そして彼女は、夜だけひらく
【あらすじ】
魔塔大学で主席を務めるエリース・ヴァンハイムは、才気溢れる魔法剣士。普段は辛辣な言葉で周囲を遠ざけているが、それには理由があった。彼女は呪われているのだ。毎夜、制御不能な熱が身体を灼き、衰弱し切羽詰まった状態に陥る。そんなある晩、誰もいない図書室で、最も見られてはいけない相手――リオン・アッシュフォードに、その姿を目撃されてしまう。
リオンは口先ばかり達者な落第生で、常に女生徒を追いかけ回している。エリースは彼が大嫌いだった。だが今や、リオンは彼女の秘密を知ってしまった。彼は悪辣な笑みを浮かべて、取引を持ちかける。「今夜のことは誰にも言わない。その代わり、その呪いを解く手伝いをさせろ」
彼の彷徨う指が、呪いの印が浮かび敏感に反応する肌をなぞるたび、エリースは甘い吐息を必死に噛み殺す。「やめて……そんなところ触られたら……あぁ、だめ……!」しかし彼女はすぐに気づく。リオンの指だけが、呪いの責め苦から解放される唯一の術なのだと。
昼間は互いに毒舌と罵倒を浴びせ合い、夜は後ろめたく秘密の訓練を重ねる二人。しかし、麗しき理事長の娘でリオンの元恋人でもあるセラ・セラフィスが、
そして彼女は、夜だけひらく - 栗色の嵐——図書館の魔女と、嫉妬の棘
机の上の手書きノートを、エリース・ヴァンハイムは睨みつけていた。
月曜の放課後。魔塔大学セレスティアの七階大図書室——薄暗く、人気のないこのフロアの窓際席に、エリースは陣取っていた。窓の外では星都ルクスの午後の光が白亜の街並みを照らしているが、ここには届かない。古い紙と埃の匂いが、かすかに漂うだけだ。
(なんなのよ、これ)
ノートのページには、影の魔法の術式図が几帳面な細字でびっしりと書き込まれている。封印の基礎構造、魔力の流れを遮断する幾何学模様、術封石の応用配合——どれも大学の正規カリキュラムでは絶対に教わらない内容だ。
エリースは、昨夜見つけた走り書きのことを思い出していた。『お前の紋様、普通の呪いじゃない。封印式の構造に似てる』。あの言葉を頼りに、リオンから借りたこの研究ノートを調べれば、何かわかるかもしれない。
「[angry]あの落ちこぼれが……」
吐き捨てるように呟いた。
でも、目はノートから離れない。手が、無意識に付箋を貼っている。術式の構造解析のページに、封印の相性についてのメモに、魔力暴走の前兆症状に関する記述に——知らないうちに、三枚、四枚と付箋が増えていく。
(くそっ)
悔しかった。
軽薄で、不真面目で、女子にちょっかいばかり出している遊び人のはずなのに。なんでこんなに詳しいの。なんで——
ふと、ノートの欄外に目が留まった。
『眠い』
几帳面な術式図の横に、走り書き。
『腹減った』
さらに数ページ後。
『セラの新しい講師の先生が美人だった』
エリースは思わず脱力した。
(下らない……)
研究メモと下らない落書きのギャップ。あまりにもバラバラすぎて、怒る気も失せる。でも——これが、あいつの素なんだろう。真面目なのか不真面目なのか、全然わからない。
(……っ)
気づいた。
今、自分はリオンのことを考えていた。ノートの解読に集中しているはずなのに、頭の隅であいつの顔がちらつく。金色の瞳。人を食ったような笑み。なのに、時折見せる真剣な表情——
「[angry]違う」
小さく首を振り、強引にノートに視線を戻す。
その時だった。
隣の椅子に、誰かがゆっくりと座る気配がした。
——音もなく。
顔を上げる。
栗色の長い巻き毛が、完璧にセットされて揺れた。琥珀色の瞳が、冷たい笑みを浮かべてエリースを見下ろしている。ゴールドの飾り帯——セラフィス家の紋章が刺繍されたそれを、優雅に身につけた女学生。
「[cold]あら、ヴァンハイム家の優等生がこんな辺鄙な席で。よほど人目を避けたいのかしら」
セラは優雅にお茶のカップを机に置き、エリースを眺めた。
エリースの背筋が、ひやりと冷たくなる。
(セラ・セラフィス——)
