ファイアパンチ 贖罪の焔
神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う――。
ベヘムドルグ王国の頂点、大神殿アステリオンに君臨する大巫女ユダ。百三十年もの間、神の声を演じ、国家の道具として生きてきた彼女は、再生の祝福に縛られ、傷つくたびに治る痛みを抱え続けてきた。死なないがゆえに、誰も行きたがらない場所へ送られる。そんな日々に、胸の奥の空洞はもはや痛みすら伴わない。
ある日、北部の村が炎の祝福者ドマによって焼き払われたとの報せが届く。検分任務を命じられたユダが雪原の村で見たのは、炎に焼かれ続けながらも決して死ねない青年・アグニの姿だった。彼は炭と化した妹の亡骸を抱きしめ、掠れた声で名を呼び続けている。焼けては治り、治っては焼ける――百年前、自らが三日三晩焼かれ続けた実験の記憶が蘇る。あの時、誰にも「生きて」と言われなかったユダ。目の前の青年は、妹の最期の言葉に縋って立っていた。
抹殺許可の書面を握りしめたまま、ユダは問う。「なぜ、お前はまだ立ち上がる」。それは、百三十年間立ち続けてきた自分自身への問いでもあった。そして彼女は、命令に背く言葉を口にする。「三日後、再びここへ来る。それまでに逃げるなら、逃げろ」――。
神
ファイアパンチ 贖罪の焔 - 神は、ここにはいない ――神託市の反逆
雪が、王都ヴェルミナの朝を静かに包んでいた。
大神殿アステリオンの最上層から見下ろす七層市街は、白い息を吐く人々で埋まっていた。第一層の神殿前広場から、螺旋階段を下りた第三層の市場まで、今日は月に一度の神託市の日だった。屋台から湯気が立ち、銅貨を握りしめた民たちが、巫女の言葉を待っている。
ユダは祭壇の横に立っていた。
白い法衣は、夜明け前に神官たちが丁寧に整えたものだ。襟元は固く、腰の帯はきつく締められている。背中の翼状の刻印が、布の下でかすかに熱を持っていた。昨夜からずっと、この熱は消えない。カルケルンの地下で見た蒸気タービンの熱が、まだ体の中に残っているようだった。
(私は、これから、神の声を読み上げる)
ユダは自分の手を見た。指先は、もう震えていなかった。震えは昨夜、セラフィナが部屋を去った後、床に座り込んで膝を抱えた時に、すべて抜け落ちてしまった。今はただ、静かだった。井戸の底に沈んだ石のように、静かだった。
「大巫女様、まもなく刻限にございます」
若い神官が、ユダの背後で頭を下げた。ユダは振り返らなかった。
「分かっている」
祭壇の向こうには、二百人近い神官たちが整列している。皆、白い衣をまとい、手を胸の前で組んで、ユダを見つめていた。彼らの視線は、神の器を見る目だ。百三十年、ユダはその視線を浴び続けてきた。そして、その視線に応えるために、神の声を演じ続けてきた。
(演じてきた)
(そう、私は、演じてきただけだ)
ユダは、祭壇の上に置かれた巻物を見た。
金糸で縁取られた羊皮紙。神託市のたびに、管理局が用意する神託の原稿だ。今日の文言は、昨夜、ユダが自室で握り潰したものと、ほぼ同じ内容だった。
『神は、民の薪たる犠牲を嘉し給う』
『未登録の炎の祝福者、その処分は神の意志なり』
(この巻物を、開く)
(開いて、読み上げる)
(それが、私の役割だった)
広場のざわめきが、風に乗って祭壇まで届いた。民たちの声は、期待に満ちていた。神託市の日は、この国で最も活気のある日だ。巫女の言葉が、市場の相場を動かし、商人たちの運命を決める。民は、神の声を聞くために、雪の中を何時間も待っている。
(彼らは、信じている)
(私の口から出る言葉が、神の言葉だと)
