灰の中の紋章
農夫の息子ケイルは、獣の暴走によって村が襲われ、父を失う。父の最後の言葉は「この紋章の背後にいる者たちを見つけろ」というものだった。ケイルの手に押し付けられた「灰の中の紋章」は、永遠の炎の騎士団の最高位の一つを示すものだったが、ケイルにはそれを読むことができなかった。
残されたのは、記憶が真実と虚構の間をさまよう壊れた心を持つ叔父、アルドレン・セリウスだけ。ケイルは彼を車椅子に乗せ、広い道へと踏み出す。
旅の途中で、偉大な魔法都市を目指す若き魔術師リズ・カナールと、彼を護衛する老傭兵ブラックに出会う。ケイルは初めて、冒険者や戦士たち、そして自分の農場よりはるかに広大な世界を目の当たりにする。漂流する司祭フェンウィック、魔女イサラ・ティアリス、そしてエルフの射手シアレも加わり、小さな一行は新たな王国へと足を踏み入れる。
しかし、何かがおかしい。焚き火のそばで、アルドレンは皆の歌に合わせて口ずさむ。旋律が高まるにつれて、魔術師たちが感じる共鳴も一音一音と高まり、頂点では大師範のレベルにまで達する。しかし最後の一音が消えた瞬間、アルドレンは眠りに落ち、調和は突然途切れた。
誰もその光
灰の中の紋章 - 灰の畑に落ちた一輪の徽章
朝もやがまだ畑の上に薄く這っていた。
エルデン村の東の畑で、ケイル・エルデンは鎌を握っていた。十六歳。乱れた茶色のショートヘア、日焼けした細身の体農作業で鍛えられた堅い手のひら。簡素な麻の上着とズボンは、何度も繕った跡が白く浮いている。落ち着いたヘーゼル色の瞳が、揺れる麦の穂の向こうへと向けられていた。
隣の畑では、同い年の少年が畝の端に腰を下ろし開いた本を読んでいた。革の表紙、掠れたページ。少年の指が文字をなぞるたびケイルの胸の奥で、小さな棘のようなものがちくりと痛む。
(読めるんだな)
読める。あの少年は、文字が読める。
(俺には自分の名前も書けないのに)
ケイルは視線を逸らし、鎌を振るった。ざくりと麦の茎が倒れる。乾いた音。その音だけが、彼の世界のすべてだった。
「ケイル手が止まってるよ」
母の声が、後ろから聞こえた。振り返ると母が腰を曲げて麦を束ねている。四十を少し過ぎた女。日に焼けた顔、結い上げた栗色の髪節くれだった指。その指先は、いつも土の匂いがした。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。でもね、ぼんやりしてると指を切るよ」
母はそう言って、苦笑いを浮かべた。その笑顔の端に細い疲れの筋が走っている。ケイルはそれを見て、また鎌を握り直した。
畑の向こう家の縁側に一台の車椅子が置かれていた。
車椅子には、銀髪に白髪の混じった男が座っている。アルドレン・セリウス。ケイルの叔父。五十歳。長い髪は乱れ、灰色の瞳はどこか虚ろでしかし時折刃のように鋭く光る。痩せた体、脱力した手足けれど背筋だけはなぜか崩れない。
アルドレンは、空を見ていた。
「……ラララ……炎は歌う……灰の中で……」
意味の分からない旋律だった。ケイルは小さい頃から、この叔父の呟きを何百回と聞いてきた。歌なのか、呪文なのかそれとも壊れた記憶の残骸なのか。誰にも分からない。アルドレン自身にも、分かっていないだろう。
「叔父さんまた変な歌歌ってる」