理事長の一人娘。自分を一方的にライバル視し、何かと妨害しようとする相手。このタイミングで、この場所に現れたのは偶然じゃない。
「[cold]何か用」
短く返す。
セラは答えず、その視線をエリースの手元に落とした。ノート。リオンの私物。
——一瞬で、その表情が変わった。
「[sarcastic]そのノート……紋入りの高級レポート用紙ね。私が去年、リオンに文具セットを贈った時に入れたのと同じ品物だわ」
高慢な笑み。
胸の奥に、鋭い棘が刺さった。
(セラが——リオンに)
エリースは表情を変えまいと、全神経を集中させた。これはリオンの私物だ。そしてセラがリオンに贈り物をするほど親しかった証拠——元恋人同士だったという噂は、本当なんだ。
(なんで、こんなに嫌な気持ちになるの)
自分に言い聞かせる。これは単に、秘密を嗅ぎ付けられた危機感だ。そうだ。それ以外の何もない。
「[cold]ただの市販品でしょう」
言い返した。
——その瞬間。
ノートの表紙の端に、走り書きが目に入った。
『S→R 贈り物』
エリースは言葉に詰まった。
セラが、くすりと笑う。
「[sarcastic]落ちこぼれのノートで何を調べているの?まさか封印指定の研究なんてしていないわよね。ヴァンハイム家の方が、そんな危ないことをするはずがないけど」
笑顔のまま、核心に触れる言葉。
エリースの手が、ノートの端を握りしめた。
(この女——どこまで知ってる)
顔に出さないように、必死で平静を装う。でも、心臓が早鐘を打っている。セラはその様子を楽しむように紅茶を一口含み、ゆっくりと席を立った。
図書室の司書の元へ歩いていく。
小声で何かを告げる。
数分後——
「[sad]ヴァンハイム様」
司書がエリースの席に来て、深々と頭を下げた。
「[sad]本日より七階図書室の利用は事前申請制とさせていただきます。理事長室の指示により」
エリースは立ち上がった。
「[angry]事前申請?そんな規則、今まで——」
「[sad]七十二時間の審査期間が必要です。これはセラフィス副理事長代行からの直接指示ですので」
司書は繰り返すだけで、取り合わない。
セラが席に戻ってきた。紅茶を一口飲み、微笑む。
「[cold]ルールはみんな平等に守らないとね」
そう言い残し、優雅に立ち去る。
エリースは奥歯を噛み締めた。ノートを鞄にしまう。今日の調査は、完全に終わった。呪いの手がかりを失った怒りと、権力の前に無力な屈辱感が、体中に広がっていく。
(セラ——あんた)
拳を握りしめ、図書室を出た。
——リオンに、報告しなければ。
三階のテラス近く。
廊下を歩くエリースの足が、止まった。
笑い声が聞こえる。
リオンが、数人の女子学生に囲まれていた。軽薄な笑みを浮かべて、一人の肩に手を置き、もう一人の髪を軽く触れている。
「[laughing]それ似合ってるぜ」
女子たちの黄色い声。
エリースの胸の奥に、今まで感じたことのない感覚が湧き上がった。怒りとは少し違う。胸の奥が締まるような、嫌な熱さ。
(なに、これ)
「[angry]……別に、怒ってない。ただ報告があるだけ」
心の中で自分に言い聞かせ、近づこうとした——その時。
「[gentle]久しぶりね、リオン」
セラがリオンの前に現れた。女子学生たちが、さりげなく散らされる。
リオンの表情から、笑みが消えた。
「[serious]……何の用だ」
「[whispers]少し話があるの」
低い声。
二人が、人気のない廊下の奥へ消えていく。
エリースは、物陰からそれを見ていた。足が動かない。壁に背をつけて、その場に立ち尽くす。
(セラと——二人きりで)
嫉妬と不安と怒りが、同時に押し寄せる。図書室を潰され、頼れるパートナーが元恋人と二人きりになる——二つの出来事が重なって、エリースの心は限界寸前だった。
そして——
怒りと嫉妬の熱が、呪いの熱と混ざり合う。
鎖骨のあたりに、微かな疼きが走った。リオンの指が紋様をなぞった場所——あの夜と同じ場所だ。
(体が——あいつを求めてるの?)