ユダは、ゆっくりと息を吸った。
冷たい空気が、肺の奥まで入ってくる。鉄と油の匂いはしない。ここは地上だ。雪の匂いと、蝋燭の匂いと、民の吐く白い息の匂い。
(私は、百三十年、この匂いの中で、神を演じてきた)
(だが、もう)
ユダは、一歩、祭壇に向かって踏み出した。
神官たちが、一斉に背筋を伸ばした。広場のざわめきが、波が引くように静まっていく。数千の視線が、ユダの白い法衣に集まった。
ユダは、祭壇の前に立った。
目の前に、巻物がある。
(これを、開く)
(開いて、読み上げる)
(それが、私の)
ユダは、巻物に手を伸ばした。
指先が、羊皮紙の冷たい表面に触れた。
——その瞬間、背中の刻印が、強く脈打った。
熱い。
焼けるように、熱い。
(違う)
(私は、これを、開かない)
ユダは、巻物を握った。
白い指が、金糸の縁を食い込ませる。羊皮紙が、くしゃりと音を立てた。
「……神は」
ユダの唇が、動いた。
声は、小さかった。だが、静まり返った広場には、はっきりと届いた。
「神は、何も、言ってはいない」
神官たちが、ざわめいた。
最前列の老神官が、驚いたように顔を上げた。隣の若い神官が、何か言おうとして、口を開けたまま固まっている。広場の民たちも、何が起きたのか分からない顔で、互いに顔を見合わせていた。
ユダは、巻物を、祭壇の上に落とした。
乾いた音が、静寂に響いた。
(百三十年、私は、この巻物を開き続けてきた)
(神の声を、読み上げ続けてきた)
(だが、もう、終わりだ)
「私は、今日、神託を読み上げない」
ユダの声は、自分でも驚くほど、はっきりとしていた。百三十年の巫女の仮面が、静かに剥がれ落ちていく。
「大巫女様、何を仰っているのですか! 神託市の神託は、国の定めですぞ!」
老神官が、顔を真っ赤にして叫んだ。
ユダは、老神官を見た。
(この男も、神を信じていない)
(神託が政治だと、知っている)
(それでも、民の前では、神の言葉を演じる)
「神は、沈黙している」
ユダは、言った。
「百三十年、私が読み上げてきた言葉は、神の声ではなかった。管理局が書いた原稿を、私が神の声として読み上げていただけだ。この国の神託は、最初から、政治だった」
広場が、水を打ったように静まり返った。
雪が、音もなく降り続けている。
——その時だった。
祭壇の中央、ちょうど巻物が落ちた場所の空気が、揺れた。
(何だ)
ユダは、目を凝らした。
空気が、陽炎のように揺れている。雪の白さが、祭壇の石の灰色が、ぐにゃりと歪んで——
そこに、一人の少女が立っていた。
いや、少女ではない。
左半分は、少女だった。白い髪。青い瞳。幼い頃のユダに、あまりにも似ていた。あの頃の、何も知らなかった頃の、無垢な顔。
だが、右半分は——
木だった。
右半分の顔から、首から、肩から、無数の枝が生えていた。細い枝、太い枝、緑の葉を茂らせた枝。それらが、ゆっくりと、生き物のようにうごめいている。右目は木の繊維に覆われ、光っていない。
「お姉ちゃん」
声が、響いた。
ユダの耳ではなく、もっと深い場所、頭蓋の内側、心臓の裏側から、直接響いてくるような声だった。
「やっと、会えたわね」
神官たちが、悲鳴を上げた。
民衆が、どよめいた。
「な、なんだあれは!」
「化け物だ!」
「祭壇に、木が——人が、生えてる!」
パニックが、広場を駆け抜けた。
だが、ユダは、動けなかった。
(この声)
(この顔)
(私は、この存在を、知っている)
(知っているのに、覚えていない)
「ああ、そんなに怖がらないで。私は、あなたに会いに来たのよ。ずっと、ずっと前から、あなたのことを見ていたの」
