アクタージュ・リビルド ~転生したら芸能一家のドタバタ恋愛劇!?~
給食費滞納のピンチを救うため、賞金100万円のオーディションに飛び込んだ夜凪景、16歳。演技経験ゼロ、特技は古い映画の真似だけ。なのに、即興演技で審査員を震撼させた彼女の“ある才能”とは——? 天才監督・黒山墨字に「君は怪物だ」と言わしめた景は、その日から芸能界の荒波へ。待っていたのは、業界最大手の天才女優・百城千世子、演劇界の怪物・明神阿良也、そして個性豊かなスタジオ大黒天の面々。さらに、届いた差出人不明の手紙——『あなたの父親を知っています』。失踪した父の謎、母の死の真相、そして景の中に眠る“化け物”の正体。ドタバタで危険で、ほんの少し切ない芸能一家の恋愛劇、開幕! 家族を守るため、景は今日も舞台に立つ。
アクタージュ・リビルド ~転生したら芸能一家のドタバタ恋愛劇!?~ - 謎の天才俳優・明神阿良也、現る!君の名前、なんだっけ?からの大逆転!?
稽古場の隅で、景は体育座りのまま、膝に額を押しつけていた。
コンクリートの床の冷たさが、腿の裏からじわじわと上ってくる。換気口の低い唸りだけが、四畳ほどの空間に溜まっていた。涙は、もう出なかった。目の奥が乾いて、まばたきのたびに瞼が擦れる。
スマートフォンの画面が、膝の上で光っていた。昨夜のメール。『お前の家族を守れるのは、お前だけだ』。液晶の青白い光が、指の腹の産毛を浮かび上がらせる。返信欄を開いて、親指を置いた。三文字打っては消し、三文字打っては消す。変換候補が、行儀よく並んでは消える。
(私が、全部、壊した)
事務所の給湯室で、すれ違いざまに落ちた「あの子のところ、契約書がどうとか」。言いかけて、口をつぐんだ先輩の横顔。ルイの制服の裾に跳ねた泥。洗濯表示を確かめるでもなく、景の爪先で擦った、あの茶色。レイが受話器の向こうで「大丈夫だから」と三度繰り返した声。三度目だけ、息が震えていた。
全部、私のせいだ。
「……お母さん」
声が、喉の奥で擦れた。呼んでから、届かないと分かっていた。母は、面会の日を待っている。面会までは、あと六日ある。六日。
鏡に映る自分の顔は、ひどく青白かった。照明の白が、頬の血色を吸い取っている。目の下のクマは、指でなぞると、皮膚の下に溜まった影のように動いた。唇は乾いて、中央が縦に裂けている。舌で舐めても、唾液はすぐに乾いた。
その時だった。
「あれ、誰かいる」
ドアが、外から押された。蝶番が軋んで、廊下の蛍光灯の光が、床に細長く滑り込む。
景は、弾かれたように顔を上げた。背中が鏡にぶつかって、温まったガラスが、ひやりと首筋に触れた。
立っていたのは、一人の青年だった。
ぼさぼさの黒髪。右の後ろだけ、跳ねて固まっている。よれよれのパーカーは、左の袖口がほつれて、糸が一本垂れていた。だぼだぼのジーンズの裾は、右だけまくられたまま。眠たげな目が、景をぼんやり捉えている。まぶたが、半分ほど降りている。寝起きのまま、外を歩いてきたような。
「……あ、ごめん。電気、点いてたから」
青年は、そう言って、あくびをした。口が大きく開いて、奥歯の銀が、照明を弾いた。閉じる時、顎が小さく鳴った。
「ここ、スタジオ大黒天の稽古場だよね。あってる?」
景は、こくりと頷いた。顎が、まだ少し硬い。
「……あなたは?」
「俺? 明神阿良也。劇団天球の」
明神阿良也。
景は、その名前に、はっとした。喉の奥が、つかえた。
劇団天球——舞台演劇の名門で、客席数四百の専用劇場「天球座」を持つ。その看板俳優が、確か、明神阿良也。演劇界では「憑依型のカメレオン俳優」と呼ばれる怪物だ。雑誌のインタビューで、役に入ると体温が変わる、と書いてあった。
(この人が……)
景は、まじまじと阿良也を見た。
外見は、どう見ても、天才俳優には見えない。髪は寝癖だらけで、パーカーの裾からは、中に着たシャツがはみ出している。シャツの裾は、洗濯で伸びたのか、波打っていた。
「へえ、君が夜凪景か」
阿良也は、景をじっと見た。まぶたが、少しだけ上がった。
「……知ってるんですか、私のことを」
「知ってるよ。噂になってるから。偽造契約書の子だろ?」
景の体が、こわばった。背筋が、鏡に押しつけられる。
(やっぱり、知られてる)
(芸能界中に、知れ渡ってるんだ)
「……そうです」
景は、小さく頷いた。膝の上で、指が、互いを握った。
