灰の中の紋章
農夫の息子ケイルは、獣の暴走によって村が襲われ、父を失う。父の最後の言葉は「この紋章の背後にいる者たちを見つけろ」というものだった。ケイルの手に押し付けられた「灰の中の紋章」は、永遠の炎の騎士団の最高位の一つを示すものだったが、ケイルにはそれを読むことができなかった。
残されたのは、記憶が真実と虚構の間をさまよう壊れた心を持つ叔父、アルドレン・セリウスだけ。ケイルは彼を車椅子に乗せ、広い道へと踏み出す。
旅の途中で、偉大な魔法都市を目指す若き魔術師リズ・カナールと、彼を護衛する老傭兵ブラックに出会う。ケイルは初めて、冒険者や戦士たち、そして自分の農場よりはるかに広大な世界を目の当たりにする。漂流する司祭フェンウィック、魔女イサラ・ティアリス、そしてエルフの射手シアレも加わり、小さな一行は新たな王国へと足を踏み入れる。
しかし、何かがおかしい。焚き火のそばで、アルドレンは皆の歌に合わせて口ずさむ。旋律が高まるにつれて、魔術師たちが感じる共鳴も一音一音と高まり、頂点では大師範のレベルにまで達する。しかし最後の一音が消えた瞬間、アルドレンは眠りに落ち、調和は突然途切れた。
誰もその光
灰の中の紋章 - 覚醒せし火——読めない少年が初めて文字を読む夜
煙の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
焼け焦げた木と、煤と、血。それらが混ざり合った臭いが、夜の森の冷たい空気に絡みついて離れない。ケイル・エルデンは、背負ったリズの重みを感じながら、一歩、また一歩と暗い木立の間を進んだ。脇腹の傷が、心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛む。熱を持った肉が、破れた服の下で脈打っていた。
「……ケイルさん」
背中から、かすれた声が聞こえた。
「もう、下ろしてください。私、歩けますから」
「無理すんな。お前、まだ熱がある」
「でも、君の傷の方が深い。私のせいで、君まで倒れたら……」
「倒れねぇよ。こんなもん、畑仕事の方がきつかった」
強がりだった。足は鉛のように重く、視界の端が時折、白く明滅する。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。追手はまだ近くにいる。オルバスという男が、あの銀色の笛で獣の群れを操っている限り、この森に安全な場所などない。
前を歩くノエル・グレンフィールドが、突然、足を止めた。
「……あそこ」
彼女の指差す先を、ケイルは目を凝らして見た。月明かりに照らされた木々の向こうに、小さな建物の輪郭が浮かんでいる。古い狩猟小屋だ。屋根の一部は崩れ、壁には蔦が這い上がっているが、雨風をしのぐには十分そうだった。
「半壊だけど、隠れるにはいい。周りも見通しが悪いし、入り口はあの一箇所だけ」
「……助かる」
三人は、小屋の中へ滑り込んだ。
中は埃っぽく、古い獣の毛皮と木の匂いがした。壁の隙間から月明かりが細く差し込み、床に落ちた枯れ葉を青白く照らしている。ノエルが、残った右手で器用に火打ち石を打った。小さな火花が散り、数秒後、床に置かれた枯れ枝に火が灯る。
暖かな光が、三人の疲れ切った顔を浮かび上がらせた。
ケイルはリズを壁際にそっと下ろした。リズの黒い短髪は汗で額に張り付き、銀色の瞳は熱で潤んでいる。それでも、彼女の視線はしっかりとケイルを見ていた。
「……すみません。私が、もっと上手く魔法を使えていれば」
リズの声が、震えた。
「あの時、私が魔力を使い果たさなければ。もっと早く、あの傭兵たちを倒せていたら。そしたら、アルドレンさんは……連れていかれなかった」