スーリャと名乗る存在が、一歩、ユダに近づいた。
枝が、床を這う。石畳の隙間に、細い根が食い込んでいく。
「お姉ちゃんの体は、特別なの。再生の祝福は、痛みを代償に、無限に命を紡ぐ。その体は、世界を温めるための、最高の燃料になるのよ」
ユダの背中の刻印が、激しく脈打った。
熱い。
焼けるように、熱い。
(燃料)
(私の体は、燃料)
(カルケルンで見た、あの光景)
(私も、ああなる)
「お姉ちゃんの再生の祝福は、旧世代の計画に、ぴったりなの。世界を温める木になるための、芯になるのよ。あなたの痛みが、この凍えた星を、温めるの」
スーリャの声は、優しかった。
子守唄のように、柔らかく、甘やかだった。
だからこそ、恐ろしかった。
「さあ、お姉ちゃん。私と一緒に来ましょう。あなたの体は、世界を温める燃料になるのよ」
スーリャが、ユダに手を伸ばした。
左半分の、人間の手。白く、細く、幼い頃のユダの手。
ユダは、その手を見た。
(この手を、取れば)
(私は、もう、苦しまなくていい)
(痛みも、罪悪感も、全部、消える)
(世界の燃料になって、燃え尽きる)
(それで、終わり)
——違う。
ユダは、唇を噛んだ。
鉄の味が、口の中に広がった。
「私は」
声が、震えた。
「私は、誰かの燃料になるために、生きているんじゃない」
ユダは、言った。
百三十年、心の奥底でずっと呑み込んできた言葉を、初めて、自分の声で、口にした。
「私は、私だ。神の器でも、薪でも、燃料でもない。私は、ユダだ」
スーリャの手が、止まった。
左目の青い瞳が、ユダをじっと見つめる。
「お姉ちゃん」
スーリャは、首を傾げた。
「あなたは、まだ、分かっていないのよ。あなたの体は、もう、とっくに、旧世代の計画の中にあるの。あなたが何を言っても、何を拒んでも、あなたの体は、世界を温める木になるのよ」
スーリャが、もう一歩、近づいた。
枝が、ユダの足元に伸びてくる。
——その時だった。
「おい」
声が、響いた。
ユダは、振り返った。
祭壇の奥、神官たちの列の向こう、排気坑の鉄格子が、真っ赤に焼けていた。
次の瞬間——
ドォン!!
鉄格子が、内側から吹き飛んだ。
炎が、噴き出した。
赤い、赤い、炎。雪の降る祭壇を、一瞬で灼熱に変える。
そして、その炎の中から、一人の少年が飛び出してきた。
全身が、燃えていた。
焦げ茶色の短髪は先端が縮れ、皮膚は焼けただれては再生を繰り返し、赤黒い。左腕には、妹の名を刻んだ焼け跡。琥珀色の瞳が、痛みで潤みながらも、まっすぐにスーリャを睨みつけていた。
アグニ。
「てめえ……その女に、何してんだ」
アグニは、炎を纏ったまま、ユダとスーリャの間に立った。
灼熱の空気が、ユダの頬を焼いた。
「こいつは、俺が、助けた女だ。カルケルンの地下牢で、俺の拘束を解いて、逃がしてくれた。そんなやつを、薪にするだと……ふざけんな」
アグニの炎が、スーリャの枝に燃え移った。
パチパチと、木が焼ける音がした。
スーリャは、燃え上がる自分の枝を、興味深そうに見つめた。
「あら。あなたは、炎の祝福者なのね。それも、消えない炎。ドマの祝福に似ているわ。でも、少し、違う」
スーリャは、燃える枝を、ゆっくりと揺らした。
炎が、木を舐め、葉を灰に変えていく。だが、スーリャの顔は、痛みを感じていないようだった。
「面白いわ。あなたの炎は、私の木を焼くことができる。でも、私の木は、あなたの炎が消えないのと同じように、無限に伸びるのよ。どちらが先に、燃え尽きるかしら」
「試してみるかよ」
アグニが、一歩、踏み出した。
炎が、大きくなる。
