月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ―
月が大きすぎる夜に目覚めた神楽ソラ。そこは元の世界とは微妙にズレた並行世界だった。プログラミングコンテスト優勝の直後、ウイルスによって全てのデータを失った絶望の記憶だけを抱えて——。
黒い着物に黒いマスクの少女・月光輝夜に導かれ、辿り着いたのは「由崎」の表札がかかる一軒家。1400年前に月の民から不老不死の薬を飲まされた少女・由崎司を守るため、輝夜は六年間一人で戦ってきたという。だが月の民はすでに動き出し、月はさらに大きくなろうとしていた。
「あなたの力が必要だから」——月の血が騒ぐというソラに、異世界で生きる道が開ける。自称「NASAより早く光速になる男」のプログラマー・由崎星空との出会い、そして月の民との戦い。コードを失った男が、新たな世界で何を掴むのか。
観察と論理で非現実に立ち向かう転生プログラマーと、月の民に母を奪われた不倒の嫁・輝夜が織りなすアクションバトル。大きな月が照らす夜、物語は動き出す。
月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ― - 月の血が告げるもの ―由崎家への道―
目が覚めた時、最初に感じたのは朝の空気の冷たさだった。
神楽ソラはゆっくりと体を起こした。背中が痛い。固いベンチの上で眠っていたせいだ。頭の奥がまだぼんやりしている。まるで昨日の出来事が全部夢だったみたいに、現実感が薄かった。
「……ここは」
ソラは辺りを見回した。
見知らぬ公園。色あせた滑り台。ペンキの剥げた鉄棒。昨日の夜、自分が倒れていた場所だ。
朝の光の中で見ると、公園は思ったよりも小さくて、古びていた。木々の葉が風に揺れている。遠くで鳥の声が聞こえた。
(夢じゃないんだな)
ソラは左手首の古いデジタル時計を見た。朝の七時四十二分。スマホの時刻とほぼ同じだ。
ポケットからスマホを取り出す。画面をつける。バッテリー残量は三十八パーセント。昨日の夜よりかなり減っている。モバイルバッテリーはあるが、それも無限じゃない。
(この世界でスマホが使えなくなったら、かなりまずい)
ソラは深い茶色の目を細めた。考え事をすると、焦点が合わなくなる。
空を見上げる。
月は見えなかった。朝の青い空に、あの異様に大きな月の姿はない。でも、夜になればまた現れる。あのありえない大きさの月が。
「起きた」
突然、声がした。
ソラは驚いて振り返った。
ベンチの隣に、黒い着物の少女が座っていた。
月光輝夜。昨日の夜、ソラを助けてくれた少女だ。
長い黒髪が朝の光を受けて、ほんの少しだけ銀色に輝いて見える。黒曜石のような瞳は、じっとソラを見つめていた。黒マスクで口元は隠れている。無表情で、何を考えているのかわからない。
「いつからそこに」
「三時間前から」
「三時間も?」
「あなたが起きるのを待っていた」
輝夜は淡々と言った。感情のない声。でも、その言葉には奇妙な誠実さがあった。
ソラは小さくため息をついた。
「……起こしてくれればよかったのに」
「寝ている顔が、少しだけ穏やかだったから」
ソラは一瞬、言葉に詰まった。
(この少女は、時々予想外のことを言う)
「それで、これからどうする」
「由崎家へ行く。あなたも来る」
「勝手に決めるなよ」
「あなたのスマホ、もう充電残り少ない。この世界のことを知るには、私と一緒に来るのが一番効率的」
ソラは黙った。
(……計算が合う)
確かに、この世界のことを何も知らない自分が一人で行動するより、事情を知っている輝夜と一緒にいた方が合理的だ。
「わかった。案内を頼む」
「うん」
輝夜は立ち上がった。
黒い着物の裾が、朝の風にふわりと揺れる。
ソラも立ち上がった。途端に、くらりとめまいがした。
「……っ」
ベンチの背もたれに手をつく。心臓が早鐘を打っている。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。少し立ちくらみがしただけだ」
(体力がない。自覚している)
ソラは深呼吸して、めまいが治まるのを待った。
「あなた、体力なさそう」
「……否定できない」
