BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣
廃業寸前のサラリーマンが、地図に載らない無法都市で運び屋として生きることを選ぶ。『BLACK LAGOON』の前日譚を思わせる異色の転生録、ここに開幕——。
岡島緑郎、二十五歳。旭日重工のエリート社員だった彼は、機密ディスクの輸送中に襲撃され、会社から「存在しなかったこと」にされた。目を覚ましたのは、警察も法律もない海上都市ロアナプラ。そこで出会ったのは、ラグーン商会のボス・ダッチだった。
「お前は今日からロックだ」
与えられた新しい名前と、銃を握らないという自らの選択。月収三百万円の危険な運び屋稼業、四つの勢力がにらみ合う街の均衡、そして元社員の顔を買ったホテル・モスクワからのスパイ依頼。ロアナプラの蜘蛛の巣に、一人のサラリーマンが足を踏み入れる。
これは、銃ではなく頭で生き延びようとした男の物語。彼が「ロック」になるまでの、最初の一歩の記録である。
BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣 - 不器用な夜食と、潜入前夜の甘い罠
鉄錆の匂いが、朝の空気に混ざっていた。
ロックはラグーン商会の倉庫の二階、薄い毛布をたたみながら、窓の外を見た。旧市街の石畳の路地には、もう人通りがある。屋台から煙が上がり、油で何かを焼く匂いがここまで届く。遠くで、ドン、と腹に響く低い音がした。銃声だ。もう、驚かなくなっている自分がいる。
(この街に来て、まだ数日なのに)
ロックは白いワイシャツの袖をまくり、黒いネクタイを締め直した。きっちり分け目をつけた黒い短髪を手で整える。左の眉の上にある小さな古い傷跡に、指先が触れた。旭日重工時代に書類の角で切っただけの、なんてことのない傷。でも、消さずに残している。
一階に下りると、ダッチが事務所のデスクで地図を広げていた。ゴーグル型のサングラスをかけた、筋骨隆々のスキンヘッドの男。ラグーン商会のボスだ。手には油で汚れた鉛筆。デスクの上には、手描きの見取り図が何枚も並んでいる。
「おはようございます、ダッチさん」
「ああ。こっちに来い。作戦の確認だ」
ロックはダッチの隣に立った。デスクの上の紙には、建物の形が雑に描かれている。四角い倉庫がいくつも並び、その間を細い道が通っている。ところどころに「×」印と、数字のメモがあった。
「これが第三埠頭の見取り図だ。張グループの縄張りで、コンテナが八百個は積んである。倉庫は七棟。警備は常時三十人。夜間は半分の十五人に減る」
ダッチは鉛筆で、見取り図の端をトントンと叩いた。
「お前が潜入するのは、ここだ。東側の倉庫群。張の新しい取引が行われる場所として、ガルシアが吐いた情報と一致している。表向きは中古機械の保管庫ってことになってるが、実際は密輸品の一時置き場だ」
「警備はどうなってますか」
「倉庫の入口に二人。裏口に一人。巡回が二時間おきに一組。見張り台が一基、南西の角にある。夜間は、見張り台の男が交代で仮眠を取る。隙はそこだ」
ロックは見取り図をじっと見た。頭の中で、動線を組み立てる。入口から入って、どこを通って、どこで情報を探すか。見つかったら、どう逃げるか。
(要するに、僕が単身で潜入して、取引の情報を盗んでくる。それがバラライカの依頼の第一段階)
ダッチはロックの顔を見た。ゴーグルサングラスの奥の表情は読めない。
「何か聞きたいことはあるか」
ロックは少し迷った。
(聞きたいことは、ある。でも、口に出していいことなのか)
「……ダッチさん。一つ、確認させてください」
「言え」
「今回の潜入、僕は囮になるんじゃないですか」
ロックの声は、思ったより静かだった。
事務所の中が、しんと静まる。整備場の方から、ベニーが何かをいじる金属音が、カチン、カチンと聞こえるだけだ。
ダッチは鉛筆を置いた。それから、ゆっくりとロックの方を向く。
「なぜそう思う」
「バラライカの依頼です。彼女ほどの人物が、僕みたいな素人に、いきなり重要な潜入を任せるとは思えない。それに、張グループの取引情報を探るなら、もっと確実な方法があるはずだ。たとえば、レヴィに力ずくで聞き出させる、とか」
「続けろ」
