そして彼女は、夜だけひらく
【あらすじ】
魔塔大学で主席を務めるエリース・ヴァンハイムは、才気溢れる魔法剣士。普段は辛辣な言葉で周囲を遠ざけているが、それには理由があった。彼女は呪われているのだ。毎夜、制御不能な熱が身体を灼き、衰弱し切羽詰まった状態に陥る。そんなある晩、誰もいない図書室で、最も見られてはいけない相手――リオン・アッシュフォードに、その姿を目撃されてしまう。
リオンは口先ばかり達者な落第生で、常に女生徒を追いかけ回している。エリースは彼が大嫌いだった。だが今や、リオンは彼女の秘密を知ってしまった。彼は悪辣な笑みを浮かべて、取引を持ちかける。「今夜のことは誰にも言わない。その代わり、その呪いを解く手伝いをさせろ」
彼の彷徨う指が、呪いの印が浮かび敏感に反応する肌をなぞるたび、エリースは甘い吐息を必死に噛み殺す。「やめて……そんなところ触られたら……あぁ、だめ……!」しかし彼女はすぐに気づく。リオンの指だけが、呪いの責め苦から解放される唯一の術なのだと。
昼間は互いに毒舌と罵倒を浴びせ合い、夜は後ろめたく秘密の訓練を重ねる二人。しかし、麗しき理事長の娘でリオンの元恋人でもあるセラ・セラフィスが、
そして彼女は、夜だけひらく - 紋様をなぞる指——灼熱の夜、最悪な同居人
あの取引から一週間。魔塔大学セレスティアの廊下は、いつもと変わらないざわめきに満ちていた。
けど、エリース・ヴァンハイムの心の中は少し違う。
(今日、あいつが来る)
大衆食堂「はらぺこグリフォン」のテーブルで、エリースは一人、木のスプーンをスープに沈めた。湯気がほわりと立ちのぼる。学生街の昼時——周囲の席では学生たちが談笑し、店主が注文を怒鳴る声が飛び交う。普段なら気にならない雑踏が、今日はやけに耳についた。
「[surprised]よ、待ったか?」
顔を上げる。
リオン・アッシュフォードが食器を手に、断りもなく向かいの席に座っていた。黒髪に赤メッシュが混ざった髪はいつも通り無造作で、だらしなくボタンを外した学生服の首元に派手なスカーフ。金色の瞳が、にやにやと笑っている。
「[cold]誰がここに座っていいって言ったの」
「空いてたぜ」
「空いてるから座るって、あんたは野良犬か何かなの」
エリースの碧眼が冷たく光る。プラチナブロンドの髪はいつも通りきっちりと結い上げられ、詰め襟の魔剣士服に乱れはない。でも、スープをすくう手がほんの少しだけ固くなっていた。
リオンはスプーンをくるくる回しながら、声を潜める。
「[sarcastic]今週末、お前んちに行く。地図を寄越せ」
ガンッ!
食堂中に響く音。エリースが皿をテーブルに叩きつけていた。周囲の学生たちが一斉に振り返る。店主が「おい、嬢ちゃん!皿を割るんじゃねえ!」と怒鳴った。
「[angry]家に上げるなんて言ってない。路地で待ってなさい」
声は怒気を帯びている。でも、頬がほんのりと朱に染まっていた。
リオンは怯まない。むしろ、にやつきが深くなる。
「塗薬を作る材料が重くてな。術封石の粉末、触媒の銀砂、それに——」
リオンが指を折りながら数え始める。
「——馬車を使う。材料費と馬車代、全額お前持ちな」
「[angry]はぁ!?なんで私が——」
「[laughing]お前の呪いのためだろ?家主が費用を持つのは当然だぜ」
リオンはあっけらかんと言い放つ。
エリースは奥歯を噛みしめた。こいつ——屈辱的すぎる。でも、解呪の準備を自分の家でやると決めたのは自分だ。場所を提供する以上、費用を負担するのが筋とも言える。
「……わかったわよ」
「[laughing]よし、交渉成立。あ、ついでに今日の飯代も頼むわ」
「[angry]ふざけ——」
「じゃ、また週末な」
リオンはさっと立ち上がり、スカーフをひらりと揺らして去っていく。
エリースは握りしめた拳をテーブルに置いた。
(この、クソ遊び人が……!)
でも、ふと手元に目を落とす。リオンが置き忘れたらしい一枚の紙切れ。材料リストだった。
術封石の粉末——標準の三倍量。見慣れない解呪補助薬の原料名が並んでいる。銀砂、月華草の根、そして……「闇夜茸」?
