月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ―
月が大きすぎる夜に目覚めた神楽ソラ。そこは元の世界とは微妙にズレた並行世界だった。プログラミングコンテスト優勝の直後、ウイルスによって全てのデータを失った絶望の記憶だけを抱えて——。
黒い着物に黒いマスクの少女・月光輝夜に導かれ、辿り着いたのは「由崎」の表札がかかる一軒家。1400年前に月の民から不老不死の薬を飲まされた少女・由崎司を守るため、輝夜は六年間一人で戦ってきたという。だが月の民はすでに動き出し、月はさらに大きくなろうとしていた。
「あなたの力が必要だから」——月の血が騒ぐというソラに、異世界で生きる道が開ける。自称「NASAより早く光速になる男」のプログラマー・由崎星空との出会い、そして月の民との戦い。コードを失った男が、新たな世界で何を掴むのか。
観察と論理で非現実に立ち向かう転生プログラマーと、月の民に母を奪われた不倒の嫁・輝夜が織りなすアクションバトル。大きな月が照らす夜、物語は動き出す。
月影のカグラ ―不倒の嫁と転生プログラマ― - 深淵の屋根裏 ―壊れた端末と、守れなかった約束―
居間の空気は、焦げたプラスチックと埃が混ざった匂いで満ちていた。
神楽ソラは床に座り込んだまま、壁に背を預けていた。息をするたび、肋骨のあたりに鈍い痛みが走る。月影の使者に壁へ叩きつけられた衝撃が、まだ体の芯に残っていた。
(動ける。でも、深く息は吸えない)
左手首の古いデジタル時計を見る。午前四時二十分。外はまだ暗い。
居間はひどい有様だった。玄関へ続く扉は内側から爆ぜたように吹き飛び、木片が畳の上に散らばっている。テレビは画面が粉々に割れ、電子レンジは側面が黒く焦げていた。部屋の隅では、壁に埋め込まれたコンセントの周りだけが不自然に溶けている。
あの使者が通った跡だ。
「……ソラくん、水飲める?」
声の方を向く。由崎ナサが、台所から紙コップを二つ持って立っていた。眼鏡の奥の目は赤く充血している。黒髪は乱れ、普段の明るい雰囲気は影を潜めていた。
「ああ、ありがとう」
ソラは紙コップを受け取り、少しだけ口をつけた。冷たい水が喉を通る。それだけで、少しだけ頭が冴えた。
ナサはソラの隣に腰を下ろした。
「……俺さ」
ナサの声が、低く沈む。
「台所から包丁持ってきて、ずっと玄関の前に立ってた。でも、あいつが来たら、俺に何ができたんだろうな」
「ナサさん」
「NASAより早く光速になる男、なんて言ってるけどさ。結局、司を守るのに、俺の知識も技術も、何の役にも立たなかった」
ナサは紙コップを握りつぶした。水が手のひらにこぼれる。
「悔しいよ。悔しくて、どうしようもない」
ソラは何も言えなかった。
ナサの気持ちは、痛いほど分かった。自分も同じだからだ。
(俺も、何もできなかった)
ソラは、ポケットの中のスマホに触れた。
いや、正確には、スマホだったもの、だ。
―――
台所の奥から、足音がした。
「……お二人とも、眠らないのですか」
由崎司が、居間の入り口に立っていた。長い黒髪は後ろでまとめられ、鹿革のバレッタが小さく揺れる。白い肌は青白く、唇の色も薄い。
腹部に巻かれた包帯の上から、薄いカーディガンを羽織っていた。
「司ちゃん、まだ横になってないと」
ナサが立ち上がろうとする。
「大丈夫ですわ。傷はもう、ふさがりましたから」
司はそう言って、静かに居間へ入ってきた。
不老不死。
月の民に与えられた薬によって、司の体は死なない。傷ついても、病にかかっても、時間が経てば元通りになる。
だが、それでも。
「……司さん、本当に無理しないでください」
ソラの言葉に、司は小さく首を振った。
「私より、あなたの方が心配ですわ。肋骨、ひびが入っているのでしょう」
「……まあ、はい」
「痛いでしょう。無理に動かないでくださいね」
司はそう言うと、居間の隅に落ちていた小さな座布団を拾い上げ、丁寧に埃を払ってから、壁際に座った。
その動作の一つ一つが、どこか痛々しい。
腹部の傷は塞がっても、失った体力までは戻らない。顔色は明らかに悪い。それでも司は、家族を心配させるまいと、背筋を伸ばして座っていた。
(この人も、無理をしている)
ソラは、胸の奥がぎゅっと締まるのを感じた。
―――
「……輝夜は」
ソラが尋ねた。
「客間で休んでいます。月の血を、使いすぎました」
司の声が、少しだけ沈む。
