灰の中の紋章
農夫の息子ケイルは、獣の暴走によって村が襲われ、父を失う。父の最後の言葉は「この紋章の背後にいる者たちを見つけろ」というものだった。ケイルの手に押し付けられた「灰の中の紋章」は、永遠の炎の騎士団の最高位の一つを示すものだったが、ケイルにはそれを読むことができなかった。
残されたのは、記憶が真実と虚構の間をさまよう壊れた心を持つ叔父、アルドレン・セリウスだけ。ケイルは彼を車椅子に乗せ、広い道へと踏み出す。
旅の途中で、偉大な魔法都市を目指す若き魔術師リズ・カナールと、彼を護衛する老傭兵ブラックに出会う。ケイルは初めて、冒険者や戦士たち、そして自分の農場よりはるかに広大な世界を目の当たりにする。漂流する司祭フェンウィック、魔女イサラ・ティアリス、そしてエルフの射手シアレも加わり、小さな一行は新たな王国へと足を踏み入れる。
しかし、何かがおかしい。焚き火のそばで、アルドレンは皆の歌に合わせて口ずさむ。旋律が高まるにつれて、魔術師たちが感じる共鳴も一音一音と高まり、頂点では大師範のレベルにまで達する。しかし最後の一音が消えた瞬間、アルドレンは眠りに落ち、調和は突然途切れた。
誰もその光
灰の中の紋章 - 交易都市ロザン——読めない推薦状と、魔導の卵
街道が、少しずつ広くなっていた。
三日の野宿の末、ケイル・エルデンの足はすり減った革靴の底から熱を上げている。車椅子の車輪が石畳を噛む音が、乾いた空気に吸われていく。アルドレン・セリウスは背もたれに深く沈み、銀色のまぶたを閉じていた。
「……もうすぐ、ロザンだ」
ケイルは自分の声が少し掠れているのに気づいた。喉が渇いている。水筒はもう半日ほど前から空だった。
「ロザン……」
叔父が、眠ったままの声で繰り返した。
「……火の、街……か」
「火の街?」
「……いいや。……なんでも、ない」
アルドレンの首が、また力なく傾いだ。
ケイルは黙って車椅子を押し続けた。
(火の街、か)
胸の奥で、何かが小さくざわつく。この三日間、叔父は妙に静かだった。リド村を出てから、あの歌を一度も歌っていない。眠っている時間が長くなり、起きている間も空を眺めてばかりいる。
(大丈夫なのか)
そう思うが、尋ねても答えは返ってこない。ケイルは首から下げた銅板を、服の上からそっと押さえた。冷たい。
リド村でノエルが言った言葉が、ずっと耳の奥に残っている。
『黒ずくめの連中はこの辺りじゃ、教団の犬って呼ばれてる』
『あんた、目をつけられたかもしれないね』
(教団の犬——)
(村を襲った連中と同じなのか)
(それとも、別の——)
分からないことばかりだ。分からないまま、足だけが前へ進む。
丘を一つ越えると、視界が急に開けた。
ケイルは、足を止めた。
「……うわ」
声が、自然に漏れていた。
眼下に、街があった。
白い石造りの建物が、どこまでも続いている。赤い屋根、青い旗、高い塔。街の真ん中を、ロザリンド川の支流が銀色に光りながら流れている。馬車が何台も行き交い、人が蟻のように動いている。
生まれて初めて見る、大きな街だった。
「……叔父さん。起きて。街だ」
アルドレンの肩を軽く揺する。叔父はゆっくりとまぶたを開け、眼下の光景を眺めた。
「……ああ」
それだけだった。
「……この街の地下に、火が眠っている」
突然の言葉に、ケイルは叔父の顔を見下ろした。
「火が、眠ってる?」
「……古い、火だ。……とても、古い」
灰色の瞳が、街の中心をじっと見つめている。焦点は合っていない。けれど、その瞳の奥に、ケイルは何か鋭いものを感じた。
(また、始まった)
(叔父さんは、何か知ってる)
「……行こう。腹が減った」
ケイルは、それ以上追及しなかった。
車椅子を押して、丘を下り始める。
ロザンの街が、近づいてくる。
――
城門には、長い列ができていた。
商人の馬車、荷車、旅人、巡礼者。門の前で衛兵が一人ずつ呼び止め、何かを確認している。
「身分証を出せ」