それとも、これは嫉妬という感情が体に出てきているだけなのか。エリースには判断できない。ただ、熱だけがじわじわと広がっていく。
どれくらいそうしていたか。
「[surprised]何してんの」
声がした。
顔を上げると、リオンが眉を上げて立っている。セラはもういない。
「[angry]セラと——何を話したの」
壁から身を起こし、問い詰める。
「[cold]昔の話だ」
表情を変えずに、短く答える。
「[angry]昔の話って——」
「[serious]今日はもう帰れ。図書室の件は知ってる」
リオンは、珍しく軽口を封じた。金色の瞳が、真っ直ぐにエリースを見据えている。
「[angry]ちょっと待ち——」
エリースが返す言葉を探している間に、リオンは歩き去ってしまう。
一人、廊下に残された。
(何もわからないまま——)
セラとリオンが何を話したのか。リオンがどこまで知っているのか。情報が何もない。
壁から離れた時、エリースは気づいた。
今夜の呪いの疼きが、いつもより早く来ている。鎖骨のあたりが、じんじんと熱い。紋様が浮かび上がりかけている。
(早く帰らなきゃ)
体が言うことを聞かなくなる前に、足早に図書室を後にする。
——その夜。
ヴァンハイム邸の自室。
小さなランプだけが、部屋をぼんやりと照らしている。エリースは机に向かい、リオンの研究ノートを広げた。図書室を使えなくなった今、手元にあるこれだけが頼りだ。
自分の鎖骨に、指を這わせる。
かすかに浮かび上がっている薄い紋様の輪郭を、そっとなぞってみた——リオンがやっていたように。
(……熱が引かない)
むしろ、自分で触れれば触れるほど、紋様がより鮮明に浮かんでくるだけだ。体が他者の魔力を求めている。それがリオン以外の誰かでも同じなのか——そんな疑問と恐怖が、頭の中をぐるぐると回る。
(あいつの魔力が——必要なの?)
ノートの後半ページをめくる。
封印式の解析についての走り書きが続くページ。その隙間に、一枚のメモが差し込まれていた。
エリースはそれを引き抜き、ランプの光に照らす。
——ヴァンハイム家。
——沈黙の十年事件。
——オズワルド・セラフィス。
三つの固有名詞が、線で結ばれている。
手が、震えた。
「[whispers]……なんで、これが」
沈黙の十年事件——三十年前の機密漏洩事件。公式には「実験失敗による事故死」とされたが、陰謀論が囁かれているあの事件。そして、あの事件を最後に、ヴァンハイム家の活動は急速に萎縮した。
その同じページに、現理事長オズワルド・セラフィスの名前。
(リオンは——ただ呪いを研究してるだけじゃない)
ヴァンハイム家の歴史そのものを調べている。あいつは一体、何者なんだ。
エリースはメモを両手で持ったまま、動けなくなった。
ランプの灯りが揺れる。窓の外では、星都ルクスの夜が深まっていく。明日、セラがどんな手を打ってくるかわからない。図書室は使えない。リオンは真実を語らない。
(全部——行き詰まりだ)
でも、このメモだけが、新たな真実への入り口だった。
エリースは握りしめた紙を、そっと机に置く。指先がかすかに震えているのは、呪いのせいか、それとも——。