月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ―
月が大きすぎる夜に目覚めた神楽ソラ。そこは元の世界とは微妙にズレた並行世界だった。プログラミングコンテスト優勝の直後、ウイルスによって全てのデータを失った絶望の記憶だけを抱えて——。
黒い着物に黒いマスクの少女・月光輝夜に導かれ、辿り着いたのは「由崎」の表札がかかる一軒家。1400年前に月の民から不老不死の薬を飲まされた少女・由崎司を守るため、輝夜は六年間一人で戦ってきたという。だが月の民はすでに動き出し、月はさらに大きくなろうとしていた。
「あなたの力が必要だから」——月の血が騒ぐというソラに、異世界で生きる道が開ける。自称「NASAより早く光速になる男」のプログラマー・由崎星空との出会い、そして月の民との戦い。コードを失った男が、新たな世界で何を掴むのか。
観察と論理で非現実に立ち向かう転生プログラマーと、月の民に母を奪われた不倒の嫁・輝夜が織りなすアクションバトル。大きな月が照らす夜、物語は動き出す。
月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ― - 月影のプログラム ―記憶を対価に、光速の逆転―
由崎家の居間に、夜の静けさが満ちていた。
神楽ソラは壁に背を預け、浅い呼吸を繰り返していた。肋骨の痛みは消えていない。それでも、左手のひらに握りしめた小さなチップの感触だけが、かすかな熱を帯びている。
(残されたのは、これだけだ)
スマホはもう無い。世界のルールを書き換えるプログラムも、頭の中にしか残っていない。それでも、輝夜が拾い上げてくれたこのチップに、最初の解析コードの断片が生きている。
「……ソラくん、これ、飲める?」
声の方を向く。由崎ナサが、台所から湯気の立つマグカップを差し出していた。眼鏡の奥の目は、まだ赤く充血している。黒髪は乱れたままだ。
「ありがとう」
ソラはカップを受け取った。温かい白湯。喉を通ると、少しだけ体が緩む。
ナサはソラの隣に腰を下ろし、自分のカップを両手で包み込んだ。
「……あのチップ、本当に使えるのか?」
「分からない。でも、やるしかない」
「どうやって? スマホもパソコンも、あの夜にやられた。残ってるのは、お前の頭の中だけだろ」
「チップに直接、書き込む。輝夜の月の血を触媒にする。理屈は、まだ完全じゃない。でも、あいつが来る前に、プロトタイプを構築するしかない」
「……俺に、何かできることは?」
ソラは、少し考えた。
「家の中の電子機器、まだ動くものを全部教えてほしい。ブレーカー、配線、電灯の位置も。それと——」
「それと?」
「ナサさんの知識が必要だ。NASAより早く光速になる男の、本気の頭脳を借りたい」
ナサは、眼鏡の奥の目をわずかに見開いた。
それから、小さく笑った。
「……そう言われると、やるしかないな」
「ええ」
ソラは、チップを握りしめた。
(今度こそ。今度こそ、守る)
―――
客間。
月光輝夜は、布団の上に座っていた。黒い着物の襟元は少し乱れ、長い黒髪が肩から背中に流れている。顔色は、まだ青白い。
「……入ってもいいか」
襖の向こうから、ソラの声がした。
「ええ」
ソラは襖を開け、中に入った。
輝夜の黒曜石のような瞳が、月明かりを反射して、金色の輪を浮かべる。
「体は」
「動くわ。月の血も、少しずつ戻っている」
「無理をさせた」
「私が、自分で選んだことよ」
輝夜は、右手の甲にある月の紋様のような痣を、静かに撫でた。
「あなたの解析は、無駄じゃなかった。あのチップが残ったのは、奇跡でも偶然でもない。あなたが、世界のルールを本気で書き換えようとしたからよ」
「……まだ、何もできていない」
「だから、これからするの」
輝夜の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「あなたのプログラム、完成させましょう。私の月の血を、触媒に使いなさい」