「お姉ちゃんを薪にさせるなら、俺がお前を焼き尽くす。それだけだ」
スーリャは、アグニを見た。
左目の青い瞳が、炎の光を反射して、きらりと光った。
「お姉ちゃんを、守るのね。あなたも、お姉ちゃんのことが、好きなの?」
アグニの炎が、一瞬、揺らいだ。
「……ち、違う! そういうんじゃねえ!」
「そう。でも、あなたの炎は、お姉ちゃんを守ろうとしている。温かいわ。とても、温かい」
スーリャは、微笑んだ。
左半分の顔が、幼い頃のユダの笑顔になった。
「でも、残念。あなたの炎では、私を焼き尽くせない。私は、あなたの炎よりも、ずっと、ずっと、古いのよ」
スーリャの体が、透け始めた。
木の枝が、煙のように、空気に溶けていく。
「お姉ちゃん。また、会いましょう。あなたが、自分の体のことを、もっと知った時に。あなたは、まだ、燃料よ。私の、大切な、燃料なのよ」
スーリャは、ユダに、手を振った。
「また会うわ、お姉ちゃん」
そして、消えた。
祭壇の上に、スーリャが立っていた場所には、何も残っていなかった。
焼けた枝の灰が、雪と混ざって、風に舞った。
——静寂。
神官たちも、民衆も、誰も、言葉を発することができなかった。
アグニの炎が、パチパチと音を立てている。
ユダは、アグニの背中を見ていた。
(この少年が、私を守った)
(私を、薪にさせないと、言った)
(私のために、あの異形に、立ち向かった)
ユダの胸の奥で、何かが、静かに、動いた。
それは、痛みでも、熱でもなかった。
もっと、柔らかい、何か。
(なんだ、これは)
ユダは、自分の胸に、手を当てた。
心臓が、ゆっくりと、しかし確かに、脈打っていた。
百三十年、感じたことのない、温かい脈動。
「……お前」
ユダは、アグニの背中に、声をかけた。
アグニが、振り返った。
焼けただれた顔。潤んだ琥珀色の瞳。
「……なんだよ」
「なぜ、私を守った」
アグニは、少し、困ったような顔をした。
「……分かんねえ。でも、お前が、あの化け物に、燃料にされるって言われてるのを見て、腹が立った。それだけだ」
「腹が、立ったのか」
「……ああ。お前は、俺を、地下牢から出してくれた。俺を、人として、見てくれた。そんなやつが、薪にされるのは、間違ってる。そう思っただけだ」
ユダは、アグニの顔を、じっと見た。
(この少年は、いつも、私の予想の斜め上を行く)
(私を、神としても、巫女としても、薪としても見ない)
(ただ、一人の人間として、見る)
「そうか」
ユダは、言った。
そして、祭壇の方を向いた。
神官たちが、まだ、呆然と立ち尽くしている。民衆も、雪の降る広場で、何が起きたのか分からない顔をしている。
ユダは、背中の翼状の刻印に、手を当てた。
布の上からでも、刻印の熱が、はっきりと分かった。
(この刻印は、神の祝福の証ではない)
(薪としての、烙印だ)
(だが、それでも)
(私は、私だ)
ユダは、顔を上げた。
「神は、ここにはいない」
声が、静まり返った広場に、はっきりと響いた。
「私が百三十年演じてきたのは、国家の嘘だった。神託は、管理局が書いた原稿を、私が読み上げていただけだ。この国に、神の声など、最初からなかった」
神官たちが、悲鳴のような声を上げた。
「巫女の反逆だ!」
「この女は、神を冒涜している!」
「捕らえろ! 管理局に連絡を!」
広場が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
民衆が、どよめき、叫び、走り出す。
——その時だった。
祭壇の聖火が、消えた。
風もないのに、突然、ふっと。