「無理しないで。ゆっくり歩く」
輝夜はそう言って、先に歩き出した。
ソラはその背中を追いかけた。
―――
公園を出ると、住宅街が広がっていた。
古い一軒家が並び、電柱が規則的に立っている。どこにでもある郊外の風景。でも、空気の匂いが、ソラの知っている世界とは少しだけ違っていた。
朝の光が、アスファルトの道を白く照らしている。
輝夜は無言で歩いていた。黒い着物姿は、この現代的な住宅街の中でひどく浮いて見える。でも、彼女自身はまったく気にしていないようだった。
ソラは少し迷ってから、口を開いた。
「昨日の話の続きを聞きたい」
「月の民の話?」
「ああ。司って人を狙ってるって言っただろ。あれをもう少し詳しく知りたい」
輝夜はしばらく黙って歩いていた。
朝の静かな住宅街に、二人の足音だけが響く。
「由崎司は、不老不死の少女」
輝夜が口を開いた。
「不老不死」
「千四百年、十六歳の姿のまま生きている。病気も怪我もしない。年も取らない」
ソラは足を止めそうになった。
「……本気で言ってるのか」
「本気。これから会う本人に聞けばわかる」
「どうしてそんな体になったんだ」
「千四百年前、月の民から不老不死の薬を飲まされた。かぐや姫の残した薬。蓬莱という名の薬」
かぐや姫。蓬莱。
ソラはその言葉を頭の中で反芻した。
「つまり、月の民ってのは、その薬を司に飲ませた張本人ってことか」
「そう。そして今も、司の体を狙っている」
「不老不死の体を、回収したいってことか」
「表向きはそう。でも、本当の目的はわからない」
輝夜の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「月の民は、人間とは違う。身体能力は人間を遥かに超えている。物理攻撃はほとんど効かない。刀で斬っても、銃で撃っても、傷一つつかない」
「……化け物ってことか」
「そう。化け物。でも、この世界の裏側には、そういう存在が本当にいる。表向きは普通の現代日本。でも、ごく一部の人間だけが、月の力と関わっている」
ソラは黙って聞いていた。
頭の中では、プログラマーとしての思考が回っていた。
(物理攻撃が効かない。身体能力が人間を超えている。そんな存在が、現実にいる)
(この世界のルールは、俺の知っている世界のルールとは違う)
「……なぜ、司を狙うんだ。不老不死の体が欲しいだけなら、もっと早く奪えただろ。千四百年も待つ必要なんてない」
「わからない。それが月の民の謎」
輝夜は前を向いたまま答えた。
「でも、彼らは今、動き出している。千四百年の沈黙を破って、地上に使者を送り込んだ。司を連れ戻すために」
「使者」
「月の使者。月の民の実働部隊。昨日、あなたも気配を感じたはず」
ソラは昨日の夜のことを思い出した。
由崎家の門の前で、輝夜が言った言葉。
『月の気配がする』
『月の民が、近くにいる』
あの時、ソラの背筋を走った冷たい感覚。
(あれは、気のせいじゃなかったんだ)
「……俺は、巻き込まれたくない」
ソラは気づくと、そう口にしていた。
輝夜が足を止めた。
「巻き込まれたくない」
「俺は部外者だ。この世界の人間じゃない。月の民と司の因縁に、俺が関わる理由はない」
ソラは自分の言葉に、自分で少し驚いていた。
(らしくない。感情的な言い方だ)
でも、本音だった。
昨日の夜、あの巨大な月を見て、何か大きなことが始まろうとしていると感じた。そして、その「大きなこと」に、自分は関わるべきじゃないと、心のどこかで思っていた。
「部外者じゃない」
輝夜が振り返った。
黒い瞳が、じっとソラを見つめる。
「月の血が騒いだ以上、あなたはもう部外者じゃない。この世界のルールに、すでに巻き込まれている」
「月の血って、なんなんだ。昨日も言ってたが、俺には意味がわからない」
「私の家系は、月の民と縁が深い。月の血を引く者は、月の動きに敏感に反応する。月の民の気配を察知できる。そして、あなたがこの世界に来た時、私の月の血が騒いだ」
「……つまり、俺にも月と関わりがあるってことか」
「わからない。でも、無関係ではない。あなたがこの世界に来たこと自体が、何かの意味を持つ」
ソラは黙った。
(俺がこの世界に来たこと自体が、何かの意味を持つ)