「僕が潜入して失敗すれば、ラグーン商会の責任になる。でも、僕はまだ正式な構成員じゃない。切り捨てやすい。つまり、僕は保険の効かない、捨て駒として使われている可能性がある。そう考えました」
ロックは一気に言い切った。
ダッチは、しばらく黙っていた。
整備場から、金属音が止まった。ベニーも、二人の会話を聞いている。
「お前の言う通りだ」
ダッチが、低い声で言った。
「バラライカは、お前を囮に使ってる可能性が高い。張の注意をお前に集めて、その隙に、彼女の本当の目的を進める。そういう女だ。だがな、ロック」
ダッチは、見取り図の上に置いた手を、ぎゅっと握った。
「囮だとしても、仕事は仕事だ。お前が無事に帰ってくる確率を上げるのが、俺の役目だ。見取り図も、警備の情報も、そのために用意した。無線も持たせる。何かあれば、すぐに連絡しろ。そうすりゃ、レヴィが飛んでいく」
「……わかりました」
ロックは、それ以上何も言えなかった。
ダッチの言葉は、嘘ではない。でも、すべての真実でもない。
(この街では、そういうものなんだ)
ロックは、自分に言い聞かせた。
ダッチは再び鉛筆を取り、見取り図の一点を指した。
「作戦の要所を説明する。よく聞け」
ダッチの説明は、細かく、具体的だった。侵入経路、情報を探す場所、逃げる時のルート、無線の使い方、見つかった時の合図。ロックはそれを、一つ一つ頭に叩き込んだ。
説明が終わると、ダッチは言った。
「最後に一つだけ。何かあったら、無線で連絡しろ。それだけは、絶対に忘れるな」
「はい」
ロックは頷いた。
その時、整備場の方から声がした。
「おーい、ロック。ちょっと来てくれ」
ロックが整備場に行くと、ベニーが作業台の上に、いくつかのものを並べていた。眼鏡をかけた、細身の優男。ラグーン商会のメカニックで、電子機器の扱いなら街で一番だ。
「変装用具一式だ。作業員の制服、偽造ID、通信用の小型無線機。それと、これ」
ベニーは、最後に小さな黒い箱を差し出した。
「スタンガンだ。威力は強めに調整してある。至近距離なら、相手を数秒は動けなくできる。まあ、ロックに合ってるだろ」
ロックは黒い箱を受け取った。ずしりと重い。
「ありがとう、ベニー。助かるよ」
「無理すんなよ」
ベニーの声が、急に真剣になった。
「お前、まだこの街に来て数日だろ。命を張るのは、慣れてからでも遅くない。……なんて、もう決めたんだよな、お前は」
ベニーは、少し困ったような笑い方をした。
ロックは、笑顔で返した。
「大丈夫です。死ぬつもりはないんで」
「そうか。なら、いいんだ」
ベニーは、それ以上何も言わなかった。でも、その目は「本当に大丈夫か?」と問いかけているようだった。
ロックは、作業員の制服を手に取った。濃い紺色のつなぎだ。袖口が擦り切れていて、油の染みがついている。本物の作業員が着ていたものらしい。
「偽造IDは、張グループの下請け業者のものだ。顔写真は、お前に似せて加工してある。夜の検問なら、これで通れるはずだ」
「完璧ですね」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってる」
ベニーが、少し得意げに眼鏡を押し上げた。
その時、後ろから足音がした。
振り返ると、レヴィが立っていた。黒いタンクトップに短いホットパンツ。黒髪をポニーテールに束ね、毛先が少し跳ねている。鳶色の鋭い瞳が、ロックの手にしたスタンガンを見ていた。首筋から右肘にかけてのトライバル系の刺青が、薄暗い整備場でもよく目立つ。
「あんた、それ使うの?」
レヴィが、くちゃくちゃとガムを噛みながら言った。
「ええ。護身用に」
「ふうん。まあ、あんたにはちょうどいいわね。銃は持たせられないもの」
「銃は、持たせてもらえないんですか」
「当たり前でしょ。あんたが銃を持ったら、あたしが後ろから撃たれそうだもの」
レヴィは、ロックの顔をじろりと見た。
「それに、サラリーマンに銃なんて渡したら、引き金に指をかけたまま転びそうじゃない。笑えないわよ」
「……僕は、そんなに信用ないですか」
「あるわけないでしょ。あんた、昨日まで机に座ってたんでしょ?」
レヴィは、呆れたように首を振った。
ロックは反論しようとしたが、言葉が出なかった。
(確かに、その通りだ)
自分は、つい数日前まで、東京のオフィスで書類を整理していた。銃の扱い方も知らなければ、撃ったこともない。そんな人間が、銃を持ったところで、足手まといになるだけだ。