「でも、あれ、君が書いたんじゃないんだろ?」
景は、顔を上げた。首が、軋んだ。
「……信じるんですか?」
「信じるっていうか、見れば分かるよ」
阿良也は、景の顔を、興味深そうに覗き込んだ。屈んだ拍子に、パーカーの裾が広がって、腰のあたりのシャツが、また一寸はみ出した。
「君、面白いね。名前、なんだっけ?」
「……え?」
「名前。さっき聞いた気がするけど、忘れた」
景は、口をぽかんと開けた。顎が、言うことを聞かなかった。
(今、私、名前言ったよね?)
(ていうか、知ってるって言ってたよね?)
「……夜凪景です」
「夜凪景。うん、覚えた。……たぶん」
「たぶんって何ですか」
景は、思わず突っ込んだ。声が、自分の耳で、少し大きかった。
「いや、興味のない人の名前は、すぐ忘れるから」
「興味ないんですか、私に」
「今のところは」
景は、言葉に詰まった。開いた口が、そのまま閉じない。
(この人、失礼すぎない?)
(でも、なんか、憎めない)
「まあ、でも、君の演技は見たよ」
阿良也は、稽古場の真ん中に、ぺたんと座り込んだ。あぐらをかいて、両手を膝に置く。床が、二人分の重みで、かすかに軋んだ。
「学園ドラマのやつ。あれ、面白かった」
「……見てたんですか」
「見た。君の演技、俺は好きだな。そういう演技」
景は、一瞬、呼吸を忘れた。胸の内側で、肺が膨らむのを、途中で止めたような感覚。
(好きだな、って)
(私の演技を、好きだって)
胸の奥で、何かが、じわりと温かくなる。乾いた唇の内側が、少しだけ潤った。
「……ありがとう、ございます」
景は、小さく頭を下げた。髪が、頬を滑った。
「でも、あれ、危ないね」
「……危ない?」
「君、役に、自分を全部使ってる。自分の感情を、役に貸してる。あれは、すごく疲れるよ」
阿良也の声は、淡々としていた。天気の話をするような平坦さで、しかし、言葉の端が、妙に正確だった。
「でも、私は、そういうやり方しか、できなくて」
景は、膝を抱え直した。腕に、自分の体温が戻ってくる。
「うん。だから、面白い」
阿良也は、にやりと笑った。口の端だけが上がって、目は、まだ眠たげだった。
「……あの」
景は、意を決して、口を開いた。喉が、からからに乾いていた。
「私、契約書の件で、困ってて。誰も信じてくれなくて。でも、私、サインなんて、してないんです」
「うん、知ってる。だから、見れば分かるって言った」
「……え?」
「あの契約書、筆跡が、ちょっと違うんだよ。君の字と」
景は、目を丸くした。まばたきを忘れて、眼球が、しんと冷えた。
「なんで、そんなことが分かるんですか」
「俺、字を覚えるのが得意でね。人の字を見ると、その人の癖が分かるんだ」
阿良也は、指で、床に字を書く真似をした。人差し指の腹が、コンクリートの上を、ゆっくり滑る。
「君の字は、すごく丁寧で、真面目。でも、あの契約書の字は、君の字を真似ようとして、ちょっとだけ、違う。何度も練習した跡がある」
「……何度も、練習した跡」
景は、ごくりと唾を飲んだ。喉仏が、上下に動いた。
「ああ、それと、あの手口ね。前に、舞台の共演者がやられてた。あの男、契約書の筆跡を真似るのが得意なんだって。何度も練習して、完璧に真似るらしいよ」
阿良也は、まるで、今日の天気の話をするように言った。
「……それ、本当ですか?」
景の声が、震えた。語尾が、空気に溶けずに、そのまま落ちた。
「本当。その共演者、結局、契約書のせいで、事務所を辞めたけどね」
景の心臓が、どくん、と跳ねた。肋骨の内側を、拳で叩かれたような重さ。
(私だけじゃ、なかったんだ)
(同じ手口で、やられた人が、いるんだ)
「……それ、詳しく、聞かせてください」
景は、阿良也の前に、にじり寄った。床に擦れた膝が、じんと熱を持った。
「いいよ。でも、その前に、一つ」
阿良也は、景の目を、真っ直ぐに見た。まぶたが、ちゃんと上がっていた。
「君、名前、なんだっけ?」
「……夜凪景です」
景は、ため息をついた。吐いた息が、少しだけ長かった。
「うん、夜凪景。今度こそ覚えた」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶんじゃないですか!」
景は、思わず声を上げた。稽古場の壁に、声が跳ね返って、少しだけ埃が落ちた。
(この人、天才なんだよね?)
