月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ―
月が大きすぎる夜に目覚めた神楽ソラ。そこは元の世界とは微妙にズレた並行世界だった。プログラミングコンテスト優勝の直後、ウイルスによって全てのデータを失った絶望の記憶だけを抱えて——。
黒い着物に黒いマスクの少女・月光輝夜に導かれ、辿り着いたのは「由崎」の表札がかかる一軒家。1400年前に月の民から不老不死の薬を飲まされた少女・由崎司を守るため、輝夜は六年間一人で戦ってきたという。だが月の民はすでに動き出し、月はさらに大きくなろうとしていた。
「あなたの力が必要だから」——月の血が騒ぐというソラに、異世界で生きる道が開ける。自称「NASAより早く光速になる男」のプログラマー・由崎星空との出会い、そして月の民との戦い。コードを失った男が、新たな世界で何を掴むのか。
観察と論理で非現実に立ち向かう転生プログラマーと、月の民に母を奪われた不倒の嫁・輝夜が織りなすアクションバトル。大きな月が照らす夜、物語は動き出す。
月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ― - 月下の食卓 ―1400年の涙と最初の敗北―
由崎家に滞在して五日目の夕方。
神楽ソラは客間の窓から、沈みかけた夕日を眺めていた。空が、オレンジ色から紫へとゆっくり変わっていく。あの異様に大きな月が、東の空にうっすらと姿を見せ始めていた。
(あれから、五日か)
ソラは左手首の古いデジタル時計を見た。午後五時四十八分。
三日目の夜、月影の使者が由崎家の周囲に現れた。不可視の糸を張り巡らせ、結界を探っていた。ソラはスマホで逆探知を試み、輝夜が身を挺して重傷を負った。
あの夜のことが、まだ頭から離れない。
輝夜の血で濡れた着物。青白い顔。それでも、彼女は「あなたの解析は無駄じゃなかった」と言った。
(無駄じゃなかった、か)
ソラはポケットからスマホを取り出した。画面は、無事だ。三日目の夜に握り潰されかけたが、なんとか動いている。バッテリーは四十二パーセント。
メモ帳アプリを開く。
『世界のルールをコードとして捉える』
『結界の構造を解析し、強化する』
『月の民の糸の制御信号を、完全に無効化する』
(まだ、何もできていない)
ソラは深い茶色の目を細めた。考え事をすると、焦点が合わなくなる。
指が、無意識に机をトントンと叩く。
(理屈は分かる。でも、この世界のルールは、元の世界のプログラムとは根本から違う)
(変数が多すぎる。定数が分からない。それに、そもそも——)
「ソラくん、ご飯ですよー」
廊下の向こうから、ナサの声がした。
「……ああ、今行く」
ソラはスマホをポケットにしまい、立ち上がった。
―――
台所に近づくにつれて、匂いが強くなった。
土鍋で炊いた米の香り。それから、醤油と出汁の混ざった、甘じょっぱい匂い。
ソラは台所の入り口で、足を止めた。
由崎司が、いた。
長い黒髪を後ろでまとめ、鹿革のバレッタで留めている。白い肌。小柄な体。エプロン姿で、鍋の中をじっと見つめていた。
左手に味噌汁のお玉。右手に菜箸。手際よく、でもどこか丁寧に、煮物の味を確かめている。
(この人と、ちゃんと話すのは初めてだ)
五日間、同じ家にいた。でも、ソラは司とほとんど会話をしていない。
朝食はいつも、ソラが起きる前に終わっていた。昼は、それぞれ好きなものを食べていた。夜は、ナサと輝夜と三人で食べることが多かった。
司は、いつも台所にいた。でも、ソラはなんとなく、距離を置いていた。
(不老不死の少女。月の民に狙われている人)
(どんな顔で話せばいいのか、分からなかった)
「あら」
司が顔を上げた。
大きくて澄んだ黒い瞳が、ソラをまっすぐに見た。
その瞬間。
司の表情が、変わった。
眉が、ほんの少しだけ下がる。唇が、かすかに震える。黒い瞳の奥で、何かが揺れた。
——泣きそうな顔。
ソラは、息が止まるのを感じた。
(なんだ、今の)
(どうして、そんな顔をするんだ)
まるで、千年の時を超えて、懐かしい人に再会したような。
そんな顔だった。
でも、それはほんの一瞬のことだった。
次の瞬間には、司は柔らかい笑顔を浮かべていた。
「あなたが、輝夜ちゃんの言ってた子ね。ご飯できてるわよ」
「……あ、はい。お邪魔します」
ソラは、それしか言えなかった。
(今の、なんだったんだ)
(俺のことを、知っているのか?)