「あの子、私を守るために、自分の体が動かなくなるまで力を振り絞ってくれたの。今は、立つことすらできない状態ですわ」
「そう、ですか」
ソラは、客間の方を見た。
廊下の向こう、閉じられた襖。
その向こうに、月光輝夜がいる。
月の血。
月の民と縁深い家系に生まれた者の証。月の動きに敏感に反応し、月の民の気配を察知できる特質。
輝夜は、その力を使って、使者の動きをわずかでも鈍らせようとした。
結果、体が動かなくなった。
(俺のせいだ)
ソラは、唇を噛んだ。
―――
沈黙が、居間を満たした。
時計の秒針の音だけが、カチ、カチ、と響く。
やがて、ソラはゆっくりとポケットから、スマホを取り出した。
画面は、粉々に割れていた。
いや、割れているだけではない。
背面カバーが溶けて変形し、内部の基盤が覗いている。基盤の一部は黒く焦げ、チップのいくつかは原形を留めていなかった。
完全に、壊れていた。
「……ソラくん」
ナサが、ソラの手元を見つめながら言った。
「予備の端末なら、ある。俺の作業用のノートパソコンも、タブレットもある。よかったら使ってくれ」
「……ありがとうございます」
ソラは、短く答えた。
でも、心の中では、すでに答えが出ていた。
(たぶん、無理だ)
ソラの能力は、電子機器への干渉。
この世界のルールを、コードとして認識し、書き換える。
その力は、ソラが「使い慣れた機械」に依存している。
正確には、その機械の内部構造を、脳内で完璧に把握していること。
回路の配置。チップの役割。電気信号の流れ。
それらを全て理解しているからこそ、ソラはその機械を通して、世界に干渉できる。
「……試してみます」
ソラは、ナサから借りたタブレットを手に取った。
電源を入れる。画面が点灯する。
ソラは、目を閉じた。
(この機械の内部を、見る)
集中する。
指先が、かすかに震える。
頭の中で、タブレットの回路図を組み立てようとする。
だが。
(……見えない)
回路のイメージが、ぼやける。
自分のスマホなら、手に取った瞬間に、内部構造が脳内に浮かび上がる。
どのチップが何を制御していて、どの配線がどの信号を運んでいるか。
それが、手に取るように分かった。
だが、このタブレットは違う。
(情報が、足りない。この機械のことを、俺は知らない)
ソラは、タブレットを置いた。
「……だめです」
「だめ、って」
「僕の能力は、端末そのものに紐づいているわけじゃない。僕が使い慣れた機械の内部構造を、完璧に把握しているから使える。このタブレットは、僕にとってはただの板です」
「……そうか」
ナサは、唇を噛んだ。
「俺の端末じゃ、お前の力の代わりにはなれないのか」
「……はい」
ソラは、素直に認めた。
認めるしかなかった。
(俺の力は、あのスマホありきだった)
(スマホを失った今、俺は……)
ソラは、拳を握りしめた。
指の先が、白くなる。
―――
「ソラさん」
司の声が、静かに響いた。
「あなたの力は、あのスマホだけのものではないはずですわ。だって、あのスマホも、元はただの機械だったのでしょう」
「……はい」
「あなたが使い込んで、その機械のことを誰よりも理解したから、あなたの力の一部になった。ならば、時間はかかっても、また同じことをすればいいのではなくて?」
「……それは」
ソラは、言葉に詰まった。
「時間が、ないのは分かっていますわ。でも、諦める理由にはなりません」
司の黒い瞳が、まっすぐにソラを見つめる。
「あなたは、私を守ろうとしてくれた。それだけで、私は十分ですわ」
「……十分、なんかじゃない」
ソラは、絞り出すように言った。
「あなたは、俺を庇って、腹を斬られた。それなのに、十分なんて、そんなこと」
「私は、死にませんもの」
司が、少しだけ笑った。
「痛いのは、ちょっと我慢すれば治りますわ。でも、あなたが死んでしまったら、それで終わりです。だから、私が庇うのは、当たり前のことですのよ」
「……当たり前、じゃない」
ソラは、うつむいた。
(当たり前じゃない。誰かが誰かを庇うのは、当たり前なんかじゃない)
(それなのに、この人は、それを当たり前だと言う)
(それが、どれだけ、重いことか)
ソラは、何も言えなくなった。
―――
「……話は、後で」
突然、声がした。
居間の入り口に、月光輝夜が立っていた。
黒い着物を着ている。黒マスクで口元を隠し、長い黒髪が乱れている。右手の甲にある月の紋様のような痣が、青白く浮かんでいた。
