灰の中の紋章
農夫の息子ケイルは、獣の暴走によって村が襲われ、父を失う。父の最後の言葉は「この紋章の背後にいる者たちを見つけろ」というものだった。ケイルの手に押し付けられた「灰の中の紋章」は、永遠の炎の騎士団の最高位の一つを示すものだったが、ケイルにはそれを読むことができなかった。
残されたのは、記憶が真実と虚構の間をさまよう壊れた心を持つ叔父、アルドレン・セリウスだけ。ケイルは彼を車椅子に乗せ、広い道へと踏み出す。
旅の途中で、偉大な魔法都市を目指す若き魔術師リズ・カナールと、彼を護衛する老傭兵ブラックに出会う。ケイルは初めて、冒険者や戦士たち、そして自分の農場よりはるかに広大な世界を目の当たりにする。漂流する司祭フェンウィック、魔女イサラ・ティアリス、そしてエルフの射手シアレも加わり、小さな一行は新たな王国へと足を踏み入れる。
しかし、何かがおかしい。焚き火のそばで、アルドレンは皆の歌に合わせて口ずさむ。旋律が高まるにつれて、魔術師たちが感じる共鳴も一音一音と高まり、頂点では大師範のレベルにまで達する。しかし最後の一音が消えた瞬間、アルドレンは眠りに落ち、調和は突然途切れた。
誰もその光
灰の中の紋章 - 星を読む女と、歌う老人——マナが共鳴する夜
森の空気は、昼でも薄暗く湿っていた。
ロザンを抜けてから、ケイル・エルデンたちは王国北部の森林地帯をひたすら北へ進んでいた。リューベルクへと続く街道は、深い木立の間を縫うように伸びている。踏み固められた土の道には、前を歩く者の足跡がくっきりと残っていた。
車椅子の車輪が、木の根に乗り上げてガタリと揺れた。
「……すまない」
アルドレン・セリウスの声は、かすれて消え入りそうだった。銀色の髪は汗で額に張り付き、灰色の瞳は焦点を失ったまま、どこか遠くを見ている。
「気にすんな。もうすぐ開けた場所に出る」
ケイルは車椅子の取っ手を握り直した。手のひらに豆が潰れた跡がある。十六年の農作業で鍛えた手でも、一ヶ月近い旅路は容赦なく皮膚を削っていく。
「ねえ、ケイル。休憩はまだ?」
後ろから、リズ・カナールの声がした。振り返ると、黒い短髪の少女が眉をひそめて自分の靴を見下ろしている。旅の汚れが、彼女の整った顔にもうっすらと浮かんでいた。
「日が暮れる前に、もう少し進みたい。焚き火ができる場所を探す」
「……また野宿ですか」
リズの声に、疲れとわずかな不満が混じる。
「悪いな。金がないんだ」
「いえ、そういう意味ではなくて。その、慣れないもので」
リズは言い訳するように、インクで染まった指先をこすり合わせた。魔法院を目指す彼女にとって、野宿の連続は体力的にも精神的にも堪えるらしい。それでも文句を言いながらも、一度も歩みを止めなかった。
「ノエルは先に行ってる。安全な場所を探してくるってよ」
「あの人、本当に足が速いですよね」
「斥候だからな」
ノエル・グレンフィールドは、一時間ほど前に先行していた。赤茶色の髪を一つに束ねた後ろ姿は、木々の間にあっという間に消えた。十八歳の斥候は、この森の地形を頭に入れているかのように迷いなく進んでいく。
「……木が、歌っている」
突然、アルドレンが呟いた。
「木が?」
「……古い木だ。根が、地の底の火を……抱いている」
アルドレンの灰色の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。しかし、すぐにまた虚ろな色に戻る。ケイルは叔父のこの状態に、もう慣れてしまっていた。何かを知っている。でも、その何かは、壊れた記憶の隙間から時折顔を出すだけだ。
「火って、何の火ですか?」
リズが身を乗り出して尋ねた。知識欲の強い彼女は、アルドレンの意味不明な言葉にも食いつく。
「……火は、歌う。灰の中で……ラララ……」
アルドレンは、それ以上答えなかった。首が力なく傾ぎ、まぶたが閉じていく。