(いや、初対面のはずだ)
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
―――
食卓には、四人分の料理が並んでいた。
土鍋で炊いた白米。湯気が立っている。旬の野菜の煮物。里芋、人参、こんにゃく。それから、豆腐とわかめの味噌汁。焼き魚は、ほっけだった。
「おお、今日は豪華だね! 司ちゃん、ありがとう!」
ナサが、眼鏡の奥の目を輝かせた。
「ソラさんが来てから初めての、ちゃんとした夕食ですもの。少し張り切りましたわ」
司が、照れたように笑った。
「……いただきます」
ソラは、手を合わせた。
「いただきます」
「……いただきます」
輝夜も、小さく手を合わせた。黒マスクを外した顔は、相変わらず無表情だ。でも、箸を持つ手は、どこか嬉しそうに見えた。
ソラは、煮物を一口食べた。
(……うまい)
里芋が、とろけるように柔らかい。出汁が、じんわりと舌に染みる。
「……おいしいです」
思わず、声に出ていた。
「ふふ、ありがとう。お口に合ってよかったわ」
司が、嬉しそうに微笑んだ。
「そうだ、ソラくん。君のプログラミングの話、もっと聞かせてよ」
ナサが、身を乗り出した。
「僕の、ですか」
「そうそう。この前、君が書いてたコード、面白かった。あの発想は、普通の高校生にはないよ。コンテストで優勝したって言うだけある」
「……あれは、たまたまです」
ソラは、少しだけうつむいた。
(たまたま、か)
(本当は、もっとすごいコードを書けるはずだった)
(あのウイルスさえなければ)
「謙遜しなくていいよ。NASAより早く光速になる男が言うんだから、間違いない」
ナサが、笑いながら言った。
「……またその口癖」
ソラは、思わず苦笑いした。
「いいだろ、別に。それより、君の書いたあの再帰処理、あれは面白かったな。あんな書き方、僕も思いつかなかったよ」
「あれは、メモリ効率を考えて……いや、でも、ナサさんのコードの方が、はるかに速いです。あの速度は、正直、異常です」
「はは、まあね。でも、速さだけが全てじゃない。君のコードには、君にしか書けない発想がある。それは、速さとは別の価値だ」
ソラは、箸を止めた。
(君にしか書けない発想)
(そうか。そういう見方もあるのか)
「……ありがとうございます」
ソラは、素直にそう言った。
「お寿司も握れますよ」
突然、司が言った。
「え?」
「お寿司も握れますよ。今度、お寿司も作りますわ」
司が、にっこりと笑った。
「司ちゃんの握り寿司、めちゃくちゃ美味いんだよ。楽しみにしてて」
「材料さえあれば、何でも作れますの」
(この人、本当に料理が好きなんだな)
ソラは、司の笑顔を見て、そう思った。
食卓の空気が、温かかった。
味噌汁の湯気。土鍋のご飯。煮物の匂い。ナサの笑い声。輝夜の静かな咀嚼音。
(ここに、居場所がある)
ソラは、初めてそう感じた。
元の世界では、一人だった。高校でも、家でも、ずっと一人だった。プログラミングだけが、自分と世界を繋ぐ細い糸だった。
でも、ここには、一緒にご飯を食べる人たちがいる。
「ソラさん、おかわりいかが?」
「……あ、はい。お願いします」
ソラは、茶碗を差し出した。
司が、ふっくらと炊けた白米を、よそってくれる。
「はい、どうぞ。たくさん食べてくださいね」
「……ありがとうございます」
(あったかい)
茶碗の熱が、手のひらに伝わる。
(これが、家族ってやつなのか)
ソラは、小さく息を吐いた。
―――
夕食が終わり、片付けが始まった。
ソラは、食器を運ぶのを手伝った。
「あら、いいのに。お客様なんだから、ゆっくりしていてくださいな」
「いや、これくらいは。お世話になってるし」
