BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣
廃業寸前のサラリーマンが、地図に載らない無法都市で運び屋として生きることを選ぶ。『BLACK LAGOON』の前日譚を思わせる異色の転生録、ここに開幕——。
岡島緑郎、二十五歳。旭日重工のエリート社員だった彼は、機密ディスクの輸送中に襲撃され、会社から「存在しなかったこと」にされた。目を覚ましたのは、警察も法律もない海上都市ロアナプラ。そこで出会ったのは、ラグーン商会のボス・ダッチだった。
「お前は今日からロックだ」
与えられた新しい名前と、銃を握らないという自らの選択。月収三百万円の危険な運び屋稼業、四つの勢力がにらみ合う街の均衡、そして元社員の顔を買ったホテル・モスクワからのスパイ依頼。ロアナプラの蜘蛛の巣に、一人のサラリーマンが足を踏み入れる。
これは、銃ではなく頭で生き延びようとした男の物語。彼が「ロック」になるまでの、最初の一歩の記録である。
BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣 - 決戦の埠頭 ―― 軟弱者が悪党になる夜
焼け落ちた倉庫の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
ロックは装甲バンの後部座席で、震える指先をじっと見つめていた。白いワイシャツの袖口は煤で汚れ、左の眉の上にある小さな傷跡が、街灯の明かりに一瞬浮かび上がる。
「……大丈夫か」
運転席のダッチが、ゴーグルサングラス越しにバックミラーを覗いた。筋骨隆々の黒い肌。スキンヘッドに、深い皺。ラグーン商会のボスは、いつも通り落ち着いていた。
「ええ。大丈夫です」
声は、思ったよりしっかりしていた。
隣では、レヴィがガムを噛みながら、二丁の拳銃を磨いている。黒いタンクトップにホットパンツ。ポニーテールの毛先が、わずかに跳ねていた。首筋から右肘にかけての刺青が、月明かりを浴びて青白く光る。
「あんた、手ぇ震えてんじゃない」
鳶色の瞳が、ロックの指先を射抜いた。
「……すみません」
「謝んな。イライラする」
レヴィはガムをくちゃりと噛み潰し、窓の外へ視線を移した。
旧市街の西端、ラグーン商会の倉庫を出てから、もう二十分が経っていた。街灯の少ない道を、装甲バンは東へ走る。石畳の路地を抜け、維新橋を渡り、第三埠頭へと近づいていく。
「作戦、もう一度確認するわよ」
「お願いします」
ロックは、膝の上に広げた手描きの地図を見た。
第三埠頭の見取り図。岸壁延長1.2キロ、コンテナ約800個。張グループの倉庫群が7棟、その中央に検問所がある。夜間は警備が半分に減る。だが、今夜は違う。旭日重工の私兵、浄化屋が合流しているはずだった。
「埠頭の東側に、囮のトラックを突っ込ませる。爆発させて、警備を東に引きつける。その隙に、あたしが西側から単独で侵入。警備の私兵を片付ける」
「僕とダッチさんは、装甲バンで倉庫の壁を破って突入。中でスカーレット・ミストのサンプルを探す」
「そう。あんたはスタンガンだけで、よくやるわね」
「銃は使えませんから」
「へえ、立派な心がけね」
「……すみません」
「だから謝んなっての」
レヴィは、磨き終えた拳銃をホルスターに収めた。イスラエル製、口径9mm。銀色のスライドが、月明かりを弾く。
「ロック」
ダッチが、静かに言った。
「はい」
「お前の作戦だ。最後まで、頭を回せ。俺とレヴィは、お前の指示で動く」
ロックは、地図を握りしめた。
(僕の作戦だ)
(元サラリーマンの、僕の)
