BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣
廃業寸前のサラリーマンが、地図に載らない無法都市で運び屋として生きることを選ぶ。『BLACK LAGOON』の前日譚を思わせる異色の転生録、ここに開幕——。
岡島緑郎、二十五歳。旭日重工のエリート社員だった彼は、機密ディスクの輸送中に襲撃され、会社から「存在しなかったこと」にされた。目を覚ましたのは、警察も法律もない海上都市ロアナプラ。そこで出会ったのは、ラグーン商会のボス・ダッチだった。
「お前は今日からロックだ」
与えられた新しい名前と、銃を握らないという自らの選択。月収三百万円の危険な運び屋稼業、四つの勢力がにらみ合う街の均衡、そして元社員の顔を買ったホテル・モスクワからのスパイ依頼。ロアナプラの蜘蛛の巣に、一人のサラリーマンが足を踏み入れる。
これは、銃ではなく頭で生き延びようとした男の物語。彼が「ロック」になるまでの、最初の一歩の記録である。
BLACK LAGOON:ロックの選択 ― ロアナプラの蜘蛛の巣 - 廃墟の誓いと、微笑みの黒幕
焼け焦げた鉄骨の匂いが、朝の空気にまだ残っていた。
ラグーン商会の倉庫は、壁の半分が崩れ落ち、二階の床は黒く炭化して抜け落ちている。整備場に置いてあった工具の類は、熱で歪んで使い物にならなくなっていた。ベニーが大切にしていた機材の残骸が、瓦礫の下に覗いている。
ロックは、その廃墟の片隅に座り込んでいた。
黒い短髪は乱れ、白いワイシャツは煤と汗で薄汚れている。きっちりと結ばれていたネクタイは、首元でだらりと緩んでいた。左の眉の上にある小さな古い傷跡が、朝の光に照らされて浮かび上がる。
手には、くしゃくらになった家族の写真と、大森から届いた封筒。
「……僕は」
声が、乾いていた。
写真に写る家族の顔。父、母、兄。みんな、笑っている。旭日重工の社員食堂で撮った、何でもない一枚。けれど、その裏には、大森の文字でこう書かれていた。
『お前の家族は、お前を会社に売った。復帰すれば、家族は守られる。拒否すれば、家族の安全は保証しない』
ロックは、写真を握りしめた。指先が震える。紙が、くしゃりと音を立てた。
(守るべき家族に、売られた)
(帰る場所は、焼け落ちた)
(僕は、何のために生きてるんだ)
遠くで、ドン、と一発、銃声がした。
もう、体は反応しない。
この街に来て、数日。それなのに、銃声が空気の一部になっていた。
「……岡島緑郎」
自分の名前を、呟いた。
誰にも呼ばれない名前。会社では「岡島」、家族からは「緑郎」。どちらも、もう、戻らない。
「ロック、か」
ダッチが付けてくれた名前。この街での、新しい名前。
まだ、慣れない。
けれど、それ以外に、自分を呼ぶ名前がなかった。
──その時。
ガラガラガラッ、と、崩れた壁の向こうから音がした。
瓦礫を踏みしめる足音。
近づいてくる。
ロックは顔を上げた。
朝日を背負って、一人の女が立っていた。
黒いタンクトップに、短いホットパンツ。黒髪をポニーテールに束ね、毛先が少し跳ねている。首筋から右肘にかけての刺青が、朝日の中でくっきりと浮かんでいた。鳶色の瞳が、鋭く、真っ直ぐに、ロックを見下ろしている。
レヴィだった。
「……なに、そのザマ」
ロックは、答えなかった。
「あんた、いつからそこに座ってんの。朝から? 昨日から? まさか、火事の後からずっと?」
「……分かりません」
「は?」
「時間の感覚が、なくて」
ロックの声は、掠れていた。
レヴィは、しばらくロックを見下ろしていた。それから、瓦礫を蹴飛ばして、ロックの隣にしゃがみ込む。
「……それ、あんたの家族?」
ロックの手の中の写真を見て、レヴィが言った。
「ええ」
「ふうん」
レヴィは、それ以上、何も聞かなかった。
沈黙が、焼け跡に落ちる。
風が吹いて、煤の匂いが、二人の間を通り抜けた。
「……レヴィさん」
「何よ」
「僕は、囮だった」
