの白い髪と青い瞳を見ていた。
「……お前は」
アグニの声は、かすれていた。炎に焼かれた喉から、絞り出すような声。
「……お前は、神じゃないな」
ユダの胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。
(神じゃない)
(この少年は、私を、神じゃないと言った)
(百三十年、誰にも言われなかった言葉)
(民は、私を神の声として崇めた)
(神官たちは、私を神の器として扱った)
(管理局は、私を薪として見た)
(だが、この少年は)
(私を、神じゃないと言った)
ユダの喉から、声が漏れた。
「……ふ」
小さな、吐息のような音。
「……ふふ」
笑いだった。
百三十年、初めての笑い。
ユダは、声を上げて笑っていた。
「……ふふ……あは……あははははは」
笑い声が、地下牢に響いた。
冷たい石の壁に反響して、消えていく。
ユダは、笑いながら、涙を流していた。
(そうだ)
(私は、神じゃない)
(私は、ただの人間だ)
(百三十年、神のふりをしてきた、ただの)
アグニは、面食らったように、ユダの顔を見つめていた。
「……なんで、笑ってるんだ」
ユダは、笑いをかみ殺しながら、アグニの拘束具に手を伸ばした。
「……お前が、私を、神じゃないと言ったからだ」
ユダの指が、首輪の鍵穴に鍵を差し込む。
カチリ。
首輪が、外れた。
「百三十年、誰にも言われなかった言葉だ」
ユダは、両腕の枷に鍵を差し込んだ。
カチリ。カチリ。
枷が外れ、アグニの腕が、だらりと垂れた。
足首の鎖も、外す。
「私は、神の声を演じる巫女だ。民は、私を神の代行者として崇める。神官たちは、私を神の器として扱う。管理局は、私を薪として見る。……だが、誰も、私を人間とは見なかった」
ユダは、最後の鎖を外した。
アグニの体が、ゆっくりと、床に崩れ落ちる。
「お前は、私を、神じゃないと言った。……それだけで、百三十年の重さが、少しだけ軽くなった」
アグニは、床に膝をついたまま、ユダを見上げた。
炎が、二人の間で揺れている。
「……お前は、誰なんだ」
「ユダ。ベヘムドルグの大巫女だ」
「……大巫女が、なんで、俺を」
ユダは、答えなかった。
代わりに、アグニの腕を掴んで、立ち上がらせた。
「立て。脱出する」
「……脱出?」
「お前を、ここから出す」
アグニの目が、かすかに見開かれた。
「……なぜ、俺を助ける」
ユダは、アグニの腕を引きながら、牢の外へ出た。
「お前を薪にさせるために、百三十年生きてきたわけじゃない」
ユダの声は、小さく、しかし確かだった。
アグニは、焼かれた体を引きずりながら、ユダに続いた。
――
その時だった。
警報が、カルケルンに鳴り響いた。
耳をつんざくような、金属的な警報音。赤い光が、壁に点滅する。
「なんだ!?」
「拘束具の解除を検知した」
ユダは、足を速めた。
(早く)
(追手が来る前に)
(排気坑へ)
「走れるか」
「……ああ」
アグニは、焼け爛れた足で、必死に走り出した。炎が、廊下に落ちる。石の床が、彼の足跡ごとに焦げていく。
二人は、蒸気配管の迷宫を駆け抜けた。
熱い蒸気が吹き出し、視界を曇らせる。配管がうなり、床が震える。警報が、絶え間なく鳴り続ける。
背後から、追手の足音が聞こえた。
「待て!」
「囚人が脱走したぞ!」
ユダは、振り返らずに走った。
「排気坑はどこだ」
「……この先を右だ」
アグニが、痛みに顔を歪めながら、方向を示した。
「なぜ分かる」
「……焼かれてる間、配管の音で、空気の流れを覚えた」
ユダは、アグニの言葉に、かすかに目を細めた。
(この少年は、地獄の中で、逃げ道を探していた)
(三日間、焼かれながら)
(死ぬこともできず)
(それでも、逃げることを諦めていなかった)
二人は、右へ曲がった。
廊下の先に、鉄の扉が見える。排気坑への入口だ。
ユダは、扉を開けた。
冷たい空気が、流れ込んできた。
排気坑。カルケルンの熱気を地上へ逃がすための、巨大な縦穴。壁には梯子が掛かり、上へと続いている。
「ここを登る」
アグニは、排気坑を見上げた。
暗い縦穴。どこまで続いているのか、見えない。
「……分かった」
二人は、梯子に手を掛けた。
その時だった。
排気坑の入口の向こうから、熱が迫ってきた。
炎の熱。
焦げた空気の匂い。
ユダの背筋に、冷たいものが走った。
(この熱は)
(この匂いは)
「やあ、ユダ。こんな夜更けに、散歩かい?」
声がした。
排気坑の入口に、一人の男が立っていた。
短く刈り込んだ灰色がかった髪。穏やかな薄茶色の瞳。右手の甲に、炎の祝福の刻印。
ベヘムドルグの英雄。炎の祝福者。教育者。
ドマ。
その右手に、赤い炎が揺れていた。
消えない炎。
「困るなあ。君には、神託市で神の言葉を読み上げてもらわなければならない。それなのに、国賊を逃がそうとするなんて」
ドマは、穏やかに微笑んでいた。
善良な教師の仮面。その下に、炎で全てを浄化しようとする狂信が潜んでいる。
アグニの全身が、強張った。
「……お前」
アグニの声が、震える。
「……お前は、ドマ」