胸の奥で、何かが小さく、しかし確かに脈打った。
装甲バンは、第三埠頭の手前、廃倉庫の影に停車した。
海風が、生暖かく吹きつける。潮の匂いと、重油の匂いが混ざっていた。遠くで、波が岸壁に打ちつける音がする。
「時間は、二十三時四十七分」
ダッチが、腕時計を見た。
「囮のトラックは、あと十三分で埠頭の東側に到着する。爆発は、零時ちょうど。それまでに、レヴィは西側のフェンスを越えろ」
「了解」
レヴィは、ドアを開けた。
「……レヴィさん」
「何よ」
「無理は、しないでください」
レヴィは、振り返った。鳶色の瞳が、月明かりの中で、金色に光る。
「あたしに無理とか、あるわけないでしょ」
彼女は、二丁の拳銃を抜いた。
「あんたこそ、スタンガン片手に死ぬんじゃないわよ」
「死にません」
「へえ、頼もしいわね」
レヴィは、笑って、闇の中へ消えた。
足音が、すぐに聞こえなくなった。
ロックは、無線機を握った。
「……ダッチさん」
「ああ」
「僕は、あの時、バラライカに言われました。『あなたは賢いのでしょう?』って。……今、その言葉が、やけに重いです」
「重くていい。賢いってのは、そういうことだ」
ダッチは、ハンドルを握り直した。
「行くぞ。零時まで、あと十分だ」
その時。
ドォォォン!
東の空が、一瞬、オレンジ色に染まった。
囮のトラックが、爆発した。
「早い!?」
「いや、予定通りだ。時計がずれてる。行くぞ!」
装甲バンが、唸りを上げて飛び出した。
タイヤが砂利を噛み、車体が激しく揺れる。ロックは、シートベルトを握りしめた。
「レヴィ、聞こえるか!? もう始まってる!」
無線から、レヴィの声が返ってきた。
「上等! こっちはもう、三人片付けたわ!」
パンパンパンッ! と、無線越しに銃声が響く。
「あんたたちも、さっさと来なさいよ!」
「了解。西側の倉庫、第七倉庫に突入する!」
装甲バンは、埠頭の西側、フェンスを突き破った。
ガシャァァン!!
金網が、バンパーに引き裂かれる。
「ロック、掴まってろ!」
ダッチが、アクセルを踏み込んだ。
装甲バンは、コンテナの迷路を縫うように走る。左に、右に。急カーブのたびに、ロックの体がシートに叩きつけられた。
「見えた! 第七倉庫だ!」
「いけますか!?」
「当たり前だ!」
ダッチは、装甲バンを倉庫の壁に向けた。
「突っ込むぞ!!」
ドゴォォォン!!
装甲バンが、倉庫のシャッターを突き破った。
金属がひしゃげる耳障りな音。火花が散り、粉塵が舞う。
「行くぞ、ロック!」
ダッチが、ショットガンを手に飛び出した。
ロックも、スタンガンを握って続く。
倉庫の中は、薄暗かった。天井の蛍光灯が、いくつか点滅している。鉄骨の柱が並び、木箱やドラム缶が積み上げられていた。
「……静かだな」
「ええ。警備は、東に引きつけられたはずです。でも、油断はできません」
二人は、慎重に倉庫の奥へ進んだ。
「ロック、これを見ろ」
ダッチが、足を止めた。
そこには、銀色の金属ケースが、台の上に置かれていた。
「……スカーレット・ミストのサンプルだ」
ロックは、ケースに近づいた。
手を伸ばす。
その時。
「やあ、岡島くん」
ロックの手が、止まった。
倉庫の奥、コンテナの影から、一人の男が現れた。
黒いスーツ。白いワイシャツ。きっちりと結ばれたネクタイ。銀縁の眼鏡。薄い笑み。
大森源蔵。旭日重工第二資材部部長。ロックのかつての上司。
「……大森さん」
「久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
大森は、ゆっくりと拍手をした。