「……今さらでしょ」
「ええ。今さらです」
ロックは、写真をじっと見つめた。
「バラライカの依頼は、最初から僕を張グループにぶつけるためのものだった。大森も、それを知っていた。僕は、何も知らないまま、二人の大きな力の間に立たされた。……いや、立たされたんじゃない。自ら、立ったんです」
「……何が言いたいの」
「僕は、もう、逃げないってことです」
ロックは、顔を上げた。
「会社にも、家族にも、戻らない。この街で、決着をつける。大森にも、バラライカにも、張にも。誰にも振り回されない。僕は、ラグーン商会の一員として、自分の足で立つ」
レヴィは、ロックの顔をじっと見た。
鳶色の瞳が、朝日を受けて、金色に光る。
「……あんた、昨日まで死んだ魚みたいな目してたくせに」
「ええ。でも、もう、終わりです。死んだ魚は、陸に上がって、歩くことにします」
「なにそれ、意味わかんない」
レヴィが、吹き出した。
「あんた、ほんと、変な奴ね。サラリーマンって、みんなそうなの?」
「さあ。僕は、元サラリーマンですから」
「……ま、いいわ」
レヴィは、立ち上がった。
「あんたが、この街で生きるって言うなら、あたしは別に止めない。ただし」
レヴィは、ロックに指を突きつけた。
「あんた、一人で死ぬんじゃないわよ。あたしの弾代、まだ返してもらってないんだから」
ロックは、目を丸くした。
「……弾代?」
「そうよ。あんたを助けるのに、あたし、何発も弾使ったんだから。あれ、全部、あんたのツケなんだからね。死なれたら、回収できなくなるでしょ」
「……それは、つまり」
「つまり、あんたは、あたしに借金があるってこと。だから、勝手に死ぬのは、許さないわよ」
レヴィは、そう言って、そっぽを向いた。
耳が、少し赤い。
ロックは、その横顔を見つめた。
(この人は、いつも、こうだ)
(不器用で、口が悪くて、でも、絶対に、見捨てない)
「……分かりました。必ず、返します。利息付きで」
「へえ、サラリーマンが利息なんて言葉、よく知ってるわね」
「元サラリーマンです。金利計算は得意です」
「……バカ」
レヴィは、小さく笑った。
その笑顔は、朝日の中で、やけに鮮やかだった。
──ジリリリリッ。
突然、レヴィの腰の無線機が鳴った。
「……あたしじゃない。倉庫の無線機よ」
レヴィは、瓦礫の方を振り返った。
ジリリリリッ。ジリリリリッ。
音は、崩れた事務所の奥から聞こえている。
ロックは、立ち上がった。
「……出ます」
「気をつけなさいよ。あんた、まだフラフラでしょ」
「大丈夫です。借金を返すまでは、死にませんから」
「……ったく」
ロックは、瓦礫を踏み越えて、事務所の残骸へ向かった。
焼け焦げた机の下から、無線機を見つけ出す。奇跡的に、壊れていなかった。
ロックは、無線機のボタンを押した。
「……もしもし。こちら、ラグーン商会、ロックです」
ザザッ……ザザッ……
ノイズ。
「……ロックか」
低い、聞き覚えのある声。
ロックは、息を呑んだ。
「ダッチさん……! 生きてたんですね!」
「ああ。悪いな、心配かけた」
無線の向こうで、ダッチの声が、かすかに笑った。
「ベニーは、どうしてる」
「ベニーは、闇市の修理屋に預けました。命に別状はありません。でも、まだ、意識が……」
「そうか。……お前とレヴィは、無事だな」
「ええ。なんとか」
「よし。聞け、ロック。俺は今、旧市街の東側にいる。浄化屋の連中を撒くのに、少し手間取った。それで、その間に、色々と探りを入れてた」
「探り、ですか」
「大森の動きと、張の取引の情報だ。結論から言う。張の取引は、明日の夜、再開される。場所は、第三埠頭の第七倉庫。前回と同じだ」
ロックの頭の中で、情報が、カチリと噛み合った。
(前回と同じ場所。つまり、大森は、僕がまた来ることを、計算に入れている)
(いや、待て。それだけじゃない)
「ダッチさん。一つ、確認させてください」
「言え」
「その情報、どこで手に入れましたか」