「まあ、ありがとう。助かりますわ」
司が、嬉しそうに笑った。
ソラは、流し台の前に立つ司の隣で、食器を拭いた。
(こういうの、悪くない)
(いや、むしろ、いい)
「ソラさんは、おうちでは料理、なさらないの?」
「……あんまり。一人暮らしだったし、コンビニとか、適当に」
「まあ、それじゃ体に良くないわ。今度、簡単な料理、教えてあげましょうか」
「……ぜひ」
ソラは、素直に頷いた。
「ふふ、楽しみですわ」
司が、笑った。
―――
片付けが終わった後。
ソラが居間に戻ると、司が台所の隅で、何かをしていた。
白い布を広げ、その上に、一振りの刀を置いている。
刀身が、台所の灯りを反射して、冷たく光った。
司は、小さな油壺と布で、刀身を丁寧に拭いていた。
(刀の手入れ)
ソラは、足を止めた。
司の手つきは、慣れたものだった。無駄がなく、迷いがない。刀身を拭き、油を薄く引き、また拭く。
その姿は、先ほどまで夕食を作っていた主婦の姿とは、まるで違っていた。
(この人には、二つの顔がある)
(温かい食卓を作る人と、刀を手入れする人)
(そして、その二つは、地続きなんだ)
ソラは、司の横顔を見つめた。
大きくて澄んだ黒い瞳が、刀身を見つめている。その瞳は、時折、1400年の歴史を映すように深く暗くなる。
「……司さん」
ソラは、声をかけた。
「あら、ソラさん。どうかしました?」
司が、顔を上げた。
「その刀、よく手入れしてるんですね」
「ええ。私の、大切なものですから」
司が、刀身を見つめたまま言った。
「……月の民と戦うための、ですか」
ソラの言葉に、司の手が、一瞬止まった。
「……ええ」
司の声が、少しだけ低くなった。
「でも、刃は通りませんの。あの人たちには」
「……それでも、ですか」
「それでも、ですわ」
司は、刀を鞘に収めた。
カチン。
静かな音が、台所に響いた。
「私にできることは、少ない。でも、何もしないよりは、ましですもの」
司が、ソラを見た。
その瞳は、まっすぐだった。
「ソラさん。あなたは、戦わなくていいの。これは、私の問題ですから」
「……いいえ」
ソラは、首を振った。
「僕は、この世界に来て、初めて居場所を見つけた。それを、失いたくない」
ソラの言葉に、司は少しだけ目を丸くした。
「……そう。ありがとう」
司が、小さく笑った。
―――
夜が、更けていく。
ソラは、居間で輝夜と向かい合っていた。
二人の間には、ノートと、ソラのスマホが置かれている。
「結界の状況は?」
「弱まっている。前回の使者の干渉で、いくつかの節点が損傷した」
輝夜が、淡々と言った。
「修復は?」
「私の血では、限界がある。月の血は、結界の修復には向いていない」
「……じゃあ、どうする」
「あなたの解析が必要。結界の構造を、コードとして理解できれば、修復できるかもしれない」
ソラは、ノートを開いた。
「やってみる。でも、時間がかかる。結界の構造は、普通のプログラムとは全然違う。変数も、関数も、全部が未知数だ」
「時間なら、まだある。月の民が本格的に動くのは、次の満月の夜。それまで、あと十日」
「十日……短いな」
「でも、あなたならできる」
輝夜が、ソラをじっと見つめた。
「私が保証する。あなたの解析は、間違っていない」
「……根拠は?」
「月が騒ぐ」
輝夜の口癖。
ソラは、小さくため息をついた。
「またそれか」
「効率より意味を考えて。あなたは、理屈で動く。でも、理屈だけでは守れないものがある」
「……分かってる」
ソラは、ノートに視線を落とした。
(理屈だけでは守れないもの)
(司さんの笑顔。ナサさんの笑い声。輝夜の、あの不器用な優しさ)
(そういうものを、守りたい)
「——」
その時だった。
ドォォォォン!!!