「やめろ」
ケイルは、低い声で言った。
「お前のせいじゃない。あの人数相手に、よくやった。お前の魔法がなかったら、俺たちはあの場で死んでた」
「でも、結果は同じです。アルドレンさんは、いなくなった」
リズは、インクで染まった指先をぎゅっと握りしめた。その指が、白くなるほどに。
「……あたしもだ」
ノエルが、焚き火に枝をくべながら言った。赤茶色の髪が、炎の光で揺れている。左肩の包帯は、血が滲んで黒く変色していた。
「あたしが、もっと早くあの教会の異常に気づいていれば。肩なんか撃たれずに、あんたたちを守れていた。村の子も、守れなかった。今度は、あの老人まで」
彼女の声は、いつもの軽快さを失っていた。十八歳の斥候は、燃える木の枝をじっと見つめている。その横顔に、ケイルは初めて見る深い疲れを見た。
「……違う。全部、俺のせいだ」
ケイルは、首から下げた銅の徽章を握った。
冷たい金属の感触。円環と炎の紋様が、指の腹に食い込む。
「俺が、字を読めなかったから。父さんの遺言も、この紋章の意味も、何も分からなかった。分かっていたら、もっと早く動けたかもしれない。叔父さんを、あんな奴らに渡さずに済んだかもしれない」
声が、震える。
「俺は、何も知らない。知らないまま、逃げて、隠れて、傷だけが増えていく。守りたいものも、守れない。何もかも、手のひらからこぼれ落ちていく」
ケイルは、床に落ちていた小枝を握りしめた。古い木の枝が、乾いた音を立てて折れる。
「……悔しい」
その一言が、腹の底から絞り出された。
「悔しくて、仕方ねぇ」
三人の間に、沈黙が落ちた。
焚き火が、パチパチと音を立てる。外では、風が木々を揺らしていた。遠くで、フクロウの鳴き声が聞こえる。
「……悔しいのは、みんな同じです」
リズが、静かに言った。
「私も、悔しい。自分の無力さが、腹が立って仕方ない。魔法院を目指して、魔法を学んで、それでも、大切な人を守る力がなかった」
「……あたしも、だ」
ノエルが、顔を上げた。
「悔しいよ。あたし、斥候なのに。先を読むのが仕事なのに、何も読めなかった。仲間の危機も、あの教会の罠も、全部見逃した。肩の傷なんか、罰みたいなもんだ」
三人は、互いの顔を見た。
ケイルの目に、ノエルの琥珀色の瞳が映る。リズの銀色の瞳が、炎の光を受けて揺れていた。
「……なあ」
ケイルが、口を開いた。
「俺たち、みんな無力だ。みんな、何かを守れなかった。でも、まだ、終わってない」
「……どういうことです?」
「叔父さんは、生きてる」
ケイルは、服の内側から焦げた書簡を取り出した。焚き火の光にかざすと、黒く焼け焦げた紙の端から、かすかに文字が透けて見える。
「あいつらは、叔父さんを殺さずに連れて行った。ってことは、叔父さんに何か用があるんだ。殺すつもりなら、その場で殺してる」
「……そう、ですね」
リズの目に、わずかに光が戻った。
「それに、この書簡。叔父さんが持ってた。読めないけど、何か重要な手がかりに違いない。リズ、お前なら読めるか?」
リズは、ケイルから書簡を受け取った。焦げた紙を、慎重に広げる。銀色の瞳が、文字の上をゆっくりと走った。
「……だめです。焼け焦げがひどくて、断片的にしか読めません。でも、いくつか、単語は読み取れます」
「何て書いてある?」
「『オルバス・レイン』……これは人名ですね。それから『十二導師』。あと、『歌の秘儀』という言葉も見えます。それから……」
リズが、言葉を切った。
「……『焔守』」
「焔守?」