ケイルの番が来たとき、若い衛兵が手を差し出した。
「……ない」
「ない?」
衛兵の眉が上がる。隣に立っていた年配の衛兵が、ケイルの姿を頭から足まで眺めた。麻の上着は汚れ、袖口はほつれている。車椅子の老人は、目を閉じて眠っている。
「田舎者か。身分証がなきゃ入れられないぞ」
「村が、焼けて。全部、なくなったんだ」
衛兵二人は顔を見合わせた。
「またか。西部の魔獣騒ぎか」
「……そうだ」
「登録料を払え。仮の通行証を出してやる。五ゴールドだ」
「五ゴールド——」
ケイルの顔が強張った。
(持ってるのは、全部で三ゴールドと少しだ)
「……払えない」
「払えなきゃ入れない。後ろが詰まってる。どけ」
衛兵が、槍の柄でケイルの肩を小突いた。
「おい、待ちな」
後ろから、よく知った声がした。
振り返ると、ノエル・グレンフィールドが荷物を背負って立っていた。旅の斥候。十八歳。赤茶色の短い髪を後ろで一つに束ね、琥珀色の目が面白そうに笑っている。薄汚れた革の胸当てに、短剣を二本差している。
「あんた、こんな所で何してんのさ」
「ノエル……お前、いつの間に」
「後ろからずっと見てたよ。あんた、歩くの遅いんだもん」
ノエルは衛兵の前に歩み出た。
「この二人、あたしの連れ。通行証代、あたしが払うから通してくれない?」
「お前は?」
ノエルは胸の内側から、折り畳まれた羊皮紙を出して広げた。衛兵がそれを覗き込み、頷く。
「……分かった。通れ」
ノエルは銀貨を数枚、衛兵の手に握らせた。
「ほら、行くよ」
ケイルは、慌てて車椅子を押した。
門をくぐると、世界が変わった。
――
ロザンの大通りは、人で溢れていた。
馬車が石畳を踏む音。馬のいななき。商人の怒鳴り声。香辛料の匂い。焼きたてのパンの匂い。汗と香水が混ざった、濃い空気。
ケイルは、目を回しそうになりながら歩いた。
(すごい)
(人が、こんなに)
エルデン村の人口は百五十人だった。ここには、その何十倍もの人間が、一日中行き交っている。
「おい、どけ!」
背後から馬車が迫り、ケイルは慌てて車椅子を道端に寄せた。車輪が石畳の継ぎ目に引っかかり、ガタンと揺れる。アルドレンの頭が、がくんと前に傾いた。
「……すまない、叔父さん」
「……いや」
馬車が通り過ぎる。黒塗りの箱型の馬車。窓の奥に、白いレースのカーテンが見えた。御者の隣には、槍を持った護衛が二人。
「貴族の馬車だよ。ああいうのに轢かれても、謝ってもらえないどころか、こっちが捕まるからね」
ノエルが、呆れたように言った。
「……あれが、貴族」
「そう。ああいう連中が、この国を動かしてる。ま、あたしらには関係ないけど」
大通りの向こうに、大きな建物が見えた。入り口の上に、剣と盾の看板。その下に、文字が書かれている。
「あれ、何て書いてある?」
「あれ? 『ロザリンド冒険者組合』だよ。あんた、字、読めないんだっけ」
「……読めない」
ケイルは、看板の文字を見上げた。
曲がりくねった線の集まり。意味の分からない模様。
(あれが、文字)
(俺には、読めない)
胸の奥で、小さな棘がちくりと痛む。
「ロザリンド冒険者組合ってのは、魔獣退治や護衛の仕事を仲介してくれる組織だよ。ここらの仕事の半分は、あそこ経由だ」
「へえ」
「あんた、ここで日雇い探すんだろ? 広場に行けば、日雇いの求人を貼り出してる掲示板がある。でも、あれも全部文字だから、あんたには読めないね」
ノエルは、からかうでもなく、事実を言った。
「……読めないと、仕事も見つけられないのか」
「そういうこと。この街は特にね。読み書きできる者優遇の仕事ばっかり。字が読めないと、力仕事しか残らない。しかも、その力仕事だって、契約書が読めないと騙される」
ケイルは、リド村での出来事を思い出した。三倍の金額を書き込まれた契約書。叔父が論破してくれなければ、今頃どうなっていたか。
「……分かってる」
「ま、あたしがしばらく面倒見てやるよ。宿代、貸してやるから。その代わり、あとで返せよ」
