月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ―
月が大きすぎる夜に目覚めた神楽ソラ。そこは元の世界とは微妙にズレた並行世界だった。プログラミングコンテスト優勝の直後、ウイルスによって全てのデータを失った絶望の記憶だけを抱えて——。
黒い着物に黒いマスクの少女・月光輝夜に導かれ、辿り着いたのは「由崎」の表札がかかる一軒家。1400年前に月の民から不老不死の薬を飲まされた少女・由崎司を守るため、輝夜は六年間一人で戦ってきたという。だが月の民はすでに動き出し、月はさらに大きくなろうとしていた。
「あなたの力が必要だから」——月の血が騒ぐというソラに、異世界で生きる道が開ける。自称「NASAより早く光速になる男」のプログラマー・由崎星空との出会い、そして月の民との戦い。コードを失った男が、新たな世界で何を掴むのか。
観察と論理で非現実に立ち向かう転生プログラマーと、月の民に母を奪われた不倒の嫁・輝夜が織りなすアクションバトル。大きな月が照らす夜、物語は動き出す。
月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ― - 月が大きすぎる夜 ―転移プログラマーの最初の観測―
目が覚めた時、最初に感じたのは背中に当たる硬い感触だった。
神楽ソラはゆっくりと体を起こした。頭がぼんやりする。まるで長い夢から無理やり引き戻されたみたいに、思考がうまくまとまらない。
ここは……どこだ。
ソラは辺りを見回した。
見知らぬ公園だった。古びたベンチに座らされていて、目の前には色あせた滑り台と、ペンキの剥げた鉄棒がある。周囲には木々が立ち並び、街灯がぽつぽつと頼りない光を落としていた。
夜だ。それも、かなり深い時間帯らしい。
ソラはポケットに手を突っ込んだ。スマホがある。指先で画面をタップすると、まぶしい光が暗闇に浮かび上がった。
日付は202X年。時間は午前二時十七分。
……おかしい。
最後に記憶があるのは、プログラミングコンテストの帰り道だった。全国大会で優勝して、表彰状を握りしめて家に帰った。嬉しかった。やっと報われたと思った。
それなのに。
パソコンを開いたら、全部消えていた。
今まで書いてきたプログラムも、研究用のデータも、大事に育ててきたコードの断片も。ウイルスに感染して、何もかもが消し飛んでいた。
誰がやったのかはわからない。でも、現実は残酷だった。
ソラはあの時、どうしたんだっけ。
……よく覚えていない。ベッドに倒れ込んで、そのまま眠った気がする。
なのに、目が覚めたらここにいた。
どうなってるんだ。
ソラはもう一度スマホを見た。電波は入っている。バッテリーも残り七十パーセント。地図アプリを開こうとして、指が止まった。
この街の名前が、どこにも出てこない。
いや、正確には、地図アプリが「現在地を特定できません」と表示している。GPSが機能していない。
ソラは深い茶色の目を細めた。考え事をすると、焦点が合わなくなる癖がある。
「落ち着け。まずは状況を整理しろ」
自分に言い聞かせる。
黒髪のショートヘアを指でかき上げ、左手首の古いデジタル時計を見た。午前二時十八分。スマホとほぼ同じ時刻だ。時計は狂っていない。
服装は白いシャツに黒のスラックス。コンテストの時に着ていた服のままだ。ポケットにはモバイルバッテリーも入っている。
つまり、何者かに運ばれたわけではなく、着の身着のままこの場所にいる。
ソラは顔を上げた。
そして、息を止めた。
月が、大きすぎる。
夜空の真ん中に、ありえないサイズの月が浮かんでいた。いつもの二倍、いや三倍はある。輪郭がはっきりしていて、クレーターの模様まで肉眼で見える。
「なんだ、これ」
ソラはしばらく月を見上げていた。