「教団の最高位の称号です。私も、詳しくは知りません。魔法院の書庫で、名前だけ見たことがある程度で。でも、その焔守の証が、銅の徽章だと」
リズの視線が、ケイルの首元に落ちた。
「……君が持っている、それ」
ケイルは、自分の首から下げた徽章を見下ろした。
円環と炎。
「父さんが、最期に俺に渡したものだ。『この紋章の者を見つけろ』って。でも、俺には読めない。何て書いてあるのかも、分からない」
「……見せてください」
ケイルは、徽章を外してリズに手渡した。リズは、それを焚き火の光にかざし、じっと見つめる。
「……これは、古エテルノ語です。教団の内部でのみ使われる、古い文字。私も、完全には読めません。でも、この部分は……『覚醒せし火』」
「覚醒せし火?」
「はい。円環と炎の組み合わせが、その言葉を表しています。教団の内部用語で、特別な意味を持つ紋章だそうです。……ケイルさん、これを、君のお父さんが?」
「ああ。血の海の中で、俺に握らせた。これを持って、この紋章の者を見つけろって」
リズは、徽章をケイルに返した。
「……君のお父さんは、教団と、何か関わりがあったのでしょうか」
「分からねぇ。父さんは、ただの農夫だった。畑を耕して、牛の世話をして、それ以外は何も。……でも、最後のあの夜、父さんは、普通の農夫とは思えない戦い方をした」
ケイルの脳裏に、あの夜の光景が蘇る。錆びた剣で、獣の首を二つ刎ねた父の姿。仮面の男に腹を貫かれながらも、最期まで戦い続けた父。
「……何か、あるんだ。父さんと、この徽章と、教団の間に。そして、叔父さんも、その何かを知っている」
「だから、アルドレンさんは連れていかれた」
ノエルが、低く言った。
「あの老人が、何か知ってるから。殺さずに、連れて行った」
「……ああ。だから、叔父さんはまだ生きてる。絶対に、助けに行く」
ケイルの声に、迷いはなかった。
「……でも、どうやって? 相手は、傭兵団です。それも、教団の執行官が率いている。まともに戦って勝てる相手じゃない」
「だから、頭を使うんだ。お前の魔法と、ノエルの斥候の技術と、俺の……何でもいい。使えるものは全部使う」
「……あんた、変わったね」
ノエルが、ふっと笑った。
「村を出たばかりの頃は、ただの世間知らずの小僧って感じだったのに。今は、ちゃんと、戦う顔をしてる」
「……そうか?」
「うん。いい顔だよ。頼りになる」
ノエルの言葉に、ケイルは照れくさそうに鼻をこすった。
「……でも、まずは休みましょう。みんな、限界です。明日、また考えましょう」
リズの提案に、三人は頷いた。
焚き火の番をノエルが引き受け、ケイルとリズは壁際に身を横たえた。冷たい床が、熱い体に心地よい。ケイルは、徽章を握りしめたまま、目を閉じた。
(父さん。俺、絶対に、読み方を覚える)
(この紋章の意味も、父さんの遺言も、全部、理解する)
(そして、叔父さんを、取り戻す)
決意は、炎のように、胸の奥で燃え続けていた。
――
翌朝、ケイルは、地面に枝で文字を書くリズの隣に座っていた。
「いいですか、ケイルさん。これは『火』という字です。炎の形からできた文字で、こう、燃え上がる様子を表しています」
リズは、湿った地面に、細い枝で文字を書いた。朝露で湿った土に、くっきりと線が浮かぶ。
「……火」
ケイルは、その文字をじっと見つめた。
「畑の畝に、似てる」
「畝?」
「ああ。種をまくために、土を盛り上げるだろ。あの形に、似てる気がする」
リズは、一瞬、きょとんとした。それから、ふっと笑った。
「……面白い発想ですね。でも、覚えるためには、何かに結びつけるのは、悪くない方法です。じゃあ、これは『水』です。流れる水の形からできた文字です」