リズは不満そうに唇を尖らせた。
「またです。いつも途中で終わる」
「仕方ねぇよ。叔父さんは、そういう人だ」
ケイルは首から下げた銅板を、服の上からそっと押さえた。円環と炎の紋様。冷たい金属の感触が、指先に伝わる。
(父さんが残した、この紋章)
(叔父さんが、何かを知っている)
(でも、まだ、何も分からない)
森の奥から、鳥の鳴き声が聞こえた。
――
日が傾き始めた頃、ノエルが戻ってきた。
「いい場所見つけたよ。小川が近くて、岩が風を防いでくれる。焚き火もできる」
ノエルは額の汗を手の甲で拭いながら、にっと笑った。琥珀色の目が、夕暮れの光を受けて金色に輝いている。
「助かる」
「あたしの案内、信用してなかったでしょ」
「そんなことねぇよ」
「顔に書いてある。まあいいけど。ほら、こっち」
ノエルは軽い足取りで先導した。腰には二本の短剣。背中には弓と矢筒。斥候としての装備は、旅の間に彼女がどれほど戦ってきたかを物語っていた。
辿り着いた場所は、確かに良かった。大きな岩が三方を囲み、正面には小川が流れている。水音が静かに響き、木々の間から星が見え始めていた。
ケイルはアルドレンの車椅子を岩のそばに置き、焚き火の準備を始めた。枯れ枝を集め、火打ち石で火を起こす。
「手際がいいですね」
リズが感心したように言った。
「農家の仕事と似たようなもんだ」
ケイルは手早く火を起こし、小さな炎が枝を舐め始めるのを見届けた。
「さて、夕飯はどうする? 昨日採ったキノコならまだある」
「あのキノコ、大丈夫なのか? 色が妙に赤かったぞ」
「大丈夫大丈夫。あたし、こう見えて森のものには詳しいんだから」
「その自信が心配なんだよな」
「失礼ね。毒キノコと食べられるキノコの区別くらいつくわよ」
ノエルは腰の袋から、赤い斑点のあるキノコを取り出した。
「……それ、本当に大丈夫なんですか?」
リズが不安そうにキノコを覗き込む。
「二人とも疑いすぎ。あたしが毒見してあげるから、それでいいでしょ」
「毒見って、お前が倒れたら意味ないだろ」
「大丈夫。倒れたら、その時はその時よ」
「無責任すぎるだろ……」
ケイルはため息をついた。しかし、ノエルはもうキノコを小川の水で洗い始めている。
「ケイル、あんたも手伝って。リズは火の番」
「はい」
リズは素直に頷き、焚き火のそばに座った。炎が彼女の銀色の瞳に映り、揺れている。
(リズも、少しずつ旅に慣れてきたな)
ケイルはノエルと並んで、キノコを串に刺していった。
――
食事を終え、焚き火を囲んで四人が座る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
星が、森の上にびっしりと瞬いている。
「……きれい」
リズが空を見上げて呟いた。
「ああ。村でもよく見えたけど、ここはもっと近くに見えるな」
「空気が澄んでるからね。それに、街の灯りがない」
ノエルは弓の手入れをしながら、空を仰いだ。
「星って、読めるんですか?」
「読める? 星を?」
「ええ。星の配置で、方角や季節、運命を読む人たちがいるんです。『星読み』と呼ばれる人たちが」
「へえ。字が読めるより、よっぽどすごいな」
「そうですね。私も、星読みの技術には興味があります。魔法院でも、星の運行とマナの関係を研究している研究者がいると聞きますし」
リズの声が、少し弾んでいる。知識の話になると、彼女は生き生きとする。
「リズは、本当に勉強が好きなんだな」
「好きというか、知らないことを知るのは、楽しいじゃないですか」
「俺には、さっぱり分からん世界だ」
「そう言えば、ケイル。文字の練習、続けていますか?」
リズが、教師のような顔でケイルを見た。
「……まあ、少しは」
「少しは、ですか。では、この字は読めますか?」