「……わかりました。スタンガンで頑張ります」
ロックは、素直に受け入れた。
レヴィは、少し意外そうな顔をした。
「あら、素直じゃない。もっと食い下がるかと思ったわ」
「食い下がっても、無駄でしょう。あなたの言う通りですから」
「はっ、自分の立場わかってるじゃない。少しはマシになったわね」
レヴィは笑った。でも、目は笑っていない。
「まあ、死なないように頑張りなさいよ。あんたが死んだら、あたしが弾込め直してやるから」
「それ、昨日も聞きました」
「大事なことだから二回言ったのよ。感謝しなさい」
レヴィは、そう言うと、ひらひらと手を振って整備場を出ていった。
ロックは、手にしたスタンガンを見つめた。
(これが、僕の武器か)
心細い。でも、これが現実だ。
ベニーが、ロックの肩を軽く叩いた。
「まあ、ああ見えて、レヴィは心配してるんだよ。あれで」
「そうなんですか?」
「たぶんな。あいつ、仲間には甘いから」
ロックは、レヴィが出ていった方を見た。
(心配、してくれてるのか)
そう思うと、少しだけ、心が軽くなった気がした。
夜になった。
ロックは二階の居住スペースで、一人、見取り図と資料を読み込んでいた。
机の上には、ダッチが書いた警備配置のメモ、ベニーが用意した偽造ID、小型無線機、スタンガン。それと、第三埠頭の見取り図。
ロックは、見取り図の隅々まで目を通した。倉庫の配置、警備の位置、巡回のルート、逃げ道。頭の中で、何度もシミュレーションする。
(ここから入って、ここを通って、ここで情報を探す。見つかったら、ここから逃げる)
何度も、何度も、繰り返す。
それでも、不安は消えない。
(本当に、これでうまくいくのか)
ロックは、偽造IDを手に取った。そこには、見知らぬ名前と、自分の顔に似せた写真が貼られている。
(もし、これが偽物だとバレたら)
考えただけで、指先が冷たくなる。
(でも、やるしかない)
ロックは、自分に言い聞かせた。
もう、戻る場所はない。
この街で生きていくためには、危険を冒すしかない。
バラライカの依頼を断ることは、この街で居場所を失うことだ。
(大丈夫。僕は、やれる)
ロックは、深く息を吐いた。
その時、階段を上ってくる足音がした。
軽い足音。レヴィだ。
「ロック、いる?」
レヴィが、ドアの向こうから声をかけた。
「いますよ。どうしました?」
ドアが開いて、レヴィが入ってきた。手に、紙袋を持っている。
「これ、やるわ」
レヴィは、紙袋をロックの机の上に置いた。
中を見ると、温かい匂いがした。屋台の焼きそばと、肉串が数本。それと、水のペットボトル。
「これは?」
「見てわかんない? 飯よ。あんた、昼から何も食べてないでしょ。死なれても困るから、余ったのをあげるわ」
レヴィは、そっぽを向いて言った。
「余った、ですか」
「そうよ。あたしが買いすぎたの。文句ある?」
「いえ、ありがたくいただきます」
ロックは、紙袋から焼きそばの容器を取り出した。まだ温かい。湯気が立っている。
「いただきます」
ロックは、割り箸を割って、焼きそばを口に運んだ。
油とソースの匂いが、口いっぱいに広がる。少し焦げた麺の香ばしさ。具はキャベツと、小さな肉片。味は濃いめで、でも、なぜか懐かしい味がした。
「美味しいです」
「でしょ。あたしが選んだんだから」
レヴィは、壁にもたれかかって、ロックが食べるのを見ていた。
「……あんた、本当に明日行く気?」
レヴィの声が、急に真剣になった。
ロックは、焼きそばを飲み込んで、レヴィを見た。
「行きます。決めたことですから」
「死ぬかもしれないのよ。あんた、それがわかってるの?」
「わかってます。でも、やるしかないんです。僕には、もうこれしかない」
レヴィは、しばらく黙っていた。
くちゃくちゃと、ガムを噛む音だけが聞こえる。
「……バカね」
レヴィが、小さく言った。
「そうかもしれません」
「あんた、本当にバカ。サラリーマン根性丸出しで、命を粗末にして。でも、まあ、そういうバカは嫌いじゃないわ」
レヴィは、少しだけ口元を緩めた。
ロックは、その表情を見て、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
(この人は、不器用だけど、ちゃんと心配してくれてる)