薄い雲が月の前を横切ると、公園に落ちる影が一瞬だけ揺れた。風が吹いている。生ぬるい風だ。夏の夜の空気が、肌にまとわりつく。
周囲は異様に静かだった。
虫の声がしない。車の音も聞こえない。東京の実家の近くなら、夜中でもどこかしらから生活音が聞こえてくるはずなのに。
ソラはベンチから立ち上がった。
途端に、くらりとめまいがした。
「……っ」
ベンチの背もたれに手をついて、なんとか体を支える。心臓が早鐘を打っている。冷や汗が背中を伝った。
体力がない。
ソラは自分の細い腕を見下ろした。筋肉質とは言えない体。高校生になってからずっと机に向かってばかりで、運動らしい運動はしていない。
(まずいな)
この状態で歩き回るのは危険だ。でも、ここでじっとしているのももっと危険な気がする。
ソラはゆっくりと深呼吸をして、公園の出口を探した。
公園は小さかった。ベンチが三つ、滑り台、鉄棒、砂場。あとは中央に小さな掲示板がある。
ソラは掲示板に近づいた。
地域のお知らせや、迷い猫の張り紙が何枚か貼ってある。どれも見覚えのない町内会の名前だった。
その時、掲示板の隅に貼られた一枚の紙が目に入った。
正確には、紙切れだ。
半分に破れた表札の切れ端だった。木の板に墨で書かれた文字が、かろうじて読める。
「……由崎」
ソラはその文字を指でなぞった。
由崎。聞いたことのない名前だ。でも、この世界に由崎という家がある。少なくとも、この公園の近くに。
(手がかりになるかもしれない)
ソラは紙切れをポケットにしまった。
公園の外に出る。
住宅街が広がっていた。古い一軒家が並び、電柱が規則的に立っている。どこにでもある、郊外の風景。
でも、やっぱり何かが違う。
空気の匂いも、建物の配置も、街灯の色も。細かい部分が少しずつ、ソラの知っている世界とはズレていた。
(ここは、俺のいた世界じゃない)
ソラは冷静にそう結論づけた。
パラレルワールドとか、異世界転移とか。そういう非現実的な話は信じないたちだった。でも、目の前にある現実を否定するほうが非合理だ。
データが矛盾しているなら、コードを疑う。
世界がおかしいなら、世界を疑う。
それだけのことだ。
ソラは歩き出した。
五分もしないうちに、息が上がった。
「はぁ……っ」
足が重い。頭の奥がじんじんする。体力のなさを呪った。
(せめて、どこか休める場所を)
そう思った瞬間、足がもつれた。
バランスを崩し、アスファルトに倒れかける。
——その時だった。
「あなた、この世界の人間じゃないね」
声がした。
ソラは倒れる寸前で踏みとどまり、声のした方向を見た。
街灯の下に、少女が立っていた。
黒い着物を着て、黒いマスクで顔の下半分を隠している。長い黒髪が、月明かりを浴びて時折銀色に輝いて見えた。
年はソラと同じくらいか、少し下。
身長は155センチほど。小柄だ。
でも、存在感が異様だった。
黒曜石のような瞳が、まっすぐにソラを見つめている。その瞳の奥に、月の光を反射して金色の輪が浮かんでいるように見えた。
「月の血が騒ぐ」
少女は無表情のまま、もう一度言った。
ソラは呼吸を整えながら、少女を観察した。
(黒い着物に黒いマスク。夜の住宅街で、完全に浮いている)
でも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、頭のどこかが冷静に「この少女は敵ではない」と判断している。
「……お前は誰だ」
「月光輝夜」
少女は短く答えた。
「月光、輝夜」
「そう」
輝夜はソラに近づいた。
足音がしない。着物の裾が揺れる音さえ聞こえない。まるで影が動いているみたいに、滑らかに距離を詰めてくる。
「立っていられる?」
「……なんとか」
「嘘。顔色が悪い。今にも倒れそう」
ソラは苦笑いした。
「よくわかったな」
「観察すればわかる」