無線の向こうで、ダッチが、わずかに沈黙した。
「……いい質問だ。パサージュの情報屋、ロザンナの店で、張の配下の一人が酔って漏らした。信憑性は高い。だが、あまりにも、タイミングが良すぎる」
「つまり、わざと流した可能性がある、と」
「そうだ。大森は、お前を罠にかけるために、情報を流したのかもしれない。だがな、ロック」
ダッチの声が、真剣なものに変わった。
「罠だと分かっていても、その取引を止めなきゃ、スカーレット・ミストが街に溢れる。そうなれば、ロアナプラの勢力図が、一気に変わる。俺たちの仕事も、命も、なくなる」
「……分かってます」
「それで、どうする。お前が決めろ。俺は、お前の判断を信じる」
ロックは、無線機を握りしめた。
手のひらに、汗が滲む。
(どうする。どうすればいい)
(大森は、僕が動くことを、待っている)
(バラライカは、僕を囮にした)
(でも、それでも、僕は)
「……ダッチさん」
「ああ」
「僕は、バラライカに、直接、会いに行きます」
無線の向こうで、ダッチが、ふっと息を吐いた。
「……そうくるか」
「ええ。このまま何も知らないで、囮にされるのは、もう、ごめんです。彼女の真意を、確かめたい。それに、彼女の力を借りなきゃ、大森と張の二人を相手に、勝ち目はない」
「バラライカに会うのは、危険だぞ。お前、分かってるな」
「分かってます。でも、もう、後戻りはできません」
「……そうか」
ダッチは、少し間を置いてから、言った。
「お前の目は、捨てたもんじゃない。行け。そして、生きて帰ってこい」
「はい。必ず」
「それと、レヴィに伝えておけ。ベニーは、俺が後で引き取りに行く。お前たちは、作戦に集中しろ」
「分かりました。……ダッチさん、ありがとうございます」
「礼は、生きて帰ってから言え」
ザザッ……
無線が切れた。
ロックは、無線機を置いた。
胸の奥で、何かが、静かに、しかし確かに、燃え始めていた。
(行こう)
(もう、迷わない)
振り返ると、レヴィが、瓦礫に腰掛けて、ガムを噛んでいた。
「……話は、聞こえてたわよ」
「そうですか」
「バラライカに会うって、本気?」
「本気です」
レヴィは、ガムを膨らませて、割った。
パチン。
「……あの女、笑顔で人を地獄に落とすわよ。あんた、そんな奴に、一人で会いに行くの?」
「一人で行きます。レヴィさんを巻き込むわけにはいきません」
「はっ、何言ってんの。とっくに巻き込まれてるわよ」
レヴィは、腰掛けていた瓦礫から飛び降りた。
「あんたが一人で行って、あの女に丸め込まれて、また囮にされるのがオチよ。あたしも行くわ。文句ある?」
「……いえ。むしろ、心強いです」
「あら、素直じゃない。どうしたの、頭でも打った?」
「瓦礫に埋もれてましたから、その可能性はあります」
「……あんた、意外と図太いわね」
「元サラリーマンですから。上司の無茶振りで、図太さは鍛えられてます」
「あっそ」
レヴィは、二丁拳銃を腰のホルスターから抜き、弾を確認した。
銀色のスライドが、朝日を反射する。
「じゃ、行くわよ。ホテル・モスクワまで、歩いて十五分。あんた、ついてこれる?」
「なんとか。借金返済のためですから」
「……その借金ネタ、いつまで引っ張るの」
「完済するまで」
「バカじゃないの」
レヴィは、笑いながら、歩き出した。
ロックは、その背中を追いかけた。
焼け跡を抜け、旧市街の石畳の路地へ出る。
朝の市場が、もう動き始めていた。
屋台からは、油で何かを揚げる匂いが漂う。果物商人が、客を呼び込む声。路地の奥から、怒鳴り声と、笑い声。
ロアナプラの朝は、今日も、血と喧騒に満ちていた。
二人は、ホテル・モスクワへ向かって、歩いた。
──ホテル・モスクワ。
街の北東にそびえる、十二階建ての高級ホテル。ロアナプラで唯一、「揉め事禁止」が徹底される中立地帯。
ロビーに入ると、冷たい空気が、肌を刺した。
武装警備員が四人、壁際に立っている。全員、スーツの下に銃を隠しているのが、ロックにも分かった。