「水……」
ケイルは、真剣な表情で、地面の文字を指でなぞった。
「川の流れに、似てるな」
「そうですね。よく見てます」
リズの声に、少しだけ感心が混じった。
「じゃあ、これは『木』。木の幹と枝の形からできています」
「木……。これは、すぐ分かる。本当に木の形だ」
「そうです。このように、文字の多くは、物の形からできています。だから、形を覚えれば、意味も覚えられる」
リズは、次々と文字を書いていく。火、水、木、土、風、空、日、月。ケイルは、それらを一つ一つ、畑の畝や、川の流れや、木の枝や、空の雲に結びつけて、必死に覚えようとした。
しかし、覚えるのは簡単ではなかった。
「……えっと、これは、火、だっけ?」
「違います。それは『水』です。さっき、川の流れに似てるって、自分で言ったでしょう」
「……そうだった。くそ、覚えたと思ったのに」
ケイルは、頭をかいた。
「焦らないでください。文字を覚えるのは、一日では無理です。私だって、魔法院に入るまでに、何年もかかりました」
「何年も……」
「でも、君は、覚えが悪いわけじゃない。むしろ、飲み込みは早い方です。ただ、一度に詰め込みすぎると、混乱するだけです。少しずつ、確実に覚えていきましょう」
リズの言葉は、昨日までより、ずっと優しかった。
「……ありがとな、リズ」
「いいえ。私も、人に教えるのは初めてですけど、結構、楽しいです」
リズは、そう言って、少し照れたように笑った。
――
それから五日間、ケイルはリズから読み書きを教わり続けた。
朝、日が昇ると、地面に文字を書く。昼、焚き火の番をしながら、指で空に文字を描く。夜、眠る前に、頭の中で復習する。
それでも、覚えた文字は、次の日には半分忘れている。覚えても、別の文字と混ざってしまう。畑の畝と、川の流れと、木の枝が、頭の中でぐちゃぐちゃになる。
「……もう、だめだ。俺の頭は、石でできてるのかもしれねぇ」
五日目の朝、ケイルは、地面に突っ伏した。
「何言ってるんですか。君は、ちゃんと進歩してます。最初の日は、『火』と『水』の区別もつかなかったのに、今は、簡単な単語なら読めるようになってる」
「……本当か?」
「本当です。ほら、これは?」
リズは、地面に「火」と書いた。
「……火」
「正解。これは?」
「水」
「正解。これは?」
リズは、今度は、少し複雑な文字を書いた。
「……えっと、これは、『火』と『山』が合わさった……火山?」
「正解です! 素晴らしい!」
リズが、ぱっと笑顔になった。その笑顔を見て、ケイルは、なんだか胸の奥が温かくなった。
「……リズ、お前、教えるのうまいな」
「そうですか? 私、人に教えるの、初めてなんですけど」
「初めてには見えねぇよ。俺みたいな石頭に、ここまで教えられるんだから」
「……君は、石頭なんかじゃない。むしろ、畑の畝と文字を結びつける発想は、私にはできません。君は、世界の見方が、私とは違う。それが、強みになる」
リズの言葉に、ケイルは照れくさそうに笑った。
「……そうか。なら、もっと頑張る。次は、あの徽章の文字を、読めるようになりたい」
「あの徽章の文字は、古エテルノ語です。私も完全には読めません。でも、君が基礎を覚えれば、一緒に解読できるかもしれません」
「ああ。頼む」
ケイルは、首から下げた徽章を握りしめた。
(覚醒せし火)
(この紋章が、何を意味するのか。父さんが、何を伝えたかったのか。必ず、知る)
――
その日の午後、リズが、焦げた書簡をじっと見つめていた。
「……ケイルさん、来てください」
リズの声が、真剣だった。ケイルは、リズの隣に座った。
「どうした?」