壁に手をつき、体を支えている。
「輝夜、まだ動いちゃだめだ」
ソラが立ち上がろうとすると、肋骨に痛みが走った。
「あなたこそ、動かないで」
輝夜の声は、低く、力がなかった。
「……私は、あなたに話があるの。来て」
「どこへ」
「屋根裏」
―――
由崎家の屋根裏は、古い木の匂いがした。
梯子を上りきると、天井が低く、大人が立つのがやっとの空間が広がっている。段ボール箱がいくつか積まれ、古い布団が丸めて置いてあった。
小さな丸窓から、月明かりが差し込んでいる。
あの、異様に大きな月。
青白い光が、屋根裏の埃を浮かび上がらせていた。
「……ここなら、誰にも聞かれない」
輝夜は、壁にもたれかかるように座り込んだ。
「本当に、体は大丈夫なのか」
ソラも、痛む脇腹を押さえながら、床に座る。
「大丈夫ではない。でも、話すことくらいはできる」
「……無理するな」
「あなたに言われたくない」
輝夜の黒い瞳が、月明かりを反射して、金色の輪が浮かぶ。
「……私は、10歳のとき、母を月の民に連れ去られた」
輝夜が、静かに語り始めた。
「あの夜も、月が大きかった。母は、私を押し入れに隠して、一人で月の民と対峙した。私は、押し入れの隙間から、それを見ていた」
「……見ていた、だけなのか」
「私には、何もできなかった。月の血の力は、まだ未熟だった。体も、小さかった。母の手を、離してしまった」
輝夜の声が、わずかに震える。
「それから10年間、私は月の民の気配を追い続けてきた。でも、一度も、追いつけたことがない。母は、今もどこかで、月の民に囚われている。それなのに、私は、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった」
「……輝夜」
「理屈だけじゃ、守れないものがある」
輝夜が、ソラの目をまっすぐに見た。
「あなたは、理屈で動く。効率で判断する。でも、この世界には、理屈では割り切れないものがある。司の痛み。ナサの叫び。あなたの、その涙」
「……涙なんて、流してない」
「流している。鼻血と一緒に、涙も」
ソラは、自分の頬に触れた。
濡れていた。
いつの間にか、涙がこぼれていた。
「……私も、同じよ」
輝夜が、言った。
「私も、母を守れなかった。月の民に、奪われた。私の力は、まだ、足りない。でも、諦めない。諦めたら、終わりだから」
「……輝夜」
「あなたの解析は、間違っていない。世界のルールを書き換えるプログラム。それを完成させれば、きっと、月の民に対抗できる。私は、そう信じている」
輝夜の黒い瞳が、金色の輪を浮かべて、ソラを見つめる。
「だから、一緒に戦って。私の、相棒として」
ソラは、輝夜の顔を見つめた。
無表情。
でも、その瞳の奥に、熱い意志が宿っている。
(この子は、ずっと、一人で戦ってきたんだ)
(母を奪われて、それでも、諦めないで)
(10年間、一人で)
ソラは、胸の奥が、熱くなるのを感じた。
「……ああ」
ソラは、頷いた。
「やるよ。世界のルールを書き換えるプログラム、必ず完成させる」
その言葉に、輝夜は、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
マスクで隠れて、ほとんど見えないけれど。
確かに、笑った。
―――
夜明け前。
ソラは、一人で屋根裏に残っていた。
輝夜は、話し終えると、体力の限界で、そのまま壁にもたれて眠ってしまった。
規則正しい、静かな寝息。
ソラは、持ってきていた破壊されたスマホの残骸を、床に置いた。
粉々の画面。溶けたカバー。焦げた基盤。
(これが、俺の全部だった)
ソラは、残骸をじっと見つめた。
このスマホには、元の世界の情報が、全部入っていた。
プログラミングコンテストの優勝データ。
自分が書いてきた、何百というコード。
この世界に来てから書き留めた、世界のルールの解析メモ。
全部、消えた。
(あの時、世界のルールを書き換えるプログラムのプロトタイプを、頭の中で組み立てていた)
(でも、それは、スマホの演算資源を前提にした設計だった)
(端末を失った今、あの設計図は、机上の空論だ)
ソラは、拳を握りしめた。
指の先が、震える。
「……もう、終わりだ」
声が、漏れた。
「端末を失った。プログラムの土台も失った。司を守ることもできなかった。……俺には、もう、何も残っていない」
涙が、こぼれた。
畳の上に、小さな染みを作る。
(何も、残っていない)
(俺の力は、スマホありきだった)