「……あんた、ここ、初めて?」
「ええ。バラライカに会うのも、初めてです」
「へえ。あの女、あんたを指名しておいて、会ったこともないんだ」
「そういうことです」
レヴィは、フロントに近づいた。
「ラグーン商会のロックとレヴィよ。バラライカに、面会の約束を取り付けたいんだけど」
フロント係の女が、無表情で二人を見た。
「お待ちください」
彼女は、内線電話で、何かを短く話した。
「……最上階へどうぞ。バラライカ様が、お会いになります」
「あっさり通すのね」
「予想の範囲内です。彼女は、僕が来ることを、知っていたんでしょう」
「……気持ち悪い女」
二人は、エレベーターに乗り込んだ。
最上階のボタンを押す。
エレベーターが、静かに上昇する。
ロックは、鏡に映る自分の顔を見た。
煤で汚れたワイシャツ。乱れた髪。疲れ切った顔。
(これから、この街で一番危険な女に会う)
(なのに、不思議と、怖くはなかった)
(もう、失うものは、何もないからだ)
チン、と音がして、ドアが開いた。
最上階。
二人は、廊下を歩いた。
厚い絨毯が、足音を吸い込む。壁には、高価そうな絵画が並んでいる。
突き当たりの大きな扉の前に、二人の男が立っていた。
「武器を預かれ」
レヴィは、舌打ちした。
「……はいはい」
彼女は、二丁拳銃を、男に渡した。
ロックは、何も持っていない。
「通れ」
扉が、開かれた。
──部屋の中は、豪奢だった。
深紅の絨毯。重厚な木の机。壁一面の本棚。そして、窓の外には、ロアナプラの街が、一望できた。
部屋の中央、大きな窓を背にして、一人の女が立っていた。
金髪のロングウェーブを、ポニーテールにまとめている。冷たいブルーグレイの瞳。右手には、細い葉巻。
顔や首筋、胸元には、大きな火傷の痕が、いくつも残っていた。
けれど、その痕が、彼女の美しさを、むしろ際立たせていた。
「……よく来たわね、ロック。それに、レヴィも」
バラライカが、微笑んだ。
唇の端が、ゆっくりと、弧を描く。
その笑顔は、美しく、そして、底知れなかった。
「初めまして、バラライカさん。ラグーン商会の岡島緑郎です。みんなからは、ロックと呼ばれています」
「ええ、知ってるわ。あなたのことは、色々と調べさせてもらったから」
バラライカは、葉巻をくわえ、火をつけた。
紫煙が、ゆっくりと、天井へ昇っていく。
「旭日重工資材部東南アジア課。学歴、語学力、頭の回転。どれも、なかなかのものね。そして、会社と家族に捨てられて、この街に流れ着いた。……ククッ、面白い経歴だわ」
「調べがお早いことで」
「当たり前よ。私は、あなたを、この街で一番危険な場所へ送り込んだんだから」
バラライカは、笑った。
「……ええ、送り込まれました。囮として」
ロックの声が、低くなった。
「バラライカさん。あなたは、最初から、僕を囮にするつもりだった。張の注意を僕に集めて、その隙に、あなたの本当の目的を進める。違いますか」
レヴィが、隣で、身構えた。
部屋の空気が、張り詰める。
けれど、バラライカは、微笑みを崩さなかった。
「ええ、その通りよ」
「……!」
「あなたは、私の囮だった。それは、否定しない。そして、そのおかげで、私は、張の取引データの一部を、手に入れることができた。あなたには、感謝しているわ」
「感謝、ですか」
「ええ。だから、あなたに、新しい仕事をあげる。今度は、囮じゃない。あなたの頭脳を、存分に使える仕事よ」
バラライカは、窓の外を見た。
「張の取引が、明日の夜、第三埠頭で再開される。あなたも、もう知ってるでしょう。その取引を、物理的に妨害してほしいの。スカーレット・ミストの量産を、止めるのよ」
「……物理的に、妨害」
「ええ。破壊工作、陽動、撹乱。何でもいい。取引が成立しなければ、それでいい。あなたには、作戦の立案を、一任するわ」
ロックは、バラライカの顔を、じっと見た。
(この女は、何を考えている)
(スカーレット・ミストの量産を止める? それが、本当の目的か?)
