BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣
廃業寸前のサラリーマンが、地図に載らない無法都市で運び屋として生きることを選ぶ。『BLACK LAGOON』の前日譚を思わせる異色の転生録、ここに開幕——。
岡島緑郎、二十五歳。旭日重工のエリート社員だった彼は、機密ディスクの輸送中に襲撃され、会社から「存在しなかったこと」にされた。目を覚ましたのは、警察も法律もない海上都市ロアナプラ。そこで出会ったのは、ラグーン商会のボス・ダッチだった。
「お前は今日からロックだ」
与えられた新しい名前と、銃を握らないという自らの選択。月収三百万円の危険な運び屋稼業、四つの勢力がにらみ合う街の均衡、そして元社員の顔を買ったホテル・モスクワからのスパイ依頼。ロアナプラの蜘蛛の巣に、一人のサラリーマンが足を踏み入れる。
これは、銃ではなく頭で生き延びようとした男の物語。彼が「ロック」になるまでの、最初の一歩の記録である。
BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣 - 埠頭の罠 ――笑顔の上司と、冷たい視線の帝王
鉄錆の匂いが、朝の空気に混ざっていた。
ロックはラグーン商会の倉庫の二階、薄い毛布をたたみながら、窓の外を見た。旧市街の石畳の路地には、もう人通りがある。屋台から煙が上がり、油で何かを焼く匂いがここまで届く。遠くで、ドン、と腹に響く低い音がした。銃声だ。もう、驚かなくなっている自分がいる。
(この街に来て、まだ数日なのに)
ロックは白いワイシャツの袖をまくり、黒いネクタイを締め直した。きっちり分け目をつけた黒い短髪を手で整える。左の眉の上にある小さな古い傷跡に、指先が触れた。旭日重工時代に書類の角で切っただけの、なんてことのない傷。でも、消さずに残している。
一階に下りると、ダッチが事務所のデスクで地図を広げていた。ゴーグル型のサングラスをかけた、筋骨隆々のスキンヘッドの男。ラグーン商会のボスだ。手には油で汚れた鉛筆。デスクの上には、手描きの見取り図が何枚も並んでいる。
「おはようございます、ダッチさん」
「ああ。こっちに来い。作戦の確認だ」
ロックはダッチの隣に立った。デスクの上の紙には、建物の形が雑に描かれている。四角い倉庫がいくつも並び、その間を細い道が通っている。ところどころに「×」印と、数字のメモがあった。
「これが第三埠頭の見取り図だ。張グループの縄張りで、コンテナが八百個は積んである。倉庫は七棟。警備は常時三十人。夜間は半分の十五人に減る」
ダッチは鉛筆で、見取り図の端をトントンと叩いた。
「お前が潜入するのは、ここだ。東側の倉庫群。張の新しい取引が行われる場所として、ガルシアが吐いた情報と一致している。表向きは中古機械の保管庫ってことになってるが、実際は密輸品の一時置き場だ」
「警備はどうなってますか」
「倉庫の入口に二人。裏口に一人。巡回が二時間おきに一組。見張り台が一基、南西の角にある。夜間は、見張り台の男が交代で仮眠を取る。隙はそこだ」
ロックは見取り図をじっと見た。頭の中で、動線を組み立てる。入口から入って、どこを通って、どこで情報を探すか。見つかったら、どう逃げるか。
(要するに、僕が単身で潜入して、取引の情報を盗んでくる。それがバラライカの依頼の第一段階)
ダッチはロックの顔を見た。ゴーグルサングラスの奥の表情は読めない。
「何か聞きたいことはあるか」
ロックは少し迷った。
(聞きたいことは、ある。でも、口に出していいことなのか)
「……ダッチさん。一つ、確認させてください」
「言え」
「今回の潜入、僕は囮になるんじゃないですか」
ロックの声は、思ったより静かだった。
事務所の中が、しんと静まる。整備場の方から、ベニーが何かをいじる金属音が、カチン、カチンと聞こえるだけだ。
ダッチは鉛筆を置いた。それから、ゆっくりとロックの方を向く。
「なぜそう思う」
「バラライカの依頼です。彼女ほどの人物が、僕みたいな素人に、いきなり重要な潜入を任せるとは思えない。それに、張グループの取引情報を探るなら、もっと確実な方法があるはずだ。たとえば、レヴィに力ずくで聞き出させる、とか」
「続けろ」