リズは地面に、指で何かの文字を書いた。焚き火の光に照らされて、くっきりと浮かび上がる。
「……えっと、これは……畑の形に似てるから……」
「畑の形!? これは『マナ』の『マ』ですよ。どう見ても畑じゃないでしょう」
リズが呆れた声を上げた。
「だって、四角いだろ。畑の区画みたいだ」
「四角いだけで畑に見えるんですか。あなたの頭の中は、本当に畑でいっぱいですね」
「農家の息子だからな。仕方ねぇだろ」
「仕方なくないです。もう一ヶ月も教えてるんですよ。なんで『マ』一文字も覚えられないんですか」
「覚えられないんじゃない。畑の形としてなら覚えられる」
「それ、覚えてるって言わないんですよ」
リズが頭を抱えた。ノエルが横で、くすくす笑っている。
「まあまあ、リズ。ケイルは畑の天才なんだから、畑で覚えさせてやりなよ」
「ノエルまで、そんなことを言うんですか」
「だって、面白いんだもん」
「私は、面白がってる場合じゃないんです。リューベルクに着くまでに、せめて自分の名前くらい読めるようになってもらわないと」
「俺だって、読めるようになりたいとは思ってる。でも、あの記号みたいなのが、どうしても頭に入らなくて」
「記号じゃありません。文字です」
「俺にとっては、記号と変わらん」
リズは深いため息をついた。
「……まあ、一朝一夕にはいかないとは思っていました。でも、もう少し真剣に取り組んでください」
「分かった。明日から、もっと真剣にやる」
「本当ですか?」
「ああ。約束する」
ケイルは、真っ直ぐにリズの目を見て頷いた。リズは一瞬、何か言いたげに口を開いたが、結局小さく「分かりました」とだけ言った。
焚き火が、パチリと音を立てた。
――
その時だった。
「……誰か、来る」
ノエルが突然、弓を手に取った。笑っていた表情が消え、琥珀色の目が鋭く細められる。
「何?」
「静かに。足音がする。一人。……いや、待って。気配が、薄い」
ノエルは素早く立ち上がり、弓に矢をつがえた。ケイルも、腰の短剣に手を伸ばす。
リズが緊張した面持ちで、杖を握りしめた。
「……そこにいるのは、分かっている。出てこい」
ノエルの声が、夜の森に響く。
しばらくの沈黙。
そして、木々の影から、一人の女が現れた。
黒褐色の長い髪。ねじれたコイル状の髪が、月明かりを受けて鈍く光っている。深い琥珀色の瞳。左右の前腕には、微細な魔法陣のような紋様が刻まれていた。
「……武装を解く。私は、敵ではない」
女は、ゆっくりと両手を上げた。その声は、静かで、淡々としていた。
「あんた、何者だ」
ノエルの弓は、女の心臓に向けられたまま動かない。
「イサラ・ティアリス。星を読む者だ」
「星を読む者……?」
リズが、驚いたように呟いた。
「ああ。星の配置が、私に示した。あなたたちの行き先が、私の道と交わると」
イサラと名乗った女は、ゆっくりと焚き火の方へ歩み寄った。ノエルは弓を構えたまま、彼女の一挙一動を追っている。
「その話、信じろって?」
「信じる信じないは、あなたの自由だ。だが、私は敵意を持っていない。武器も、これだけだ」
イサラは、腰に下げていた小さな布袋を地面に置いた。それから、ゆっくりと両手を下ろす。
「……妙な術を使ったら、即座に射る」
「構わない」
イサラは、焚き火のそばに腰を下ろした。
その時だった。
彼女の琥珀色の瞳が、アルドレンを捉えた。
「——」
イサラの体が、硬直した。
表情が、消えた。
いや、違う。一瞬、何か激しい感情が彼女の顔をよぎった。驚愕。恐怖。そして、畏敬。
「……その老人は」
イサラの声が、初めてわずかに震えた。
「俺の叔父だ。アルドレン・セリウス」
「アルドレン……セリウス……」
イサラは、その名を反芻するように呟いた。視線は、アルドレンの顔に縫い付けられたまま動かない。
「あんた、叔父さんを知ってるのか?」
「……いや。知らない。だが」