輝夜はソラの左手首を見た。
「古いデジタル時計。大事なもの?」
「……まあ、昔から使ってるから」
「そう。壊れてない?」
「動いてる。今のところは」
「ならいい」
輝夜はそう言うと、くるりと背を向けた。
「ついてきて」
「どこに」
「由崎家。あなたを助けられる人がいる」
由崎。
さっき掲示板で見た名前だ。
「……なぜ、俺を助ける」
輝夜は振り返らなかった。
「月の血が騒ぐから。それと、あなたの力が必要だから」
「力」
「詳しくは歩きながら話す」
輝夜は歩き出した。
ソラは迷った。
知らない世界で、知らない少女に、知らない家へ連れて行かれる。
合理的に考えれば、リスクが高すぎる。
でも、今のソラには他に選択肢がなかった。
体力は限界に近い。土地勘もない。夜の住宅街を一人で歩き回るほうが危険だ。
ソラは小さく息を吐いて、輝夜の後を追った。
「……待ってくれ。せめて、もう少し説明を」
「何から知りたい?」
輝夜は歩く速度を少しだけ落とした。
「まず、ここはどこなんだ。俺はどうしてここにいる」
「ここは、あなたのいた世界とは別の世界。並行世界と呼んでもいいし、異世界と呼んでもいい。あなたは眠っている間に、この世界へ迷い込んだ」
「迷い込んだ」
「理由はわからない。でも、あなたの体には月の血が流れている。それも、かなり濃い。月に引っ張られたのかもしれない」
「月の血ってなんだ」
輝夜は空を見上げた。
異様に大きな月が、住宅街の屋根の上に浮かんでいる。
「月と縁の深い人間の血。月の民の気配を感じ取れる。私も持っている」
「月の民」
「この世界の裏側に潜む超越存在。見た目は人間とほぼ同じ。でも、身体能力は人間を遥かに超えていて、物理攻撃がほぼ通じない」
ソラは眉をひそめた。
「……ファンタジーかよ」
「事実。信じるかどうかはあなた次第。でも、月を見ればわかるはず」
ソラは空を見上げた。
やっぱり、月が大きすぎる。
「あの月は、この世界の月なのか」
「そう。月の民の力が強まると、月が大きく見える。今は……かなり危険な状態」
「危険」
「月の民が動き出している。ある一人の少女を、連れ戻すために」
ソラは輝夜の横顔を見た。
黒いマスクのせいで表情は読めない。でも、声の調子が少しだけ低くなった気がした。
「誰を」
「由崎司。1400年前に、月の民から不老不死の薬を飲まされた少女」
「不老不死」
「信じられない?」
「……正直、にわかには」
「それでいい。でも、事実は事実」
輝夜は足を止めた。
「ここを曲がる」
二人は細い路地に入った。
街灯が少なく、暗い。ソラは足元に気をつけながら歩いた。
「……一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は、なんでそこまで詳しいんだ」
輝夜は少しだけ間を置いた。
「私も、月の民に奪われたものがあるから」
「奪われたもの」
「母。私が十歳の時、月の民に連れ去られた」
ソラは言葉を失った。
輝夜の声は、淡々としていた。
「母は強い人だった。でも、月の民には勝てなかった。人間の力では、あれに傷一つつけられない。私は母の背中を見ていることしかできなかった」
「……」
「それから六年。私は月の民を追ってきた。由崎司を守るために」
「なぜ、司を」
「月の民が司を狙っている。司を守ることが、月の民の計画を止めることにつながる」
「計画」
「詳しくは、由崎家に着いてから。長くなる」
輝夜は再び歩き出した。
ソラはその後ろ姿を見ながら、頭の中で情報を整理した。
並行世界。月の民。不老不死の少女。
(まるでゲームの設定だ)
でも、現実に月は大きいし、輝夜の話は妙に具体的だった。
ソラはポケットからスマホを取り出した。
画面を見る。
やっぱり、日付は202X年のまま。元の世界と同じ日付。
(戻れるのか?)