玄関の方から、爆発音がした。
家全体が、揺れた。
「なっ——」
ソラは、立ち上がった。
「来た」
輝夜の声が、低くなった。
「月影の使者……!」
「走って。司のところへ」
二人は、同時に駆け出した。
―――
玄関は、破壊されていた。
扉が、内側から爆ぜるように吹き飛んでいる。木片が、廊下に散乱していた。
そして、その奥に。
銀色の長髪。
月光の下で、冷たく輝く髪。
金色の瞳。縦長の瞳孔。
笑顔を絶やさないが、目が全く笑っていない男。
月影の使者。
「こんばんは。由崎家の皆様。そして、蓬莱の娘よ」
使者が、ゆっくりと歩いてくる。
指が、異常に長い。掴んだものは離さないという執念を感じさせる指。
「随分と待たせてくれましたね。いえ、私が待っていたのは、あなたではない。あなたの、その体です」
使者の金色の瞳が、司を捉えた。
「司さん!」
ソラが叫ぶ。
司は、居間から出てきた。手には、あの刀。
「……来たのね」
司の声は、静かだった。でも、その瞳には、静かな怒りが宿っていた。
「ええ、来ましたよ。1400年、待ったぞ、蓬莱の娘よ」
使者が、笑った。
「あなたが地上で、人間ごっこを楽しんでいる間、私はずっと、あなたを探していた。月の民の技術で、あなたの居場所を特定するのに、随分と時間がかかりました。まあ、1400年という時間は、私にとっては一瞬ですがね」
「さあ、月へ帰ろう、永遠の姫よ。あなたの体は、月の民の所有物です。人間と一緒にいるのは、もうお終いです」
「……お断りしますわ」
司が、刀を抜いた。
「ほう。まだ、そんな玩具で私に逆らうのですか。面白い。では、少しだけ遊んであげましょう」
使者が、一歩踏み出した。
速い。
ソラの目には、残像しか見えなかった。
「——っ!」
司が、刀を振るう。
キンッ!
刃が、使者の首元に吸い込まれる。
しかし。
ガキィン!!
硬い音がして、刀が弾かれた。
「無駄ですよ。私の体は、月の加護を受けている。人間の武器では、傷一つつけられません」
使者が、笑う。
司は、体勢を立て直し、再び斬りかかる。
二閃、三閃。
しかし、全て弾かれる。
「ほら、ほら。どうしました? 1400年の経験は、そんなものですか?」
「くっ……」
司の呼吸が、荒くなる。
「司ちゃん!」
ナサが、居間から飛び出してきた。
「おや、人間の夫ですか。あなたには用はありません。下がっていなさい」
「ふざけるな! 司ちゃんから離れろ!」
ナサが、使者に飛びかかった。
「ナサくん、ダメ!」
司の叫びも、遅かった。
使者が、片手でナサを払う。
ドゴッ!
ナサの体が、壁に叩きつけられた。
「ぐあっ……!」
ナサが、崩れ落ちる。
「ナサくん!!」
司の顔が、怒りに歪んだ。
「安心しなさい。殺しはしません。私は、あなたの体だけが目的ですから」
使者が、司に近づく。
「やめて……やめて!」
司が、刀を構える。
しかし、使者の動きは、それよりも速かった。
ガッ!