イサラは、言葉を切った。
「だが?」
「……いや。何でもない。星が、この老人の周りで、奇妙に歪んでいる」
「星が、歪む?」
「ああ。私にしか見えないものだ。気にするな」
イサラは、ようやくアルドレンから視線を外した。しかし、彼女の指先は、わずかに震えていた。
ケイルは、イサラの様子をじっと観察した。
(この女……何か知っている)
(叔父さんのことを。いや、それ以上に)
「……それで、あんたは俺たちに何の用だ」
ケイルは、警戒を込めて尋ねた。
「同行を申し出る。リューベルクまで、道連れにしてほしい」
「いきなりだな」
「星が示した。この旅路には、私が見届けるべきものがあると」
「見届けるべきもの?」
「……それは、まだ言えない」
イサラは、焚き火の炎を見つめた。琥珀色の瞳が、揺れる炎を映している。
「怪しいわね」
ノエルが、弓を構えたまま言った。
「怪しいのは、自覚している。だが、私はあなたたちの役に立てる。星読みの知識は、旅の助けになるはずだ」
「……ケイル、どうする?」
ノエルが、ケイルに判断を仰いだ。
ケイルは、アルドレンを見た。叔父は、相変わらず虚ろな目で、焚き火の炎を見つめている。
それから、イサラを見た。
彼女は、まっすぐにケイルを見返していた。その瞳の奥には、何か深いものが潜んでいる。
「……分かった。ただし、妙な真似をしたら、容赦しない」
「感謝する」
イサラは、小さく頭を下げた。
――
夜が、更けていく。
焚き火の炎が、少しずつ小さくなっていた。
ノエルは見張りを買って出て、少し離れた岩の上に座っている。リズは、毛布にくるまって眠りについた。イサラは、焚き火のそばで、静かに星を見上げている。
ケイルは、アルドレンの車椅子の横に座り、膝を抱えていた。
「……ケイル」
不意に、叔父が名前を呼んだ。
「叔父さん。起きてたのか」
「……あの女は、危険だ」
アルドレンの声は、いつもよりはっきりしていた。
「イサラのことか?」
「……ああ。あの女の目は、私の知っている目だ。何かを……見定めようとしている」
「何を?」
「……分からない。だが、気をつけろ」
アルドレンの声が、また曖昧になっていく。
「叔父さん。あんた、何か知ってるんだろ。イサラのことも、教団のことも」
「……教団……」
アルドレンが、低く呟いた。
「……焔守の座は、空位だ。奴らは、焦っている。……歌を、求めている」
「歌を? あの、いつも歌ってる歌のことか?」
「……ラララ……炎は、歌う……灰の中で……」
アルドレンが、歌い始めた。
小さな、かすれた声。
しかし、その旋律は、驚くほど正確だった。
――その時。
「……っ!?」
眠っていたはずのリズが、飛び起きた。
彼女の両腕の内側が、青白く光っている。
「な、何これ……!?」
リズが、自分の腕を凝視した。細いマナの紋様が、皮膚の下で脈打つように浮かび上がっている。
「——」
イサラも、立ち上がっていた。
彼女の前腕に刻まれた魔法陣の紋様が、同じように青白く輝いている。
「……この歌は」
イサラの声が、震えている。
「この歌は……教団の……封じた——」
イサラは、はっとして口を噤んだ。
「教団の……封じた……何だって?」
ケイルが、イサラに詰め寄る。
「……いや。何でもない。忘れてくれ」
イサラは、顔を背けた。しかし、彼女の指先は、明らかに震えていた。
「忘れられるか。あんた、今、教団って言っただろ」
「……言った。だが、それ以上は、話せない」
「なぜだ」
「……話せば、あなたたちを危険に巻き込む。いや、もう巻き込まれているのかもしれないが」
イサラは、苦しそうに眉を寄せた。
「ケイル、私の腕が……光ってるの、消えない……」
リズが、おびえた声で言った。彼女の腕の紋様は、まだ青白く輝き続けている。
「大丈夫か?」