(これ、影の魔法で使う触媒だ)
エリースは眉をひそめる。大学の正規カリキュラムでは絶対に習わない材料。封印指定呪術の研究資料で、一度だけ名前を見たことがある。
(こいつ——本気で研究してる)
あの軽薄な笑みの裏で、リオンがどれだけの知識を持っているのか。
エリースの胸の奥が、かすかに震えた。
週末の夜。
ヴァンハイム邸——星都ルクスの上層区「星見の丘」に構える名門の屋敷。白亜の壁、優雅な塔、そして鉄柵で区切られた使用人棟。その一番奥の来客用の小部屋に、エリースはいた。
窓の外はもう暗い。小さなランプだけが、部屋をぼんやりと照らしている。
エリースは腕を組んで壁にもたれ、テーブルの上に荷物を広げるリオンをじっと見ていた。
リオンは石臼を取り出し、黙々と材料を挽き始める。ゴリ、ゴリ、と石が擦れる音。術封石の銀色の粉末が細かくなり、触媒と混ざり合っていく。
(こいつの手元——)
エリースは目を見開いた。
リオンの動作には無駄がなかった。手際が良すぎる。まるで何度も同じ作業を繰り返してきたみたいに、正確で滑らかだ。
「[serious]……あんた、解呪の調合を何度やったの」
リオンは手を止めずに答える。
「さあな。数えたことはねぇよ」
軽い口調。でも、金色の瞳は真剣だった。
やがて石臼の中の混合物が、微かに光を帯びた銀色の液体に変わる。術封石を溶かし込んだ塗薬——その輝きは、星の光を閉じ込めたみたいにきれいだった。
「できたぜ」
リオンが小瓶に液体を移し、エリースに差し出す。
「[serious]これを塗ると、魔力の流れが可視化される。術封石の性質でな。お前の紋様——契約の灼印の流れを目で追えるようにする」
エリースは小瓶を受け取った。手が、かすかに震える。
「……塗るのはどこ」
「鎖骨から肩甲骨にかけてだ。自分じゃ無理だろ」
リオンは当然のように言った。
エリースは唇を噛む。
(わかってる。わかってるけど——この男に触らせるなんて)
でも、選択肢はない。
エリースは詰め襟の留め金に手をかける。カチャリ、と金属音。襟元が開かれ、普段は隠されている鎖骨のラインが露わになる。きっちりと結い上げられていたプラチナブロンドの髪が、緊張でほつれて首元に散った。
リオンの手が伸びる。
(——え)
指先が、エリースの肩にかかった髪を払った。ほんの一秒の所作。ただ邪魔だから、という動きだった。
でも。
エリースの耳たぶが、かあっと熱くなる。
呪いの発作とは違う熱。もっと浅くて、もっとくすぐったい熱が、体の表面を走っていく。
(な、なんでこんな——)
エリースは顔を背け、気づかないふりをした。でも心臓の音はうるさくて、リオンに聞こえやしないかと焦る。
リオンは何も言わず、塗薬を指に取った。銀色の液体が、ランプの光を受けてぬらりと光る。
「塗るぜ」
低い声。
冷たい。
塗薬が鎖骨の付け根に触れた瞬間、エリースは思わず息を止めた。
ひんやりとした液体が肌に染み込んでいく。そして——
(あっ——)
熱が、噴き出した。
呪いの灼熱が内側から一気に解放される。服の下で、淡い金色の光の紋様が浮かび上がった。鎖骨から肩にかけて、幾何学的な模様が走る。まるで星の地図みたいな、美しくて恐ろしい光の線。
「[whispers]あ……っ」
堪えきれずに、甘い吐息が漏れる。
体が震えた。快楽と羞恥が同時に押し寄せる。頭の中は真っ白で、手足の感覚がぼやけていく。
リオンの金色の瞳が、紋様の輪郭を追っていた。
(この目——)
軽薄な遊び人のそれじゃない。何かを見極めようとする、静かで鋭い視線。エリースはその目に、初めて出会った夜のことを思い出していた。
「[serious]ここから始める」
リオンの指先が、鎖骨の付け根の紋様に触れた。
「——っ!!」
声が出そうになるのを、唇を噛んでこらえる。
リオンの指が、紋様の流れをなぞっていく。鎖骨から肩へ。光の線をゆっくりと、一本ずつ確かめるみたいに。
(熱が——和らいでる)
呪いの灼熱が、指が通った後からすうっと引いていく。初めての感覚だった。あの苦しみが、誰かの手で静められていく——こんなの、今まで経験したことがない。
でも。
「[whispers]あっ……や、ぁ……」
熱が引く代わりに、別の感覚が体を這い回る。快楽。甘い痺れが背筋を駆け上り、頭の中を溶かしていく。羞恥で死にそうなのに、体はリオンの指を求めているみたいに震えていた。
(やだ、これ、おかしい——)
リオンの指が肩甲骨の端まで達する。
一筋。また一筋。紋様の流れがなぞられるたびに、エリースの口から吐息が漏れる。押し殺そうとすればするほど、それは甘く色づいて空気に溶けた。
リオンは無言だった。軽口も、からかいもない。ただ集中して、紋様を解読するみたいに指を動かしている。
その真剣さが、逆にエリースの羞恥を煽った。
(お願い、何か言ってよ——このままだと、私——)
最後の紋様が、消えた。
すうっと、体から熱が完全に引いていく。光の線が薄れ、肌は元の白さを取り戻した。
エリースは肩で息をしながら、ゆっくりと意識を取り戻す。
(終わった——)
そして即座に、右手が動いた。
バチンッ!