「書簡を、もう一度、よく読んでみました。焼け焦げで読めない部分が多いですが、断片的な単語を繋ぎ合わせると、おおよその内容が見えてきました」
リズは、焦げた紙を、慎重に広げた。
「まず、差出人は、オルバス・レイン。これは、教団の十二導師の一人です。十二導師というのは、教団の最高意思決定機関で、十二人の導師が、それぞれ大陸各地に拠点を持っています」
「十二導師……その一人が、オルバスって奴か」
「はい。そして、この書簡の内容は、要約すると、こうです。『焔守の座を、これ以上空位にしておくのは、我慢ならぬ。歌の秘儀を保持する老人を確保し、その秘密を引き出せ。教団本流が何と言おうと、これは、我々の悲願を果たすための、正当な行動である』」
リズは、一息に言い切った。
「……つまり、オルバスは、教団の本流から外れて、独断で動いている。そして、歌の秘儀を保持する老人、つまり、アルドレンさんを狙っている」
「叔父さんが、歌の秘儀を?」
「はい。あの夜、アルドレンさんが歌った子守唄が、私とイサラさんの体内マナを共鳴させました。あれは、ただの歌じゃない。歌の秘儀と呼ばれる、教団の最高機密に関わる何かです」
「……叔父さんは、その歌を知っている。だから、教団に狙われた」
「おそらく。そして、この書簡には、もう一つ、重要なことが書かれています」
「何だ?」
「教団が、分裂状態にある、ということです。オルバスは、教団本流から逸脱した行動を取っている。つまり、教団の中に、少なくとも二つの派閥が存在する。オルバスは、そのうちの一派のリーダーで、焔守の座を狙っている」
「……なるほど。だから、叔父さんを殺さずに、連れて行ったのか。歌の秘儀を、引き出すために」
「はい。アルドレンさんは、まだ生きています。歌の秘儀を保持している限り、殺されることはありません」
ケイルは、深く息を吐いた。
「……そうか。なら、まだ間に合う」
「はい。でも、時間はあまりありません。オルバスが、いつ、アルドレンさんから歌の秘儀を引き出すか、分かりませんから」
「急がないと、いけないな」
「……ああ、急いだ方がいい」
突然、声がした。
三人が、一斉に振り返る。小屋の入り口に、黒褐色のねじれたコイル状の長髪を揺らす女が立っていた。深い琥珀色の瞳が、静かに三人を見つめている。放浪の魔女、イサラ・ティアリスだ。
「イサラさん!」
「……無事だったか」
イサラは、ゆっくりと小屋の中に入ってきた。その足取りは、疲れを感じさせない。
「あんた、どこに行ってたんだ」
「星を読んでいた。あの老人が、どこへ連れて行かれたのか、知るために」
「……分かったのか?」
「ああ。北の山中に、教団の儀式場がある。『聖火の間』と呼ばれる場所だ。アルドレンは、そこへ運ばれた」
「聖火の間……」
「教団が、重要な儀式を行うための場所だ。外部の者には、場所すら知らされていない。私も、星の導きがなければ、辿り着けなかっただろう」
イサラは、ケイルの首元を見た。
「……その徽章。まだ、持っていたか」
「当たり前だ。父さんの形見だ」
「……そうか。それは、教団の最高位の証。焔守の徽章だ。オルバスが、それを欲しがっている。だから、君は狙われている」
「……ああ、知ってる。リズが、教えてくれた。覚醒せし火、っていう意味なんだろ?」
イサラの眉が、わずかに動いた。
「……読めるようになったのか」
「まだ、完全には。でも、リズが、教えてくれた」
「……そうか」
イサラは、少しだけ、表情を和らげた。
「……いい教師を持ったな」
「えっ……あ、ありがとうございます」
リズが、照れたように、うつむいた。