(いや、違う。そんな単純な話じゃない)
「……一つ、聞かせてください」
「何かしら」
「あなたの真の目的は、何ですか。スカーレット・ミストを止めたいだけなら、あなたの戦力なら、もっと確実な方法があるはずだ。なぜ、僕に作戦を任せる。なぜ、囮なんて、回りくどいことをする」
バラライカは、葉巻の煙を、ゆっくりと吐き出した。
「……ククッ」
彼女は、笑った。
「いい質問ね。でも、私の目的は、まだ、あなたに話す必要はないわ」
「……話す必要がない」
「ええ。あなたは、まだ、私の目的を知る段階にいない。知ったところで、あなたには、どうすることもできない。それに、知らない方が、あなたのためでもあるわ」
バラライカは、ロックに近づいた。
火傷の痕が、間近で見える。
「ロック。あなたは、賢い。でも、賢いだけじゃ、この街では生きていけない。賢さを、力に変えなさい。私の目的を知りたければ、まず、この仕事を成功させることね。そうすれば、次に進むための鍵を、あげるわ」
「……鍵」
「ええ。あなたが、私の小さな悪党になれたなら、ね」
バラライカは、ロックの耳元に、囁いた。
「期待してるわよ、ロック。あなた、いい悪党になれるわ」
ロックの首筋を、冷たいものが走った。
(この女は、笑顔で、人を地獄に落とす)
(レヴィの言葉が、今、身に染みる)
(でも、それでも、僕は)
「……報酬は?」
ロックは、真っ直ぐに、バラライカを見た。
「成功報酬で、十万ドル。それと、作戦に必要な装備と、情報のバックアップ。私の部下を、数名、支援に付けるわ」
「十万ドル。破格ですね」
「あなたの命の値段よ。安いでしょう?」
「……ええ、安いです。でも、今の僕には、十分すぎる」
「交渉成立ね」
バラライカは、右手を差し出した。
火傷の痕が、手の甲にも、広がっている。
ロックは、その手を握った。
冷たい手だった。
「……一つ、約束してください」
「何かしら」
「今回の作戦で、僕の仲間を、囮にはしない。レヴィも、ダッチも、ベニーも。彼らを、あなたの駒には、させない」
バラライカは、ロックの目を、じっと見た。
「……ククッ、面白いわ。自分の命より、仲間の心配? やっぱり、あなたは、まだ甘い。でも、そういう甘さが、この街では、時に、武器になるのよ」
「答えになってません」
「ええ、そうね。……約束は、できないわ。私は、目的のためなら、誰でも使う。あなたも、レヴィも、ダッチも、ベニーも。全員、私の盤上の駒よ。でも、今は、あなたの作戦を尊重する。それで、十分でしょう?」
「……十分です」
ロックは、手を離した。
「では、作戦の詳細は、今夜までに、私のところへ届けて。期待してるわよ、私の小さな悪党」
バラライカは、微笑んだ。
──ホテル・モスクワを出ると、外の空気が、生温かく感じられた。
「……はあ」
レヴィが、大きく息を吐いた。
「あの女、やっぱり、最悪ね。あんた、よく平気な顔して、握手なんかできたわね」
「平気な顔、してました?」
「してたわよ。あたし、あんたの背中、見てたんだから。震えてなかったわ」
「……それは、よかった」
ロックは、自分の手を見た。
バラライカと握手した右手が、まだ、冷たかった。
「でも、まあ、あんた、よくやったわ。あの女を相手に、仲間を囮にしないって、よく言えたわね」
「……言っただけです。約束は、してもらえませんでした」
「当たり前よ。あの女が、そんな約束、守るわけないでしょ。でも、言ったこと自体に、意味があるのよ」
「意味?」
「あんたが、あたしらを、駒として見てないってこと。あの女に、それを、はっきり示したってこと。……ま、あたしは、別に、あんたに守ってもらうつもりなんて、ないけどね」
レヴィは、ガムを膨らませた。
「……それで、作戦は? どうするの」
「まず、ダッチさんと合流します。それから、装備を整えます。バラライカの支援が、どこまで当てになるか分かりませんから、自分たちでも、準備が必要です」
「装備なら、パサージュのミハイルの店がいいわ。あそこ、品揃えが、この街で一番よ」
「ミハイル……武器屋、カラシニコフの店、ですね」
「あんた、よく知ってるわね」
「ダッチさんから、聞きました。パサージュの闇市には、何でもあるって」