百三十年、一度も消えたことのない、大神殿の聖火。
それが、音もなく、消えた。
「聖火が……!」
「神の火が、消えた!」
「やはり、神は、ここにはいないのか……!」
悲鳴と怒号と祈りの声が、入り混じって、雪空に響いた。
ユダは、祭壇を背に、アグニの方を向いた。
「行くぞ」
「……どこに」
「大神殿の外だ。このまま、ここにいたら、管理局の追手が来る」
ユダは、アグニの手を取った。
燃える手。
アグニの手は、消えない炎に包まれていた。
触れた瞬間、ユダの手のひらが、ジュッと焼けた。
痛い。
だが、ユダは、手を離さなかった。
(この痛みは、私が選んだ道の痛みだ)
(神の器としてではなく、一人の人間として、生きるための痛みだ)
「……お前、手、焼けてるぞ」
「知っている」
「……離せよ」
「離さない」
ユダは、アグニの手を、強く握った。
再生の祝福が、焼けた手のひらを、修復していく。だが、アグニの炎は消えない。焼ける。再生する。また焼ける。その繰り返し。
(この痛みは、私の代償だ)
(祝福の代償は、痛みだ)
(ならば、私は、この痛みを、抱きしめて生きる)
二人は、大神殿の祭壇を後にした。
神官たちの怒号が、背後から追いかけてくる。
「待て! 巫女! その男を連れて、どこへ行く!」
「反逆者だ! 神への冒涜者だ!」
ユダは、振り返らなかった。
大神殿の廊下を、走る。
白い法衣の裾が、石畳を引きずる。アグニの炎が、壁の燭台を揺らす。
——その時、背中の刻印が、激しく脈打った。
(ああ)
ユダは、足を止めた。
いや、止めざるを得なかった。
熱い。
さっきまでとは、比べ物にならないほど、熱い。
背中の刻印が、燃えている。翼状の紋様が、布の下で、白く光っている。
そして——
体の内側から、何かが、這い上がってくる感覚。
木の根のような。
細い、無数の、根のような何かが、血管の中を、臓器の間を、ゆっくりと、しかし確実に、伸びていく。
(スーリャの、声が)
(あなたは、まだ、燃料よ)
(私の、大切な、燃料なのよ)
「……う、あ」
ユダは、膝をついた。
石畳に、手をつく。
呼吸が、乱れる。
(体が、私の体が、私のものじゃなくなっていく)
(木に、なる)
(私は、木になる)
(世界を温めるための、薪に)
「おい!」
アグニが、ユダの前にしゃがみ込んだ。
炎が、ユダの顔を照らす。
「お前、どうしたんだ! 背中が、光ってるぞ!」
「……刻印が、熱い。あの存在が、言っていた。私は、まだ、燃料だと」
ユダは、歯を食いしばった。
(立て)
(立て、私)
(ここで、倒れるな)
(私は、やっと、自分の足で、歩き始めたんだ)
「……手を、貸せ」
ユダは、アグニに、手を伸ばした。
アグニは、一瞬、ためらった。
「……焼けるぞ」
「知っている。それでも、手を貸せ」
アグニは、ユダの手を取った。
ジュッ。
肉が焼ける音。
痛い。
だが、その痛みが、ユダを現実に引き戻した。
木の根の感覚が、薄れていく。
刻印の熱が、少しだけ、和らいだ。
(そうだ)
(この痛みは、私が生きている証だ)
(私は、まだ、人間だ)
アグニが、ユダを引き起こした。
「俺が、お前を薪にさせない」
アグニの声は、炎の中で、はっきりと響いた。
「あの化け物が、また来ても、管理局が、お前を捕まえに来ても、俺が、お前を守る。お前は、俺を、地下牢から出してくれた。だから、今度は、俺が、お前を守る番だ」
ユダは、アグニの顔を見た。
焼けただれた顔。潤んだ琥珀色の瞳。
十五歳の少年。
(この子は、私を、守ると言う)
(私を、薪にさせないと、言う)
(百三十年、誰も、私に、そんなことを言ってくれなかった)