「レヴィさん、ありがとうございます」
「何がよ。飯の礼? 余っただけだから」
「飯の礼もですけど、それだけじゃなくて」
ロックは、少し迷ってから、続けた。
「あなたが、こうして来てくれたことが、嬉しかったんです。一人で資料を見てると、なんていうか、心細くて」
レヴィは、一瞬だけ、目を丸くした。
それから、照れたように顔を背けた。
「何言ってんのよ、気持ち悪い。あんた、サラリーマンのくせに、そういうこと平気で言うの?」
「すみません。でも、本当のことです」
「……ったく。あんたって、本当に変な男」
レヴィは、そう言いながらも、部屋を出ていく気配はなかった。
二人の間に、静かな時間が流れた。
遠くで、波の音が聞こえる。
潮の匂いが、開いた窓から流れ込んでくる。
「ねえ、ロック」
レヴィが、静かに言った。
「はい」
「明日、あんたが死んだら、あたしが弾込め直してやるから」
「それ、三回目です」
「三回目で、やっと意味がわかった?」
レヴィが、いたずらっぽく笑った。
「ええ、なんとなく」
「なら、いいわ。死なないように、しっかり噛み締めなさい」
レヴィは、そう言って、ドアの方へ歩いていった。
「おやすみ、ロック。また明日」
「おやすみなさい、レヴィさん」
ドアが閉まった。
ロックは、一人になった部屋で、焼きそばの残りを食べた。
(また明日、か)
その言葉が、胸に染みた。
(明日、僕は生きて帰れるだろうか)
不安は消えない。でも、さっきまでの心細さは、少しだけ和らいでいた。
レヴィの不器用な優しさが、確かに、ロックの心を軽くしていた。
翌朝。
ロックは、ベニーが用意した作業員の制服に着替えた。
濃い紺色のつなぎ。袖口が擦り切れ、油の染みがついている。それを着ると、鏡の中の自分が、別人のように見えた。
(これが、今日の僕だ)
ロックは、偽造IDを首から下げ、小型無線機をポケットに入れた。スタンガンは、つなぎの内ポケットに隠す。
一階に下りると、ダッチとレヴィ、ベニーが待っていた。
ダッチが、ロックの格好を上から下まで見た。
「悪くない。作業員に見える」
「本当ですか? 自分では、まだ違和感があるんですけど」
「その違和感は、お前が慣れてないだけだ。向こうの連中は、もっと汚い格好をしてる。お前のその格好なら、夜の検問は通れる」
「わかりました」
レヴィが、ロックの前に立った。
「無線、ちゃんと持った?」
「持ってます」
「スタンガンは?」
「内ポケットに」
「そう。……まあ、死なないようにね」
レヴィは、そう言って、ロックの胸を軽く小突いた。
「あなたも、無線で待機してるんですよね」
「当たり前でしょ。あんたが呼んだら、すぐに飛んでいくわ。弾込め直す前に、助けてやるから」
「心強いです」
ロックは、笑った。
ベニーが、ロックに小さなバッグを渡した。
「中に、工具一式と、予備の無線機。それと、張グループの倉庫で使われてる南京錠の合鍵。緊急用だ」
「ありがとう、ベニー。助かる」
「気をつけろよ。戻ってきたら、メシでも食いに行こう」
「ええ、ぜひ」
ダッチが、ロックの肩に手を置いた。
「行ってこい。何かあれば、無線を押せ。それだけでいい」
「はい。行ってきます」
ロックは、倉庫の扉を開けた。
朝の光が、目に飛び込んでくる。
旧市街の石畳の路地は、もう活気に満ちていた。屋台の煙、人々の声、車のクラクション。遠くで、また銃声が一発。
ロックは、深呼吸をした。
(行こう)
一歩、踏み出した。
その時、ラグーン商会の倉庫の近く、路地の陰に停まった黒いバンの中で、一人の男が双眼鏡を下ろした。
男は、手にした無線機のスイッチを入れた。
「こちら浄化屋三号。ターゲットが動いた。作業員の制服で、単身、第三埠頭方面へ向かっている」
無線の向こうから、ノイズ混じりの声が返ってきた。
「了解。そのまま追跡しろ。大森さんに伝える」
「了解」
黒いバンが、ゆっくりと動き出した。
ロックの背中を、一定の距離を保ちながら、追いかける。
ロックは、まだ知らない。
自分の一歩一歩が、最初から監視されていることを。
自分の潜入が、巨大な罠の真ん中へと続く道であることを。
旧市街の朝の光が、ロックの背中を照らしていた。
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