「そうよ。何でもあるわ。あんたの命を守るものも、ね」
二人は、旧市街へ向かって、歩き出した。
──パサージュ闇市。
旧市街の路地裏に広がる、ロアナプラの「情報の十字路」。
日が傾き始めた頃、二人は、武器屋「カラシニコフの店」の前に立っていた。
店の主人、ミハイルは、元傭兵の大男だった。
「おう、レヴィじゃねえか。今日は、何の用だ? 二挺拳銃の弾か?」
「それと、あと、あんたが持ってる、あれ。ベスト」
「あれ? 防弾ベストか? 誰が着るんだ」
「こいつ」
レヴィが、ロックを指さした。
ミハイルは、ロックを、じろじろと見た。
「……へえ、あんたが、噂のサラリーマンか。旭日重工から来たって? 大変だな、あんな会社に、目をつけられて」
「……ご存じなんですか」
「ああ、この街で、旭日重工の噂を知らねえ奴はいねえよ。浄化屋の連中に、目をつけられたら最後だってな」
ミハイルは、店の奥から、防弾ベストを引っ張り出してきた。
「ほらよ。中古だが、まだ使える。三百ドルだ」
「三百? 高いわよ。二百五十にしなさいよ」
「二百五十? 冗談だろ。二百八十なら、まけてやる」
「二百六十」
「二百七十五」
「二百六十五」
「……二百七十。これ以上は、無理だ」
「はい、二百七十」
レヴィは、札を、カウンターに叩きつけた。
ロックは、そのやり取りを、呆然と見ていた。
「……レヴィさん、今の、交渉ですか」
「そうよ。何か文句ある?」
「いえ、勉強になりました」
「サラリーマンの交渉術と、どっちが上かしらね」
「ケースバイケースです」
「ふん」
レヴィは、防弾ベストを、ロックに押し付けた。
「着なさいよ。あんた、生身で弾の中に飛び込む気? 死ぬわよ」
「……ありがとうございます。借金が、また増えましたね」
「当たり前でしょ。全部、あんたのツケなんだから」
ロックは、防弾ベストを、ワイシャツの上から着込んだ。
ずっしりと重い。
(これが、命を守る重さか)
「それと、あんた」
レヴィが、ミハイルの方を向いた。
「スタンガン、ある? 強いやつ」
「スタンガン? 変わったもん欲しがるな。あるぜ、軍用のやつが。二百ドル」
「百五十」
「百八十」
「百六十」
「……百七十。これで、どうだ」
「はい、百七十」
レヴィは、また、札を叩きつけた。
「……あんた、ほんと、値切るのうまいわね」
「あんたが、すぐ値段を下げるからでしょ」
「違いねえ」
ミハイルは、苦笑いした。
ロックは、スタンガンを受け取った。
ずっしりと、手に馴染む重さ。
(僕にできるのは、これくらいだ)
(銃は、使えない。でも、これなら)
「……ロック」
「はい」
「あんた、本当に、バラライカと手を組むの? あの女、笑顔で人を地獄に落とすわよ」
レヴィの声が、真剣だった。
「分かってます。でも、今は、あの女の力が必要なんです。大森と張を相手に、僕たちだけで勝てるとは、思えない」
「……それ、あんたの本心?」
「本心です。でも、あの女の駒になるつもりも、ありません。利用できるものは、利用する。それが、この街のルールなんでしょう?」
「へえ、サラリーマンが、悪党のルールを語るわけ」
「元サラリーマンです。それに、僕は、もう、後戻りできないところまで、来てしまった」
「……あんた、変わったわね」
レヴィは、ロックの顔を、じっと見た。
「最初に会った時は、ただの、頼りないサラリーマンだった。今は、……まあ、少しは、悪党の顔になってきたわ」
「それは、褒めてるんですか」
「さあ、どうかしら」
レヴィは、二丁拳銃を抜き、弾を込め直した。
カチリ、カチリ。
「……あんたが、そこまで決めてるなら、あたしも、付き合うわ。ただし、足引っ張ったら、置いてくから」
「はい。足手まといにならないよう、頑張ります」
「あんたが頑張っても、たかが知れてるけどね」
「……ひどい」
二人は、闇市を後にした。
──夜。
旧市街の西端、ラグーン商会の倉庫の焼け跡。
月明かりが、崩れた壁を、青白く照らしていた。
ロックは、一人で、その場所に立っていた。
手には、家族の写真。
「……俺は、もう、お前たちの厄介者には、戻らない」
ロックは、写真を、地面に置いた。
焼け焦げたコンクリートの上に、写真が、静かに横たわる。
