BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣
廃業寸前のサラリーマンが、地図に載らない無法都市で運び屋として生きることを選ぶ。『BLACK LAGOON』の前日譚を思わせる異色の転生録、ここに開幕——。
岡島緑郎、二十五歳。旭日重工のエリート社員だった彼は、機密ディスクの輸送中に襲撃され、会社から「存在しなかったこと」にされた。目を覚ましたのは、警察も法律もない海上都市ロアナプラ。そこで出会ったのは、ラグーン商会のボス・ダッチだった。
「お前は今日からロックだ」
与えられた新しい名前と、銃を握らないという自らの選択。月収三百万円の危険な運び屋稼業、四つの勢力がにらみ合う街の均衡、そして元社員の顔を買ったホテル・モスクワからのスパイ依頼。ロアナプラの蜘蛛の巣に、一人のサラリーマンが足を踏み入れる。
これは、銃ではなく頭で生き延びようとした男の物語。彼が「ロック」になるまでの、最初の一歩の記録である。
BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣 - 消された街で、最初のオファー
遠くで、ドン、と低い音がした。腹の底に響くような、重たい音。それが銃声だと気づくまでに、少し時間がかかった。
鉄錆と潮の匂いが鼻をつく。背中に当たるのは固い床。天井は剥き出しの鉄骨で、薄暗い電球が一つ、ゆらゆらと揺れている。
岡島緑郎は、自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。
体を起こす。頭がズキズキと痛む。白いワイシャツは汗と汚れでぐっしょりと湿り、黒いネクタイは首に巻きついたままだった。きっちりと分け目をつけていた黒い短髪は乱れ、前髪が額に張りついている。
(ここは……どこだ)
落ち着いた深い茶色の瞳が、暗い部屋の中をゆっくりと見回した。鉄の棚、木箱、工具。油の匂い。どうやら倉庫か整備場のような場所らしい。窓から差し込む朝の光が、埃っぽい空気を白く浮かび上がらせていた。
そうだ。昨日、自分は——
思い出そうとした瞬間、胃の底から何かがせり上がってくるような感覚に襲われた。吐き気ではない。もっと別の、名前のつけられない感情だった。
旭日重工の機密ディスク。東南アジアへの出張。そして、あの運び屋の連中による襲撃。
会社は、自分を見捨てた。
正確には、もっとひどい。あの電話の向こうで上司が言った言葉が、耳の奥でまだこだましている。
『君のことは、最初から存在しなかったことになる』
存在しなかったこと。
岡島緑郎は、二十五歳にして、この世界から消されたのだ。
「起きたか」
低い声が、一階から聞こえてきた。
「……え?」
声のした方を見る。鉄の階段の下から、大きな影がゆっくりと上がってくるのが見えた。
男は、ゴーグル型のサングラスをかけていた。スキンヘッドの頭に、筋肉質の厚い胸板。黒いタンクトップの上からでもわかるほど、腕も首も太い。身長は百九十センチ近いだろう。近づいてくるだけで、空気が重くなるような存在感があった。
「ここはロアナプラだ。俺はダッチ。ラグーン商会のボスをやってる」
ダッチと名乗った男は、手に持っていた缶詰を一つ、ロックの足元に放った。カラン、と音を立てて転がる。ラベルも何も貼られていない、銀色の缶だった。
「朝飯だ。食え」
「……あの、状況がよくわからないんですが」
声が掠れていた。喉が乾いている。それでも、聞かずにはいられなかった。
「あんたたちは、俺をどうするつもりですか。身代金なら、たぶん無駄ですよ。さっきも言いましたけど、会社は俺を」
「知ってる」
ダッチはあっさりと言った。
「お前の会社は、お前を切った。家族も同じだ。お前はもう、この世にいないことになってる。パスポートも、戸籍も、クレジットカードも、全部な」
ロックは言葉を失った。
「ここはな、地図に載ってない街だ。ロアナプラ。警察はいない。法律もない。あるのは四つの勢力の均衡と、金と力だけだ。善意はな、弱点になるだけだ」
ダッチは壁にもたれかかり、腕を組んだ。ゴーグルサングラスの奥の表情は読めない。
「旭日重工、ホテル・モスクワ派、三合会の張グループ。それと、俺たちみたいな小さな運び屋やら何やらの雑多な連中。この街は、その四つがにらみ合って、どうにか回ってる」