「……それで、聖火の間は、どこにあるんだ?」
「北の山中。ここから、徒歩で、およそ一日半。だが、オルバスの野営地が、その手前にある。まずは、そこを突破しなければならない」
「野営地の場所は、分かるのか?」
「おおよそは。だが、正確な位置と、警備の数までは、星では読めない。誰かが、直接、確かめる必要がある」
「……あたしが行く」
ノエルが、立ち上がった。
「斥候の仕事だ。あたしに任せて」
「でも、お前の肩、まだ治ってないだろ」
「かすり傷だよ。それに、肩が痛くても、足は動く。目も、耳も、ちゃんと働いてる。あたしにしか、できないことだ」
ノエルの琥珀色の瞳が、真剣に光っていた。
「……分かった。でも、無理はするな。危ないと思ったら、すぐに戻れ」
「了解。じゃあ、行ってくる。半日で戻る」
ノエルは、弓と矢筒を背負い、小屋を出ていった。その背中が、木々の間に消えるまで、ケイルは見送った。
――
日が傾き始めた頃、ノエルが戻ってきた。
彼女の左肩の包帯は、血で真っ赤に染まっていた。顔は青白く、唇は乾いている。それでも、彼女は、しっかりとした足取りで、小屋の中に入ってきた。
「……ただいま」
「おかえり。……肩、大丈夫か?」
「大丈夫。ちょっと、血が滲んだだけ。それより、報告」
ノエルは、床に座り込み、水を一口飲んだ。
「オルバスの野営地は、ここから北へ、半日の距離。小さな谷間にある。警備は、十数名。交代制で、見張りが立ってる。野営地の裏手には、岩山があって、その麓に、洞窟の入り口があった。おそらく、それが、聖火の間への入り口だ」
「……よく、そこまで」
「斥候の仕事だからね。でも、あの洞窟の入り口は、警備が厳重だった。正面からは、入れない」
「なら、どうする?」
「野営地の裏手から、回り込む。岩山の影を伝って、洞窟の入り口の死角から、近づく。ただし、見張りが交代するタイミングを、正確に読む必要がある」
「……あたしに、策がある」
イサラが、静かに言った。
「呪術で、追手の感覚を、一時的に狂わせる。視界を歪め、音を、別の方角から聞こえるようにする。完全に欺くことはできないが、数秒の隙を作ることはできる」
「数秒あれば、十分だ」
「……私も、マナを少しずつ回復させています。微弱な防御魔法なら、使えるまでに戻りました。何かあれば、君たちを守る盾くらいにはなれるはずです」
「……ケイル、あんたは?」
「俺は……」
ケイルは、自分の手を見つめた。農作業で鍛えられた、固い手。でも、まだ、誰かを傷つけたことはない。
「……ノエル、俺に、短剣の使い方を教えてくれ」
「短剣?」
「ああ。俺は、戦ったことがない。でも、この先、戦わなきゃいけない場面が、絶対に来る。その時に、何もできなかったら、また、誰かを守れない」
ノエルは、ケイルの目をじっと見た。
「……分かった。でも、短剣で人を殺すのは、簡単じゃない。それに、あんたは、人を殺すような人間じゃない」
「殺すつもりはない。無力化するだけでいい。人を、止める方法を、教えてほしい」
「……無力化、ね。それは、殺すより、ずっと難しい。でも、あんたなら、できるかもしれない」
ノエルは、腰の短剣を一本抜き、逆手に持った。
「いい? 短剣は、力じゃなくて、速さ。相手の急所を、正確に狙う。でも、殺さないためには、刃じゃなくて、柄を使う。ここを、相手の鳩尾に、思い切り打ち込む。そうすれば、相手は、しばらく動けなくなる」
ノエルは、短剣の柄を、ケイルに見せた。
「鳩尾……」
「みぞおち、って言った方が分かる? ここに、息を吐くタイミングで、打ち込む。相手が息を吸った瞬間に、打つと、効果が薄い。吐いた瞬間を、狙う」
