そして彼女は、夜だけひらく
【あらすじ】
魔塔大学で主席を務めるエリース・ヴァンハイムは、才気溢れる魔法剣士。普段は辛辣な言葉で周囲を遠ざけているが、それには理由があった。彼女は呪われているのだ。毎夜、制御不能な熱が身体を灼き、衰弱し切羽詰まった状態に陥る。そんなある晩、誰もいない図書室で、最も見られてはいけない相手――リオン・アッシュフォードに、その姿を目撃されてしまう。
リオンは口先ばかり達者な落第生で、常に女生徒を追いかけ回している。エリースは彼が大嫌いだった。だが今や、リオンは彼女の秘密を知ってしまった。彼は悪辣な笑みを浮かべて、取引を持ちかける。「今夜のことは誰にも言わない。その代わり、その呪いを解く手伝いをさせろ」
彼の彷徨う指が、呪いの印が浮かび敏感に反応する肌をなぞるたび、エリースは甘い吐息を必死に噛み殺す。「やめて……そんなところ触られたら……あぁ、だめ……!」しかし彼女はすぐに気づく。リオンの指だけが、呪いの責め苦から解放される唯一の術なのだと。
昼間は互いに毒舌と罵倒を浴びせ合い、夜は後ろめたく秘密の訓練を重ねる二人。しかし、麗しき理事長の娘でリオンの元恋人でもあるセラ・セラフィスが、
そして彼女は、夜だけひらく - 消えた背中——冤罪の嵐と、裏切りの影
魔塔大学セレスティアの廊下に、冷たい空気が流れ始めたのは、あの掲示から三日目の朝だった。
一枚の羊皮紙が、三階の掲示板に貼り出されている。『封印指定呪術に関する不正疑惑——調査協力のお願い』。名指しはしていない。でも、文面の端に刻まれたセラフィス家の紋章入りゴールドの飾り帯を思わせる装飾が、すべてを語っていた。
「[whispers]見た?」
「ヴァンハイム家の——」
廊下のざわめきが、エリース・ヴァンハイムの足音で止まる。きっちりと結い上げたプラチナブロンド。氷のように鋭い碧眼。いつも通りの完璧な姿勢で、彼女は歩いていた。
一度目は、気づかなかった。
二度目。談笑していた学生たちが、エリースの姿を見てピタリと口を閉ざす。視線が壁に逃げ、足音が遠ざかる。
三度目。
「[cold]見世物じゃないわよ」
エリースは足を止めずに言い放った。本当に全員が無言で道を開ける。石の壁に張り付くようにして、誰も目を合わせない。
(——笑える)
心の中で呟いた。笑うしかなかった。
昼休み。学生街「陽だまり横丁」の大衆食堂「はらぺこグリフォン」は、いつもの活気に満ちていた。店主の怒鳴り声、湯気、食器のぶつかる音。
エリースは角の席に座り、木のスプーンをスープに沈めた。湯気がほわりと立ちのぼる。
隣のテーブルで、三人の学生が顔を見合わせる。
「……移動しよう」
彼らは皿を持って、遠くの席へ去っていった。
エリースの手が、止まる。
(ここまで、か)
スープを口に運ぶ。味がしなかった。呪いの疼きが、昼間から鎖骨のあたりをじんじんと熱くしている。体の不調と、この孤立感——二つが重なって、胸の奥がじわりと冷たくなっていく。
彼女はスプーンを置き、一人で食堂を出た。
——
三日後の夜明け前。
星都ルクスの上層区「星見の丘」。白亜のヴァンハイム邸の玄関に、三つの影が立っていた。
「星導評議会のグライムだ」
無表情な声。調査官の手には、家宅捜索令状が閃いている。令状の裏には『申告者:匿名・複数名』の文字。
「封印指定呪術に関連する物品および研究記録の捜索と提出を求める」
エリースは一人で対応した。両親はすでに王都を離れている。令状を手に取る指が、かすかに震えていた。
(セラ——あんた)
複数の学生から証言を集めたのは、間違いなくあの女だ。
グライムと二名の補佐官が、邸内に踏み込む。靴音が冷たく響く。
エリースは震える手で魔導通信機を手に取り、リオンに緊急連絡を送った。
——返信。
『全部任せろ。今夜のうちに証拠になるものを消す。お前は何も知らないふりをしろ』
それだけ。以降、通信は途絶えた。
(なにを——どうやって)
補佐官の一人が、エリースの自室の扉を開ける。
その瞬間だった。
鎖骨の呪いの紋様が、不安と恐怖に反応してうっすらと浮かび上がる。エリースは詰め襟の首元をきつく押さえた。指先に熱が伝わる。気づかれてはいけない。
(頼む——引いてくれ)
必死で呼吸を整える。心臓が早鐘を打つ。
捜索は一時間ほど続いた。
結果——何も見つからなかった。研究ノートも、術封石の粉末も、すべて消えている。リオンが、処分したのだ。
「本日は証拠の確認に留める」
グライムは無表情のまま告げた。
「三日後に聴聞会を設定する。出廷しなければ、自動的に退学処分および保護拘束となる」
玄関の扉が閉まる。
エリースは一人、玄関ホールに立ち尽くした。
(助かったのか)
(それとも——罠が次の段階に移っただけなのか)
判断できなかった。できるはずがなかった。
——
翌日の昼。
エリースはリオンの行方を探して、学園区から上層区へと向かっていた。星見の丘の坂道。白亜の街並みが陽光に照らされている。
その時だった。
セラ・セラフィスが所有する街中の別荘の前に、一台の馬車が停まった。
扉が開く。
降りてきたのは——リオン・アッシュフォード。
黒髪に赤メッシュ。だらしない学生服に派手なスカーフ。金色の瞳が、笑っている。
(なんで——)
セラの侍女が彼を迎え入れる。リオンは笑顔で門をくぐり——振り返らなかった。
扉が閉まる。
エリースは、石畳の上で立ち尽くしていた。
(リオン——どうして)
怒りが、最初に来た。体中の血が沸騰するような熱さ。
(あんた——セラに手を貸すよう脅されたの?)