「……ありがとう」
ケイルは、素直に頭を下げた。
――
三人が宿に落ち着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
ノエルが手配してくれたのは、大通りから少し外れた裏通りの宿屋だった。木造二階建て。看板には『眠れる狼亭』と書かれているらしい。ケイルには読めない。
「ここ、安いんだ。一泊五ゴールド。飯は別だけど」
「五ゴールド……」
(それでも、俺には払えない)
「だから貸してやるって言ってるだろ。あたし、明日から護衛の仕事が入ってるから、その間、あんたは好きにしな。仕事を探すなり、街を見るなり」
ノエルは、自分の荷物を二階の部屋に放り込むと、すぐに階段を降りてきた。
「あたし、ちょっと組合に顔を出してくる。夕方までに戻る。それまで、この人を見ててやって」
「ああ」
ノエルは、軽い足取りで宿を出て行った。
ケイルは、アルドレンを宿の一階の食堂に連れて行き、隅の席に座らせた。
「叔父さん、水を飲むか」
「……ああ」
宿の女将に水を頼む。女将は、ケイルの汚れた服とアルドレンの虚ろな目を交互に見て、何も言わずに水差しを置いた。
「……この街は、火でできている」
アルドレンが、水を一口飲んで、ぽつりと言った。
「火で?」
「……石の下に、火が眠っている。……古い火だ。……誰かが、起こそうとしている」
「誰かって、誰だ?」
「……分からない。……分からないが、……近くにいる」
アルドレンの灰色の瞳が、一瞬、食堂の窓の外に向けられた。
ケイルも、つられて外を見た。
夕暮れの裏通り。人影はない。
「……気のせいか」
「……気のせいでは、ない」
アルドレンは、それきり黙った。
――
翌朝、ケイルは一人で宿を出た。
アルドレンはまだ眠っている。ノエルは朝早く、護衛の仕事に出て行った。
(仕事を探さないと)
(ノエルに借りた分を、返さないと)
ケイルは、昨日ノエルに教えられた広場へ向かった。
広場は、朝から人でごった返していた。
中央に、大きな掲示板が立っている。木の板に、羊皮紙が何枚も貼り付けられている。周りには、ケイルと同じように仕事を探しているらしい男たちが群がっていた。
ケイルは、掲示板の前に立った。
(……読めない)
紙の上の文字が、ただの模様にしか見えない。
「おい、お前、何見てるんだ。字が読めるのか?」
隣にいた男が、ケイルに声をかけた。日に焼けた、浅黒い肌。荷運び人足らしい、太い腕。
「……いや。読めない」
「読めないのに、ここに来たって無駄だぞ。ここの仕事は全部、読み書きができる奴向けだ」
男は、そう言って掲示板の一番上を指さした。
「ほら、これなんか、『軽作業、読み書きできる者優遇』だ。こっちは『帳簿の記入ができる者』。全部そうだ」
「……力仕事は、ないのか」
「たまにあるが、すぐ埋まる。この街は、田舎から流れてきた奴で溢れてるからな。字が読めない奴は、掃除か、荷物運びか、それとも……」
男は、言いかけて口を閉じた。
「それとも?」
「……いや、やめとけ。あんた、若いし、真面目そうだ。裏の仕事に手を出すな」
男は、それだけ言うと、人混みの中へ消えていった。
ケイルは、掲示板の前で立ち尽くした。
(文字が読めないだけで)
(仕事が、ない)
(村では、そんなことなかった)
(村では、働けば食えた)
(ここでは、文字が読めないと、人並みに働くことすらできないのか)
胸の奥で、何かがじわじわと熱くなる。
怒りなのか、悲しみなのか、悔しさなのか。自分でも分からない。
(父さんは、読み書きを教えてくれなかった)
(識字税がかかるから、損しかしないって)
(でも——)
(この街では、読めない方が損をする)
(どっちが、本当なんだ)
ケイルは、拳を握りしめた。
――
広場の片隅で、一人の少女がしゃがみ込んでいた。
ケイルの目が、その少女に吸い寄せられた。
(……なんだ?)