ソラは、輝夜の顔を見た。
無表情。でも、その瞳の奥に、強い意志が宿っている。
「……ああ。頼む」
―――
台所。
由崎司は、流し台の前で、包丁を研いでいた。
シュッ、シュッ、と砥石の音が、静かな家に響く。
長い黒髪は後ろでまとめられ、鹿革のバレッタが小さく揺れる。白い肌は、月明かりの中で、陶器のように冷たく見えた。
「司さん」
ソラが、台所の入り口に立った。
「……ソラさん。まだ眠らないのですか」
「眠れません。それより、お願いがあります」
「なんでしょう」
司は、包丁を置いた。大きくて澄んだ黒い瞳が、ソラをまっすぐに見る。
「あなたの刀を、見せてください。それと——あなたの血を、少し分けてほしい」
司は、少しだけ首をかしげた。
「私の血は、他人を癒やす効果がありますわ。でも、あなたの肋骨を癒やすには、少し量が足りないかもしれません」
「傷のためじゃない。プログラムの触媒として、使いたいんです。月の民に通じる力が、あなたの血にはある。輝夜の月の血と、あなたの不老不死の血。二つを組み合わせれば、書き換えプログラムの精度が上がる」
「……分かりましたわ」
司は、静かに頷いた。
「でも、約束してください。無理はしないと」
「……善処します」
「善処、では不安ですわね」
司は、小さく笑った。
その笑顔の裏に、深い悲しみが、かすかに揺れていた。
「私は、あなたにもナサくんにも、これ以上傷ついてほしくないの。でも、月の民は、それを許してくれない。だから——」
司は、言葉を切った。
「だから、私が守りますわ。あなたたちを、絶対に」
「……俺も、守ります。あなたを」
ソラの声は、震えていた。
―――
その時だった。
パリン、と。
居間の窓ガラスが、内側から粉々に砕けた。
「——っ!」
ソラは、台所から居間へ飛び出した。
月明かりが、砕けたガラスの破片を照らしている。
そして、その光の中に。
銀色の長髪を揺らし、金色の瞳を細めて、月影の使者が立っていた。
「こんばんは。良い夜ですね」
使者は、笑っていた。
口元は笑っている。でも、金色の瞳は、全く笑っていない。
「——お前」
「おや、小虫。まだ生きていたのですか。感心ですよ。人間のくせに、しぶとい」
使者の声は、丁寧だが、底冷えする。
「用件は、分かっているでしょう。蓬莱の娘を、迎えに来ました」
「させない」
「させる、させないは、私が決めます。あなたに選択権はありませんよ」
使者が、一歩、前に出た。
その瞬間、居間の空気が、凍りついたように重くなる。
「——お前は、下がっていなさい」
声がした。
司が、ソラの前に立っていた。
手には、抜き身の刀。
刃が、月明かりを反射して、冷たく光る。
「司さん!」
「これは、私の戦いですわ。あなたたちは、巻き込まない」
「巻き込まれているんだ。とっくに」
「……ええ、そうね。でも、それでも」
司は、刀を構えた。
「下がっていなさい、ソラさん」
「——いやだ」
ソラは、チップを握りしめた。
「俺は、あなたを守る。それが、俺の決めたことだ」
「……ソラさん」
「感動的ですね」
使者が、拍手をした。
パチ、パチ、と、わざとらしい音が、静かな家に響く。
「人間の友情ごっこ。実に、微笑ましい。ですが——」
使者の金色の瞳が、縦に細くなった。
「時間の無駄です」
次の瞬間。
使者の体が、消えた。
「——っ!」
気づいた時には、使者は司の目の前にいた。
長い指が、司の首を掴む。
「ぐ……っ!」
「1400年、待ったぞ。蓬莱の娘よ」
使者の声が、耳元で囁く。
「今度こそ、連れ帰る。月へ帰ろう、永遠の姫よ」
「離しなさい!」
司は刀を振るった。
だが、使者は片手で、その刃を受け止めた。
ギィン、と金属音。
刃は、使者の白い手のひらに、ぴたりと止まった。
「無駄ですよ。あなたの刀では、私は斬れない」
「……っ!」
「司ちゃん!」
ナサが、台所から包丁を持って飛び出してきた。