「僕が潜入して失敗すれば、ラグーン商会の責任になる。でも、僕はまだ正式な構成員じゃない。切り捨てやすい。つまり、僕は保険の効かない、捨て駒として使われている可能性がある。そう考えました」
ロックは一気に言い切った。
ダッチは、しばらく黙っていた。
整備場から、金属音が止まった。ベニーも、二人の会話を聞いている。
「お前の言う通りだ」
ダッチが、低い声で言った。
「バラライカは、お前を囮に使ってる可能性が高い。張の注意をお前に集めて、その隙に、彼女の本当の目的を進める。そういう女だ。だがな、ロック」
ダッチは、見取り図の上に置いた手を、ぎゅっと握った。
「囮だとしても、仕事は仕事だ。お前が無事に帰ってくる確率を上げるのが、俺の役目だ。見取り図も、警備の情報も、そのために用意した。無線も持たせる。何かあれば、すぐに連絡しろ。そうすりゃ、レヴィが飛んでいく」
「……わかりました」
ロックは、それ以上何も言えなかった。
ダッチの言葉は、嘘ではない。でも、すべての真実でもない。
(この街では、誰もが誰かを利用している。僕も、その一人だ)
ロックは、心の中でそう呟いた。
ベニーが、ロックの元に歩いてきた。細身の体に、油で汚れた作業着。眼鏡の奥の目が、少し心配そうにロックを見ている。
「ロック、これ、あんたに」
ベニーは、ロックに濃い紺色のつなぎを差し出した。袖口が擦り切れ、油の染みがついている。
「作業員の制服だ。俺がちょっと手を加えて、内側に隠しポケットをつけた。ここに無線機を入れとけ。それと、偽造ID。張グループの下請け業者の名義になってる」
「ありがとう、ベニー。助かる」
「スタンガンも忘れんなよ。護身用だ」
ロックは、ベニーから小さなスタンガンを受け取った。手のひらに収まるサイズの、黒い棒状のもの。スイッチを入れると、バチバチと青白い火花が散る。
「……これで、人を倒せるんですか」
「首筋に当てれば、数秒は動きを止められる。殺しはしない。あんた向きだろ」
「そうですね」
ロックは、スタンガンを内ポケットにしまった。
レヴィが、二階から降りてきた。黒いタンクトップに短いホットパンツ。黒髪をポニーテールに束ね、鳶色の鋭い瞳がロックを睨む。首筋から右肘にかけてのトライバル系の刺青が、朝の光の中でくっきりと浮かび上がっていた。
「あんた、今日が本番でしょ」
「ええ。今から第三埠頭に向かいます」
「へえ。そのツラで、作業員のフリ? 笑わせるわね。どう見ても、面接に来た新入社員だっての」
「……そう見えますか」
「見えるわよ。まあ、死なないようにね」
レヴィは、そう言って、ロックの胸を軽く小突いた。
「あなたも、無線で待機してるんですよね」
「当たり前でしょ。あんたが呼んだら、すぐに飛んでいくわ。弾込め直す前に、助けてやるから」
「心強いです」
ロックは、笑った。
レヴィは、ロックの笑顔をじっと見て、それから小さく舌打ちした。
「ったく、その余裕、どこから来るのよ」
「余裕じゃないですよ。諦めに近いかも」
「……バカね」
レヴィは、それだけ言って、一階の整備場の方へ歩いていった。
ロックは、作業員のつなぎに着替えた。白いワイシャツとネクタイを脱ぎ、濃い紺色のつなぎを身につける。鏡を見る。そこに映っているのは、昨日までの自分とは違う、くたびれた作業員の姿だった。
(これが、今日の僕だ)
ロックは、偽造IDを首から下げ、小型無線機をポケットに入れた。スタンガンは、つなぎの内ポケットに隠す。
一階に下りると、ダッチが待っていた。
「行ってこい。何かあれば、無線を押せ。それだけでいい」
「はい。行ってきます」
ロックは、倉庫の扉を開けた。
朝の光が、目に飛び込んでくる。
旧市街の石畳の路地は、もう活気に満ちていた。屋台の煙、人々の声、車のクラクション。遠くで、また銃声が一発。
ロックは、深呼吸をした。
(行こう)
一歩、踏み出した。
その時、ラグーン商会の倉庫の近く、路地の陰に停まった黒いバンの中で、一人の男が双眼鏡を下ろした。
男は、手にした無線機のスイッチを入れた。
「こちら浄化屋三号。ターゲットが動いた。作業員の制服で、単身、第三埠頭方面へ向かっている」
無線の向こうから、ノイズ混じりの声が返ってきた。
「了解。そのまま追跡しろ。大森さんに伝える」
「了解」
黒いバンが、ゆっくりと動き出した。
ロックの背中を、一定の距離を保ちながら、追いかける。
