はじめの一歩 呪いの性別逆転騒動
『はじめの一歩』の世界に、まさかの性別逆転コメディが登場!
ある朝、目覚めた幕之内一歩は、自分の体が女の子になっていることに気づく。しかも、鴨川ジムの仲間たち——鷹村、青木、木村まで、全員が女体化していた。原因は、ジムの地下室に保管されていた古いトロフィーに込められた「性別逆転の呪い」。イタリアからやってきた呪い研究家・マリエは、その呪いを解くために奔走するが、タイムリミットが迫る中、一歩たちの関係にも少しずつ変化が訪れて……。
ボクシングの熱さはそのままに、女の子になった体での戸惑いや恥ずかしさ、そして仲間たちとの掛け合いが笑いを誘う。元に戻る日は来るのか? そして、一歩と宮田の関係にも思わぬ波紋が——?
性別逆転×呪い×ボクシングの異色コメディ、開幕!
はじめの一歩 呪いの性別逆転騒動 - 地下室の呪いトロフィー ~女の子の体でリングに立てるか!?~
「……っ」
目が覚めて、まず最初に違和感を感じたのは、枕に広がる髪の感触だった。
さらさらと、指に絡む長い黒髪。昨夜、何度も確かめた現実が、朝の光の中でまた一歩、重くのしかかってくる。
(夢じゃ、なかったんだな)
一歩は布団の上で、小さく息を吐いた。
天井はいつもと同じ、木目の見える古い梁。窓からは、母が階下で朝食の支度をする音が聞こえてくる。味噌汁の匂い。焼き魚の匂い。何もかもが、昨日までの朝と同じだった。
違うのは、自分だけ。
「……起きるか」
声を出して、また、落ち込む。鈴を転がすような、高い声。女の子の声。昨日一日で、何度聞いても慣れない。
一歩は体を起こした。
胸のあたりが、重い。いや、重いというより、バランスがおかしい。立ち上がろうとして、ふらついた。
(重心が、違う)
昨日も思ったことだ。肩幅は狭く、腰は細く、足は短い。何より、胸のふたつの膨らみが、動くたびに揺れて、意識をそらす。
一歩は顔を洗うため、洗面所へ向かった。
鏡を見る。
そこには、昨日と同じ、黒くて長い髪の女の子が立っていた。
「……はあ」
ため息しか出ない。
顔立ちは、確かに自分の面影がある。優しげな目元も、少し垂れ気味の眉も。でも、輪郭は丸く、肌は白く、唇は小さくて赤い。どう見ても、女の子だ。
一歩は、恐る恐る、自分の頬に触れた。
つるりとしている。髭の感触が、ない。
(そりゃ、そうか)
女の子なんだから。
一歩は、洗面所の棚から、自分の歯ブラシを取り出した。
歯を磨く。鏡の中の女の子も、同じように歯を磨く。
(変な感じだ)
一歩は、口をゆすいで、顔を上げた。
鏡の中の女の子と、目が合う。
「……今日も、頑張るか」
自分に言い聞かせるように、呟いた。
着替えに、いつもの倍以上の時間がかかった。
いつもの白いTシャツが、胸のせいで、やけに窮屈に感じる。いや、窮屈というか、形が合わない。ジャージのズボンは、ウエストがゆるくて、紐をぎゅっと締めないと、ずり落ちてしまいそうだった。
「くそ……なんでこんなに面倒なんだ」
一歩は、鏡の前で、何度もTシャツを引っ張ったり、ジャージの位置を直したりした。
(女の子って、毎日こんな思いをしてるのか?)
そんなことを考えて、はた、と気づく。
(いや、女の子は、もっと別の服を着てるよな)
自分の服装センスのなさに、今さらながら、ため息が出た。
一歩は、家を出る前に、母に声をかけた。
「母さん、行ってくるよ」
台所から、母が顔を出す。
「あら、いっぽ……ちゃん?」
母は、一歩の姿を見て、一瞬、言葉に詰まった。
「……その、大丈夫なの? 外、出られる?」
「大丈夫だよ。ジムまで、走って行くだけだから」
「そう……気をつけてね」
母の声は、どこか心配そうだった。
一歩は、靴を履いて、外に出た。
朝の空気が、ひんやりと気持ちいい。
鴨川区の朝は、静かだ。商店街のシャッターは、まだ半分以上が下りている。
一歩は、走り出した。
途端に、胸が、揺れた。
「うわっ」
思わず、足が止まる。
(そうだった。これ、走ると、すごく……揺れるんだ)
一歩は、両腕で胸を押さえるようにして、また走り出した。
(何か、固定するもの……ないのか?)