(スマホが壊れたら、俺は、ただの高校生に戻る)
(ただの、体力のない、プログラミングしかできない、高校生に)
ソラは、残骸を握りしめた。
ガラスの破片が、手のひらに食い込む。
痛い。
でも、その痛みだけが、自分がまだ生きている証拠だった。
―――
「……あなたの力は、まだ、ここにある」
声がした。
振り返る。
いつの間にか、輝夜が起きていた。
いや、眠っていなかったのかもしれない。
輝夜は、壁に手をつきながら、ゆっくりと体を起こした。
「……これを、見つけたの」
輝夜の手が、ソラの前に差し出される。
その細い指先に、小さなものが挟まれていた。
「……これは」
ソラは、息を呑んだ。
(いや、呼吸が止まった)
輝夜の指先にあったのは、小さな基盤の破片だった。
一センチ四方ほどの、黒いチップ。
焦げてもいない。溶けてもいない。
ただ、静かに、輝夜の指の上にあった。
「あなたのスマホの残骸の中から、拾った。溶断を免れた、唯一のチップよ」
「……それが、何だって言うんだ」
「あなたが、転移してきた初日に、最初に書き込んだ解析コードの断片。それが、このチップに記録されている」
「……なんで、そんなことが分かる」
「月の血が、騒ぐ。このチップから、あなたの力の残滓を感じる」
輝夜は、ソラの手を取った。
その手は、氷のように冷たかった。
でも、確かに、力があった。
輝夜は、ソラの手のひらに、そのチップを握らせた。
「あなたの力は、まだ、ここにある。全部は失われていない。だから、諦めないで」
ソラは、手のひらのチップを見つめた。
小さい。
あまりにも、小さい。
でも。
(俺が、最初に書いたコード)
(この世界に来て、最初に、この世界を解析しようとした、あの時の)
(それが、残っている)
ソラは、チップを握りしめた。
強く。
涙が、止まらなかった。
でも、さっきの涙とは、違う。
(まだ、終わってない)
(終わらせるわけには、いかない)
(俺には、守りたいものが、できたんだ)
「……代償が、何であっても」
ソラは、絞り出すように言った。
「プログラムを、完成させる。必ず。何を失っても、何を犠牲にしても、完成させてみせる」
ソラは、チップを握りしめたまま、顔を上げた。
深い茶色の瞳が、月明かりを反射して、熱く輝く。
「今度こそ、守ってみせる」
その言葉は、屋根裏の静寂に、深く、深く、染み込んでいった。
―――
その時だった。
「……っ」
輝夜が、突然、頭を押さえた。
「……ぅ、あ」
「輝夜!?」
ソラが駆け寄る。
肋骨が痛む。でも、そんなことは気にしていられない。
輝夜は、その場に膝をついた。
顔から血の気が引いている。黒い瞳が、大きく見開かれ、金色の輪が激しく明滅する。
「月の血が……騒ぐ……!」
輝夜が、うめくように言った。
「本隊が……来る……! 使者が言っていた、本隊が……本当に……!」
「本隊……!」
ソラの背筋に、冷たいものが走った。
(あいつが言っていた。次は、本隊で来ると)
(それが、もう?)
(そんな、早く?)
「近い……! すごく、近い……! 数日……いえ、もっと早いかも……!」
輝夜の体が、ガタガタと震える。
「ああ……頭が……割れる……!」
「輝夜、落ち着け!」
ソラは、輝夜の肩を支えた。
(どうすればいい)
(どうすれば、この子の痛みを止められる)
(俺には、もう、何も……)
「……大丈夫。少し、落ち着いた」
輝夜は、ゆっくりと呼吸を整えた。
「……残された時間は、ほとんどない。あなたの言う通り、もう、迷っている暇はないのよ」
「……ああ」
ソラは、チップを握りしめたまま、立ち上がった。
「ナサさんと司さんを、呼んでくる。残されたチップと、輝夜の月の血の力だけで、次の襲来に備えるしかない」
「……ええ」
輝夜が、小さく頷いた。
ソラは、屋根裏の梯子に向かった。
その途中で、丸窓の外を見た。
東の空が、白み始めている。
夜明けが近い。
でも。
西の空に、あの月が、まだ沈まずに浮かんでいた。
異様に大きな月。
青白い光を放ちながら、不気味に、静かに、こちらを見下ろしている。
夜明けなのに、夜が明けない。
その光景に、ソラは、背筋が凍るのを感じた。
(時間が、ない)
ソラは、梯子を下りた。
手のひらの中で、小さなチップが、熱を帯びている気がした。Noveliaとは?
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