(なのに、なんで、こんなに残念なの?)
でも、不思議と、肩の力が抜けていた。鎖骨のあたりが、ふっと軽くなった。
どん底だと思っていた。
一人で、真っ暗な穴の底にいるみたいだった。
でも、今は、少しだけ、穴の上から、光が差し込んでいる気がした。換気口の唸りが、さっきより、少しだけ静かに聞こえた。
「……ありがとうございます、明神さん」
景は、もう一度、頭を下げた。髪の先が、床に触れた。
「阿良也でいいよ」
「……阿良也さん」
「うん。で、君の名前、なんだっけ?」
「もう忘れたんですか!?」
景は、声を張り上げた。喉が、少し痛かった。
「いや、覚えてる。夜凪景だろ? 冗談だよ」
「……絶対、今、思い出しましたよね」
「まあ、細かいことはいいじゃないか」
阿良也は、あっけらかんと言った。手を、ぱん、と膝に打ちつける。
景は、深いため息をついた。肩が、大きく上下する。
(この人、ほんと、つかみどころがない)
でも、不思議と、嫌な気分ではなかった。
むしろ、少しだけ、元気になっていた。指先の冷たさが、いつの間にか、消えていた。
——
景は、阿良也から聞いた話を、すぐに黒山に伝えた。廊下を、小走りで抜けた。スニーカーの底が、リノリウムに、キュッ、キュッと鳴った。
「……筆跡鑑定?」
黒山は、難しい顔で、景を見た。眉の間の皺が、いつもより一本深い。
スタジオ大黒天の応接室。黒山は、机の上に、例の契約書のコピーを広げていた。指先で、紙の端を、几帳面に揃える。
「はい。あの契約書の筆跡は、私のものじゃない。阿良也さんが、そう言ってました。何度も練習した跡があるって」
「明神阿良也が、そんなことを?」
黒山の目が、わずかに見開かれた。眼鏡の縁が、照明を反射した。
「はい。それに、あのヨルカゲの男は、過去に別の若手俳優にも、同じ手口を使ったそうです」
黒山は、しばらく黙っていた。机の上のコピーを、指先で、二度、三度と叩いた。乾いた音が、部屋の静けさに、はっきりと刻まれた。
「……分かった。専門の鑑定士に、すぐに依頼する」
「本当ですか!?」
景の声が、弾んだ。椅子の背にもたれかけた肩が、前へ戻る。
「ああ。お前が、そこまで言うなら、調べてみる価値はある。ただし、結果が出るまでは、時間がかかる。それまで、お前は、何もするな」
「……何も、ですか」
「そうだ。勝手に動くな。いいな?」
黒山の声は、厳しかった。語尾が、机の上に、石のように落ちた。
「……はい」
景は、素直に頷いた。膝の上に置いた手を、ぎゅっと握る。
(でも、これで、少しは前進できる)
(私の無実を、証明できるかもしれない)
景の胸に、小さな希望の光が灯った。乾いた唇の内側が、また、少しだけ潤った。
——
その時だった。
「あら、お邪魔かしら」
応接室のドアが、静かに開いた。蝶番が、鳴らなかった。
ゆるく巻いた栗色のロングヘア。宝石のような紫がかった大きな瞳。左手首には、小さな星のブレスレット。歩くたびに、星が、小さく揺れた。
完璧な微笑み。
「千世子さん!?」
「景ちゃん、顔色、少し良くなったわね。良かった」
千世子は、景の隣に、すっと座った。椅子が、軋みもしなかった。香水の匂いが、ほのかに、空気を変えた。甘すぎず、尖りすぎず。
「……どうして、ここに?」
「景ちゃんが、筆跡鑑定を頼むって聞いたから。私、手伝えることがあるの」
千世子は、机の上の契約書のコピーを、手に取った。白い指先が、紙の端を、優しく摘む。
「私、昔から、人の字を真似するのが得意なの。景ちゃんの筆跡と、契約書の筆跡、微妙に違うわ」
千世子は、契約書の署名欄を、じっと見つめた。まばたきが、一度、ゆっくりと落ちた。