そんなこと、考えたくなかった。
「……それで、俺に何をしろって言うんだ」
「あなたの力が必要」
「力って、プログラミングのことか」
「そう。この世界のルールを、コードとして捉えて書き換える力。あなたには、その可能性がある」
ソラは苦笑した。
「買いかぶりだ。俺はただの高校生だ。プログラミングコンテストで優勝したくらいで、世界のルールを書き換えるなんて、できるわけがない」
「できる。私にはわかる」
輝夜の声には、迷いがなかった。
「あなたの思考は、この世界の人間とは違う。世界をコードとして見る視点を持っている。それが、月の民に対抗する鍵になる」
ソラは何か言おうとして、やめた。
(反論しても無駄だ。この少女は、一度決めたら曲げない)
「……俺の力が、本当に何かの役に立つのか。今はまだわからない。でも、司って人に会って、話を聞くくらいなら、付き合ってもいい」
「ありがとう」
輝夜の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
黒マスクのせいで表情は見えない。でも、目元が、ほんのわずかに和らいだ気がした。
(……この子も、必死なんだな)
ソラはそう思った。
―――
住宅街を抜けると、小さな商店街に出た。
まだ朝が早いせいか、開いている店は少ない。シャッターが下りた店が並ぶ中、一軒のパン屋だけが明かりをつけていた。焼きたてのパンの匂いが、通りに漂っている。
「腹、減ってない?」
「……正直、減ってる」
「少し待ってて」
輝夜はそう言うと、パン屋の中に入っていった。
ソラは店の前で待った。
五分ほどして、輝夜が紙袋を抱えて戻ってきた。
「はい」
差し出された紙袋の中には、焼きたてのクロワッサンが二つ入っていた。
「いいのか。金は」
「気にしないで。私が食べたかったから買っただけ」
「……ありがとう」
ソラはクロワッサンを受け取った。
まだ温かい。サクサクと音がして、バターの香りが口いっぱいに広がる。
(うまい)
素直にそう思った。
「おいしい?」
「ああ。うまい」
「よかった」
輝夜もマスクを少しずらして、クロワッサンをかじった。
その仕草が、なんだか小さな動物みたいで、ソラは思わず見てしまった。
「……何」
「いや、別に」
輝夜は無表情で、またクロワッサンをかじった。
商店街を抜け、住宅地を歩く。
朝の光が強くなってきた。夏の日差しが、じりじりと肌を焼く。
ソラは額の汗を拭った。
(体力がないから、暑さに弱い)
「もう少しで着く。あの公園を抜けたら、由崎家はすぐそこ」
輝夜が指をさした。
前方に、小さな公園が見えた。
「あの公園で、少し休もう。あなた、顔色が悪い」
「……悪いな」
「気にしないで。効率より、意味を考えて。無理して倒れたら、意味がない」
ソラは素直に従った。
公園に入り、ベンチに座る。
木陰は涼しかった。風が吹くと、木の葉がさらさらと音を立てる。
「輝夜」
「何」
「お前は、どうしてそこまで司を守ろうとするんだ。月の血の使命感ってやつか」
輝夜は黙った。
長い沈黙。
ソラは、聞いてはいけないことを聞いたかと思った。
「……私が十歳の時」
輝夜が、ぽつりと言った。
「月の民が、私の母を連れ去った」
ソラは息を止めた。
「母も、月の血を引いていた。月の民は、月の血を引く者を狙う。理由はわからない。でも、あの夜、母は月の光に包まれて、空へ消えた。私は、それを見ていることしかできなかった」
輝夜の声は、淡々としていた。
感情を抑えているのか、それとも、もう感情が麻痺しているのか。
ソラには判断できなかった。
「それから六年。私は月の民の動きを追い続けた。そして、彼らが次に狙っているのが由崎司だと知った。千四百年、月の民に追われ続けてきた少女。私は、彼女を守る。母を奪った月の民から、今度こそ」
輝夜の黒い瞳が、真っ直ぐにソラを見た。
「これは、私の復讐でもある」
ソラは何も言えなかった。
十歳で母を奪われた少女。
その無表情の裏に、これほどの執念が隠されていたとは。
(俺は、軽々しく「巻き込まれたくない」なんて言ったのか)
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……すまない。軽率だった」