「いやあ、見事な作戦だった。囮のトラック、西側からの侵入、装甲バンでの突入。素晴らしい。サラリーマン時代の君からは、想像もできないほどだ」
「……あなたが、ここにいるということは」
「そう。君の作戦は、筒抜けだったということだ」
大森は、笑った。
「残念だったね。せっかくの逆転劇も、これで幕切れだ」
「ロック、下がってろ」
ダッチが、ショットガンを構えた。
「ダッチさん、待ってください。彼は、僕の……元上司です」
「知ってる。だからこそ、お前が決着をつけろ」
ロックは、大森を見た。
「大森さん。あなたは、僕を旭日重工に戻そうとしている。家族を人質に、僕を。……でも、もう、家族は、僕を売った。あなたの思惑通りにはいかない」
「ほう」
大森は、眼鏡の奥の目を細めた。
「それで? 君は、私に何ができると?」
「取引データを、渡してもらいます」
「ははは」
大森は、声を上げて笑った。
「馬鹿な。お前のような軟弱者が、この私に?」
「……僕は、もう、軟弱者じゃない」
ロックの声は、静かだった。
「この街で、生きると決めた。あなたにも、バラライカにも、張にも。誰にも、振り回されない」
「生意気だな。サラリーマンごときが」
大森は、スーツの内側から、護身用の拳銃を取り出した。
「死にたくなければ、そこをどけ。私は、このデータを持って帰る。お前の家族の命は、私の機嫌次第だ」
「……家族は、もう、関係ない」
「ほう。冷たい男だ」
大森は、拳銃をロックに向けた。
「なら、死ね」
パンッ!
銃声が、倉庫に響いた。
ロックは、目を閉じた。
だが、痛みは、来なかった。
「……っ!」
聞き覚えのある、苦しそうな声。
ロックが目を開けると、レヴィが、ロックの前に立っていた。
左肩から、血が流れている。赤い筋が、タンクトップの黒地を伝って、肘の刺青の上を滑り、指先から雫になって落ちた。
「レヴィさん!」
「ったく……あんた、死ぬとこだったわよ!」
レヴィは、二丁の拳銃を大森に向けた。歯を食いしばる音が、ロックの耳にまで届いた。
「お前、よくもやってくれたわね」
「ほう。レヴィさん。噂通りの、二挺拳銃」
大森は、笑みを崩さない。
「だが、私は、君たちと違って、時間がないのでね」
大森は、ブリーフケースを掴み、非常口へ走った。
「逃がすか!」
レヴィが、引き金を引いた。
パンパンッ!
弾丸が、非常口の鉄扉を叩く。火花が散り、鉄の焦げる匂いが漂った。だが、大森は、もう外に出ていた。
「くそっ!」
「レヴィさん、血が!」
「このくらい、かすり傷よ。それより、追うわよ!」
「待ってください。無茶は——」
「うるさい! あんたが死んだら、あたしの弾代、誰が払うのよ!」
レヴィは、ロックの腕を掴んで、非常口へ走った。その手のひらは、血でぬるついていた。
外に出ると、大森の乗った黒い車が、埠頭の通路を猛スピードで走り去ろうとしていた。
「ダッチ! 車を!」
「分かってる!」
ダッチが、装甲バンを回してきた。
「乗れ!」
三人は、装甲バンに飛び乗った。
「あの車、絶対に止めるわよ!」
「いや、待ってください」
ロックは、無線機を握りしめた。
「大森の車は、あのまま東へ逃げる。東の通路は、さっきの爆発で、瓦礫が散乱している。……ダッチさん、大森の車を、東の通路へ追い込んでください!」
「どうするつもりだ?」
「倉庫の前に、フォークリフトがありました。あれを、瓦礫の上に突っ込ませます。大森の車が、あの角を曲がった瞬間に」
「……お前、それ、今からやるのか?」
「はい。無線で指示します。ダッチさんは、大森の車を、あの角へ。僕は、フォークリフトを動かします」