「警察がいないって……そんな場所が本当にあるんですか」
「あるから、お前は今ここにいる」
ロックは缶詰を手に取った。冷たい。中身は何かわからないが、とにかく腹は減っていた。プルタブを引く。中には豆が入っていた。味は薄い。でも、食べられた。
「運び屋ってのは、この街で物や人や情報を運ぶ仕事だ。免許も資格もいらない。必要なのは実績と人脈だけ。三年続けば一人前って言われてる。まあ、大抵はその前に死ぬがな」
「死ぬ……」
「死亡率は高い。だが、稼ぎも悪くない。俺たちみたいな小さな商会でも、月に三万ドルは動く。街の平均月収の十倍だ」
ロックは豆を咀嚼しながら、ダッチの言葉を頭の中で反芻した。
(月三万ドル。日本円で、三百万以上……)
サラリーマン時代の自分の月収は、手取りで二十五万程度だった。ボーナスを入れても、年収五百万に届くかどうか。それが、この街では一ヶ月で三百万。
もちろん、命の値段としては安いのかもしれない。
「お前、名前は?」
「岡島緑郎です」
「岡島、な。長えな。お前は今日からロックだ」
「……ロック?」
「気に入った。いい名前だろ」
ダッチの口元が、わずかに笑ったように見えた。
「それで、なんで俺にこんな話を?」
「お前を商会で使う。人手が足りないんでな。ちょうどいい」
「俺は、その、銃なんて撃てませんよ。喧嘩もしたことないですし」
「わかってる。お前の経歴は全部調べた。旭日重工資材部東南アジア課。語学ができて、数字に強い。事務仕事なら、うちの誰よりもできるだろ」
「事務仕事……」
「馬鹿にしたか?」
「いえ、そういうわけじゃ」
「いいか、ロック。この街で生き延びるには、撃つ力と同じくらい、考える力がいる。お前の頭は、たぶん使える。うちには、そういう人材がいない」
ロックはしばらく黙っていた。
(この街で、生き延びる……)
その言葉が、やけに重く胸にのしかかった。
「……俺に、選択肢はあるんですか」
「あるぜ。ここを出て、街を歩く自由もある。ただし、ロアナプラの外に出る方法は、自分で見つけることだ。パスポートも金もなしで、な」
ロックは小さく笑った。
「選択肢、ないじゃないですか」
「あるにはある。どっちに転ぶかは、お前次第だ」
ダッチが背を向けて階段を下りていく。
「一階に降りてこい。仕事を教える」
その言葉だけを残して。
ロックは残りの豆をかきこみ、ゆっくりと立ち上がった。
一階は、車両整備場と事務所が一緒になった空間だった。
天井の高い倉庫の中に、黒い装甲バンが一台。壁際には工具や部品が所狭しと並んでいる。奥の一角に、スチールデスクが一つ。書類の束と、古びた無線機。壁には大きな地図が貼られていた。
「ここが俺たちの仕事場だ。二階は居住スペース。屋上には無線のアンテナがある。覚えろ」
ダッチはデスクの引き出しから、分厚い帳簿を取り出した。
「まずはこれを見ろ。過去一年分の取引記録だ」
ロックは帳簿を手に取り、ページをめくった。手書きの数字がびっしりと並んでいる。依頼内容、日付、金額、経費。一応、形だけは帳簿になっているが、かなり雑だ。
「……これ、経費の計算、合ってないですよ。ここと、ここ。それから、この取引の日付が前後してます」
「どこだ」
「ここです。三月の支払いが、二月の欄に混ざってる。それと、この数字、桁が一つ違います。三千じゃなくて三万だと思います」
ダッチはしばらく帳簿を覗き込み、それからゆっくりと顔を上げた。
「……お前、帳簿付けは早いな」
「サラリーマン時代の癖です。数字の間違いは、すぐ目につくんですよ」
「使えるな」
ダッチは満足そうに頷いた。
それから数時間、ロックはダッチからラグーン商会の仕事のイロハを教わった。
倉庫の整理。無線の使い方。依頼人の見分け方。
「依頼人は、基本、信用するな。特に初見の客はな。金を先に払うと言っても、半分は嘘だと思え。依頼内容も、表と裏がある。運び屋の仕事は、荷物を運ぶことじゃない。荷物を運ぶ途中で、どれだけ自分の身を守れるかだ」
「身を守るって、やっぱり銃が要るんじゃ……」
「そうだ。だから、撃ち方を教えてやる」
ダッチは壁のロッカーから、一丁の拳銃を取り出した。黒い、重そうな銃だった。