「謝らなくていい。あなたの反応は、普通の人間の反応だから」
輝夜は立ち上がった。
「そろそろ行こう。由崎家はもうすぐ」
その時だった。
輝夜の体が、ぴたりと止まった。
「——月が騒ぐ」
輝夜の声が、急に低くなった。
「月の気配がする。近い」
ソラは反射的に周囲を見回した。
公園は静かだった。
さっきまで聞こえていた鳥の声が、消えている。
風も止んだ。
「どこだ」
「あそこ」
輝夜が、公園の外れを指さした。
遠くの街灯の下。
黒い影があった。
――いや、影ではない。
人だった。
銀色の長髪。月光の下で冷たく輝くような、異様な色の髪。
金色の瞳。縦長の瞳孔。
一目でわかった。
(人間じゃない)
ソラの全身の毛が逆立った。
心臓が、胸の奥で激しく脈打つ。
呼吸が浅くなる。
(あれが、月の使者——)
銀色の髪の男は、笑っていた。
口元を三日月のように歪めて、こちらのことを見ている。
その笑顔は、見ている者の背筋を凍らせるような、静かな狂気に満ちていた。
「面白い小虫がいる」
男の声が、風もないのに、はっきりとソラの耳に届いた。
距離は、ゆうに五十メートルはあるはずなのに。
「まあいい。今はまだ準備中ですよ。楽しみは、後にとっておきましょう」
男は、ゆっくりと手を振った。
そして、次の瞬間——
消えた。
まるで最初からそこにいなかったかのように、影は掻き消えた。
「……っ」
ソラは、自分が震えていることに気づいた。
足が動かない。
膝が笑っている。
立っているのがやっとだった。
(なんだ、今の。なんだったんだ)
「あれが、月の使者。月の民の実働部隊」
輝夜は、消えた影の方をじっと見つめたまま言った。
「あなたを、小虫と呼んだ。面白がっている。あなたは、もう彼の目に映った」
「……あれが、司を狙ってるのか」
「そう。そして、あなたのことも、もう知った」
ソラは唇を噛んだ。
(怖い。正直、怖い)
(あんな化け物が、本当にいるのか)
(俺は、あんなのに敵うわけがない)
「逃げるなら、今のうち」
輝夜が、冷たい声で言った。
「でも、逃げても月の民からは逃げられない。あなたはもう、彼らに知られた。どこへ逃げても、追ってくる」
ソラは黙っていた。
足の震えが止まらない。
(逃げたい。正直、逃げ出したい)
(でも——)
ソラは、輝夜の顔を見た。
無表情の、黒い瞳。
でも、その奥に、ほんの少しだけ、何かが見えた気がした。
(この子は、十歳の時から、あんな化け物と戦ってるのか)
(一人で)
「……逃げない」
ソラは、震える声で言った。
「逃げない。由崎家まで、同行する」
「本当にいいの。今ならまだ、引き返せる」
「引き返してどうする。あんなのに目をつけられたら、一人でいる方が危険だ。お前と一緒にいた方が、まだマシだ」
ソラは、自分に言い聞かせるように言った。
(合理的な判断だ。怖いから逃げるより、情報を持ってる奴と一緒にいる方が生存確率が高い)
(……そういうことにしておこう)
輝夜は、しばらくソラを見つめていた。
「……わかった。行こう」
輝夜の声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。
―――
由崎家は、公園から歩いて十分ほどの場所にあった。
古いけれど、手入れの行き届いた一軒家。
門柱に「由崎」の表札がかかっている。
ソラは、その表札を見て、昨日の夜のことを思い出した。
(公園の掲示板に貼ってあった、表札の切れ端。あれは、ここから落ちてきたのか)
輝夜が、門の前で足を止めた。
「ここが、司の家」
「由崎家」
「中に入れば、もう後戻りはできない。月の民との戦いに、あなたも関わることになる。それでも、入る?」
輝夜の黒い瞳が、じっとソラを見つめる。
ソラは、深呼吸した。
(後戻りはできない)
(でも、もうとっくに、後戻りできないところまで来てる)
「開ける」
ソラは、重い門扉に手をかけた。
ギィ、と音がして、門が開く。
一歩、中へ踏み出した。
その瞬間だった。
――ふわり。
不思議な温かさに、包まれた。
なんだろう。
空気が違う。
この家の中に入った瞬間、何かが変わった。
(既視感……?)