「俺は、この街で、生きる。岡島緑郎じゃなくて、ロックとして。……だから、さよならだ」
風が吹いて、写真の端が、かすかに揺れた。
ロックは、写真に背を向けた。
「……何やってんのよ」
振り返ると、レヴィが、装甲バンの横に立っていた。
「行くわよ。ダッチが、もう、第三埠頭の近くで待ってる」
「……ああ、行こう」
ロックは、スタンガンを握りしめた。
二人は、装甲バンに乗り込んだ。
エンジンが、唸りを上げる。
「シートベルト、しなさいよ。死ぬわよ」
「……防弾ベスト着てるから、大丈夫です」
「ベストは、心臓を守るだけよ。頭は、守ってくれないわ」
「……そうですね。シートベルト、します」
「よろしい」
装甲バンが、夜の街へ、走り出した。
ヘッドライトが、暗い路地を、切り裂いていく。
旧市街を抜け、カロン川に架かる「自由橋」を渡る。
老朽化した橋が、車の重みで、ギシギシと軋んだ。
「……ねえ、ロック」
「はい」
「あんた、怖くないの?」
「怖いですよ。でも、もう、怖がってる場合じゃない」
「……そう」
レヴィは、ハンドルを握る手に、力を込めた。
「あたしは、怖くないわ。あたしは、こういう夜の方が、落ち着くから」
「……そうでしょうね」
「でも、あんたは、違うでしょ。普通の、サラリーマンだったんだから」
「元サラリーマンです。……でも、そうですね。僕は、まだ、この街の夜に、慣れていません」
「慣れなくていいのよ。慣れたら、おしまいだから」
レヴィの声が、静かだった。
「……レヴィさん」
「何よ」
「あなたは、どうして、この街に?」
レヴィは、答えなかった。
車は、夜の道を、ひた走る。
「……あたしは、この街に来る前から、ずっと、夜の中にいたのよ。ニューヨークの、チャイニーズ系のスラム街。物心ついた時には、もう、銃を持ってた」
「……」
「あたしにとって、夜は、普通なの。昼間の方が、眩しくて、落ち着かない。……あんたは、昼間の人間だった。だから、夜が怖い。それで、いいのよ」
「……そう、ですか」
「ええ。あんたは、あんたのままで、いい。悪党になりたいなら、なればいい。でも、あんたの、その、昼間の部分まで、捨てる必要はないわ」
ロックは、レヴィの横顔を見た。
月明かりが、彼女の刺青を、青白く浮かび上がらせている。
(この人は、僕に、僕のままでいろ、と言う)
(それが、彼女なりの、優しさなんだろう)
「……ありがとうございます」
「何がよ」
「なんとなくです」
「……変な奴」
レヴィは、少しだけ、笑った。
──第三埠頭の手前。
コンテナの迷路が、闇の中に、黒い影を落としていた。
装甲バンは、路地の奥に、静かに停まった。
「……来たか」
闇の中から、ダッチが現れた。
ゴーグルサングラスが、月明かりを反射する。
「ダッチさん!」
「無事でよかった。レヴィも、ご苦労だった」
「……あんた、ほんとに生きてたのね。心配して損したわ」
「悪かったな。だが、無駄足じゃなかった。ほら、これを見ろ」
ダッチは、地面に、一枚の紙を広げた。
第三埠頭の見取り図だった。
「浄化屋の配置は、前回とほぼ同じ。だが、張の警備が、増えてる。倉庫の周りに、私兵が二十人。見張り台が、二基に増えてる」
「二十人……前回は、十五人でしたよね」
「ああ。それだけ、張も、本気だってことだ。明日の取引は、間違いなく、本番だ」
ロックは、見取り図を、じっと見た。
頭の中で、動線が、組み立てられていく。
(正面から行けば、確実に見つかる)
(裏口も、警備が厚い)
(なら、どうする)
「……ダッチさん」
「ああ」
「大森は、僕がまた来ると思ってます。前回と同じ、正面からの潜入を、想定してるはずです」
「だろうな」
「なら、その裏をかきます。あえて、陽動を使った、二正面作戦です」
「二正面?」
「ええ。まず、レヴィさんが、東側の倉庫群で、大きな音を立てます。爆発、銃撃、何でもいい。警備の注意を、そちらに集める」
「あたしが、陽動?」
「はい。レヴィさんなら、一人で、二十人の注意を引けます。その間に、僕とダッチさんが、西側から、第七倉庫に潜入する」
「……で、取引の妨害は?」
「倉庫の中の、取引の記録と、現物をNoveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。