「離せええええ!!」
ナサは、使者に向かって包丁を突き出した。
だが。
「邪魔です」
使者は、空いた方の手で、ナサを軽く払った。
ドン、と。
ナサの体が、壁に叩きつけられた。
「ナサくん!」
司の声が、悲鳴に変わる。
「ナサさん!」
ソラは、ナサに駆け寄ろうとした。
だが、足が動かない。
(怖い。怖くて、足が——)
「動きなさい」
声がした。
振り返ると、月光輝夜が、客間から出てきていた。
黒い着物の裾が、風もないのに揺れている。
「私が、動きを鈍らせる。あなたは、その隙に、プログラムを」
「でも、お前の体は——」
「問題ないわ」
輝夜は、右手を、月に向かってかざした。
「月の血よ」
輝夜の右手の甲の痣が、青白く光り始めた。
月明かりが、輝夜の体に吸い込まれていく。
「——解放」
瞬間。
居間の空気が、震えた。
輝夜の黒い瞳が、金色に輝く。
「ぐ……っ」
使者の体が、わずかに傾いだ。
「月の血……忌々しい。前回の消耗が、まだ残っているはずでは?」
「それでも、あなたの動きを、少しは鈍らせられる」
「……面白い。ですが、その程度で、私を止められると?」
使者は、司の首を掴んだまま、笑った。
「無理ですよ。あなたの力は、私の足止めにもならない」
「——なら」
ソラは、チップを握りしめた。
指先が、震える。
「俺が、お前を止める」
ソラは、チップを、自分の胸の前に掲げた。
「輝夜、月の血を、俺のプログラムに同調させてくれ」
「……ええ。でも、分かっているの?」
「ああ。代償は、俺の記憶の一部だ。過去の、辛い記憶。名前で笑われたこと。ウイルスで、全データを消された挫折。プログラミングコンテストで、優勝した喜び——」
「それらが、消えるのよ」
「分かっている」
ソラの声は、震えていた。
「それでも、司さんを守るためなら。俺の過去なんて、どうなってもいい」
「……ソラさん」
司の瞳が、揺れた。
「やめなさい。あなたの記憶は、あなたの人生ですわ。私のために、失う必要なんて——」
「必要、あるんだよ」
ソラは、司を見た。
「俺は、この世界に来て、初めて、守りたいものを見つけた。あなたと、ナサさんと、輝夜と。この家で、初めて、居場所を見つけた。だから——」
ソラは、チップを握りしめた。
「俺が守る」
「——勝手に、盛り上がらないでください」
使者が、司の首を締め上げた。
「ぐ……あ……っ!」
「司さん!」
「早く。私の月の血を、使いなさい」
輝夜が、叫んだ。
「あなたの理屈だけじゃ、守れないものがある。でも、あなたの理屈が、誰かを守ることもある。今が、その時よ!」
ソラは、目を閉じた。
(プログラム、起動)
(対象:この空間の物理法則)
(代償:術者の記憶)
(触媒:月の血、不老不死の血)
(実行)
チップが、熱を帯びた。
ソラの頭の中に、コードが流れ込む。
世界が、コードで見える。
空気の流れ。重力。光の屈折。
すべてが、記号と数字に置き換わっていく。
(書き換える)
(この空間の空気を、固化させる)
(対象:月影の使者の周囲)
(範囲:半径二メートル)
(実行)
「——っ!」
ソラの頭に、激痛が走った。
鼻の奥が、熱い。
生温かい液体が、鼻から流れ落ちる。
(血だ)
(でも、止まらない)
「動け……!」
ソラは、チップを掲げたまま、叫んだ。
「世界のルールを、書き換える……!」
瞬間。
使者の周囲の空気が、見えない壁のように固まった。
「——なに?」
使者の動きが、止まった。
指先が、ぴくりとも動かない。
「……これは、空間の固定。なるほど、小虫の分際で、面白いことをする」
使者の金色の瞳が、ソラを睨んだ。
「ですが、その代償、払えていますか? あなたの記憶が、どんどん消えていく。私には、見えますよ」
「……うるさい」
ソラの頭の中で、何かが、パキン、と音を立てて消えた。
(あれ……俺、なんで……)
(ウイルスで、データを……消された……?)
(いや、そんなこと、あったか……?)