ソラは、この感覚を知っていた。
初めて来た場所なのに、昔から知っている場所のような、奇妙な懐かしさ。
「感じる?」
「ああ。なんだろう、これ。変な感じだ」
「由崎家は、特別な場所。千四百年を生きる司が守ってきた、結界のようなものがある。あなたの月の血が、反応してるのかもしれない」
「結界……」
ソラは、門の内側に立ったまま、しばらく動けなかった。
(この温かさは、なんだ)
(まるで、帰ってきたみたいだ)
「行こう。玄関はこっち」
輝夜が先に歩き出す。
ソラはその後を追った。
玄関の前まで来る。
家の中から、何かの音が聞こえた。
――トントントン。
包丁で何かを刻む音。
そして、いい匂い。
出汁の匂い。朝食の準備をしているのだろうか。
「……誰かいるのか」
「司。たぶん、朝ごはんを作ってる」
「この家の主婦ってことか」
「自称十六歳の主婦。千四百年生きてるけど、外見は十六歳のまま」
ソラは、その情報を頭の中で整理しようとした。
(千四百年生きてる十六歳。自称主婦)
(……計算が合わない)
輝夜が、インターホンに手を伸ばした。
その時、玄関の奥から声が聞こえた。
「だんな様、お客さん? ちょっと待ってくださいね」
女性の声。
柔らかくて、落ち着いた、上品な声。
ソラは、無意識に足を止めた。
(この声が、千四百年を生きる不老不死の少女の声)
(由崎司)
(俺はこれから、この人に会うんだ)
心臓が、また早鐘を打ち始めた。
さっきの恐怖とは違う。
もっと別の、言葉にできない感情。
「由崎司。千四百年を生きる、不老不死の少女」
輝夜が、静かに言った。
「あなたがこれから会う相手。この物語の中心にいる人」
ソラは、息を呑んだ。
(物語の中心)
(俺は今、その中心に、足を踏み入れようとしている)
ガチャリ。
玄関の鍵が開く音がした。
扉が、ゆっくりと開いていく。
朝の光が、玄関の中に差し込む。
そして、その光の中に、一人の少女が立っていた。
長い黒髪を後ろでまとめ、鹿革のバレッタで留めている。
大きくて澄んだ黒い瞳。
白い肌。
エプロン姿の、小柄な少女。
由崎司。
彼女は、ソラを見た。
その瞬間。
司の瞳が、大きく見開かれた。
そして——
ほんの一瞬だけ。
彼女の表情が、泣きそうに歪んだ。
「……あ」
司の唇から、小さな声が漏れた。
ソラは、その表情に、釘付けになった。
(なんだ、今の)
(どうして、そんな顔をするんだ)
まるで、千年の時を超えて、懐かしい人に再会したような。
そんな顔だった。
でも、それはほんの一瞬のことで。
次の瞬間には、司は柔らかい笑顔を浮かべていた。
「いらっしゃい。お待ちしていましたわ」
ソラは、何も言えなかった。
ただ、その笑顔に見惚れていた。
胸の奥が、じわりと温かくなる。
(この人に、会うために)
(俺は、この世界に来たのかもしれない)
根拠のない思いが、ふと浮かんだ。
「……初めまして。神楽ソラです」
ソラは、ようやくそれだけ言った。
司は、にっこりと笑った。
「初めまして、神楽ソラさん。私は由崎司と申します。さあ、どうぞ中へ。朝ごはん、一緒にいかがですの?」
ソラは、輝夜をちらりと見た。
輝夜は、小さく頷いた。
「……お邪魔します」
ソラは、一歩、玄関の中へ踏み入れた。
由崎家の温かい空気が、ソラの体を包み込む。
後戻りはできない。
でも、もう、後戻りしたいとは思わなかった。
―――
その夜。
ソラは、由崎家の客間に用意された布団の上で、天井を見つめていた。
昼間の出来事が、頭の中をぐるぐる回っている。
月の民。
月の使者。
不老不死の少女、由崎司。
そして、司が見せた、あの一瞬の泣きそうな顔。
(あれは、なんだったんだ)
(俺のことを、知っているのか?)
(いや、初対面のはずだ)
ソラは、スマホを取り出した。
バッテリー残量は、二十七パーセント。
メモ帳アプリを開く。
そこには、昨日の夜、ソラが書き留めた言葉が残っていた。
『この世界のルールを、コードとして捉える』
『書き換えられるか?』
ソラは、その文字をじっと見つめた。
(世界のルールを書き換える)
(そんなことが、本当にできるのか)
(でも、もしできるなら——)
窓の外を見る。
カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいた。
あの、異様に大きな月。
ソラは、ゆっくりと起き上がり、窓辺に立った。
月を見上げる。
「……やるしかないのかもしれない」
ソラは、小さく呟いた。
スマホの画面を閉じる。
暗くなった画面に、自分の顔が映った。
疲れた顔をしていた。
でも、目だけは、まだ光を失っていなかった。
「計算が合わないことばかりだ」
ソラは、もう一度布団に横になった。
月の光が、静かに部屋を照らしていた。Noveliaとは?
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