「わ、分からない。マナが、勝手に……体の中で、渦を巻いてるみたいで……」
リズの呼吸が、荒くなっていく。
「……歌が、終われば、収まる」
イサラが、静かに言った。
「歌が終われば……?」
「あの歌は、マナ循環系を共鳴させる。歌が終われば、共鳴も終わる」
「マナ循環系を……共鳴……」
リズが、震える声で繰り返した。
「……ラララ……ラララ……」
アルドレンは、まだ歌っている。
その歌声は、小さくかすれているのに、森の空気を震わせる。木々が、ざわざわと揺れている。焚き火の炎が、風もないのに大きく揺らめいた。
「……叔父さん。やめてくれ」
ケイルが、アルドレンの肩に手を置いた。
しかし、アルドレンは歌うのをやめない。
「……ラララ……灰の中で……炎は……歌う……」
リズが、膝をついた。
「く……っ」
リズの額に、汗が浮かぶ。体が、小刻みに震えている。
「リズ!」
ケイルが、リズに駆け寄った。
「……だい、じょうぶ……です……でも、体が……熱くて……」
リズの声が、途切れ途切れになる。
「叔父さん! やめてくれって言ってるだろ!」
ケイルが、アルドレンの両肩を掴んだ。
その瞬間。
歌が、止んだ。
「……ふむ。……眠い」
アルドレンは、そう呟くと、何事もなかったかのように眠りに落ちた。
静寂が、森を包む。
リズの腕の紋様が、ゆっくりと消えていく。
「……はぁ……はぁ……」
リズは、荒い呼吸を繰り返しながら、自分の掌を見つめた。
「……私の、マナが……あんなに……制御できないなんて」
リズの声は、恐怖に染まっていた。
「……あなたのせいじゃない。あの歌が、特別なんだ」
イサラが、静かに言った。
「あの歌は……何なんですか。あなた、知ってるんでしょう」
リズが、イサラを睨んだ。
「……知っている。だが、言えない」
「なぜですか」
「……その歌の名を口にすること自体が、危険を招く。あなたたちは、まだ、その危険の大きさを知らない」
イサラは、焚き火の炎を見つめた。
ケイルは、眠りについたアルドレンの顔を見下ろした。
(叔父さんは、何者なんだ)
(あの歌は、何なんだ)
(イサラは、何を知っている)
胸の銅板が、冷たく重く感じられた。
――
その夜、ケイルは眠れなかった。
リズは疲れ果てて眠りに落ちたが、時折うなされている。イサラは、焚き火のそばで、じっとアルドレンを見つめていた。ノエルは、見張りを続けている。
ケイルは、空を見上げた。
星が、瞬いている。
(星を読む者、か)
(あの女も、何か隠している)
(でも、今は、それを問い詰めるよりも——)
ケイルが、目を閉じかけた時だった。
「——!!」
ノエルの叫び声が、夜の森に響いた。
同時に、空気を裂く音。
「伏せろ!!」
ケイルは、反射的に地面に伏せた。
頭上を、矢が通過する。
「な、何!?」
リズが飛び起きた。
「敵襲だ! 数が多い! 十……いや、十五以上!」
ノエルが、弓を射ながら叫ぶ。
「仮面の傭兵団か!?」
「分からない! でも、殺気が半端ない! プロの動きだ!」
ノエルが、二本目の矢をつがえた。
木々の影から、黒ずくめの男たちが現れる。全員が仮面をつけ、手には剣や短槍を持っている。
「お前ら、何者だ!」
ケイルが、短剣を構えて叫んだ。
「……《エターナル・フレイム》教団、執行官オルバス・レインの命により、焔守の紋章を持つ者を拘束する」
先頭に立った男が、低い声で言った。その手には、一枚の紋章が掲げられている。炎を模した、教団の紋章。
「教団の……執行官……!」
イサラの顔色が、変わる。
「……お前たちに、恨みはない。だが、抵抗すれば、容赦はしない」
傭兵団首領が、剣を抜いた。
「させるかよ!」
ケイルが、地面を蹴った。
短剣を振り上げ、傭兵団首領に斬りかかる。
「素人が」
首領が、軽く身をかわした。
次の瞬間。
「ぐっ——!?」
首領の蹴りが、ケイルの腹に突き刺さった。