「あんた、フォークリフトなんて動かせるの?」
「免許はありません。でも、やるしかない」
「あんた、ほんと、面白いわね!」
レヴィが、血を流しながら笑った。
「ダッチさん、お願いします」
「了解。お前の指示を信じる」
ロックは、装甲バンから飛び降りた。
足が、地面に叩きつけられる。転びそうになりながら、倉庫の前に停めてあったフォークリフトに駆け寄った。靴底が砂利を噛むたび、膝が笑った。
「……動け。動いてくれ」
キーは、差しっぱなしだった。
ロックは、運転席に乗り込み、キーを回した。
ブルルル……
エンジンが、かかった。排気の熱が、ふくらはぎに当たる。
「よし」
ロックは、無線機を口元に寄せた。
「ダッチさん、大森の車は、どのあたりですか!?」
「あと三十秒で、お前のいる角を曲がる!」
「了解! フォークリフトを、瓦礫の上に突っ込ませます!」
ロックは、アクセルを踏んだ。
フォークリフトが、ゆっくりと動き出す。
「もっと、速く……!」
ロックは、ハンドルを握りしめた。手のひらに、汗がにじむ。
目の前に、爆発で散乱した瓦礫の山が見える。
「いける……いける!」
フォークリフトは、瓦礫の山に突っ込み、その上に乗り上げた。車体が斜めに傾き、鉄の歯が石くれを砕く音が骨に響く。
「今だ!」
ロックは、フォークリフトを、通路の真ん中で停止させた。
次の瞬間。
キキィィィッ!!
大森の車が、角を曲がってきた。
「なにっ!?」
大森の車は、急ブレーキをかけた。タイヤが悲鳴を上げ、白煙が噴き上がる。だが、間に合わない。
ガシャァァン!!
車は、フォークリフトに激突した。
ボンネットがひしゃげ、白い煙が上がる。ヘッドライトのガラスが、地面に散らばった。
「やった……!」
ロックは、フォークリフトから飛び降りた。
大森の車に駆け寄る。
「大森さん、降りてください」
大森は、額から血を流しながら、車から這い出てきた。スーツの膝が破れ、ネクタイが歪んでいた。
「……よくも、やってくれたな」
大森の声は、震えていた。
「取引データを、渡してください」
「……これが、欲しいのか?」
大森は、ブリーフケースを掲げた。
「これは、お前のような軟弱者が、持っていていいものじゃない。これは、街の勢力図を変える、重要なデータだ」
「……だからこそ、あなたに渡すわけにはいかない」
ロックは、一歩、大森に近づいた。
「僕は、もう、あなたの部下じゃない。旭日重工の社員でもない。ラグーン商会の、ロックだ」
大森は、ロックを睨みつけた。
「……生意気な」
大森は、ブリーフケースを、ロックに投げつけた。
「持っていけ。だが、覚えておけ。旭日重工は、お前を絶対に許さない。会社を裏切った者は、『転属』という名の消去が待っている」
大森は、よろよろと立ち上がった。
「お前の家族も、お前の仲間も、みんな、地獄に落ちるぞ」
「……家族は、もう、いません。仲間は、僕が守ります」
ロックは、大森の目を、真っ直ぐに見た。
「これで、終わりです。大森さん」
大森は、しばらくロックを睨んでいた。
それから、悔しそうに、夜の闇へと去っていった。足音が、波の音に紛れて、消えていく。
「……はあ」
ロックは、膝をついた。
全身の力が、抜けていく。膝の裏で、砂が軋んだ。
「ロック!」
ダッチの装甲バンが、横に停まった。
「大丈夫か!?」
「ええ。なんとか」
「レヴィも、無事だ。肩の傷は、浅い」
「よかった……」
ロックは、ブリーフケースを抱きしめた。
その時。
「おや、面白い若者だ」
三人は、同時に振り返った。
埠頭の闇の中から、一人の男が現れた。
短く刈り込んだ黒髪に、白髪が混じる。サングラス。右手の甲に、古い傷跡。
