アクタージュ・リビルド ~転生したら芸能一家のドタバタ恋愛劇!?~
給食費滞納のピンチを救うため、賞金100万円のオーディションに飛び込んだ夜凪景、16歳。演技経験ゼロ、特技は古い映画の真似だけ。なのに、即興演技で審査員を震撼させた彼女の“ある才能”とは——? 天才監督・黒山墨字に「君は怪物だ」と言わしめた景は、その日から芸能界の荒波へ。待っていたのは、業界最大手の天才女優・百城千世子、演劇界の怪物・明神阿良也、そして個性豊かなスタジオ大黒天の面々。さらに、届いた差出人不明の手紙——『あなたの父親を知っています』。失踪した父の謎、母の死の真相、そして景の中に眠る“化け物”の正体。ドタバタで危険で、ほんの少し切ない芸能一家の恋愛劇、開幕! 家族を守るため、景は今日も舞台に立つ。
アクタージュ・リビルド ~転生したら芸能一家のドタバタ恋愛劇!?~ - 賞金目当てのオーディション、審査員に君は怪物だと言われました
「ねえ、これ、どういうこと?」
夕食の席で、妹のレイが一枚の紙を景の前に差し出した。
薄暗い蛍光灯の下、ちゃぶ台の上には大皿に盛られたもやし炒めが一つ。それと、三人分の白米。みそ汁はない。
夜凪景は箸を置き、紙を受け取る。『給食費 滞納のお知らせ』という文字が、印刷された無機質な活字で並んでいた。
「……ああ、これ」
景は短く答えて、紙を裏返しにした。深い茶色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。左耳の後ろにある小さな泣きぼくろが、蛍光灯の光を受けて淡く浮かんだ。
「ああ、これ、じゃないでしょ。またお金払ってないの?」
レイは小学六年生。肩までの黒髪を後ろで一つに束ねている。兄のルイと違って、妙にしっかりしている。母が死んでから、家計のことはいつもレイが真っ先に気にするようになった。
「大丈夫。何とかする」
「何とかするって、どうやって?お姉ちゃん、この前も同じこと言ってたよ」
「今度こそ何とかする。私、やるって言ったらやるの」
景の言葉に、隣でご飯をかきこんでいた弟のルイが顔を上げた。中学二年生。姉と同じく黒髪で、前髪が目にかかっている。
「姉ちゃん、それ、いつものやつじゃん。『やるって言ったらやる』って言って、大体うまくいった試しないじゃん」
「うるさい。今度は本当にやるの」
景はむっとして言い返した。右手の指先を、無意識にちゃぶ台の縁でとんとんと動かしている。癖だった。
「で、どうやってお金作るの?またバイト増やすの?」
「……オーディションに出る」
「は?」
「オーディション。テレビの。賞金が出るの。それで払う」
景は言い切った。自分でも、ずいぶん唐突な話だとは思う。でも、もう決めた。
先週、学校の掲示板で一枚の張り紙を見つけた。『東都テレビ 大型新人発掘オーディション 優勝賞金100万円』。その数字を見た瞬間、景の頭の中で何かが弾けた。
100万円あれば、給食費の滞納分なんて全部払える。ルイとレイに、新しい靴だって買ってやれる。
「お姉ちゃん、役者のオーディションでしょ?演技なんてやったことないのに?」
レイが不安そうな顔で景を見る。
「やったことある。……家で、映画見ながら真似したりしてた」
「あれは真似じゃなくて、ただの変な独り言だと思ってた」
「違う。あれは練習。……多分」
「多分って」
ルイが呆れたようにため息をついた。
景は、家に残された古い映画のDVDを何度も見て育った。『ローマの休日』『カサブランカ』『風と共に去りぬ』。母が好きだった映画たち。物心ついた頃から、景は映画の中の人物になりきって、セリフを真似て、感情をなぞってきた。
それが演技だとは、最近まで知らなかった。
「でも、オーディションって倍率すごいんでしょ?テレビで見たことある。何万人も受けるやつ」
「三万一千二百四十七人。応募総数」
「よく数えたね」
「書いてあったの。張り紙に。……あれ、確か」
景は首をかしげた。実は正確な数字は覚えていない。でも、すごく多かったことだけは確かだ。