女の子の体について、何も知らない自分が、情けなくなった。
「あら、お嬢ちゃん、朝から元気だねえ」
商店街の途中、八百屋「八百辰」の店主が、店先で野菜の箱を並べながら、一歩に声をかけてきた。
一歩は、思わず立ち止まった。
(お嬢ちゃん……)
「あ、どうも……」
一歩は、頭を下げた。
「どちらさん? この辺の子かい? 見ない顔だけど」
「えっと……幕之内です。釣り船屋の」
「幕之内? ああ、幕之内んとこの……あれ? 幕之内さんとこは、息子さん一人じゃなかったかい?」
「あ、いや、その……」
一歩は、言葉に詰まった。
(俺です、って言っても、信じてもらえないよな)
「……遠い親戚の子で、しばらくお世話になってるんです」
苦し紛れの嘘をついた。
「へえ、そうかい。それにしても、かわいいお嬢ちゃんだねえ。幕之内さんとこの息子さんも、あんたみたいなかわいい子がいて、うらやましいよ」
「は、はあ……」
一歩は、曖昧に笑って、その場を離れた。
(かわいいって……)
心の中で、複雑な気持ちが渦巻く。
(俺、男なのに)
でも、今の自分は、誰が見ても女の子なのだ。
それが、どうしようもなく、もどかしかった。
ジムに着くまでに、三人の常連客に「どちら様?」と声をかけられた。
そのたびに、一歩は「遠い親戚の子」と嘘をつき、逃げるようにその場を離れた。
(早く、元に戻りたい)
一歩は、心の底から、そう思った。
鴨川ボクシングジムの前に着くと、一歩は、ほっと息をついた。
木造二階建ての、古びた建物。壁には「鴨川ボクシングジム」の看板。入口のドアには、歴代チャンピオンの写真。
(ここだけは、変わらない)
一歩は、ドアを開けた。
「おはようございます!」
声が、ジムの中に響く。
瞬間、ジムの中にいた全員の視線が、一歩に突き刺さった。
「……おはよう、一歩」
ジムの中央に、金髪の女性が立っていた。
長い金髪を、今日もポニーテールにしている。エメラルドグリーンの瞳が、一歩を見つめていた。革製のバッグを肩にかけ、白いブラウスに、紺色のスカート。イタリア人らしい、彫りの深い顔立ち。
マリエだ。
「マリエさん、おはようございます」
一歩は、頭を下げた。
「今日も、かわいいわね、一歩」
「か、かわいいって言わないでください!」
一歩の顔が、かあっと熱くなる。
「あら、褒めてるのよ?」
マリエは、くすくすと笑った。
その笑顔に、一歩は、また胸がドキリとするのを感じた。
(なんで、こんな時に……)
一歩は、首を振って、気持ちを切り替えた。
「一歩、ちょっと、話があるの」
マリエの声が、急に、真剣なものに変わった。
「はい?」
「こっちに来て」
マリエは、ジムの隅にある、ベンチの方へ歩いていった。
一歩は、その後を追った。
二人は、ベンチに並んで座った。
マリエは、一瞬、うつむいて、何かを考えているようだった。
「……一歩」
「はい」
「昨日、私は、みなさんに、謝ったわ。でも、まだ、足りないの」
マリエは、顔を上げた。
そのエメラルドグリーンの瞳は、まっすぐに、一歩を見つめていた。
「私のせいで、あなたたちの体は、変わってしまった。それは、私が、どんなに謝っても、謝りきれないこと。だから、私は、誓うわ」
マリエは、一歩の手を、両手で握った。
「呪いを解くまで、私は、絶対に、イタリアに帰らない。あなたたちを、元の体に戻すまで、私は、ここにいる」
「マリエさん……」
一歩は、マリエの手の温かさを感じた。
細くて、白くて、でも、力強い手。
「だから、お願い。私に、協力させて。あなたたちを、絶対に、元に戻してみせるから」
マリエの声は、震えていた。
でも、その目は、強く、まっすぐだった。
一歩は、マリエの手を、握り返した。
「もちろんです。俺も、協力します。みんなで、元に戻りましょう」
「……ありがとう、一歩」
マリエは、ほっとしたように、微笑んだ。
「それで、マリエさん。何か、手がかりはあるんですか?」
一歩は、尋ねた。
「ええ。昨日の夜、ジムの中を、少し調べさせてもらったの。そしたら、呪いの気配が、ある方向から、強く感じられたのよ」