張維新。三合会張派の首領。表向きは維新商事社長。
「……張さん」
張は、ゆっくりと拍手をした。
「いやあ、見事だった。大森の車を、フォークリフトで止めるとは。なかなか、できることじゃないねぇ」
張の口調は、ゆったりとしていた。広東語訛りの日本語。
「……いつから、見ていましたか」
「最初からだよ。お前さんが、埠頭に来た時からね」
張は、笑った。
「商売は信用が第一。だから、私は、お前さんの仕事ぶりを、じっくり見せてもらった」
「……信用、ですか」
「そう。お前さんは、約束を守る男だ。大森の甘い言葉に乗らず、仲間を守り、データを奪い返した。……なかなか、できることじゃない」
張は、サングラスの奥の目で、ロックを値踏みするように見た。
「面白い若者だ。また会おう」
張は、それだけ言うと、背を向けて、闇の中へ消えていった。サングラスの奥で、笑ったのかどうか、ロックには分からなかった。
「……なんだったの、今の」
レヴィが、肩を押さえながら、ロックの隣に立った。
「わかりません。でも、敵意は、なかった」
「へえ、あんた、張に気に入られたわけ?」
「気に入られたのかどうかは、分かりません。……ただ、底が、見えない」
ロックは、張が消えた方角を見つめた。
決着したはずなのに、まだ、何かが、暗い海の底に沈んでいる。そんな感覚が、背中に冷たく残っていた。
「……帰るぞ。ベニーが、待ってる」
三人は、装甲バンに乗り込んだ。
レヴィは、無線でベニーに連絡を入れた。
「ベニー、あたしたち、今から帰るわ。あんた、ちゃんと寝てなさいよ」
無線から、ベニーの声が返ってきた。
「よかった……みんな、無事なんだね」
「当たり前でしょ。あんたこそ、また熱出したら、今度はぶっ飛ばすからね」
「はいはい。気をつけて帰ってきて」
無線が切れた。
装甲バンは、第三埠頭を後にした。
維新橋を渡り、旧市街へ戻る。
「……レヴィさん」
「何よ」
「ありがとな、レヴィ」
ロックは、レヴィの方を向いた。
「あなたが、僕をかばってくれなかったら、僕は、死んでいた」
レヴィは、一瞬、固まった。
それから、顔を赤らめて、窓の外を向いた。
「べ、別に。あたしは、あんたが死んだら、面白くないだけよ」
「……それでも、ありがとう」
「うっさい。二度と言うな」
レヴィは、ガムを噛み始めた。窓ガラスに映った横顔が、ほんの少しだけ緩んでいた。
ダッチが、笑った。
「お前さん、いい仕事したな」
「……ありがとうございます、ダッチさん」
「だが、忘れるな」
ダッチの声が、真剣になった。
「バラライカの目的は、まだ分からねえ。あの女、笑顔で人を地獄に落とすからな」
「……はい。分かっています」
ロックは、ブリーフケースを、ダッチに渡した。
「これが、取引データです。僕には、まだ、このデータの価値が、全部は分かりません。だから、ダッチさんに預けます」
「……ああ。俺が、責任を持って保管する」
ダッチは、ブリーフケースを受け取った。
「それと、ロック。お前は、まだ、何も知らない。この街のことも、バラライカのことも、張のことも、大森のことも。……だが、それでいい。知らないからこそ、お前は、まだ、人間でいられる」
「……人間、ですか」
「ああ。この街で生きるってことは、少しずつ、人間じゃなくなっていくことだ。お前は、まだ、その入り口に立ったばかりだ」
ダッチは、ハンドルを握ったまま、前を見ていた。
「……それでも、僕は、この街で生きると決めました」
「ああ。だから、死ぬな。お前が、自分で選んだ道だ」
装甲バンは、旧市街の西端、ラグーン商会の倉庫に到着した。