ドマは、アグニを見た。
「おや、君は……ああ、あの村の。まだ生きていたのかい? 驚いたな。私の炎は、対象が焼き朽ちるまで消えないはずなんだけど」
ドマの声は、まるで教え子に話しかけるように優しかった。
「君は、食人の村の生き残りだね。妹を焼かれて、まだ、私に復讐したいと思っているのかい?」
アグニの炎が、激しく燃え上がった。
「お前が……お前がルナを殺した!」
アグニが、ドマに向かって飛びかかろうとした。
だが、焼かれた体は、思うように動かない。足がもつれ、床に倒れ込む。
「殺した、か。そうだね。私は、あの村を焼いた。食人を許容できないという、私の信念のために」
ドマは、一歩、二人に近づいた。
「君の妹は、自分の肉を村人に差し出していた。君も、そうだったね。自分の体を食わせて、村人を生かしていた。……それは、美しい行為だと思うよ。でも、それは、人としての尊厳を捨てた行為だ。食人は、人の道に反する。だから、私は、あの村を浄化した」
ドマの炎が、排気坑を赤く照らした。
「君は、私を恨んでいる。それは、当然のことだ。でも、君が憎むべきは、私ではない。君に食人を強いた、この世界の寒さだ。君の村が、食人に頼らざるを得なかった、この国だ。……私は、その歪みを、炎で正しただけだ」
アグニは、床に倒れたまま、ドマを睨みつけた。
「ふざけるな……お前が……お前が正義を語るな……!」
ドマは、悲しそうに首を振った。
「君のために言っているんだよ。君は、もう、人として生きる資格を失った。食人を経験した君は、もう、普通の人間には戻れない。ならば、せめて、国のために死ぬべきだ。それが、君に残された唯一の、正しい行いだ」
ドマは、右手を掲げた。
炎が、大きく燃え上がる。
「さあ、ユダ。その国賊を、私に渡しなさい。君が手を離せば、私は、この少年を、苦しまないように一瞬で焼き尽くしてあげよう。君の罪も、管理局に報告しない。……教育が足りなかった私の責任だ。君は、何も知らなかった。そういうことにしてあげる」
ユダは、アグニの前に立った。
白い法衣が、炎の熱で揺れる。
「ドマ」
ユダの声は、静かだった。
「お前の正義は、お前のものだ。私には関係ない」
ドマの目が、かすかに細められた。
「ほう? 巫女が、国賊を庇うのかい? それは、国家への反逆だよ」
「そうだ。私は、国家に反逆する」
ユダは、背中の翼状の刻印に意識を集中させた。
再生の祝福。
(この力は、薪になるための力ではない)
(この力は、私が、私であるための力だ)
「この青年は、私が連れて行く」
ドマの目に、初めて、冷たい困惑が浮かんだ。
「……本気かい? 君は、自分が何を言っているのか、分かっているのかい? 巫女が国賊を逃がすなど、この国では、死刑に相当する行為だよ」
「知っている」
「ならば、仕方ない。君も、この場で、教育し直さなければならないね」
ドマは、右手を振り下ろした。
炎が、排気坑を駆け抜けた。
消えない炎。触れただけで燃え移り、対象が焼き朽ちるまで消えない炎。
ユダは、アグニの前に立ちはだかった。
炎が、ユダの体を包んだ。
白い法衣が、一瞬で焼け落ちる。
皮膚が、焼けた。
肉が、焦げる匂い。
骨が、熱に砕ける音。
痛み。
焼かれる痛み。
百年前の検定で、三日三晩、炎の祝福者に焼かれ続けた時の痛み。
だが、ユダは、退かなかった。
再生の祝福が、焼かれた肉を、瞬時に修復する。
焼ける。治る。焼ける。治る。
無限の痛みのループ。
ユダの口から、悲鳴が漏れた。
「……ああああああああっ!!」
痛みに、声が引き裂かれる。
だが、足は、一歩も動かない。
アグニの前に、立っている。
「この青年は……私が……連れて行く……!」
ユダの声は、炎の中で、確かに響いた。
ドマの目が、見開かれた。
「……君は、何をしているんだ? 焼かれ続けながら、なぜ退かない? 痛いはずだ。苦しいはずだ。なのに、なぜ、その国賊を庇う?」
ユダは、炎の中で、ドマを見た。
焼け落ちる視界の向こうで、ドマの顔が見える。
困惑している。
この男は、理解できないのだ。
誰かが、痛みを耐えてまで、他人を守る理由を。
「……お前には……分からないだろうな……」
ユダは、焼かれながら、笑った。
「……私にも、ついさっきまで、分からなかった……」
炎が、ユダの体を焼き続ける。
再生が、肉を修復し続ける。
痛みが、無限に続く。
だが、ユダは、もう、迷わなかった。
(私は、神じゃない)
(私は、ただの人間だ)
(人間として、選んだ道を行く)
「ドマ。お前の炎は、消えない。だが、私の再生も、止まらない」
ユダは、焼け落ちる喉から、言葉を絞り出した。
「お前が、この国を焼くなら、私は、焼かれながらでも、立ち続ける。……この青年を、お前の正義から、連れ出すために」
ドマは、しばらく、ユダを見つめていた。
それから、ゆっくりと、口元を歪めた。
「……そうか。君は、もう、私の教育ではNoveliaとは?
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