「呪いの気配?」
「ええ。私、呪い研究家として、そういうのを感じ取る訓練を受けてるの。呪い感知って言うんだけど」
マリエは、革製のバッグから、小さな振り子を取り出した。
銀色の鎖に、水晶のような石がついた、古めかしい振り子。
「これを使って、呪いの源を探すの。ほら、見てて」
マリエは、振り子を、目の高さに掲げた。
すると、振り子が、ゆらゆらと、勝手に動き始めた。
「……やっぱり。あっちの方角よ」
マリエは、ジムの奥、地下室へと続く扉の方を指さした。
「地下室ですか?」
「ええ。そこから、とても強い呪いの気配がするの」
一歩は、地下室の方を見た。
(地下室に、何かあったっけ)
一歩は、あまり地下室に入ったことがなかった。古いトロフィーや、使わなくなった道具が、置いてあるだけの場所だ。
「案内してもらえる?」
「あ、はい。こっちです」
一歩は、立ち上がって、地下室へ向かった。
地下室へ続く階段は、ジムの一番奥にあった。
一歩は、ドアを開けて、階段を下りた。
ひんやりとした、湿った空気が、肌にまとわりつく。
「暗いですね。電気、つけます」
一歩は、壁のスイッチを探して、押した。
裸電球が、ぱちん、と点灯した。
薄暗い光が、地下室を照らし出す。
地下室は、思ったより狭かった。
壁際に、古いサンドバッグや、使わなくなったミットが、積み上げられている。
そして、部屋の奥に、古い棚が一つ。
その棚の上に、埃をかぶった、いくつかのトロフィーが、置かれていた。
「ここが、地下室です。あんまり、来ないんですけど」
一歩は、マリエを振り返った。
マリエは、地下室に入った瞬間から、何かを感じ取っているようだった。
「……すごい。ここ、呪いの気配で、いっぱいだわ」
マリエは、振り子を掲げた。
振り子が、激しく、回転し始める。
「やっぱり、ここね。呪いの源は、この中にあるわ」
マリエは、棚に近づいていった。
一歩も、その後を追った。
棚の上には、大小さまざまな、古いトロフィーが並んでいた。
その中で、一際、古びた、ブロンズ製のトロフィーがあった。
高さ三十センチほどの、ずっしりとしたトロフィー。表面には、無数の傷と、黒ずみ。台座には、何か、文字が刻まれている。
「これね」
マリエは、そのブロンズ製のトロフィーを、両手で持ち上げた。
「……あつい」
マリエは、小さく声を上げた。
「熱いんですか?」
「ええ。触ると、微かに、温かいの。これは、呪いの力が、まだ生きてる証拠よ」
マリエは、トロフィーを、じっと見つめた。
「台座に、刻印があるわ。『1952年 東日本ミドル級チャンピオン』……古いトロフィーね」
「1952年……すごく古いですね」
「ええ。でも、これが、あなたたちを女の子にした、呪いの源よ。間違いないわ」
マリエは、トロフィーを、そっと、棚の上に戻した。
「この中に、持ち主の、とても強い悲しみが、残ってるの。愛する人を、失った悲しみが」
マリエの声が、沈んだ。
「愛する人を、失った……」
一歩は、トロフィーを見つめた。
古びたブロンズの表面が、薄暗い電球の光を、鈍く反射している。
「この悲しみを、癒さないと、呪いは解けないの。でも、どうやって癒せばいいのか、まだ、わからないわ」
マリエは、唇を噛んだ。
「ごめんなさい。私、まだ、何もできてない」
「そんなことないです。呪いの源がわかっただけでも、大きな一歩ですよ」
一歩は、マリエを励ました。
「一歩……」
マリエは、一歩を見て、微笑んだ。
その笑顔は、どこか、泣き出しそうだった。
「触ってみても、いいですか?」
一歩は、トロフィーに手を伸ばした。
「だめ!」
マリエが、一歩の手を、慌てて掴んだ。
「え?」
「一歩、あなた、今、呪いの影響を、一番強く受けてるのよ。そんな状態で、呪いの源に触れたら、何が起きるか、わからないわ」
マリエの顔は、真剣だった。
「でも、ちょっとだけなら……」
「だめよ。私が、責任を持って、調べるから。あなたは、触らないで」
マリエは、一歩の手を、強く握ったまま、離さなかった。