ロックは、まだ知らない。
自分の一歩一歩が、最初から監視されていることを。
自分の潜入が、巨大な罠の真ん中へと続く道であることを。
第三埠頭は、旧市街から車で二十分。カロン川の河口に広がる、コンテナの迷路だった。
岸壁には、色あせたコンテナが、天に向かって積み上げられている。鉄の箱が、無秩序に重なり合い、細い通路を作っていた。海風が、錆びた鉄と潮の匂いを運んでくる。
ロックは、埠頭の入口で、張グループの私兵に偽造IDを見せた。
「……維新商事の下請けか。何の用だ」
「第七倉庫の在庫確認です。親方から、今日中に数を数えてこいと言われてまして」
ロックは、できるだけ自然に、作業員らしい口調で答えた。
私兵は、ロックの顔とIDを交互に見た。それから、無線で誰かに確認を取る。
「……通れ。ただし、倉庫の外には出るなよ。見張りが巡回してるからな」
「わかりました」
ロックは、埠頭の中へ足を踏み入れた。
コンテナの壁が、左右から迫ってくる。空が見えない。鉄の箱の隙間から、細い光が差し込むだけだ。
(第七倉庫は、東側の一番奥。見取り図では、ここから真っ直ぐ行って、三つ目の角を左)
ロックは、無線機のイヤホンを耳に押し込み、歩き出した。
足音が、鉄の壁に反響する。
カツン、カツン。
自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。
第七倉庫は、他の倉庫より一回り小さく、古びた鉄扉が閉まっていた。
ロックは、倉庫の裏口に回った。
ベニーが用意した合鍵で、南京錠を外す。カチリ、と小さな音がした。
(誰もいない……はず)
ロックは、裏口の扉を、ゆっくりと押し開けた。
ギィ、と蝶番が軋む。
中は、薄暗かった。
天井の高い倉庫の中に、木箱や機械部品が、乱雑に積まれている。奥の方は、闇に沈んでいて、何があるのか分からない。
ロックは、足音を殺して、倉庫の中へ進んだ。
その時だった。
倉庫の奥から、声が聞こえた。
「……それで、納期は間に合うのかね」
ロックは、その場に立ち止まった。
(誰かいる)
ロックは、積み上げられた木箱の影に身を隠し、息を潜めた。
声の主は、倉庫の奥、薄暗い事務所スペースらしき場所にいるようだった。
「ええ、もちろんです。張さん。我が社の技術力をもってすれば、量産体制の構築など、朝飯前ですよ」
もう一人の声。
ロックは、その声を聞いた瞬間、全身の血が凍るのを感じた。
(この声は……)
ロックは、木箱の隙間から、恐る恐る奥を覗いた。
薄暗い倉庫の奥。
古い机を挟んで、二人の男が向かい合っていた。
一人は、短く刈り込んだ黒髪に白髪が混じる、サングラスをかけた男。右手の甲に古い傷跡がある。飄々とした態度で、椅子に深く腰掛けている。
(張維新……三合会張派の首領)
もう一人は、スーツを着た、笑顔の男だった。
髪はオールバックに撫で付け、銀縁の眼鏡をかけている。一見すると、どこにでもいる、人の良さそうな中年サラリーマン。
だが、その笑顔の裏に、ロックは、言い知れぬ冷たさを感じ取った。
(大森……源蔵)
ロックは、呼吸を殺した。
心臓が、痛いほどに脈打っている。
(なぜ、大森部長が、ここに)
大森源蔵。
ロックが旭日重工にいた頃、資材部東南アジア課の課長だった男。ロックの直属の上司で、いつも笑顔で、しかし、その笑顔の裏で、部下を平気で使い捨てる男だった。
「張さん、例のブツですが、次の満月の夜には、最初のロットをお渡しできます。純度は、今までのものとは比べ物になりませんよ」
大森は、机の上に資料を広げた。
「ほう。それは楽しみだねぇ」
張は、サングラスの奥から、資料をじっと見つめた。
「しかし、大森さん。あんたの会社のやり方は、いつも性急すぎる。この街のバランスを崩すような真似は、困るんですよ」
「ご心配には及びません。我々は、張さんとの共存を望んでいます。これは、あくまでビジネスです。ウィンウィンの関係でしょう?」
大森は、笑顔を崩さない。
ロックは、二人の会話を、息を殺して聞いていた。
(スカーレット・ミスト……新型ドラッグの取引。これが、バラライカが探っていた情報)
ロックは、無線機の録音ボタンを押そうとした。
その時だった。
「そこにいるのは誰だ?」
大森の声が、倉庫に響いた。
ロックは、動きを止めた。
(見つかった?)