胃液が、口から溢れる。
「が……は……!」
ケイルは、地面に膝をついた。視界が、揺れる。
「ケイル!」
ノエルが、援護の矢を放つ。しかし、傭兵の一人が盾で弾いた。
「リズ! 逃げろ!」
「で、でも……!」
リズが、杖を構える。
「私は……私だって……!」
リズが、呪文を唱え始めた。
「……フィアーレ・ルクス……!」
リズの杖の先に、光が集まる。
しかし。
「——っ!? あ、ああ……!?」
光が、弾けた。
リズの体から、制御不能のマナが溢れ出す。青白い光が、彼女の全身を包み込む。
「や、やめ……体が……勝手に……!」
リズが、悲鳴を上げた。
「リズ!」
ケイルが、リズに手を伸ばす。
しかし、その時。
「——っ!」
ノエルの肩に、矢が突き立った。
「ノエル!」
「……くっ……あたしは、大丈夫……! それより、リズを……!」
ノエルが、肩に矢を刺したまま、弓を構え直す。血が、彼女の腕を伝って滴り落ちる。
「……魔術師の卵が、暴走したか。面倒だな」
首領が、リズに近づく。
「……させるか」
イサラが、両手を地面につけた。
「——煙よ、来たれ」
イサラの前腕の紋様が、一瞬だけ赤く光った。
次の瞬間、地面から濃い煙が噴き出し、一帯を包み込む。
「何だ!?」
「目くらましだ! 散開しろ!」
傭兵たちが、混乱する。
「今のうちに! 逃げるぞ!」
イサラが、叫んだ。
「リズを連れて行く! ケイル、叔父さんを!」
「分かった!」
ケイルは、倒れているリズを抱え上げた。彼女の体は、燃えるように熱い。
「リズ! しっかりしろ!」
「……ケイ……ル……?」
リズの声は、かすかだった。
「大丈夫だ。俺が、絶対に守る」
ケイルは、リズを背負い、アルドレンの車椅子に手を伸ばした。
しかし。
「——」
アルドレンの姿が、なかった。
「叔父さん!?」
煙の向こうで、人影が動く。
「……この老人を、確保した」
「よし。撤退する。目標は、この老人だ」
「待て! 叔父さんを返せ!」
ケイルが、煙の中を駆ける。
「ケイル! 戻って!」
ノエルの声が、後ろから追いかけてくる。
ケイルは、必死で走った。
煙の切れ間から、傭兵たちがアルドレンの車椅子ごと運び去ろうとしているのが見えた。
「叔父さん!!」
ケイルが、叫んだ。
その時。
アルドレンの体が、動いた。
車椅子の上で、ぐったりとしていたはずの老人が、ゆっくりと両手を持ち上げる。
その手が、古の師範の型を結んだ。
手刀。
「——」
アルドレンの目が、見開かれた。
灰色の瞳が、鋭く光る。
次の瞬間。
「——ガッ!?」
アルドレンの手刀が、近づいた傭兵の喉元を一撃で打ち抜いた。
傭兵が、声にならない悲鳴を上げて倒れる。
「な……!?」
首領が、驚愕の声を上げた。
「この老人……!?」
アルドレンは、ゆっくりと腕を下ろした。
その顔から、表情が消えている。
「……歌を、汚すな」
アルドレンの声は、普段のかすれた声ではなかった。
深く、冷たく、そして——恐ろしいほど、はっきりしていた。
「……この男、只者じゃない。だが、動きが止まった。今のうちに拘束しろ!」
傭兵たちが、アルドレンに殺到する。
しかし、アルドレンの腕は、もう力なく垂れ下がっていた。
「……ラララ……」
アルドレンが、小さく呟いた。
そして、袋のように抱え上げられ、闇の中へ消えていく。
「叔父さん——!!」
ケイルが、手を伸ばした。
しかし、指先は、空を切るだけだった。
「待て……待ってくれ……!」
ケイルの足が、もつれた。
脇腹に、鋭い痛み。
見下ろすと、いつの間にか刺されていた。血が、服を染めている。
「……ぐ……う……」
ケイルは、地面に倒れ込んだ。
視界が、暗くなる。
「ケイル! ケイル!!」
ノエルの声が、遠くで聞こえる。
「……叔父……さん……」
ケイルは、意識を手放した。