空を切る音。リオンはすでに立ち上がり、軽やかに二歩下がっていた。平手打ちは空振りに終わる。
「[laughing]おっと、危ねぇ」
勢いでよろけたエリースの体が、前のめりになる。
——倒れる。
そう思った瞬間。
後ろから、腕が伸びた。
リオンがエリースの腰を支える。背中が、リオンの胸に一瞬だけ触れる。服越しに、男の体温が伝わってきた。
「——ッ」
エリースは弾かれたように距離を取る。顔が、耳まで真っ赤だった。
「[angry]な、なに勝手に——」
「[sarcastic]人のことは言えねぇな」
リオンはにやりと笑ったが、その笑みはいつもより少しだけ柔らかい。
効果はあっただろ——そう短く確認するリオンの表情は、硬かった。軽薄さが抜けている。
エリースは黙って頷く。
「[serious]……そうか」
リオンはそれ以上何も言わず、荷物をまとめ始めた。
玄関まで見送る。
使用人棟の外れにある小さな入り口。夜の冷たい空気が、ほてった頬に気持ちいい。
リオンは背を向けて通路を歩き始めた。暗がりに溶けていく背中。
(次は——いつ)
「[whispers]……次は、いつ来るの」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
(え、今の、私が言ったの?)
あまりにも素直すぎる問いかけ。エリースは慌てて口を押さえる。
リオンが振り返り、片眉を上げた。
「[sarcastic]おや?もしかして、俺に会いたくなったか?」
「[angry]ち、違う!今のは呪いの管理スケジュールを確認しただけ!勘違いしないで!」
全力で言い訳するエリースの声が、通路に反響する。
リオンは肩越しに笑った。
「[laughing]三週間後かな」
それだけ言って、暗がりに消える。
残されたエリースは、一人で立ち尽くしていた。
(……三週間後)
胸の奥が、じわりと温かい。
今夜初めて、誰かに触れられた後の熱を心地いいと思った。呪いのせいだ。絶対に、呪いのせいなんだ——そう強く念じながら、エリースは自分だけの秘密を胸の奥に押し込んだ。
翌朝。
エリースは昨夜使った来客用小部屋を片付けていた。石臼、材料の残り、散らばった布——リオンが調合に使った道具を整理する。
(あいつ、片付けくらいしていけばいいのに)
心の中で悪態をつきながら、石臼の脇に落ちている紙切れに気づく。
一枚のメモ。走り書き。
エリースは拾い上げ、文字を追った。
——お前の紋様、普通の呪いじゃない。
(……え?)
——紋様の流れが封印式の構造に似てる。ヴェールの書庫に聞いたことがある術式がある。
エリースの手が、止まった。
心臓が、ドクンと鳴る。
(紋様が——封印式?)
自分の体に刻まれた呪いが、何かを封じている?何を?なぜ?
(ヴェールの書庫——封印指定呪術の記録が眠る場所)
走り書きのインクが、ランプの光に照らされて滲んで見える。
エリースは紙を握りしめたまま、動けなかった。
(この呪いは——ただの呪いじゃない)
初めての疑念。
ヴァンハイム家の歴史。母の冷たい言葉。封印指定呪術に抵触するかもしれない、この刻印。
(一体、私の体に何が封じられているの)
誰にも言えない秘密が、また一つ増えた。
でも今度は——解呪ではなく、解明が必要な秘密だ。
月曜日、大学の図書館でリオンの研究ノートを使って調べよう。そう決意したエリースは、握りしめた紙をもう一度見つめた。
窓の外では、星都ルクスの朝日が白亜の街並みを照らし始めている。
新しい戦いの予感が、静かに、でも確かに近づいていた。