「……歌ではない。……祈り、だ。……たぶんな」
アルドレンはそう言って、また空へ顔を戻した。灰色の瞳が雲の切れ間に吸い込まれていく。ケイルはしばらくその横顔を見ていたが、やがて麦の方へと向き直った。
エルデン村はレオンハルト王国の西の端にある。魔獣の森に隣接した、小さな農村だ。人口は百五十人ほど。小麦と葡萄、それから少しの狩猟で村人たちは細々と暮らしている。
この大陸──エテルノ大陸には、三つの大きな勢力がある。中央のレオンハルト王国、南西のグランロッサ商業連邦北東のヴァルドリア帝国。そして三百年前の魔獣大戦で大陸を救ったとされる魔術師たちが、騎士と並ぶ地位を確立してからもうずいぶん経つ。
だが、そんな話はケイルにとって遠い国の絵空事だった。
(魔術師なんて、見たこともないしな)
村に来るのは年に一度か二度、行商人くらいのものだ。魔術師も騎士も冒険者も、ケイルの世界にはいない。
あるのは麦と土と識字税。
「……ハルは、まだ怒ってるのか」
アルドレンが、ぽつりと呟いた。
「父さん? うん。昨日も村長の家の前で文句言ってたよ」
「あのな、識字税ってのはなおかしな話だ。文字が読めるだけで、年五ゴールドだぞ。五ゴールドと言えばパンが五百個買える。農家が一年かけて貯める額だ」
声のした方を振り返ると、父のハル・エルデンが鍬を担いで立っていた。四十代半ば、がっしりした体躯日に焼けた赤ら顔太い眉。ケイルと同じヘーゼル色の瞳が、怒りでぎらついている。
「父さん朝からそんな怒ってたら、体に悪いよ」
「怒ってるんじゃない。呆れてるんだ。この国はな、ケイル。魔術師は優遇し農民からは税を搾り取る。魔術師協会とやらの連中は、王都でぬくぬくやってるくせに俺たちのことは知らん顔だ」
ハルは鍬を地面に突き立て、唾を吐いた。
「だからお前には読み書きなんて教えなかった。覚えたところで、識字税を取られるだけだ。損しかしない」
「でも、読めたらもっと色んなことが分かるんじゃないかな」
「色んなこと、ってなんだ」
「……分からない。分からないから、読みたいんだ」
ハルは一瞬、言葉に詰まった。それからふんと鼻を鳴らす。
「夢みたいなこと言うな。飯を食うために働け」
(……そうだよな)
ケイルはうつむいた。父の言うことは、たぶん正しい。文字を覚えても飯は食えない。だが、それでもあの少年が本を読む横顔を見るたび、胸の奥がざわつくのだ。何か大事なものを自分は持っていないのではないか、と。
そのときだった。
──ずんと。
地面の底から低い響きが這い上がってきた。
「……なんだ、今の」
鎌を握る手が、止まる。麦の穂が一斉に揺れた。風ではない。震えだ。
「地響き……?」
ハルが鍬を握り直し、西の方を睨んだ。魔獣の森の方角だ。
「獣か。またか」
「追い払えば済むよ。いつものことだろ」
「ああ。いつものことだ」
だが、いつものことではなかった。
村の西の見張り台から、古老の一人が叫んだ。声が裏返っている。
「数が──多い! 十や二十じゃない! 三十、四十……いやもっとだ!」
「四方から来てる! 囲む気だぞ、こりゃ!」
ケイルは鎌を落とし、走り出した。畑の畦を飛び越え村の広場へ。広場にはすでに、鍬や鎌を持った男たちが集まり始めていた。だが、誰の顔にもいつもの余裕はない。
(獣が統制されてる?)