使者の長い指が、司の首を掴んだ。
「ぐ……っ」
司の体が、持ち上げられる。
「1400年、待ったぞ、蓬莱の娘よ」
使者が、司の耳元で囁く。
「あなたの血は、月の民の悲願を叶える鍵。あなたの体は、我々の未来そのもの。それを、人間ごときと分かち合うなど、許されませんよ」
「離して……離して!」
司が、もがく。
しかし、使者の指は、びくともしない。
「——月よ」
突然、輝夜の声が響いた。
黒い着物の少女が、右手を掲げている。
右手の甲に、月の紋様のような痣が浮かび上がり、淡く光る。
「ほう。月の血を引く者ですか。面白い。ですが、あなたの力では、私の動きを止められませんよ」
「それでも」
輝夜の瞳が、金色に輝いた。
「月が、騒ぐ」
瞬間、使者の体が、一瞬だけ硬直した。
「……っ! これは、月の加護を逆流させたか。小賢しい!」
使者の指から、力が緩む。
司が、床に落ちた。
「げほっ……げほっ……」
司が、咳き込む。
「今だ、逃げ——」
「逃がしませんよ」
使者の金色の瞳が、ギラリと光った。
「月の血の力、確かに面白い。ですが、私を止めるには、力が足りない。あなたの血は、薄すぎる」
使者が、輝夜に向かって手をかざした。
「きゃ……!」
見えない力が、輝夜の体を吹き飛ばした。
「輝夜!」
ソラが、叫ぶ。
(どうする。どうすればいい)
(このままじゃ、全員やられる)
(僕に、何ができる)
ソラの頭が、フル回転する。
(ナサのパソコン。居間にある)
(街灯の制御システム。この街の街灯は、ネットワークで制御されている)
(それらに、僕の意識を接続する)
(この世界のルールを、コードとして捉える)
(書き換えるんだ)
ソラは、居間へ走った。
「——何をしているのですか、小虫」
使者の声が、後ろから聞こえる。
ソラは、無視した。
居間の机の上。ナサのパソコンが、スリープ状態で置かれている。
ソラは、キーボードに手を置いた。
「……やるしかない」
ソラは、目を閉じた。
(この世界のルール。物理法則。因果。それらを、コードとして捉える)
(パソコンの処理能力を使って、街灯の制御システムにアクセスする)
(街灯の光。電流。それらを、使者の神経に干渉させる)
ソラの意識が、ネットワークに溶けていく。
指が、勝手に動く。
カタカタカタカタカタカタ。
キーボードを叩く音が、雨のように響く。
(見える。街灯の制御システム。電流の流れ。光のパルス)
(それらを、一つのプログラムとして、再構成する)
「——何を、しているのですか?」
使者の声が、近づく。
「パソコンごときで、私に何ができると。愚かな」
使者が、居間に入ってきた。
しかし、ソラは、もう迷わなかった。
「——実行」
ソラが、エンターキーを叩いた。
瞬間。
バチバチバチッ!!
家の外の街灯が、一斉に明滅した。
強烈な光のパルスが、窓から差し込む。
同時に、パソコンから放たれた電流が、ネットワークを通じて、使者の体に流れ込む。
「ぐっ……!? これは——!」
使者の体が、痙攣する。
「街灯の制御システムに、私の神経を撹乱する信号を……この小虫が!」
使者が、膝をついた。
「今のうちに、逃げ——」
しかし、ソラの言葉は、途中で途切れた。
プスン。
ポケットの中で、スマホが、異音を立てた。
(え?)