整えられた漆黒の短髪。淡い氷のような銀色の瞳。年は、ケイルより一つか二つ上だろうか。紺色のローブを着ている。手には、一枚の羊皮紙を握りしめていた。
少女は、羊皮紙をじっと見つめ、それから顔を上げて、また紙を見る。何かを確かめるように、何度も繰り返している。
ケイルは、その様子をしばらく見ていた。
(困ってるのか)
(何をしてるんだ)
気づくと、ケイルは少女に近づいていた。
「……あの」
少女が、びくりと肩を震わせて顔を上げた。
銀色の瞳が、ケイルをまっすぐに見上げる。
「……何か」
声は、思ったより低く、落ち着いていた。けれど、その瞳の奥に、隠しきれない動揺が揺れている。
「いや、何か困ってるのかと思って」
「……困ってなんか、いません」
少女は、そう言って立ち上がった。
立ち上がると、ケイルより少し低い目線。紺色のローブの袖口から、インクで染まった指先が見えた。
「それ、推薦状か?」
ケイルは、少女が握りしめている羊皮紙を指さした。
「……見て、分かるんですか?」
「いや。封蝋が見えたから。大事そうに持ってるから」
「……そうです。これは、リューベルク魔法院への推薦状です」
「リューベルク魔法院?」
「知らないんですか? 大陸最大の魔術研究機関です。魔法都市リューベルクにある、魔術師の最高学府ですよ」
少女の声に、わずかに誇らしさが混じった。
「へえ。すごいんだな」
「……すごい、というか。当然です。私は、魔導師を目指していますから」
少女は、そう言って胸を張った。
「それで、何でこんな所でしゃがみ込んでたんだ? その推薦状があれば、すぐにでも行けるんじゃないのか?」
少女の顔が、さっと曇った。
「……護衛に、金を騙し取られました」
「護衛に?」
「この街まで護衛を雇ったんです。道中の安全のために。でも、その傭兵が、報酬を前払いで受け取った途端に逃げてしまって。宿代も、食事代も、全部なくなりました」
少女は、悔しそうに唇を噛んだ。
「……そりゃ、災難だったな」
「災難で済まないんです。宿の受付に、この推薦状を見せれば、何とかなると思ったんですけど」
少女は、羊皮紙をケイルの前に差し出した。
「……これ、読めますか?」
「読めない」
ケイルが即答すると、少女は驚いたように目を丸くした。
「読めない? この年で?」
「ああ。俺は、文字が読めない」
ケイルは、真っ直ぐに少女を見て言った。
「……そうですか。魔導の世界では、読み書きは基本ですよ。魔術式も、詠唱も、すべて文字で記述されます。字が読めないようでは、魔導師どころか、見習いにすらなれません」
少女の口調が、急に冷たくなった。
「……そうなのか」
「そうです。だから、私には関係のない話ですね」
少女は、そう言ってケイルから目を逸らした。
(冷たいな)
(でも、悪い子じゃなさそうだ)
ケイルは、少女の握りしめた羊皮紙に目をやった。
封蝋の下に、何か文字が書かれている。ケイルには読めない。でも、一つの単語だけ、なぜか形に見覚えがあった。
「……それ、リューベルクって書いてあるんじゃないか?」
「え?」
少女が、羊皮紙を見つめる。
「ここ。この、長い文字の並び。リューベルクって、そんな感じの形じゃないのか?」
ケイルは、文字の一つを指さした。
少女の顔色が、みるみる変わっていく。
白い頬に、さっと赤みが差した。
「……ち、違います。これは、その……宛名の、一部で」
「宛名? 誰に宛てた推薦状なんだ?」
「……マクシミリアン・ヴァイス殿。リューベルク魔法院の院長です」
少女は、小声でそう言った。
「へえ。その院長の名前、ちゃんと読めるのか?」