「撃てるようになれとは言わない。でも、撃たれた時にどうすればいいかは知っておけ。それから、銃の重さと、持った時の感覚もな」
ダッチが銃を差し出す。
ロックは、その銃を見つめたまま動かなかった。
「……いえ」
「なんだ」
「俺は、銃は持ちません」
ロックの声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。
「……ほう。理由を聞こうか」
「理由は、うまく言えません。ただ、俺が銃を持ったら、たぶん俺は俺じゃなくなる。それだけは、なんとなくわかるんです」
ダッチはしばらくロックの顔をじっと見ていた。ゴーグルサングラスの奥の目は、やっぱり見えない。
「そうか。なら、それでいい。無理に持たせても、死ぬだけだからな」
ダッチは銃をロッカーに戻した。
「お前の仕事は、頭を使うことだ。銃は、俺とレヴィとベニーが使う」
「レヴィ? ベニー?」
「うちの仲間だ。今は留守にしてるが、そのうち会う」
ダッチはデスクに戻り、無線機のスイッチを入れた。ザザザ、という雑音が部屋に響く。
「無線は常につけておけ。仕事の依頼は、ほとんどが無線か、直接の来訪だ。電話は……まあ、あるにはあるが、傍受されると思え」
「傍受……物騒ですね」
「この街じゃ、それが普通だ」
ロックは無線機の前に座り、イヤホンを手に取った。使い方は、普通の無線機と変わらない。周波数の合わせ方、音量の調整。一つ一つ確認しながら、頭に叩き込んでいく。
(ここは、戦場なんだ)
事務仕事をしながら、ロックは改めてそう思った。
机の上には、昨日まで自分が使っていた会社の手帳が置いてある。旭日重工のロゴ入りの、黒い革の手帳。開くと、出張の予定や会議のメモが、几帳面な字で書き込まれていた。
『7月15日 バンコク出張 機密ディスク輸送』
その文字が、遠い昔のことのように感じられる。
実際は、ほんの数日前のことなのに。
「ロック」
「はい」
「お前、家族はどうした」
突然の質問に、ロックの手が止まった。
「……どうもしてません。というか、どうもできません。会社が、俺のことを消した。家族には、たぶん事故か何かで死んだことになってると思います」
「悲しいか」
「……わかりません」
ロックは正直に答えた。
「父も兄も官僚で、家に居場所はなかった。母は、父の顔色ばかり見てた。俺がどうなろうと、たぶん、あの人たちは何も感じない。……そういう家なんです」
「そうか」
ダッチはそれ以上、何も聞かなかった。
ロックは手帳を閉じ、机の隅に置いた。
(もう、戻れない)
その事実は、悲しいというより、ただ重かった。
夕方になって、ダッチがビールを二本持ってきた。
「今日はもう終わりだ。飲め」
「あ、ありがとうございます」
二人で壁に背を預け、缶を開ける。プシュ、という音が、静かな倉庫に響いた。
ビールは温かった。でも、喉を通る時の苦さが、やけにうまく感じられた。
「この街に来て、最初に覚えることはなんだと思う」
「……金の払い方、とかですか」
「はっ、それも大事だがな。正解は、自分の命は自分で守る、だ。誰も守ってくれない。誰も助けてくれない。お前が死んでも、誰も泣かない。それがロアナプラだ」
「厳しいですね」
「優しい街なんて、どこにもないさ。ただ、ここはそれが露骨なだけだ」
ダッチが缶を傾ける。ゴクリ、と喉が鳴った。
「お前、この街の空気はどうだ」
「……生臭い、です」
「そうだ。潮と鉄と、汗と、腐った魚の匂い。あと、火薬の匂いも混じってる。慣れるまでは、飯がまずく感じるかもしれんな」
「慣れるんでしょうか」
「慣れるさ。人間は、どこでも生きていける。生きようと思えばな」
ロックは窓の外を見た。
旧市街の石畳の路地が見える。トタン屋根の建物がひしめき合い、電線が空を覆っている。人々は薄暗い道を、早足で歩いていた。みんな、目つきが鋭い。笑っている者もいるが、その笑顔の奥に、何かを隠しているように見える。
(ここが、俺の生きる場所)
そう思った。
思うしかなかった。
その時、無線機が突然、ザザザ、と激しい雑音を立てた。
『こちらホテル・モスクワ。ラグーン商会、応答せよ』
女性の声だった。低く、落ち着いた、でもどこか冷たい声。
ダッチが無線機の前に移動した。
「こちらラグーン商会、ダッチだ」
『ダッチ、久しぶり。元気そうね』
「バラライカか。相変わらず、耳が痛くなるような声だな」