ソラはスマホを握りしめた。
元の世界に戻る方法。あるのか、ないのか。
……たぶん、ない。
根拠はない。でも、あの公園で目覚めた瞬間から、ソラはうっすらと感じていた。
自分はもう、あの世界には戻れない。
「……なあ」
「なに」
「俺は、元の世界に戻れるのか」
輝夜は振り返った。
黒い瞳が、月明かりに照らされて金色に光った。
「わからない。でも、戻れたとしても、今は無理」
「今は」
「月の力が強すぎる。世界の境界が不安定になっている。あなたがこの世界に迷い込んだのも、そのせいかもしれない」
ソラは空を見上げた。
巨大な月が、じっとこちらを見下ろしている。
「……月の力、か」
「月が小さくなれば、道が開けるかもしれない。でも、今はまだ」
「つまり、俺はこの世界で生きていくしかない、と」
「そういうこと」
ソラは深く息を吐いた。
(最悪だ)
でも、不思議と悲観はしていなかった。
元の世界に未練がないと言えば嘘になる。でも、あの世界で失ったものは大きかった。
プログラミングコンテストで優勝した。それなのに、全部消えた。
あの絶望を、もう一度味わうくらいなら。
いっそ、新しい世界でやり直すのも悪くない。
(……いや、何を考えてる)
ソラは頭を振った。
「由崎家まで、あと少し」
「ああ」
二人はしばらく無言で歩いた。
住宅街の夜は、やっぱり静かだった。
ソラは輝夜の背中を見ながら、ふと思った。
(この少女も、ずっと一人で戦ってきたのか)
十歳で母を奪われて、それから六年。
月の民を追いかけて、司を守るために。
「……大変だったな」
声に出してから、しまったと思った。
輝夜が振り返る。
「何が?」
「いや……その、なんだ。六年も一人で戦ってきたのかと思って」
輝夜は無表情のまま、ソラをじっと見つめた。
「……一人じゃない。今は、あなたがいる」
ソラは目を丸くした。
「俺は、別に戦うとは言ってないぞ」
「言ってない。でも、あなたは逃げない。そういう目をしている」
「……勝手に決めるなよ」
「勝手に決めてない。観察して、判断した」
ソラはため息をついた。
(この少女、なかなか強引だな)
でも、嫌な気はしなかった。
むしろ、誰かに必要とされていることが、少しだけくすぐったかった。
「……由崎家って、どんな家なんだ」
「普通の一軒家。夫婦が住んでいる」
「夫婦」
「由崎星空と、由崎司。星空はプログラマーで、司は……まあ、色々ある」
「プログラマー」
ソラの興味が引かれた。
「どんなプログラマーなんだ」
「すごい。私が知る限り、この世界で一番。自称、NASAより早く光速になる男」
「は?」
「NASAより早く光速になる男。彼の口癖」
ソラは思わず笑いそうになった。
「なんだそれ」
「実際にすごいから、笑えない。あなたも会えばわかる」
「……会うのが楽しみだな」
ソラは素直にそう思った。
プログラミングの腕に自信がある。コンテストで優勝するくらいには。
でも、輝夜が「この世界で一番」と断言する相手がどんな人物なのか、興味があった。
「着いた」
輝夜が足を止めた。
そこは、古いけれど手入れの行き届いた一軒家だった。
門柱に「由崎」の表札がかかっている。
ソラはポケットの紙切れを思い出した。
(あの表札の切れ端は、ここから落ちてきたのか)
輝夜は門の前で立ち止まったまま、動かなかった。
「……どうした」
「月の気配がする」
輝夜の声が、急に低くなった。
「月の民が、近くにいる」
ソラは背筋が冷たくなった。
「もう、動き出している」
輝夜は黒い瞳で、由崎家の屋根の向こうを見つめた。
巨大な月が、家の上に浮かんでいる。
「時間がない」
輝夜は門を開けた。
「中に入って。早く」
ソラは頷き、輝夜の後に続いた。
玄関の前まで来た時、家の中から明かりが漏れていることに気づいた。
まだ起きている人がいる。
輝夜がインターホンに手を伸ばした。
その時、ソラはもう一度、空の月を見上げた。
(月が、大きい)
さっきよりも、さらに大きくなっている気がする。
気のせいかもしれない。
でも、ソラにはわかっていた。
これは始まりだ。
何か、大きなことが始まろうとしている。
ピンポーン。
インターホンの音が、静かな夜に響いた。
「——はーい」
中から、のんびりした声が聞こえてくる。
ソラは深呼吸した。
(これから、何が起きるんだ)
答えはまだ、わからない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
神楽ソラは、この世界で生きていく。
そのために、まずはこの家の人間と話をする。
ガチャリ。
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