「……わかりました」
一歩は、手を引っ込めた。
「ありがとう。あなたを、これ以上、危険な目に合わせたくないの」
マリエは、ほっとしたように、息をついた。
「おーい、一歩ー! マリエちゃーん!」
地下室に、上の階から、間延びした声が響いてきた。
「青木さん?」
一歩は、階段の方を見た。
「なんだ、こんなとこにいたのか。探したぜ」
階段を下りてきたのは、女の子になった青木勝だった。
元は、日本ライト級ランカーのボクサー。今は、肩までの黒髪を、二つに結んで、かわいらしい女の子になっている。
「青木さん、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも、木村が、お前らを呼んでこいって。なんか、おもしれえことになってるんだよ、上で」
青木は、にやにやと笑った。
「おもしれえこと?」
「まあ、来てみりゃわかる。ほら、行くぞ」
青木は、一歩とマリエを、階段の上へと促した。
ジムのフロアに戻ると、そこは、異様な光景が広がっていた。
「きゃははっ! 木村、見て見て! この髪、さらっさらだぜ!」
青木が、鏡の前で、くるくると回っている。
「お前、さっきから、そればっかだな。いいから、こっち来いよ。髪、結んでやるから」
木村達也も、女の子になっていた。
元は、日本ジュニアライト級ランカーのボクサー。今は、短めの黒髪を、耳の後ろで、ちょこんと結んでいる。
「えー、木村、お前、髪結ぶの、うまいのか?」
「うまいかどうかは、わからねえけど、お前のぐちゃぐちゃな頭よりは、マシになるだろ」
木村は、青木の後ろに回って、青木の髪を、手際よく結び始めた。
「おお、なんだか、女の子って感じだな!」
「お前、今、女の子なんだから、当たり前だろ」
「そうか! 俺、今、女の子なのか! ははっ!」
青木は、けらけらと笑った。
一歩は、その様子を、呆然と見ていた。
(二人とも、楽しそうだな……)
「あ、一歩! お前も、こっち来いよ! 一緒に、写真撮ろうぜ!」
青木が、一歩に手を振った。
「写真って……何でですか?」
「何でって、せっかく女の子になったんだから、記念に残しておこうぜ。ほら、この体、結構、かわいいだろ?」
青木は、自分の体を、くるりと見せた。
「いや、記念って……」
一歩は、戸惑った。
「一歩も、女の子になったんだから、もっと、楽しまないと、損だぜ?」
「楽しむって……」
一歩は、青木の能天気さに、ついていけなかった。
「おい、青木。一歩を、あんまり、からかうなよ」
木村が、青木の頭を、軽く叩いた。
「からかってねえよ。俺は、本気で、この状況を楽しんでるんだ」
「お前、ほんと、順応性高いな……」
木村は、呆れたように、ため息をついた。
「だって、せっかく、女の子になれたんだぜ? 減量とか、もう、関係ないんじゃね? いや、女の子だから、減量っつうか……なんだ? なんだこれ、どういうことだ?」
青木は、首をかしげた。
「お前、自分で言ってて、意味わかってないだろ」
木村が、冷静にツッコんだ。
「いや、だって、女の子になったら、減量しなくていいのか? それとも、もっと、減量しなきゃいけないのか? どっちなんだ?」
「知るかよ。俺は、呪いの専門家じゃねえんだ」
木村は、青木の髪を結び終えて、一歩下がった。
「できたぞ。ほら、鏡、見てみろよ」
「おお! すげえ! 木村、お前、マジでうまいな! これ、女の子の髪型じゃねえか!」
青木は、鏡の前で、自分の髪を、うっとりと眺めた。
「……お前ら、ほんと、仲いいな」
一歩は、二人の様子を見て、苦笑いした。
(俺も、あれくらい、割り切れたら、楽なのかな)
一歩は、心の中で、そう思った。
でも、やっぱり、一歩には、この状況を、楽しむことは、できそうになかった。
「うおおおおおおっ!」
突然、ジムの中央から、雄叫びが聞こえた。
一歩が振り返ると、そこには、女の子になった鷹村守が、シャドーボクシングを始めていた。
腰まで届く黒髪を、無造作に振り乱し、鋭い目つきで、空気を殴っている。