『あら、失礼ね。今日はビジネスの話よ』
「聞こう」
『あなたのところに、日本人の青年がいるでしょう。ロック、といったかしら』
ダッチの動きが、一瞬だけ止まった。
「……それがどうした」
『その彼に、仕事の依頼があるの。私が直接、会って話したい。明日、ホテル・モスクワに来てもらえるかしら』
「俺たちは運び屋だ。仕事の内容によっては、受けるかどうかはこっちで決める」
『もちろん。でも、これは彼にしかできない仕事よ。報酬は、弾むわ。街の平均月収の、百倍。前金で半分払う』
ロックは息を呑んだ。
(月収の百倍。三万ドルの百倍、三百万ドル……)
「仕事の内容を言え」
『スパイよ。三合会の張が、旭日重工と組んで、あるものを開発している。その情報を探ってもらいたいの。彼は元旭日重工の社員でしょう? 顔が利くはずよ』
「……ロックは、この街に来たばかりだ。危険すぎる」
『だから報酬を弾んでるの。失敗すれば、ロアナプラ中が敵に回る。でも、成功すれば、彼はこの街で生きていくための、最初の後ろ盾を手に入れる。悪い話ではないと思うけれど』
ダッチは無線機のスイッチを切り、ロックを振り返った。
「聞こえたな」
「……はい」
「どうする。断ってもいい。バラライカは無理強いはしない。だが、受ければ、お前はこの街の裏の世界に、本格的に足を突っ込むことになる」
ロックは黙っていた。
頭の中が、ぐるぐると回る。
スパイ。三合会。旭日重工。
(旭日重工……)
あの会社が、また自分の前に現れる。
「……ダッチさん」
「なんだ」
「俺、受けます」
ロックの声は、震えていなかった。
「理由を聞こうか」
「この街で生きていくなら、後ろ盾が要る。それに……俺を消した会社が、何をしてるのか、知りたい。知らなきゃ、前に進めない気がするんです」
ダッチはしばらくロックを見つめ、それから小さく笑った。
「そうか。なら、明日、ホテル・モスクワに行け。レヴィに同行させる」
「レヴィに?」
「あいつは、この街で一番のガンマンだ。お前の護衛には、ちょうどいい。まあ、口は悪いがな」
「……わかりました」
ダッチは窓の外に目をやった。
「ロック。この街じゃ、正しさは武器にならねえ。お前が正しいと思ってることの半分は、ここじゃ通用しない。だがな」
ダッチは、ゆっくりとロックに向き直った。
「お前のその目は、捨てたもんじゃない。覚えておけ」
ロックは何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、少しだけ熱くなった。
夜になった。
ロックは二階の窓辺に座り、街を眺めていた。
暗い。
東京の夜とは比べ物にならないほど、暗い。
街灯はほとんどなく、建物から漏れる明かりだけが、石畳の道をぼんやりと照らしている。遠くで、また銃声がした。今度は二発。短く、乾いた音。
(この街は、生き物だ)
ロックはそう思った。
昼間は強烈な日差しに焼かれ、夜は闇に沈む。その中で、四十八万人の人間が、それぞれの欲望と恐怖を抱えて生きている。
(俺も、その一人になる)
窓ガラスに、自分の顔が映っていた。
黒い短髪。落ち着いた深い茶色の瞳。白いワイシャツに、黒いネクタイ。
左の眉の上に、小さな古い傷跡がある。旭日重工時代に、書類の角で切っただけの、なんてことのない傷。
でも、ロックはその傷を、消さずに残していた。
(この傷は、俺が生きてきた証だ)
そう、思うことにしている。
風が吹いた。
潮の匂いが、部屋の中にまで流れ込んでくる。
明日、自分はホテル・モスクワに行く。
そこで、何が待っているのかはわからない。
でも、もう後戻りはできない。
いや、正確には、後戻りする場所が、最初からなかったのだ。
ロックは窓を閉めた。
鉄の枠が、冷たく指に触れた。
「……ロック、か」
新しい名前を、小さく口にしてみる。
悪くない。
少なくとも、岡島緑郎よりは、この街に合っている気がした。
一階から、ダッチのいびきが聞こえてくる。
ロックは薄い毛布を体に巻きつけ、固い床に横になった。
目を閉じる。
暗闇の中で、遠くの波の音が、ゆっくりと呼吸するように聞こえていた。
(明日から、俺の戦いが始まる)
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