ソラは、スマホを取り出した。
画面が、真っ暗だった。
いや、違う。
スマホの内部で、何かが焼けている。
ジュッ……。
溶断する音。
焦げ臭い匂い。
「——っ!?」
ソラの頭に、激痛が走った。
(なんだ、これ。頭が、割れる)
(代償。これが、代償か)
ソラの視界が、歪む。
鼻の奥が、熱い。
生暖かい液体が、鼻から流れ出た。
鼻血だ。
「ぐ……あ……」
ソラは、膝をついた。
「面白い小虫だ」
使者が、ゆっくりと立ち上がった。
「たかが人間が、私の神経に干渉するとは。大したものだ。だが、代償も大きいようですね。その程度の力で、私を止められると思うな」
使者が、ソラに近づく。
「褒美に、苦しまずに殺してあげましょう」
使者の長い指が、ソラの胸ぐらを掴んだ。
「——っ!」
次の瞬間。
ドゴッ!!
ソラの体が、壁に叩きつけられた。
「かはっ……!」
背中に、激痛。
息が、できない。
(やばい。死ぬ)
(このままじゃ、死ぬ)
「ソラさん!」
司の声が、聞こえた。
「おや。まだ動けましたか」
使者が、振り返る。
司が、立ち上がっていた。
刀を杖代わりに、よろよろと。
「……その子を、離しなさい」
司の声が、震えていた。
「ほう。人間ごときを、そんなに気にするのですか。やはり、あなたは、月の民の姫君には向かない」
「離しなさい!」
司が、刀を振り上げた。
しかし、その動きは、明らかに遅かった。
「無駄です」
使者が、片手で刀を弾く。
ガキィン!
刀が、床に落ちた。
「では、その小虫の代わりに、あなたの体をいただきましょう」
使者の指が、司に向かって伸びる。
「——やめろ!」
ソラが、叫んだ。
しかし、体が動かない。
壁に叩きつけられた衝撃で、手足が痺れている。
(動け。動けよ。俺の体)
(このままじゃ、司さんが)
使者の指が、司の腹部に、突き刺さる。
ザシュッ。
「——っ!!」
司の体が、大きく跳ねた。
腹部に、深い裂傷。
血が、噴き出す。
「司さん!!」
「司ちゃん!!」
ナサの叫び声が、響いた。
「安心しなさい。あなたは不老不死。この程度の傷、すぐに塞がります。ですが、痛みは、感じるでしょう?」
使者が、笑う。
「その痛みが、あなたの選択の代償です。人間ごときと生きることを選んだ、あなたの」
「……くっ」
司が、腹部を押さえて、うずくまる。
しかし。
ソラは、見た。
司の傷口が、光を帯びて、塞がっていくのを。
(不老不死の体)
(傷が、癒えていく)
「さて、今日のところは、この辺で勘弁してあげましょう」
使者が、背を向けた。
「次は、本隊で来ます。月の民の、本当の力を、見せてあげましょう。それまで、せいぜい、人間ごっこを楽しんでいなさい」
使者の体が、月明かりの中に、溶けていく。
「月へ帰ろう、永遠の姫よ。あなたの居場所は、ここではない」
その言葉を残して、使者は、闇に消えた。
―――
静寂が、戻ってきた。
破壊された玄関から、月明かりが差し込んでいる。
ソラは、壁にもたれかかったまま、動けなかった。
手の中には、溶断したスマホの残骸。
(俺は、何もできなかった)
(足止めしただけ。数十秒。それだけだ)
(それで、スマホは壊れた。頭は割れそうに痛い。鼻血も止まらない)
(代償の重さに、見合う結果なんて、何も出せなかった)
「ソラさん」
司の声がした。
顔を上げると、司が立っていた。
腹部の傷は、もう完全に塞がっていた。血の跡だけが、服に残っている。
「大丈夫ですか?」
「……僕は、大丈夫です。それより、司さんこそ」
「私は、平気ですわ。この体は、傷つきませんから」
司が、悲しそうに微笑んだ。
「……でも、痛みは、あるんでしょう」
ソラの言葉に、司は黙った。
「ええ。痛みは、あります。でも、それも、私の選択の結果ですわ」
司が、言った。
「……ごめんなさい」
「なぜ、謝るの?」