――
夜明け。
煙が消えた現場に、朝日が差し込んでいた。
ケイルは、脇腹を押さえながら、立ち上がった。
「……いてて」
傷口に、焼けるような痛みが走る。
「ケイル! 無事か!」
ノエルが、駆け寄ってきた。彼女の肩には、布が巻かれている。矢は抜かれたが、まだ血が滲んでいた。
「ああ……なんとか。リズは?」
「こっち。まだ意識がはっきりしないけど、息はある」
リズは、木の根元に座り込んでいた。顔色は青白く、体が震えている。
「……ごめん……なさい……私のせいで……」
リズが、かすれた声で言った。
「お前のせいじゃない。あの数は、どうやっても無理だった」
「でも……アルドレンさんが……」
リズの目から、涙が溢れた。
「……叔父さんは、連れていかれた」
ケイルは、唇を噛んだ。
「彼は、殺されない」
イサラが、静かに言った。
「なぜ、そう言い切れる」
「……あの歌が必要とされている。教団は、彼を殺すために連れ去ったのではない。彼の歌を、利用するためにだ」
「歌を……利用する……」
「ああ。だから、彼は生きている。今は、まだ」
イサラの琥珀色の瞳が、朝日を受けて、静かに光った。
「……追うぞ」
ケイルが、言った。
「ケイル、あんたの怪我……」
「こんなもん、かすり傷だ。それより、叔父さんを助けに行く」
「でも、相手は十五人以上よ。あたしたち、三人でどうにかできる相手じゃない」
「四人だ」
イサラが、一歩前に出た。
「……私も、同行する。あの老人を、見届けなければならない」
「あんた、何者なんだ」
ケイルが、イサラをまっすぐに見た。
「……今は、言えない。だが、敵ではないことだけは、信じてほしい」
イサラは、ケイルの目を見返した。
ケイルは、しばらく彼女を見つめた。
それから、首から下げた銅板を握りしめた。
冷たい。
父の遺言。
『この紋章の者を見つけろ』
(字が読めないから)
(何も知らないから)
(叔父さんを守れなかった)
ケイルの胸の奥で、何かが燃え始める。
怒り。
生まれて初めて感じる、激しい怒り。
優しさでは、止められない暴力がある。
正義感では、守れないものがある。
「……行くぞ」
ケイルは、低く言った。
「俺は、叔父さんを絶対に取り戻す。あの仮面の連中からも、教団からも」
ケイルの声は、震えていた。
怒りで。
悔しさで。
そして、初めて覚えた、暴力への憎しみで。
「……ああ」
ノエルが、頷いた。
「……私も、行きます」
リズが、震える足で立ち上がった。
「リズ、お前は休んで——」
「いいえ。私も行きます。私のせいで、アルドレンさんが連れていかれた。だから、私が取り返すんです」
リズの銀色の瞳が、涙で潤みながらも、強い意志を宿していた。
「……分かった。でも、無理はするな」
「はい」
四人は、傭兵団が去った方角を見た。
北。
リューベルクへと続く道。
「……彼らは、北へ向かった。教団の拠点は、この先にある」
「教団の拠点……?」
「ああ。王国北部の山岳地帯に、隠された教団の拠点がある。私は、その場所を知っている」
「なぜ、あんたがそんなことを」
「……言っただろう。星が、私に示したと」
イサラは、空を見上げた。
朝の空に、まだ星が、かすかに残っている。
「……行こう」
ケイルは、歩き出した。
脇腹の傷が、痛む。
でも、足は止めない。
(父さん。俺は、まだ何も分からない)
(でも、一つだけ分かったことがある)
(この世界には、話し合いじゃどうにもならない奴らがいる)
(だったら、俺は——)
ケイルは、短剣の柄を握りしめた。
(強くならなきゃいけない)
朝日が、森の木々の間から差し込む。
四人の影が、北へと伸びていく。
遠くで、鳥が鳴いていた。Noveliaとは?
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