「鷹村さん! 何してるんですか!」
一歩は、慌てて、鷹村に駆け寄った。
「何って、見てわかんねえか? シャドーだよ、シャドー」
鷹村は、一歩を見ずに、答えながら、パンチを繰り出し続けた。
「いや、それは、見ればわかりますけど……」
一歩は、鷹村の、激しく揺れる胸に、目をやった。
「胸が重い! この二つの重りはなんだ! 筋肉か!?」
鷹村は、突然、自分の胸を、両手で持ち上げた。
「ぶはっ!」
青木が、吹き出した。
「ちょ、鷹村さん、何やってんすか!」
木村も、笑いをこらえている。
「何って、重いんだよ、これが! 走るのも、パンチ打つのも、全部、これが邪魔で、バランスが取れねえ!」
鷹村は、胸を揺らしながら、また、シャドーボクシングを再開した。
ジャンプするたびに、胸が、大きく、上下に揺れる。
「あはははは! 鷹村さん、すげえ! 女の子なのに、すげえ!」
青木が、腹を抱えて笑い出した。
「笑ってんじゃねえ! お前らも、同じもん、ついてんだろ!」
「いや、俺たちのは、そんなに大きくないんで!」
「なに? お前のは、小さいのか? 貧相だな!」
「貧相って、ひどくないっすか!?」
「うるせえ! 俺は、この体で、新たな境地を開く! 女になっても、俺は強い! むしろ、この体で、どこまで強くなれるか、試してやる!」
鷹村は、パンチの速度を上げた。
「鷹村さん、ほんと、ブレないっすね……」
木村が、感心したように、呟いた。
「ねえ、一歩」
マリエが、一歩の隣に来て、小声で言った。
「あの人、すごいわね。女の子になっても、全然、動じてないわ」
「ええ、まあ……鷹村さんは、あれで、世界チャンピオンですから」
「世界チャンピオン! やっぱり、すごい人なのね!」
マリエは、目を輝かせた。
「あの、マリエさん。あんまり、鷹村さんを、刺激しない方が……」
一歩が言いかけた時、
「おい、マリエ!」
鷹村が、突然、マリエの方を見た。
「は、はい!」
マリエは、びくっと、肩を震わせた。
「お前、呪いを解く必要、あるか?」
鷹村は、真顔で、マリエに聞いた。
「え?」
「だから、この呪い、解く必要、あるかって聞いてんだよ。俺は、この体、結構、気に入ってるぜ。胸は重いけどな」
鷹村は、また、自分の胸を、持ち上げた。
「な、何を言ってるんですか! 呪いは、解かなきゃ、いけません!」
マリエは、慌てて、言い返した。
「なんでだよ? この体、強いし、かわいいし、いいことずくめじゃねえか」
「か、かわいい……」
マリエは、言葉を失った。
「鷹村さん! 真面目にしてください! 俺たちは、元の体に戻りたいんです!」
一歩は、鷹村に、怒鳴った。
「おお、一歩、怒った怒った。かわいい顔して、怒ると、もっとかわいいな」
「かわいいって言わないでください!」
一歩は、顔を真っ赤にした。
「ははっ! まあ、冗談だよ。俺も、ずっと、このままでいいとは、思ってねえよ。でも、せっかくなら、この状況、楽しまないと、損だろ?」
鷹村は、にやりと笑った。
「……鷹村さんは、ほんと、どんな状況でも、楽しめるんですね」
一歩は、呆れながらも、どこか、ほっとしていた。
(鷹村さんが、いつも通りで、よかった)
一歩は、心の底から、そう思った。
「よし、一歩。お前も、こっち来て、サンドバッグ打ってみろよ」
鷹村は、サンドバッグの方へ、一歩を誘った。
「え? 俺もですか?」
「当たり前だろ。女の子の体でも、ボクサーは、ボクサーだ。体、動かさないと、鈍るぞ」
「……そうですね」
一歩は、サンドバッグの前に立った。
(女の子の体で、サンドバッグ……)
一歩は、構えてみた。
体が、軽い。いや、軽いというより、力が、入りにくい。
(筋肉が、ない)
一歩は、右のストレートを、サンドバッグに打ち込んだ。
パン、と、軽い音がした。
サンドバッグは、ほとんど、揺れなかった。
「……やっぱり、力が、全然、伝わらない」
一歩は、自分の拳を見つめた。
細くて、白い、女の子の手。
「当たり前だろ。お前、今、女の子の体なんだから。男の時と同じように、力任せに打っても、だめだ」