「お姉ちゃん、そのオーディション、無理だよ。だって、お姉ちゃん、人前で話すの苦手じゃん」
「苦手だけど、やるの。私、やるって言ったら」
「やるの、ね。……はいはい」
ルイは諦めたように手をひらひらさせた。
「あ、そうだ。お姉ちゃん、今日、郵便来てたよ。……お父さんから」
レイが思い出したように立ち上がり、部屋の隅にある小さな棚から封筒を取ってきた。白い封筒。表には達筆な文字で、この家の住所と『夜凪景様』とだけ書かれている。
景は封筒を受け取ると、中を確認しなかった。
「これ、仕送りだよね。今月も来てる」
「使わない」
「でも、これ使えば給食費だって」
「使わないって言ったら使わないの」
景は立ち上がると、台所の一番奥にある引き出しを開けた。中には同じ白い封筒が、もう何通も押し込まれている。景は新しい封筒をその上に重ね、乱暴に引き出しを閉めた。
音が、小さな台所に響いた。
「……あんなお金、使えるわけない」
景はぽつりと言った。
父は、景が小学五年生のときに家を出た。理由は知らない。母が死ぬ少し前だった。
母が倒れたときも、葬儀のときも、父は帰ってこなかった。
ただ、毎月、決まった額の金だけが送られてくる。まるで、それで全ての責任を果たしていると言わんばかりに。
「お姉ちゃん……」
レイが心配そうに景の背中を見つめる。
「大丈夫。それより、ご飯食べよ。冷めちゃう」
景は席に戻り、もやし炒めを箸でつまんだ。少ししんなりしている。でも、レイが一生懸命作った味がした。
「おいしい」
「……お姉ちゃん、それ、私が作ったやつだよ。当たり前でしょ」
レイが少し笑った。
「姉ちゃん、オーディション、マジで受けるの?」
「受ける。私、やるって言ったら」
「はいはい、やるのね」
ルイがまた手をひらひらさせた。
その夜、景は布団の中で天井を見つめていた。
(私、本当にオーディションに出るんだ)
心の中で呟いてみる。
(でも、演技って、何をすればいいんだろう)
景は右手を持ち上げ、暗闇の中で指先を動かした。とん、とん、と空気を叩く。
(まあ、何とかなる)
そう思うことにした。
何とかなる、と。
───
二週間後。
東都テレビ本社。港区にそびえる十五階建ての高層ビル。一階ロビーには、朝から大勢の若者たちが詰めかけていた。
「うわ、人、多……」
景はロビーの入り口で立ちすくんだ。
応募者三万一千二百四十七人。その中から書類審査と予選を通過したのは、わずか数十人。今日はその最終審査だ。
景は、白いシャツに黒のスラックスという、いつもの質素な服装で来ていた。周りを見渡すと、みんな華やかな服を着ている。女の子はワンピースやスカート、男の子はジャケットや派手なシャツ。
(私、浮いてる)
景はそう思ったが、他に着ていく服もなかった。
「あの、すみません。最終審査の控室ってどこですか?」
景は近くにいたスタッフらしき女性に声をかけた。
「受付はあちらです。名前を言ってください」
「夜凪景です」
「夜凪さん……ああ、最終審査の方ですね。控室は三階です。エレベーターでどうぞ」
景は案内されるまま、エレベーターに乗り込んだ。
三階の控室は、思ったより広い会議室だった。長机が並び、数十人の若者たちがそれぞれの場所で準備をしている。
景は空いている席を見つけて座った。隣の女の子が、ちらりと景を見て、すぐに視線を戻す。
(ああ、私、また浮いてる)
景は膝の上で台本を握りしめた。最終審査の課題が書かれた紙。
周りから、ひそひそと話し声が聞こえる。
「ねえ、あの人、背、高くない?」
「スタイルいいよね。モデル志望かな」
「でも服、すごい地味じゃない?」
景には聞こえていた。でも、気にしないことにした。気にしている余裕もない。
「君、緊張してる?」
突然、隣の席の男の子が話しかけてきた。景より少し年上だろうか。明るい茶髪で、人懐っこい笑顔をしている。
「……してます」
景は正直に答えた。
「はは、だよね。俺も超緊張してる。名前、何て言うの?」
「夜凪景です」
「夜凪さんか。俺、三田村。よろしく。夜凪さんは、どの事務所受けたいの?」