「俺が、もっと早く、世界のルールを書き換えるプログラムを完成させていれば。こんなことには、ならなかった」
「それは、違いますわ」
司が、首を振った。
「あなたは、私を助けようとしてくれた。それだけで、十分です。あなたが足止めしてくれなかったら、私は、今頃、月へ連れて行かれていたかもしれません」
「……でも」
「でも、じゃありませんわ。あなたは、よくやりました。胸を張りなさい」
司が、ソラの頭に、そっと手を置いた。
「ありがとう、ソラさん。あなたが、ここにいてくれて、よかった」
司の手が、温かかった。
ソラの鼻の奥が、ツンとした。
(違う。これは、鼻血のせいだ)
(そうに、決まってる)
―――
客間。
ソラは、床に座り込んでいた。
手の中には、破壊されたスマホの残骸。
画面は、粉々に割れている。内部の基盤は、焼け焦げていた。
電源は、もう入らない。
(俺の、唯一の武器だったのに)
(元の世界の情報も、全部、ここに入っていたのに)
(メモ帳のデータも、全部)
ソラは、スマホの残骸を握りしめた。
「……計算が、合わない」
声が、震えた。
「俺は、何もできなかった。ただ、足を引っ張っただけだ」
「違う」
声がした。
振り返ると、月光輝夜が立っていた。
黒い着物は、ところどころ破れていた。でも、怪我はないようだ。
「あなたの解析が、使者の動きを鈍らせた。あれがなければ、司は、連れ去られていた」
「……でも、結局、司さんは傷ついた。スマホも、壊れた。俺の力は、不完全だ。代償に見合う結果なんて、何も出せなかった」
「理屈だけでは守れないものがある」
輝夜が、静かに言った。
「あなたは、理屈で動く。効率で判断する。でも、この世界には、理屈では割り切れないものがある。司の痛み。ナサの叫び。あなたの、その涙」
「……涙なんて、流してない」
「流している。鼻血と一緒に、涙も」
ソラは、自分の頬に触れた。
濡れていた。
「……私も、同じよ」
輝夜が、言った。
「私も、母を守れなかった。月の民に、奪われた。私の力は、まだ、足りない。でも、諦めない。諦めたら、終わりだから」
「……輝夜」
「あなたの解析は、間違っていない。世界のルールを書き換えるプログラム。それを完成させれば、きっと、月の民に対抗できる。私は、そう信じている」
輝夜の黒い瞳が、月明かりを反射して、金色の輪が浮かぶ。
「だから、一緒に戦って。私の、相棒として」
ソラは、輝夜の顔を見つめた。
無表情。でも、その瞳の奥に、熱い意志が宿っている。
(この子は、ずっと、一人で戦ってきたんだ)
(母を奪われて、それでも、諦めないで)
「……ああ」
ソラは、頷いた。
「やるよ。世界のルールを書き換えるプログラム、必ず完成させる」
ソラは、ノートを開いた。
震える手で、ペンを走らせる。
『世界のルールを書き換えるプログラム』
『結界の構造を解析し、強化する』
『月の民の糸の制御信号を、完全に無効化する』
『使者の神経撹乱、バージョン2。代償を最小化する』
『スマホの代替デバイスを、ナサに相談する』
『輝夜と、もっと連携する』
書いているうちに、ソラの思考は、少しずつ前を向いていった。
(まだ、終わってない)
(終わらせるわけには、いかない)
(俺には、守りたいものが、できたんだ)
「……次は、必ず」
ソラは、ノートを握りしめた。
「次は、絶対に、守ってみせる」
窓の外を見る。
カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいた。
あの、異様に大きな月。
月は、静かに、不気味に、輝いていた。
その光の中で、ソラの深い茶色の瞳だけが、熱を帯びて輝いていた。Noveliaとは?
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