「この署名、何度も練習された形跡がある。最初は、景ちゃんの字に似せようとして、だんだん、本物らしくなっていく。でも、最後の一画が、わずかに、迷ってる」
千世子の指が、署名の上を、なぞる。爪の先が、紙に、かすかな影を落とした。
「……分かるんですか?」
景は、驚いて、千世子を見た。背筋が、椅子の背から、少し浮いた。
「ええ。人の字を真似するのが、昔から、趣味みたいなものだったから」
千世子は、にこりと笑った。目が、三日月の形に、きれいに歪む。
「……趣味って」
「ふふ、冗談よ。でも、本当に、分かるの。この字は、景ちゃんの字じゃないわ」
千世子は、契約書を、机の上に置いた。紙が、机に触れて、ぺたり、と音を立てた。
「私は景を信じるわ。だって、あなたは、私が唯一、本気でライバルだと思える人なんだから」
千世子は、景の目を、真っ直ぐに見た。紫の瞳が、照明を、小さく二つ、映していた。
その瞳は、澄んでいて、美しくて、そして、どこか、底が見えなかった。
「……千世子さん」
景は、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるのを感じた。息を吸うのが、一瞬、遅れた。
(この人、本当に、私の味方なの?)
(それとも、これも、演技なの?)
景には、まだ、分からなかった。千世子の微笑みが、完璧すぎて、どこにも、綻びが見つからなかった。
でも、今は、その言葉が、ただ、ありがたかった。胸の内側の、締め付けが、ゆっくりとほどけていく。
「……ありがとう、ございます」
景は、深く、頭を下げた。髪が、膝の上に、さらりと落ちた。
——
「景ちゃん!」
突然、応接室の外から、声がした。廊下を、走ってくる足音。スニーカーの底が、リノリウムを、ドンドンと叩く。
ドアが、勢いよく開く。蝶番が、悲鳴を上げた。
そこに立っていたのは、星アキラだった。息が、少し上がっている。前髪が、汗で、額に張りついていた。
明るい茶髪のマッシュスタイル。琥珀色の優しい瞳が、真剣に、景を見つめている。
「アキラくん……」
「俺も、景ちゃんを信じる!」
アキラは、景の前に、駆け寄った。床を、三歩で詰める。
「証拠がなくても、俺は、景ちゃんの味方だ。だって、俺、景ちゃんのこと、好きだし」
アキラは、真っ直ぐに、そう言った。声が、少しも、震えていなかった。
景の顔が、一気に赤くなった。頬が、熱を持って、耳の先まで、じんじんと広がる。
「な、な、なに言ってるの!?」
景は、声を裏返らせた。喉の奥が、変な風に、窄まった。
「本気だよ。俺、景ちゃんが、そんなことする人じゃないって、分かってるから」
アキラの声は、真剣だった。琥珀色の瞳が、まばたきを、忘れていた。
「……アキラくん」
景の心臓が、うるさいほど脈打つ。耳の奥で、自分の血流の音が、ざわざわと鳴った。
(この人、なんで、こんなに、真っ直ぐなの)
(恥ずかしい)
(でも、嬉しい)
「あら、アキラ。私も、景ちゃんの味方よ」
千世子が、アキラと景の間に、すっと割って入った。椅子が、静かに、横へ滑る。
「千世子さん……」
「景ちゃんを泣かせた相手は、私が許さないんだから」
千世子は、景の腕に、自分の腕を絡めた。しっとりとした重みが、肘の内側に、ぴたりと添う。
「ちょ、ちょっと、千世子さん!?」
「景ちゃんは、私が守るわ。アキラには、渡さない」
千世子は、アキラを、挑発するように見た。顎が、ほんの少し、上がる。
「な、何を言ってるんですか!」
アキラは、慌てた。両手が、宙で、行き場をなくして彷徨う。
「……二人とも、ここは、事務所なんだけど」
景は、二人の間に挟まれて、困り果てた。右腕と左腕に、違う温もり。右は、しっとりと重く。左は、少し汗ばんで、熱い。
(なんで、こんなことになるの?)