「事務所……?」
「このオーディション、優勝すると大手の事務所に所属できるんだよ。スターズとか、知ってるでしょ?業界最大手の。あそこが一番人気かな。あとは、まあ、個人事務所とか」
「へえ……」
景は、そんなこと考えたこともなかった。
「俺はスターズ狙い。百城千世子さんと同じ事務所だよ。知ってる?『スターズの天使』って呼ばれてる天才女優」
「……知らない」
「マジで?テレビ見ないの?」
「あんまり。映画は見るけど、古いのばかり」
「古いのって、どんな?」
「『ローマの休日』とか、『カサブランカ』とか」
三田村がぽかんとした。
「……それ、おじいちゃんの趣味?」
「私の趣味。オードリー・ヘプバーン、好きなの。あの、首のラインがきれいで」
景が真面目な顔で言うと、三田村は苦笑いした。
「変わってるね、夜凪さん」
「よく言われる」
景は、褒められたのかどうか分からず、とりあえずそう答えた。
周りの応募者たちは、演技論やら、このオーディションの審査員の話やらで盛り上がっている。
「今日の審査員、黒山墨字監督がいるらしいよ」
「え、あの黒山監督?やばくない?」
「映画マニアには神だけど、変人って噂だよね」
黒山墨字。景も名前だけは知っていた。昔、母が好きだった映画の一本を撮った監督だ。
(あの人が審査員なんだ)
景は台本を握る手に、少しだけ力が入るのを感じた。
───
最終審査は、一人ずつ別室に呼ばれて行われる形式だった。
景の順番が来たのは、控室で一時間以上待たされた後だった。
「夜凪景さん、どうぞ」
スタッフに案内され、景は審査室のドアを開けた。
中は、思ったより狭かった。カメラが何台か設置され、正面に長テーブル。そこに、五人の審査員が座っている。
真ん中に、白髪交じりの髪を無造作に伸ばした、痩せた男がいた。黒いシャツに、よれよれのジャケット。眼光だけが異様に鋭い。
(あの人が、黒山墨字)
景はすぐに分かった。
「夜凪景さん、ですね。最終審査を始めます。まずは、用意してきた自己PRをどうぞ」
若い女性の審査員が言った。
「……自己PR、ですか」
景は固まった。
自己PR。何を言えばいいんだろう。
「えっと、夜凪景です。十六歳です。高校二年生です。……特技は、映画の真似です」
「映画の真似?」
「はい。オードリー・ヘプバーンの真似とか、割と得意です」
沈黙。
審査員たちが顔を見合わせた。
「……なるほど。では、次の課題に移りましょう」
明らかに微妙な空気だった。
景は、自分が何か間違えたような気がした。
「即興演技をしてもらいます。お題はこちらです」
スタッフが、一枚のカードを景に手渡した。
景はカードを見た。
『一番腹が立ったことを、演じてください』
「……」
景はカードを見つめたまま、動けなくなった。
一番腹が立ったこと。
(一番、腹が立ったこと)
心の奥で、何かがざわつく。
「どうしました?始めてください」
「……あの、これ、本当に演じていいんですか」
「ええ。自由に演じてください」
景は深呼吸をした。
右手の指先が、無意識に動く。とん、とん、と。
(一番腹が立ったこと)
それは、決まっていた。
母の葬儀。
雨の日だった。
景は、ルイとレイの手を握って、白い花に囲まれた母の写真を見ていた。
親戚の人たちが、口々に「かわいそうに」「これからどうするの」と囁いていた。
でも、一番来るべき人は、来なかった。
父は、母が死んでも、葬儀にも、何もかもから逃げた。
景はカードを握りしめた。
その瞬間、景の目の焦点が、すっと合わなくなった。
「……なんで、来なかったの」
景の口から、声が漏れた。
小さな、かすれた声。
「なんで、来なかったのよ」
もう一度。今度は、はっきりと。
景の深い茶色の瞳が、黒く濁っていく。感情が高ぶると、景の瞳はいつもそうなる。
「お母さん、死んだのよ。あんたが家を出て、何年も帰ってこなくて、それで、お母さん、一人で死んだのよ」
景は、そこにいない父に向かって言った。