ユダの胸の奥で、さっき感じた、柔らかい何かが、また、動いた。
今度は、はっきりと、分かった。
(ああ、これは)
(生きていて、よかった、という気持ちだ)
ユダは、静かに、笑った。
「……そうか」
百三十年ぶりの、心からの笑みだった。
「ならば、お前の手を、借りよう。私を、薪にさせないために」
二人は、大神殿の廊下を、走った。
白い法衣と、消えない炎。
雪の降る王都を、二つの影が、駆け抜けていく。
背後では、神官たちの怒号と、追手の足音が、近づいていた。
だが、ユダは、もう、振り返らなかった。
——
大神殿アステリオンの祭壇に、セラフィナは、一人残っていた。
銀色の髪を後ろで厳格に束ねた老女。左手には数珠。右手には——ユダに渡したはずの、カルケルンの予備鍵。
いや、正確には、ユダが、セラフィナの部屋に置いていった鍵だった。
(あの子は、鍵を、私に返した)
(自分は、もう、この鍵を必要としないと、言っていた)
(自分の足で、歩くと)
セラフィナは、消えた聖火を見つめた。
百三十年、一度も消えたことのない火。
それが、今は、灰も残さずに消えている。
「……神は、沈黙しておられる」
セラフィナは、呟いた。
周囲では、神官たちが、右往左往している。
「大神官様! 巫女が、巫女が反逆を!」
「あの女を捕らえなければ! 管理局に報告を!」
「聖火が消えた! これは、神の怒りです! 神の怒りだ!」
セラフィナは、騒ぐ神官たちを、静かに見渡した。
(この者たちも、本当は、神など信じていない)
(信じているのは、神託がもたらす、自分たちの権力だけだ)
(私も、そうだった)
(だが、ユダは、違った)
(あの子は、百三十年、神を演じながら、ずっと、神を探していた)
(そして、今日、神はいないと、自分の口で、宣言した)
セラフィナは、数珠を、強く握った。
「静まりなさい」
老女の声は、低く、よく通った。
神官たちが、一斉に黙った。
「巫女ユダの反逆は、私の責任です。私が、彼女に、カルケルンの鍵を渡した。私が、彼女を、あの場所に導いた。すべての責任は、この私にあります」
セラフィナは、祭壇の前に、ゆっくりと進み出た。
「管理局の追及は、私が受ける。あなた方は、民の動揺を鎮めなさい。神託市は、中止です。民を、安全に、家に帰しなさい」
「で、ですが、大神官様……!」
「私の言葉が、聞こえませんでしたか」
セラフィナの深い緑の瞳が、神官たちを貫いた。
神官たちは、口をつぐんだ。
セラフィナは、祭壇の消えた聖火に、もう一度、目を向けた。
(ユダ)
(あなたは、これで、国家の敵になった)
(祝福者管理局は、あなたを、決して許さない)
(だが、それでいい)
(あなたは、やっと、自分の足で、歩き始めた)
(百三十年、あなたを見てきた私が、そう思うのだから、間違いない)
セラフィナは、数珠を、そっと、指で繰った。
「神は、沈黙している。だが、お前は、もう、沈黙していない。それで、いい」
誰にも聞こえない、小さな呟きだった。
雪が、大神殿の尖塔に、静かに降り積もっていた。
王都ヴェルミナの神託市は、かつてない混乱に包まれていた。
聖火は消え、巫女は反逆し、異形の存在が現れ、炎の少年が走り去った。
民たちは、雪の降る広場で、何が真実なのか分からないまま、ただ、空を見上げていた。
(神は、ここにはいない)
ユダの言葉が、民たちの心に、深く、深く、突き刺さっていた。
そして、その言葉は、これから、この国を、揺るがしていく。
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