いや、違う。
大森は、ロックが隠れている方向を、真っ直ぐに見ていた。
笑顔のまま。
「隠れていないで、出てきたらどうだ? 岡島くん」
ロックの心臓が、一瞬、止まった。
(名前を……呼ばれた)
ロックは、観念した。
木箱の影から、ゆっくりと姿を現す。
大森は、ロックの姿を見ると、嬉しそうに笑った。
「おお、やっぱり。よく無事だったな、岡島くん。心配していたんだよ」
大森は、両手を広げて、ロックに近づいてきた。
「会社も、家族も、みんなお前の帰りを待っている。よかった、本当によかった」
ロックは、一歩、後ずさった。
「……大森部長。なぜ、あなたがここに」
「なぜ? 決まっているだろう。張さんと、ビジネスの話をしていたんだよ。お前こそ、なぜ、こんな場所に? 作業員の格好なんかして」
大森は、ロックのつなぎを、上から下まで眺めた。
「ふむ。なるほど。偽装か。お前、バラライカに頼まれて来たんだろう?」
ロックは、言葉を失った。
(知っていた。最初から、全部)
大森の笑顔が、深くなる。
「岡島くん、お前のことは、全部お見通しだよ。バラライカの差し金で、張さんの取引を嗅ぎ回っているんだろう? 残念だったな。お前が動き出す前から、こっちは全部、把握していた」
「……いつから」
「最初からだよ。お前がラグーン商会に入った時から、ずっと監視していた。お前の一挙手一投足、全部報告を受けている」
大森は、ロックの肩に手を置いた。
「だが、安心しろ。お前を責めているわけじゃない。むしろ、いい機会だ。岡島くん、会社に戻らないか?」
「……何を言ってるんです」
「言葉通りだ。旭日重工に戻れ。そうすれば、お前の家族の安全を保証する。いや、それどころか、今まで通りの生活を送れるようにしてやる。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
大森の声は、甘く、優しかった。
だが、その言葉の裏に、ロックは、冷たい鋼の刃を感じた。
「……家族の安全、ですか」
「そうだ。お前が会社に戻らないなら、お前の家族がどうなるか、分かっているな?」
大森は、笑顔のまま、ロックの耳元で囁いた。
「お前の家族は、とっくにお前を厄介者として、会社に売っているんだよ。お前が拉致された時、会社は身代金を払わなかった。それは、お前の家族が、お前を切り捨てることに同意したからだ」
ロックの頭が、真っ白になった。
(家族が……僕を……)
「お前の父親は、お前のことを『出来損ないの息子』と言っていた。お前の兄は、お前の存在を恥だと思っている。お前の母親は、お前のことを、もう忘れている。それが現実だよ、岡島くん」
大森は、ロックの肩を、ポンと叩いた。
「だから、戻ってこい。会社は、お前を必要としている。お前の能力を、買っているんだ。ここで腐るより、ずっといいだろう?」
ロックは、何も言えなかった。
その時だった。
「大森さん、あんたのやり方は、好きになれませんね」
張が、静かに口を開いた。
大森は、張の方を振り向いた。
「張さん、これは我が社の内部事情です。あなたには関係のない……」
「商売相手を罠にかけるような真似は、三合会の名に傷がつく。あんたは、この若者を、最初から囮にするつもりだったんでしょう?」
張は、サングラスの奥から、大森を冷たく見据えた。
「この取引、白紙にさせてもらいます。信用できない相手と、商売はできませんからね」
張は、立ち上がった。
「待ってください、張さん! 話せば分かります!」
大森が、張を引き止めようとした。
だが、張は、振り返らなかった。
「商売は信用が第一。あんたには、その信用がない。それだけですよ」
張は、倉庫の奥へ消えていった。
大森は、舌打ちした。
「……余計なことをしてくれたな、岡島くん。お前のせいで、張さんとの取引が台無しだ」
大森の笑顔が、消えた。
代わりに、氷のような冷たい表情が、そこにあった。
「まあいい。お前さえ捕まえれば、バラライカとの交渉材料になる。お前には、まだ利用価値がある」
大森は、懐から無線機を取り出した。
「浄化屋、全員、倉庫に集まれ。ターゲットを拘束する」
無線の向こうから、複数の声が返ってきた。
「了解」
ロックは、内ポケットのスタンガンに手を伸ばした。
(逃げないと)
その時、倉庫の外から、激しい銃声が聞こえた。
ドドドドドッ!