「……難しいな」
「簡単には、できない。でも、練習すれば、体が覚える。ほら、あたしの手を、打ってみて」
ノエルは、短剣の柄を、ケイルに渡した。
「……お前の手を、打つのか?」
「そう。遠慮しなくていい。本気で、打って」
ケイルは、短剣を逆手に握り、ノエルの手のひらを狙った。
「……いくぞ」
ケイルは、柄を、ノエルの手のひらに打ち込んだ。
「……痛っ」
「悪い、大丈夫か?」
「大丈夫。でも、もっと、速く。今のは、相手に避けられる。腰を、入れて。手首のスナップを、使って」
ノエルは、ケイルの手を取って、正しい動かし方を教えた。
「こう、手首を返す。そうすると、柄が、鞭のようにしなる。力は、最小限でいい。速さが、全て」
「……こうか?」
ケイルは、教えられた通りに、手首を返して、柄を打ち込んだ。
「……今の、いいよ。あんた、飲み込みが早い」
「本当か?」
「本当。あんた、戦いに向いてる。体の使い方を、知ってる。畑仕事で、体を動かすことに、慣れてるんだろうね」
ノエルは、苦笑いしながら、言った。
「……あんた、戦いに向いてるね」
「……そうか? よく分からねぇ」
「分からなくていい。あたしが、保証する」
ノエルの言葉に、ケイルは、少しだけ、自信を持つことができた。
――
翌朝、四人は、オルバスの野営地へ向けて、出発した。
森の奥へ進むにつれて、空気が冷たくなっていく。木々の間から差し込む陽光は、細く、弱々しい。地面には、昨夜の雨でできた水たまりが、あちこちに残っていた。
ケイルは、ノエルから借りた短剣を、腰に差していた。まだ、慣れない重さが、歩くたびに、腰に触れる。
(これで、戦うのか)
(俺が、人を、傷つけるのか)
(……でも、やるしかない。叔父さんを、助けるためには)
ケイルは、首から下げた徽章を、服の上から握りしめた。
冷たい。
――突然、ノエルが、足を止めた。
「……気配。三人。前方から」
ノエルの声が、低く、鋭い。
「先遣隊だ。見張りが、巡回に出てきた」
「どうする?」
「……迎え撃つしかない。ここで逃げても、追ってくる」
ノエルは、背中の弓を取った。しかし、左肩が、言うことを聞かない。矢をつがえようとして、顔をしかめた。
「……くそ、肩が」
「無理するな。リズ、防御魔法を」
「……はい」
リズが、杖を構えた。銀色の瞳が、鋭く光る。
「マナよ、我が前に、盾を成せ」
リズの周囲に、淡い光の壁が現れた。まだ、微弱で、今にも消えそうな、薄い光。
「……ケイルさん、私の後ろに」
「いや、お前が下がってろ。俺が、前に出る」
「え?」
「俺が、やる。ノエル、短剣、借りたままでいいか?」
「……ああ。でも、無理するなよ」
「無理はしない。ただ、やるだけだ」
ケイルは、短剣を逆手に握った。
――茂みが、揺れた。
三人の男が、現れた。黒い外套。腰には、剣と短剣。教団の傭兵だ。
「……いたぞ! あの小僧だ!」
「焔守の徽章を、持っている奴だ!」
「捕まえろ! 殺しても構わん!」
三人が、一斉に、ケイルに向かって走り出した。
ケイルは、深呼吸した。
(落ち着け)
(相手は、三人。俺は、一人)
(でも、ノエルが教えてくれた。速さが、全てだ)
一人目の男が、剣を振り上げて、斬りかかってきた。
ケイルは、その瞬間、体を沈めた。
――シュッ。
剣が、髪をかすめる。
ケイルは、男の懐に飛び込んだ。
「……うおっ!」
男の膝を、思い切り蹴り上げた。
――ガクン。
男の膝が、逆方向に曲がる。
「があああっ!」
男が、崩れ落ちる。
「てめえ!」
二人目の男が、短剣を突き出してきた。
ケイルは、体を捻って、それをかわした。
(今だ!)