鷹村が、一歩の隣に来て、言った。
「でも、鷹村さんは、さっき、あんなに、力強く、シャドーを……」
「俺は、俺だ。お前は、お前だ。お前は、お前の、新しい体に合った、打ち方を、見つけろ」
「新しい体に合った、打ち方……」
一歩は、サンドバッグを、じっと見つめた。
「一歩」
マリエが、一歩に、声をかけた。
「さっきの、あなたのパンチ、見てたわ」
「あ、はい。情けないとこ、見せました」
一歩は、苦笑いした。
「ううん。そうじゃなくて、あなたの体、繊細な動きに向いてるわ」
「繊細な動き?」
「ええ。女の子の体は、男の子の体より、柔らかくて、細かい動きが、得意なの。だから、力任せに打つんじゃなくて、体重移動と、リズムを、意識して、打ってみて」
マリエは、一歩の隣で、軽く、ジャブを打つ真似をした。
「体重移動と、リズム……」
一歩は、マリエの言葉を、頭の中で、繰り返した。
(そうか。力で、打とうとするから、だめなんだ)
一歩は、深呼吸をして、もう一度、構えた。
(体重を、後ろから、前へ……)
一歩は、ゆっくりと、体重を、後ろ足から、前足へ、移動させた。
(リズムに、乗って……)
一歩は、軽く、ステップを踏んだ。
そして、ジャブを、放った。
パシッ。
さっきとは、違う、軽快な音がした。
「……お?」
一歩は、手ごたえを感じた。
「いいわ、一歩! 今の、すごく、いい動きだったわよ!」
マリエが、嬉しそうに、拍手した。
「ほんとですか? でも、まだ、力は、全然、ないですけど……」
「力は、なくても、いいの。今のあなたの体には、しなやかさがあるわ。その、しなやかさを、活かせば、きっと、今までとは、違う、ボクシングが、できるはずよ」
マリエは、一歩の目を、まっすぐに見て、言った。
「しなやかさ……」
一歩は、自分の手を、見つめた。
(俺の、新しい、武器)
一歩は、少しだけ、この体に、希望を持てた気がした。
「へえ、一歩、いいじゃねえか。女の子の体で、新しいこと、覚えようって、前向きだな」
鷹村が、一歩の肩を、組んだ。
「前向きって、鷹村さんに、言われたくないですよ」
「なんだと? 俺は、いつだって、前向きだぜ。前向きすぎて、後ろが見えねえくらいだ」
「それ、前向きって言うんですかね……」
一歩は、苦笑いした。
「さて、と」
マリエは、革製のバッグから、ノートとペンを取り出した。
「トロフィーの刻印、『1952年 東日本ミドル級チャンピオン』。これを手がかりに、当時の関係者を、探してみましょう」
「1952年の関係者って、もう、かなりのお歳ですよね。生きてるんですかね?」
「わからないわ。でも、何か、手がかりが、見つかるかもしれない。私、フィレンツェの研究所に、連絡してみるわ。同期の研究者が、日本の呪い事件に、詳しいの」
マリエは、ジムの隅にある、黒電話の方へ、歩いていった。
「黒電話、借りても、いいかしら?」
「あ、はい。どうぞ」
マリエは、受話器を取って、ダイヤルを回し始めた。
「……あ、もしもし、私、マリエ。今、日本にいるの。ええ、例の件で……ちょっと、調べてほしいことが、あるのよ」
マリエは、早口のイタリア語で、電話をかけ始めた。
「……すげえ。マリエさん、イタリア語、ペラペラだな」
青木が、感心したように、呟いた。
「かっこいい……」
木村も、マリエの後ろ姿を、うっとりと見つめていた。
「お前ら、見とれてないで、練習しろよ」
鷹村が、青木と木村の頭を、軽く叩いた。
「いてっ! だって、マリエさん、かっこいいんすもん」
「お前ら、ほんと、現金だな……」
鷹村は、呆れたように、ため息をついた。
マリエは、しばらく電話で話した後、受話器を置いた。
「ありがとう。同期の子が、調べてくれるって。何か、わかったら、連絡してくれるわ」
マリエは、一歩たちのところへ、戻ってきた。
「そうですか。ありがとうございます」
「いいえ。私が、やるべきことだから」
マリエは、微笑んだ。
その笑顔は、どこか、疲れているようにも見えた。
その日、一歩は、ジムで、一日中、新しい体での、トレーニングを続けた。