それが、ケイルの最初の違和感だった。
獣は群れで来る。だが、普通は散り散りに走り好き勝手に暴れる。ところが今、聞こえてくる足音は揃っている。規則正しく四方から、一定の速度で近づいてくる。まるで誰かが指揮しているかのように。
「おい、見ろ」
ハルの指差す先、村の入り口の丘の上。獣の群れの後方に人影があった。
黒ずくめの、一団。全身を黒い布で覆い顔には仮面。十人十五人。手には得物。整然と、獣の後ろに控えている。
「あれは……人か?」
「人間だ。間違いない」
ハルの声が、低く沈んだ。
「獣を操ってる。獣呼びの笛だ。教団の連中の仕業だ」
「教団……?」
「《エターナル・フレイム》。《エターナル・フレイム》教団。大陸最古の宗教結社だ。表向きは聖火の祈りを捧げる慈善団体。だが、裏ではな獣を操って村を襲いある紋章を持つ者を探している、という噂がある」
「紋章?」
「銅の徽章だ。太陽と炎の円環。教団の最高位──焔守の証だと言われてる。だが、そんなものこの村にあるはずがない。だから何かの間違いだ。……たぶんな」
その言葉の端が、わずかに震えていた。ケイルは父が何かを隠している、と直感した。
だが考える暇はなかった。
──ドン。
村の木の柵が、内側から弾け飛んだ。獣がなだれ込んでくる。ヴェルグリム。狼型の魔獣。体長二メートル、体重百五十キロ。血走った目よだれを垂らした顎、その奥に並ぶ牙の列。
「ケイル! 納屋だ! 行け!」
「父さん!」
「行けって言ってる!」
ハルはケイルの肩を掴み、納屋の扉へと押し込んだ。
「ここを動くな。何があってもだ」
「でも、父さんは──」
「俺は、お前とアルドレンを守る。それが父の仕事だ」
そう言って、ハルは扉を閉めた。暗闇。藁の匂い。ケイルの心臓が、胸の奥で叩かれている。
外から剣戟の音が聞こえた。ハルは錆びた剣を取ったのだ。錆びた、古い剣。農民が獣と仮面の男たちに立ち向かっている。
ケイルは藁束の陰に身を潜め、隙間から外を覗いた。
ハルが獣の一体の首を刈った。返す刃で、もう一体の喉を裂く。農作業で鍛えた腕は剣を振るうにも十分な力を持っていた。
(父さん、強い)
だが次の瞬間だった。
黒ずくめの仮面の男が、ハルの背後に回り込んだ。音もなく。ハルが気づいたときには、すでに遅い。男の一突きがハルの腹を貫いた。
「──ぐ、あ」
ハルが膝をつく。血が、土の上に広がる。
「父さん!!」
ケイルは叫んだ。だが、体が動かない。足が床に縫い付けられたように。
ハルは、倒れながらも右手を握りしめていた。その指の隙間から、鈍い光が漏れている。銅色の丸いもの。
「……これを……」
ハルの声は、もう聞こえないほど小さかった。
「……持って……この紋章の……者を……探せ……」
それが、最後だった。ハルの体が崩れる。血の海が畑の土を黒く染めていく。
ケイルは藁束の陰で、歯を食いしばった。涙は出なかった。ただ拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む痛みだけを感じていた。
(動け。動けよ、俺)
だが体は動かない。
そのとき納屋の奥で声がした。
「……焔守の座は……」
ケイルは振り返った。車椅子のアルドレンが、目を見開いていた。灰色の瞳が燃えている。
「……空位か。……埋まったの、か」
「叔父さん、今逃げないと──」
ケイルが駆け寄った瞬間だった。
納屋の扉が、内側から蹴破られた。仮面の男が一人入ってくる。手には、血に濡れた短刀。
「見つけたぞ。ガキと老人か」
「──ッ」
ケイルは後ずさった。だが、アルドレンは動かなかった。
男が短刀を振り上げる。ケイルは目を閉じた。
──が、音がしなかった。
恐る恐る目を開けると信じられない光景が広がっていた。
アルドレンの手が、仮面の男の手首を掴んでいた。痩せた震える手。なのに、男の腕はぴくりとも動かない。
「……なにを」
アルドレンの灰色の瞳が、男を射抜いていた。
「……邪魔をするな」
次の瞬間、アルドレンの手がひとひねりされた。
──ゴキ。