次に、嫉妬が押し寄せた。胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。
(それとも——最初から二人で私を罠にはめてたの?)
そして最後に——信じていたという感情が、じわじわと崩れていく。
(私——あんたのこと)
あまりにも鮮明な喪失感。自分がリオンをいつの間にかそこまで信頼していたことを、最悪な形で知った。
呪いの疼きが、感情の乱れに反応して激しくなる。鎖骨に紋様が浮かびかけた。エリースは石壁に片手をつき、必死で抑える。
息を整えながら、自分の掌を見つめた。
(リオンの体温——まだ覚えてる)
あの夜、紋様をなぞられた時の熱。
その掌が、憎かった。
——
翌日。
それでも大学に登校したエリースを待っていたのは、廊下で声を潜めることすらしない学生たちの会話だった。
「封印呪術の疑惑って、ヴァンハイム家のことだよね」
「聴聞会で退学になるらしい」
「魔法牢獄に入ったら二度と出てこられないって本当?」
エリースは石の顔で廊下を歩き続ける。
「やばい——聞こえてた?」
一人が慌てて小声になる。
「[cold]最初から聞こえてたわ」
振り返りもせず、言い捨てた。
廊下の角を曲がる。
人気のない曲がり角で、エリースは壁に背中を預けた。目を閉じる。瞼の裏が、熱い。
その午後。
三階の廊下で、調査官グライムがエリースを呼び止めた。
「正式通告を渡す」
一枚の書類が差し出される。
「貴女の身体に刻まれた術式の紋様は、封印指定呪術第12条に抵触する可能性が極めて高い。明後日の聴聞会に出廷しなければ、自動的に退学処分および保護拘束の対象となる」
エリースは書類を受け取った。
指が、かすかに震えた。
——
夜。
ヴァンハイム邸の自室。
鍵をかけて、書類を机に放り投げる。窓の外では、星都ルクスの夜が深まっていた。
呪いの発作が、本格化していた。
鎖骨から肩甲骨にかけて、灼熱の紋様が浮かび上がる。エリースは床に膝をつき、歯を食いしばって耐えた。熱い。痛い。体中の魔力が暴走しているみたいだ。
(リオンの——研究ノート)
手元にない。術封石の粉末もない。リオンが処分したからだ。
涙が、溢れた。
声を押し殺したまま、泣き崩れる。プラチナブロンドの髪が乱れて床に広がった。完璧な優等生が、調査官の書類と呪いの熱と裏切られた記憶に挟まれて、子供みたいに泣いている。
(幼い頃——星見の丘で)
使用人と並んで星を見上げた夜の記憶が、不意に蘇った。あの頃は、まだ何も知らなかった。この呪いのことも、家の秘密も、信じた人に裏切られる痛みも。
どれくらい泣いただろう。
泣き疲れて、呪いの熱が少し引いたタイミングで、エリースは机に突っ伏した。
手が、無意識にリオンの研究ノートの表紙に触れる。引き寄せるように最後のページを開いた。
——文字。
見たことのない、走り書きの一行。
『ヴァンハイム家の呪いの鍵は書庫の外にある。俺が戻ったら、一緒に取りに行く』
日付——リオンがセラの別荘に入るより前だった。
エリースはメモを握りしめた。
力が、入らない。
(聴聞会まで——残り二日)
リオンは戻ってくるのか。それとも、本当にセラに取り込まれたのか。確かめる手段はない。
一人で聴聞会に臨むか、逃げるか。
選択が、迫っていた。
メモを胸に押し当てて、エリースは目を閉じた。窓の外では、星が静かに瞬いている。