(思い出せない……)
「——ソラさん!」
司の声が、遠くで聞こえた。
「今ですわ!」
司は、使者の手から逃れ、刀を構えた。
「輝夜さん!」
「ええ!」
輝夜が、月の血の力を、使者に集中させた。
「月の血よ、彼の体内の月の力を、乱しなさい!」
青白い光が、使者の体に突き刺さる。
「ぐ……っ!」
使者の体が、びくりと震えた。
「今だ、ナサくん!」
「分かってる!」
壁際で倒れていたナサが、這いながら、ブレーカーの場所へ向かう。
「NASAより早く光速になる男を、舐めるなよ……!」
ナサは、ブレーカーのスイッチを、一気に落とした。
バチン。
家の中の、すべての明かりが消えた。
真っ暗闇。
「——なにを」
「暗闇は、私の庭ですわ」
司の声が、闇の中で響いた。
「1400年、夜の闇と共に生きてきた。あなたより、ずっと長く」
「——っ!」
ザン。
刃が、空を切る音。
「があああああっ!!」
使者の悲鳴が、闇に響いた。
ドサリ、と、何かが床に落ちる音。
「……私の、右腕を」
使者の声が、低く、震えていた。
「斬った……だと?」
「ええ。月の血で、あなたの力が乱れている隙に。物理攻撃が通じないなら、通じる瞬間を作ればいい」
「……面白い」
使者は、暗闇の中で、笑った。
「面白い。実に、面白い。人間ごときが、私の腕を斬るとは」
「——だが」
使者の声が、冷たくなる。
「本隊が動けば、終わりですよ。私一人を退けたところで、何も変わらない。月の民の本隊は、私の比ではない。あなたたちは、いずれ、必ず」
「——消えなさい」
司の声が、鋭く響いた。
「今度こそ、来るなら、その時も、斬るだけですわ」
「……ふふ。楽しみです。次に会う時、あなたの顔が、どんな絶望に染まるか」
使者の気配が、消えた。
―――
しばらくして。
ナサが、ブレーカーを戻した。
明かりが、居間に戻る。
床には、使者の右腕が、銀色の血を流して落ちていた。
そして、ソラは。
床に、膝をついていた。
鼻血が、止まらない。
頭が、割れるように痛い。
「……ソラさん」
司が、駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか。しっかりして」
「……ああ。大丈夫……だ」
ソラは、顔を上げた。
視界が、ぼやける。
「……勝った、のか」
「ええ。あなたのおかげですわ。あなたが、使者の動きを封じてくれたから」
「そう……か」
ソラは、チップを見た。
チップは、まだ、熱を帯びていた。
(でも、何かが、おかしい)
(俺は……何を、失った?)
(思い出せない。失ったものの、形が、分からない)
「……ソラ」
輝夜が、隣に座った。
「あなたの記憶、一部が、消えた。分かる?」
「……ああ。なんとなく。でも、何を失ったのか、分からない。穴が開いたような感じだけが、残ってる」
「そう。それが、代償よ」
輝夜は、静かに言った。
「あなたは、自分の過去の一部を、演算資源として消費した。もう、戻らない。でも——」
輝夜は、ソラの手に、そっと触れた。
「あなたは、生きている。そして、私たちも。それで、十分よ」
「……輝夜」
「あなたの力が、必要。これからも。だから、消えないで」
輝夜の声は、ほんの少しだけ、震えていた。
「……ああ。消えないよ」
ソラは、言った。
「でも、俺は……何を失ったんだろうな。それが、分からないことが、一番、怖い」
「——ソラさん」
司が、ソラを抱きしめた。
「ありがとう。あなたが、守ってくれた」
司の腕が、温かい。
「あなたの失った記憶の分まで、私が、覚えていますわ。あなたが、ここで、私たちを守ってくれたことを。絶対に、忘れません」
「……司さん」
ソラの目から、涙がこぼれた。
自分でも、理由が分からない。
ただ、温かくて、悲しくて、嬉しくて。
涙が、止まらなかった。
「……俺、泣いてる。なんでだ」
「いいのよ。泣いても」
司は、ソラの背中を、優しく叩いた。
「あなたは、よくやったわ。だから、泣いていいの」
―――
居間の窓から、月明かりが差し込んでいた。
砕けたガラスの破片が、床に散らばっている。
その光景は、戦いの後の、静かな爪痕だった。
ソラは、司の腕の中で、涙を流しながら。
(俺は、何を失ったんだろう)
(でも、それでも)
(守れた。守れたんだ)
そう、思った。
―――
夜が、明けようとしていた。
東の空が、白み始めている。
でも、西の空には、あの異様に大きな月が、まだ沈まずに浮かんでいた。
ソラは、窓の外を見た。
(月の民の本隊)
(あいつが言っていた。本隊が動けば、終わりだと)
(まだ、終わっていない)
(でも、今は)
ソラは、握りしめたチップを、胸の前で開いた。
小さなチップ。
でも、確かな熱。
(この熱が、ある限り)
(俺は、戦える)
ソラは、深い茶色の瞳で、月を見上げた。
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