「なんだ!?」
大森が、倉庫の入口の方を見た。
ロックは、その隙に、倉庫の裏口へ走った。
「待て、岡島くん!」
大森の声が、後ろから追いかけてくる。
ロックは、裏口の扉を蹴破った。
外に出た瞬間、目に飛び込んできたのは、装甲バンだった。
ラグーン商会の装甲バン。ベニーが改造した、防弾ガラスと増設装甲のバン。
その横で、レヴィが、二丁拳銃を撃ちまくっていた。
「遅いわよ、バカ! さっさと乗りなさい!」
レヴィの二丁拳銃が、火を噴く。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
浄化屋の男たちが、次々と倒れていく。
「レヴィ! どうしてここに!?」
「無線、ずっと聞こえてたのよ! あんたがピンチなのは、最初から分かってたわ!」
レヴィは、ロックの腕を掴むと、装甲バンの後部座席に押し込んだ。
「伏せてなさい!」
レヴィは、運転席に飛び乗った。
装甲バンが、急発進する。
後ろから、浄化屋の銃弾が、装甲バンのボディに当たって跳ねる。
キンキンキン!
「くそ、数が多いわね! ベニーの改造がなきゃ、蜂の巣だったわ!」
レヴィは、ハンドルを切りながら、片手で後ろに銃を撃った。
「ロック! あんた、無事!?」
「……ええ、なんとか」
ロックは、後部座席で、体を丸めていた。
心臓が、痛いほどに脈打っている。
(僕は、囮だった。バラライカの、大森の、みんなの)
ロックは、拳を握りしめた。
怒りと悔しさで、体が震える。
装甲バンは、埠頭のコンテナ迷路を、猛スピードで駆け抜けた。
後ろから、黒いバンが数台、追いかけてくる。
「しつこいわね! ったく!」
レヴィは、バックミラーで後方を確認しながら、舌打ちした。
「ロック! あんた、運転できる!?」
「えっ? いや、免許は持ってますけど」
「じゃあ、代わって! あたしが後ろを片付ける!」
「ちょっと待ってくれ、それってつまり、僕が運転するってことですか!?」
「そうよ! 早く!」
レヴィは、運転席から身を乗り出し、ロックに運転を代わらせた。
ロックは、慌てて運転席に移動した。
「まっすぐ走って! あたしが追っ手を撃つから!」
レヴィは、後部座席の窓を開け、二丁拳銃を構えた。
「かかってきなさいよ、クソども!」
レヴィの二丁拳銃が、再び火を噴く。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
後ろの黒いバンの一台が、タイヤを撃たれて、スピンした。
ガシャーン!