焼け落ちた倉庫の隣に、ベニーが急ごしらえで建てた仮設の作業場があった。
ベニーが、松葉杖をついて、入り口で待っていた。
「おかえり!」
「ただいま」
「レヴィ、肩、大丈夫!?」
「このくらい、かすり傷よ。あんたこそ、立って歩けるようになったんじゃない」
「まあね。まだ、本調子じゃないけど」
ベニーは、笑った。
「ダッチ、取引データは?」
「ここにある。後で、お前にも見せる。まずは、応急処置だ」
四人は、仮設の作業場に入った。
レヴィの肩の傷は、幸い、弾がかすめただけだった。ベニーが、手際よく消毒し、包帯を巻く。消毒液の匂いが、狭い室内に広がった。
「……いてて」
「我慢してよ。動くと、また開くから」
「分かってるわよ」
ロックは、その様子を、黙って見ていた。
(僕は、生きてる)
(この街で、仲間と一緒に)
胸の奥が、じわりと温かくなった。
「ロック」
ダッチが、ロックに、缶コーヒーを投げて寄越した。
「飲め。疲れただろ」
「ありがとうございます」
ロックは、缶コーヒーを受け取った。
冷たい。指先に、缶の結露が染みる。
「……ダッチさん」
「なんだ」
「バラライカは、今夜、どこで、何をしていたんでしょうか」
ダッチは、缶コーヒーを開けた。プシュ、と小さな音がした。
「さあな。だが、あの女のことだ。どこかで、高みの見物を決め込んでいたんだろう」
「……そうですね」
ロックは、缶コーヒーを一口飲んだ。
苦い。
「でも、それでいい。僕は、まだ、彼女の目的を知らない。知らないから、前に進める」
「……強くなったな、お前」
「そうですか?」
「ああ。初めて会った時は、震えてるだけの、ただのサラリーマンだった」
「今も、震えてますよ。ほら」
ロックは、手を差し出した。
指先が、わずかに震えていた。
「それでも、お前は、前に進んだ。それで十分だ」
ダッチは、ロックの肩を、ポンと叩いた。その手のひらは、ずしりと重かった。
夜明け前。
ロックは、仮設作業場の屋上に、一人で立っていた。
東の空が、うっすらと白み始めている。
旧市街の石畳の路地が、朝の光に照らされていく。遠くで、一発、銃声がした。
ロアナプラの朝は、今日も、血の匂いがする。
「……何してんの、こんなとこで」
振り返ると、レヴィが、コーヒーの入ったカップを二つ持って立っていた。
「……空を、見てました」
「ふうん」
レヴィは、ロックの隣に立って、カップを差し出した。
「飲みなさいよ。あんた、一睡もしてないでしょ」
「ありがとうございます」
ロックは、カップを受け取った。
温かい。指の腹に、じんわりと熱が伝わってくる。
「……あんた、これからどうすんの?」
レヴィが、空を見上げながら言った。
「まだ分からない。でも、もう、逃げない」
「……ふん」
レヴィは、コーヒーを一口飲んだ。
「ったく。あんた、ほんと、バカね」
「よく言われます」
「でも、まあ、あたしがついてるから、死ぬんじゃないわよ」
レヴィは、前を見たまま、そう言った。
ロックは、レヴィの横顔を見た。
鳶色の瞳が、朝日を受けて、金色に輝いている。
「……はい」
ロックは、小さく笑った。
二人は、夜明けの空を見上げた。
東の空が、赤く、赤く、燃えていた。
ロアナプラの朝が、始まる。
血と、炎と、硝煙の匂いに満ちた、新しい一日が。
そして、ロックは、まだ知らない。
自分が選んだ道が、想像を絶する地獄への入り口だということを。
だが、それでも。
今は、この朝の光が、ただ、眩しかった。Noveliaとは?
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