男の鳩尾に、短剣の柄を、思い切り打ち込んだ。
――ドスッ。
「ごふっ……!」
男が、息を吐き出し、前のめりに倒れた。
「この、ガキが!」
三人目の男が、背後から、ケイルに飛びかかってきた。
ケイルは、振り返らずに、体を横にずらした。
男の腕が、空を切る。
ケイルは、その腕を掴み、体を反転させて、男を地面に組み伏せた。
「……動くな」
ケイルは、男の背中に、膝を押し付けた。
「……く、くそっ」
男が、もがく。
ケイルは、男の腕を、さらに強く押さえつけた。
「……やめろ。お前ら、教団の傭兵だな? オルバスの命令で、俺たちを追ってるのか?」
「……知るか」
「知らない、じゃない。お前ら、あの老人を、どこへ連れて行った?」
「……お前には、関係ない」
「関係ある。あの人は、俺の叔父だ」
ケイルの声が、低くなった。
「……教えろ。あの人は、どこにいる?」
「……知らねえよ。俺たちは、ただ、お前らを捕まえろって、言われただけだ」
「……そうか」
ケイルは、男の頭を、地面に押し付けた。
「……お前ら、あの村で、何をしたか、覚えてるか?」
「……村?」
「俺の村だ。獣の群れを、けしかけた。父さんを、殺した。母さんも、村の皆も、みんな、お前らのせいで、死んだ」
ケイルの声が、震え始めた。
「……お前らは、何も知らないのか? 自分たちが、何をしたかも、分からないのか?」
「……俺は、命令に従っただけだ」
「命令に従っただけ、か」
ケイルは、ゆっくりと、男の頭から手を離した。
「……なら、お前も、命令に従うだけの、ただの駒か」
「……ああ」
「……情けねえな」
ケイルは、立ち上がった。
「……お前ら、今すぐ、ここから去れ。二度と、俺たちの前に、現れるな」
「……え?」
「聞こえなかったか? 去れ。今、この場で、お前らを殺すことだって、できる。でも、そんなことをしても、何も変わらない。お前らを殺したって、村は戻らない。父さんも、母さんも、帰ってこない」
ケイルは、倒れている三人の男を見下ろした。
「……でも、次に、お前らが、誰かを傷つけようとしたら、今度は、容赦しない。覚えておけ」
ケイルの声は、静かだった。しかし、その目には、炎のような強い意志が宿っていた。
「……行こう」
ケイルは、三人の男に背を向けた。
「……ケイルさん」
リズが、駆け寄ってきた。
「……大丈夫ですか? 怪我は?」
「大丈夫。かすり傷もない」
「……すごい。君、本当に、あの三人を、一人で」
リズの銀色の瞳が、驚きと、尊敬の色に輝いていた。
「……魔力もないのに、あの動き。本当に、すごいです」
「……ノエルが、教えてくれたんだ。速さが、全てだって」
「……あんた、やっぱり、戦いに向いてるよ」
ノエルが、苦笑いしながら、近づいてきた。
「あの動き、初めてとは思えない。あんた、畑仕事で、猪とか、追いかけたことある?」
「……ある。猪は、素早いから、正面から捕まえようとすると、逃げられる。だから、足を狙って、動きを止める」
「……なるほどね。畑仕事が、戦いの訓練になってたわけだ」
ノエルは、笑った。
「……でも、あんた、本当に、あいつらを殺さなかったね。あの状況で、殺さずに無力化するのは、すごいことだよ」
「……殺す必要は、なかった。あいつらは、ただの駒だ。命令に従って、動いてるだけだ」
「……そうかもしれない。でも、それでも、あんたの村を襲ったのは、あいつらだ。憎い、とは、思わないの?」
「……思う。思うよ。でも、憎しみで、人を殺したら、俺は、あいつらと同じになる。父さんは、そんなことを望んでない」
ケイルは、首から下げた徽章を握った。
「……父さんは、最後まで、戦った。でも、人を憎んで、殺すためじゃなくて、Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。