「あんたのせいで、私が、全部やらなきゃいけなくなった。ルイの給食費も、レイの制服も、家のことも、全部。全部、私が」
声が震える。
「でも、あんたは、金だけ送って、それで全部やったつもりになってる。ふざけないで。お金があれば済むと思ってるの?あんたが来ないから、お母さん、あんなに寂しそうに」
景の視界が、涙で滲んでいく。
でも、涙はこぼれなかった。
代わりに、怒りが、悲しみが、寂しさが、ぐちゃぐちゃに混ざった感情が、景の全身から溢れ出した。
「……来てよ。お願いだから、一度でいいから、来てよ」
景は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
両手で顔を覆って、声を殺して泣いた。
母の葬儀の日、景は泣けなかった。
ルイとレイがいる前で、泣けなかった。
でも、今、この瞬間、景は初めて、母の死を、父の裏切りを、自分の置かれた状況を、全身で悲しむことができた。
どれだけの時間が経ったのか分からない。
景が顔を上げると、審査室は、水を打ったように静まり返っていた。
審査員たちが、全員、景を見ている。
言葉を失っている。
その中で、ただ一人、黒山墨字だけが、違う顔をしていた。
口元を、わずかに歪めて。
目を、ぎらぎらと光らせて。
「……君は、怪物だ」
黒山が呟いた。
他の審査員が、ざわめいた。
「黒山さん、今の演技は……」
「あれは演技じゃない。あれは、あの子自身だ。あの子は、自分の感情を、そのまま舞台に持ってきてる。普通の役者にはできない。いや、普通の役者なら、あんなことしたら壊れる」
黒山は立ち上がった。
「君、名前は?」
「……夜凪、景です」
「夜凪景。いい名前だ。覚えた」
黒山は、にやりと笑った。
───
最終審査が終わり、景は控室に戻った。
(私、何をしたんだろう)
景は、自分がさっき何をしたのか、うまく思い出せなかった。
ただ、体が重くて、頭がぼんやりしていた。
「夜凪景さん、ちょっといいですか?」
スタッフに呼ばれ、景は別室に通された。
そこに、黒山墨字が一人で座っていた。
「やあ、さっきぶり」
「……あの、私、落ちましたよね。あんな変なことして」
「落ちた?何言ってるんだ。君は合格だ。いや、合格とかそういうレベルじゃない。君は、俺が見つけたんだ」
「見つけた?」
「ああ。俺の映画に出るんだ。君は、俺の映画の主演女優になる」
景は、きょとんとした。
「……映画、ですか。私、賞金だけもらいに来たんですけど」
「賞金?」
黒山が、きょとんとした顔で景を見返した。
「はい。賞金100万円。それで、弟と妹の給食費を払おうと思って」
「給食費」
「はい。滞納してたので」
黒山は、数秒間、ぽかんとしていた。
それから、突然、大声で笑い出した。
「ははははは!給食費!あの演技で、給食費!最高だ、君は最高だよ!」
黒山は、腹を抱えて笑った。
景は、何がおかしいのか分からなかった。
「いいよ、賞金もやる。優勝ってことにしてやる。その代わり、俺の事務所に来い。スタジオ大黒天。俺がやってる事務所だ」
黒山は、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出して、景に差し出した。
『スタジオ大黒天 代表 黒山墨字』
「賞金より、面白いものが撮れるぞ。君のあの演技、あれを映画にしたら、とんでもないことになる」
「……でも、私、演技の勉強とか、したことないです。今日、初めて人前で演じました」
「勉強なんか必要ない。君は、もう持ってる。自分でも気づいてないだけで、君の中には、とんでもない化け物が住んでる」
黒山の目が、真剣だった。
「化け物……」
「ああ。使い方を間違えれば、君を食い殺す化け物だ。でも、使いこなせば、誰も見たことのない景色を見せられる」
黒山は、景の目をまっすぐ見た。
「俺は、それを見たい。君の中の化け物が、どこまで行けるのか、見てみたい」
景は、名刺を見つめた。
(私の中の、化け物)
さっきの感覚を思い出す。
あの、自分じゃない何かが、体の中から溢れてくる感覚。
(あれが、演技?)