鈍い音。男の体が、地面に叩きつけられる。背中から落ち息が詰まる。短刀が、床に転がった。
(なんだ今の)
脚の不自由な、車椅子の老人。その動きではなかった。速く正確で、無駄がない。何十年も戦い続けた者の洗練された動き。
アルドレンは、すぐに力を失った。糸が切れたように車椅子の背にもたれかかる。灰色の瞳が、再び虚ろになっていく。
「……ケイル。……行くぞ」
「叔父さん、今の何──」
「行くぞ」
アルドレンの声は、もうかすれていた。だがその一言には逆らえない重みがあった。
ケイルは、外の様子を隙間から覗いた。
村は炎に包まれ始めていた。家々が、次々と火を吹く。獣の遠吠え人の悲鳴剣のぶつかる音。すべてが混ざり合って、地獄の音になっている。
(母さんは)
ケイルは台所の方を見た。窓が割れ、中が覗ける。
──母が床に倒れていた。喉を裂かれ、血の海に沈んでいる。
(……)
声が出なかった。涙も出なかった。ただ、胸の奥で何かが凍りつく音がした。
庭の方から、獣の咀嚼音が聞こえる。父の遺体を獣が喰っているのだ。
(行かないと)
ケイルは、震える手で父の指の隙間から銅板を抜き取った。冷たい。手のひらに、ずしりと重い。円環と炎の紋様。意味の分からない紋章。
「……これを持って、この紋章の者を探せ」
父の言葉を、繰り返した。意味は分からない。分からないけれど、これが父の遺した唯一のものだ。
ケイルは銅板を首から下げた。鎖はなかったので、革紐を切って結んだ。冷たい金属が胸の上で揺れる。
「叔父さん、行くよ」
ケイルは、車椅子の取っ手を握った。
「……ああ」
アルドレンは、もうほとんど眠っていた。だがその口元がわずかに動いた。
「……歌は……永遠に……」
ケイルは、裏口へと車椅子を押した。
藁の匂い血の匂い煙の匂い。すべてが混ざり合った納屋を、後にする。
外は昼のはずなのに夜のように暗かった。煙が、太陽を覆っている。炎が空を舐めている。
ケイルは、走った。車椅子を押しながら走った。
村の外れの丘まで、あと少し。
途中足がもつれそうになった。振り返りたくなった。母の、父の家のすべてが炎の中にある。
(振り返ったら)
(足が止まる)
分かっていた。だから、振り返らなかった。
丘の頂上に達したときケイルは、一度だけ立ち止まった。
背後のエルデン村は完全に炎に包まれていた。赤い光。黒い煙。小さな、けれど確かな消えゆく世界。
ケイルは拳を握りしめた。首から下げた銅板が、胸の上で冷たく揺れる。
(俺は文字が読めない)
(何も知らない)
(でも)
(この徽章が何なのか、必ず突き止める)
(そして父さんを殺した奴らを、見つける)
それが彼の最初の誓いだった。
丘を越えると、道が続いていた。西へ向かう細い街道。魔獣の森を避けて、北へ。王都レオンハルトへあるいはその先へ。
どこへ行くのか、分からない。
何が待っているのか分からない。
ただ、車椅子の上の叔父と首から下げた銅板だけが、ケイルのすべてだった。
「……行こう叔父さん」
アルドレンは、答えなかった。すでに眠っていた。
ケイルは頬を伝うものを、袖で乱暴に拭った。それから車椅子を押して街道を歩き始めた。
朝もやは、もうどこにもなかった。
空には灰色の雲が広がっている。
その下を、十六歳の少年が一台の車椅子を押して歩いていく。
彼は、まだ知らない。
自分が背負ったものの重さも。
車椅子の上の老人が、何者なのかも。
そしてこの道の先に何が待っているのかも。
ただ、一歩ずつ前に進むだけだった。
風が吹いた。
丘の上の、焼け跡から灰が舞い上がる。
一輪の名も知らない花が、街道の脇に咲いていた。ケイルはそれを見た。
(……花だ)
なぜか、その花だけが目に焼きついた。
炎の記憶の中に、たった一つ残った柔らかな色。
少年は歩き続けた。
花は、後ろへ遠ざかっていく。
だがその花の色だけは、彼の中にずっと残った。Noveliaとは?
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