(私、今、それどころじゃないんだけど)
でも、不思議と、心は、温かかった。胸の真ん中が、じんわりと、灯りをともしたように。
一人じゃない。
そう、思えた。
——
「……あ、そうだ」
いつの間にか、阿良也が、応接室の入り口に立っていた。壁に、片方の肩を預けて、だらりと立っている。
「阿良也さん!?」
「俺、あの男が、どこにいるか知ってるよ」
阿良也は、あっさりと言った。肩を、壁から離す。
「……え?」
「ヨルカゲの男。前に、舞台の楽屋で会ったから。住所、聞いてるんだ」
景は、言葉を失った。開いた口が、そのまま、固まった。
(ヨルカゲの、居場所?)
(そんな、簡単に?)
「行くんでしょ? なら、連れて行くよ」
阿良也は、景の顔を、覗き込んだ。まぶたが、少しだけ、上がっていた。
「……でも、一人で行くのは、危ないです。黒山さんにも、何もするなって言われてますし」
景は、ためらった。黒山の言葉が、耳の奥で、低く響いた。
「俺も行く!」
アキラが、叫んだ。拳を、握りしめて、一歩、前に出る。
「景ちゃんを、一人にしない!」
「私もよ。景を泣かせた相手は、許さないんだから」
千世子も、続いた。微笑みは、まだ、完璧なままだった。
「……みんな」
景は、三人の顔を、順番に見た。阿良也の、よれよれのパーカー。アキラの、張りつめた頬。千世子の、揺るがない微笑み。
阿良也は、相変わらず、眠たげな顔。
アキラは、真剣な顔。
千世子は、完璧な微笑み。
(この人たち、みんな、変)
(でも、今は、その変さが、ありがたい)
「……分かった。行こう」
景は、決意した。椅子から、立ち上がる。膝が、少しだけ、笑っていた。
「私、もう、逃げない。自分の無実を、自分の手で、証明する」
景の声は、震えていた。語尾が、空気に、かすかに、擦れた。
でも、その瞳には、強い光が宿っていた。乾いた唇の内側が、いつの間にか、潤っていた。
——
四人は、スタジオ大黒天を出た。自動ドアが、背後で、静かに閉まる。
外は、もう、暗かった。街灯の白が、アスファルトの上に、丸く、薄く広がっている。
冷たい風が、景の頬を、刺す。コートの隙間から、首筋に、すっと入り込んだ。
(家族を守れるのは、お前だけだ)
昨夜のメールが、また、頭をよぎる。スマートフォンの重みが、ポケットの中で、急に、増した。
景は、スマートフォンを、ぎゅっと握りしめた。指の腹が、画面の縁に、食い込む。
「……私、もう、一人じゃないんだ」
景は、小さく、呟いた。白い息が、夜の空気に、ほどけて消えた。
「何ブツブツ言ってるの? 早く行くよ」
阿良也は、先を歩いていた。パーカーの背中が、街灯の下を、ゆらりと過ぎる。
「……待ってください!」
景は、阿良也の後を追った。スニーカーの底が、アスファルトを、軽く叩く。
その背中を、アキラと千世子が、並んで追いかける。
「ねえ、景」
千世子が、景の隣に、ぴったりと寄り添った。肩が、触れるか触れないかの距離。
「……はい?」
「あなた、アキラのこと、どう思ってるの?」
千世子は、突然、そんなことを聞いた。声は、静かで、しかし、妙に、真剣だった。
「ど、どうって……仲間だし」
景は、動揺した。歩く速度が、一瞬、乱れる。
「ふうん。じゃあ、私がもらってもいいのね?」
千世子は、にこりと笑った。星のブレスレットが、小さく、鳴った。
「も、もらうって何!?」
景は、パニックになった。声が、裏返る。
「ちょっと、千世子さん、何言ってるんですか!」
アキラが、二人の間に、割って入った。肩が、ぶつかりそうになる。
「あら、アキラ。景ちゃんは、あなたのこと、仲間だって言ってるわよ」
「そ、それは、そうだけど!」
「なら、私がもらっても、問題ないわよね?」
「問題あります!」
「……人間って、面倒くさいね」
阿良也が、ぼそりと呟いた。振り向きもせず、歩き続ける。
「阿良也さんも、何か言ってくださいよ!」
「俺は、どっちでもいいよ。早く行こう」
阿良也は、歩く速度を上げた。パーカーの裾が、風に、はためく。
「……もう」
景は、ため息をついた。白い息が、夜の空気に、長く、尾を引いた。
(なんで、こんな時に、恋バナなの?)