「……私、やります」
景は言った。
「弟と妹のために、やります。賞金も、事務所も、映画も、何でもやります」
「いいね、その即決。嫌いじゃないよ」
黒山は、満足そうに笑った。
「そういえば、君、芸能界のことはどれくらい知ってる?」
「……全く」
「だろうな。じゃあ、簡単に教えてやる。今、この業界には、大きく分けて三つの勢力がある」
黒山は、指を三本立てた。
「一つ、スターズ。業界最大手の芸能事務所。所属タレント約三百人。テレビも映画も音楽も、何でもやってる。看板女優は百城千世子。『スターズの天使』って呼ばれてる、天才女優だ」
「百城千世子……」
さっき三田村も言っていた名前だ。
「二つ、劇団天球。舞台演劇の名門。所属俳優約五十人。新宿に専用劇場を持ってる。看板俳優は明神阿良也。『憑依型のカメレオン俳優』と呼ばれる、演劇界の怪物だ」
「怪物……」
「ああ。あいつも、君と同じで、普通の役者じゃない」
黒山は、三本目の指を立てた。
「そして、三つ目が、俺のスタジオ大黒天。所属タレント約三十人。少数精鋭。映画制作がメインだ。スターズや天球みたいな派手さはないが、俺の眼鏡にかなった奴だけがいる」
「三十人……少ないですね」
「多いか少ないかは、中身の問題だ。俺は、数は揃えない。面白い奴だけを集める」
黒山は、名刺を指さした。
「それに書いてある住所、渋谷の雑居ビル三階。来週、そこに来い。契約書を用意しておく」
「……分かりました」
景は、名刺を大切にポケットにしまった。
───
東都テレビを出たのは、夕方だった。
空が、オレンジ色に染まっている。
景は、駅に向かって歩きながら、スマートフォンを確認した。
ルイからメッセージが来ていた。
『姉ちゃん、どうだった?』
景は、返信を打った。
『合格した。あと、芸能事務所に入ることになった』
数秒後、返信が来た。
『は?』
景は、それ以上説明する気になれず、スマートフォンをポケットにしまった。
(私、これから、芸能人になるのか)
実感は、まったくなかった。
ただ、給食費を払える、ということだけが、確かだった。
家に着いたのは、夜の七時を過ぎていた。
アパートの二階、突き当たりの部屋。
景がポストを開けると、中に、白い封筒が入っていた。
「……また、お父さん?」
景は、封筒を手に取った。
でも、違った。
表に、何も書かれていない。
差出人の名前も、住所も、何も。
裏返しても、真っ白だった。
「何これ」
景は、封筒を開けた。
中に、一枚の紙が入っていた。
折りたたまれた、白い紙。
景は、その紙を開いた。
『あなたの父親を知っています』
たった一行。
それだけが、黒いインクで書かれていた。
「……え?」
景は、その場に立ち尽くした。
心臓が、どくん、と跳ねる。
(お父さんを、知ってる?)
誰が?
なぜ?
どうやって、この家の住所を?
景は、封筒を握りしめた。
紙が、くしゃりと音を立てる。
「なんなのよ、これ……」
景の声は、暗いアパートの廊下に、小さく溶けていった。
母の死。
父の失踪。
そして、この手紙。
景の胸の奥で、何かが、ざわりと動き始める。
景は、もう一度、手紙を見た。
『あなたの父親を知っています』
その文字が、夕闇の中で、やけに白く浮かび上がって見えた。
景は、ポケットから黒山の名刺を取り出した。
『スタジオ大黒天 代表 黒山墨字』
(私、これから、どうなるんだろう)
景は、名刺と手紙を、両手に握りしめた。
右手の指先が、無意識に、名刺の縁をとん、とん、と叩いていた。
景の新しい日々は、この夜から、静かに動き始める。
でも、それは、景が想像していたより、ずっとずっと、奇妙で、騒がしくて、そして、少しだけ、危険な日々の始まりだった。
そのことを、景はまだ、何も知らなかった。Noveliaとは?
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