サンドバッグ打ち、縄跳び、シャドーボクシング。
どれも、男の時とは、感覚が、全然違った。
でも、マリエの助言のおかげで、少しずつ、コツを、掴めてきた気がした。
(この体で、どこまで、強くなれるか)
一歩は、そんなことを、考え始めていた。
夕方になり、一歩は、ジムを出た。
マリエも、一緒だった。
「一歩、今日は、ありがとう。いろいろ、付き合ってくれて」
「いえ、俺の方こそ、マリエさんのおかげで、新しい発見が、ありました」
「新しい発見?」
「はい。女の子の体でも、ボクシングが、できるって、わかりました」
一歩は、自分の拳を、握りしめた。
「一歩……」
マリエは、一歩の横顔を、じっと見つめた。
「マリエさん、どうかしましたか?」
「ううん。なんでもないわ。ただ、あなたは、本当に、強い人だなって、思ったの」
「強い? 俺がですか? 今の俺、女の子の体で、全然、力、ないですよ」
一歩は、笑った。
「そうじゃなくて、心が、強いの。どんな状況でも、前を向こうとする。私、あなたを見てると、勇気が、もらえるわ」
マリエは、一歩を見て、優しく、微笑んだ。
「マリエさん……」
一歩は、マリエの笑顔に、また、胸が、ドキリとするのを感じた。
(なんで、マリエさんが、笑うと、こんなに、胸が、苦しくなるんだ)
一歩は、自分の胸に、手を当てた。
「それじゃあ、一歩。また、明日」
「はい。また、明日」
二人は、ジムの前で、別れた。
マリエは、商店街の方へ、一歩は、家の方へ、歩き出した。
一歩は、少し歩いて、振り返った。
マリエの後ろ姿が、夕暮れの商店街に、消えていく。
(マリエさん、大丈夫かな)
一歩は、マリエの、疲れたような笑顔を、思い出した。
(俺が、もっと、しっかりしないと)
一歩は、拳を握りしめて、歩き出した。
その夜、ジムの周りは、静かだった。
鴨川の水面が、月明かりを、きらきらと反射している。
ジムの裏手、路地の影から、一人の男が、ジムの地下室の方角を、じっと見つめていた。
黒いコートを着て、帽子を、深くかぶっている。
男は、手帳を取り出して、何かを、書き込んだ。
「……やはり、このジムか。呪いの気配が、濃いな」
男は、手帳を閉じて、不気味に、笑みを浮かべた。
「いい拾い物が、できそうだ」
男は、路地の奥へ、音もなく、消えていった。
その頃、一歩は、家に着いていた。
「ただいま」
「おかえり、いっぽ……ちゃん」
母が、台所から、顔を出した。
「ご飯、食べる?」
「うん。食べるよ。……あ、そうだ。母さん、これ」
一歩は、カバンから、小さな包みを取り出した。
「なあに?」
「久美ちゃんが、くれたんだ。おにぎり。ジムに、差し入れに来てくれて」
一歩は、包みを、母に渡した。
「あら、久美ちゃん、気が利くわね。……あんた、久美ちゃんに、ちゃんと、お礼、言ったの?」
「言ったよ。……たぶん」
「たぶんって、なによ。もう」
母は、呆れたように、笑った。
一歩は、久美の顔を、思い浮かべた。
(久美ちゃん、俺が女の子になっても、全然、態度が、変わらなかったな)
一歩は、久美が、おにぎりを差し出してくれた時の、温かい笑顔を、思い出した。
(あの笑顔に、今日は、何度も、救われた)
一歩は、胸が、じわりと、温かくなるのを感じた。
一歩は、夕食を食べて、風呂に入って、自室に戻った。
鏡の前に立つ。
そこには、今日一日を、必死に生きた、女の子の自分が、立っていた。
長い黒髪。白い肌。小さな唇。
(今日は、いろんなことが、あったな)
一歩は、鏡の中の自分に、話しかけるように、思った。
朝は、商店街で、知らない人に、声をかけられた。
ジムでは、マリエが、呪いを解くまで、帰らないと、誓ってくれた。
地下室で、呪いの源の、トロフィーを、見つけた。
青木さんと木村さんは、女の子の体を、楽しんでいた。
鷹村さんは、相変わらず、破天荒で、でも、頼もしかった。
サンドバッグNoveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。