(でも、なんか、温かい)
(一人じゃないって、こういうことなのかな)
景は、前を歩く三人の背中を見た。
阿良也の、よれよれのパーカー。
アキラの、真っ直ぐな背中。
千世子の、揺れる栗色の髪。
(変な人たち)
(でも、私の、味方)
景は、小さく、笑った。口の端が、ほんの少しだけ、上がった。
涙が、少しだけ、滲んだ。目尻が、熱を持った。
でも、それは、悲しい涙ではなかった。
——
「着いたよ」
阿良也が、足を止めた。パーカーの背中が、街灯の下で、ぴたりと止まる。
そこは、都心から少し外れた、古い雑居ビルだった。看板もなく、明かりも、ほとんど点いていない。二階の窓は、新聞紙で、内側から塞がれていた。
「……ここに、ヨルカゲの男が?」
景は、ごくりと唾を飲んだ。喉が、からからに乾いていた。
「うん。三階。前に、ここで会った」
阿良也は、ビルを指さした。人差し指が、三階の窓を、正確に示す。
「……本当に、ここなの?」
アキラは、怪しげなビルを見上げた。首が、ゆっくりと、後ろへ反る。
「私、ちょっと、調べてみるわ」
千世子は、スマートフォンを取り出した。画面の光が、顎の下を、青白く照らす。
「……景ちゃん」
アキラが、景の手を、そっと握った。少し汗ばんだ、熱い手のひら。
「大丈夫。俺が、ついてるから」
アキラは、景の耳元で、囁いた。息が、耳介に、かすかに触れた。
景の顔が、真っ赤になった。耳の先が、じんじんと、熱を持った。
「あ、ありがとう……」
景は、声が、うまく出なかった。喉の奥で、言葉が、つかえた。
「あら、アキラ、ずるいわよ」
千世子が、景のもう片方の手を、ぎゅっと握った。しっとりとした、冷たい手のひら。
「景ちゃんの手、私も握りたい」
「な、なんで、両手を!?」
景は、真っ赤な顔で、叫んだ。両手が、違う温もりに、挟まれていた。
「……人間って、ほんと、面倒くさいね」
阿良也は、ビルの入り口に向かって、歩き出した。パーカーの裾が、夜風に、ふわりと、揺れる。
「行くよ。あの男、夜の方が、いる確率が高いから」
「……はい!」
景は、二人に手を握られたまま、阿良也の後を追った。スニーカーの底が、アスファルトを、小刻みに叩く。
心臓は、うるさいほど脈打っている。肋骨の内側で、鼓動が、反響する。
(怖い)
(でも、一人じゃない)
(大丈夫)
景は、ビルの入り口を見上げた。街灯の光が、届かない場所から、暗がりが、じっとりと、こちらを見返していた。
真っ暗な階段が、上へと続いている。一段目は、どこか、埃を被っていた。
(ここからが、本当の勝負だ)
景は、強く、拳を握った。爪が、手のひらに、食い込んだ。Noveliaとは?
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