黒いバンが、コンテナに激突する。
「へっ! 一丁上がり!」
レヴィは、笑った。
ロックは、必死でハンドルを握った。
(やばい、やばい、やばい)
ロックは、コンテナの壁にぶつかりそうになりながら、なんとかバンを走らせた。
「ロック! 前! 前見なさい!」
「見てます! 見てますけど、道が狭い!」
「あんた、運転下手すぎ! サラリーマンって、みんなそうなの!?」
「サラリーマンに、カーチェイスの訓練はありません!」
「ったく、使えないわね!」
レヴィは、そう言いながらも、笑っていた。
装甲バンは、なんとか埠頭の外へ出た。
後ろの追っ手は、いつの間にか、いなくなっていた。
「……振り切ったか」
レヴィは、後方を確認して、ほっと息をついた。
「ロック、もういいわ。あたしが運転するから、代わって」
「……はい」
ロックは、運転席をレヴィに代わった。
手が、震えている。
「大丈夫?」
レヴィが、ロックの顔を覗き込んだ。
「……大丈夫じゃないです。でも、生きてます」
「そう。なら、いいわ」
レヴィは、それだけ言って、運転に集中した。
ロックは、後部座席で、天井を見上げた。
(僕は、バラライカの囮だった。大森は、最初から全部知っていた。そして、家族は……)
ロックは、つなぎのポケットに、何かが入っていることに気づいた。
取り出してみると、それは、封筒だった。
中には、一枚の写真。
家族の写真だった。
父親、母親、兄。
笑っている。
でも、その笑顔が、ロックには、遠い世界のものに見えた。
(この人たちは、僕を売ったのか)
ロックは、写真を握りしめた。
写真が、くしゃりと音を立てて、皺になる。
「……ロック」
レヴィが、静かに言った。
「あんた、無線で全部聞こえてたわよ。あの男の話」
「……そうですか」
「家族が、あんたを売ったって。それ、本当なの?」
「分かりません。でも、大森部長は、嘘をつく時も、本当のことを混ぜる男です。だから、多分、本当なんだと思います」
「……そう」
レヴィは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……あんた、泣いていいのよ。誰も見てないから」
ロックは、写真を握りしめたまま、静かに、涙を流した。
声は、出なかった。
涙だけが、頬を伝って、つなぎの胸元に落ちた。
レヴィは、何も言わなかった。
ただ、静かに、車を走らせていた。
旧市街の夕暮れが、すべてを赤く染めていた。
装甲バンは、ラグーン商会の倉庫に、ゆっくりと停まった。
ロックは、後部座席で、写真を握りしめたまま、動かなかった。
レヴィは、エンジンを切り、しばらくしてから、言った。
「……着いたわよ」
「……はい」
ロックは、ゆっくりと体を起こした。
写真は、汗と涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。
「それ、捨てる?」
レヴィが、写真を見て、言った。
「……いえ、持っておきます。これが、僕の現実ですから」
「……バカね」
レヴィは、そう言って、車を降りた。
ロックも、後に続いた。
倉庫の中では、ダッチとベニーが待っていた。
「無事でよかった」
「ああ、ロック、大丈夫か?」
「……ええ、なんとか」
ロックは、力なく笑った。
ダッチは、ロックの顔をじっと見て、それから言った。
「大森に会ったんだな」
「……はい。全部、知られていました。僕がスパイだってことも、バラライカの依頼だってことも」
「そうか」
ダッチは、それ以上、何も聞かなかった。
ロックは、二階に上がり、薄い毛布にくるまった。
写真は、胸の上に置いた。
(家族に売られた。会社に見捨てられた。バラライカには囮にされた)
ロックは、天井を見上げた。
(僕は、この街で、何を信じればいいんだ)
答えは、出なかった。
夜が来た。
ロックは、眠れなかった。
写真を見つめながら、朝まで、ずっと起きていた。
旧市街の夜は、遠くの銃声と、酔っ払いの怒鳴り声で、うるさいくらいだった。
でも、ロックの心の中は、もっと、うるさかった。
(明日から、僕は、どうすればいい)
ロックは、写真を握りしめた。
くしゃり。
音がした。
その夜。
ホテル・モスクワの最上階。
バラライカは、窓の外の街を見下ろしながら、微笑んでいた。
手には、一杯のウォッカ。
「……ロック。君は、いい仕事をしてくれたよ」
彼女の背後には、一枚の書類があった。
それは、張グループと旭日重工の取引データの一部だった。
ロックが囮になっている間に、別の工作員が、張の事務所から盗み出したもの。
バラライカは、ウォッカを一口飲んだ。
「さて、これで、張と旭日重工の関係は、少しは揺らぐかな。それとも、もっと深まるかな。どちらでもいい。私の目的は、もっと、ずっと、深いところにあるのだから」
彼女の微笑みは、美しく、そして、底知れなかった。
ロックは、まだ知らない。
自分が、彼女の掌の上で、転がされているだけだということを。
そして、その掌が、どこまで続いているのかを。
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