「……読めます。もちろん、読めます。私は、読み書きは完璧ですから」
少女の声が、わずかに早口になっている。
「じゃあ、何で宿の受付に通せないんだ?」
「……それは、その……宛名の読み方が、曖昧で」
「曖昧?」
「……マクシミリアン・ヴァイスという名前の、正確な綴りが、古い書体で書かれていて。私、古エテルノ語の筆記体は、あまり得意じゃなくて」
少女の声が、どんどん小さくなる。
「……つまり、読めてないんじゃないか」
ケイルが、率直に言った。
少女は、真っ赤になって俯いた。
「……読めないわけじゃ、ありません。ただ、少し、自信がないだけで」
「同じことだろ」
「違います! 私は、読み書きはできます。あなたと一緒にしないでください!」
少女が、顔を上げてケイルを睨んだ。
銀色の瞳が、涙でわずかに潤んでいる。
ケイルは、その顔を見て、怒る気にはなれなかった。
(この子、必死なんだな)
(魔導師になりたいんだ)
(でも、字が読めないことで、今、目の前の壁にぶつかってる)
(俺と同じだ)
「……別に、馬鹿にしてるわけじゃない」
ケイルは、静かに言った。
「俺も、字が読めない。だから、読めないことがどんなに悔しいか、分かる」
少女が、はっとしたようにケイルを見た。
「……あなた、字が読めないのに、悔しいって思うんですか?」
「当たり前だろ。読めたら、もっと色んなことが分かる。仕事も見つけられる。騙されない。……読めないってのは、損しかない」
少女は、黙ってケイルの言葉を聞いていた。
「でも、あんたは、俺と違って、読めるんだろ? だったら、自信を持て。その推薦状だって、あんたが読めるって言い張れば、宿の受付だって通るだろ」
「……言い張るって、そんな」
「あんたが読めるって信じれば、読めるんだよ。多分」
ケイルは、そう言って笑った。
少女は、きょとんとした顔でケイルを見つめていた。
「……変な人ですね」
「よく言われる」
少女の口元が、ほんの少しだけ、ほころんだ。
「おーい、ケイル。何してるのさ」
声がして、ノエルが広場を横切ってやってきた。
「ノエル。仕事は終わったのか?」
「昼休み。あんた、その子、誰?」
ノエルが、少女を興味深そうに眺めた。
「……私は、リズ・カナールと申します。魔導師を目指しています」
リズは、背筋を伸ばして自己紹介した。
「へえ、魔導師の卵か。あたしはノエル。旅の斥候。よろしく」
ノエルが、軽く手を振った。
「で、何してたの?」
「護衛に金を騙し取られたらしい。宿代がなくて困ってるんだと」
「あー、あるある。この街、そういうの多いから。気をつけないと」
ノエルは、リズの手に握られた羊皮紙を見た。
「それ、推薦状? リューベルク魔法院の?」
「……読めるんですか?」
「封蝋の紋章で分かるよ。魔法院の印だ。あんた、本当に推薦状持ってるんだ。すごいじゃん」
リズの顔が、わずかに明るくなった。
「……でも、宿代がなくて」
「働けばいいじゃん。この街、日雇いの仕事ならいくらでもあるよ。薬草採集とか、配達とか、掃除とか」
「薬草採集?」
「ああ、ロザンの北の森で、薬草を採ってくる仕事。魔術師のあんたなら、薬草の見分けくらいつくでしょ?」
リズは、少し考えてから頷いた。
「……薬草の知識は、あります。基礎課程で学びましたから」
「じゃあ、決まりだ。あんた、その仕事を受けてきなよ。ケイル、あんたも一緒に行ってやんな。あんた、仕事探してたんだろ?」
「俺も?」
「薬草採集は、一人より二人の方が稼げるんだよ。それに、あんた、字が読めないから、一人じゃ仕事の場所も分からないだろ。この子について行けばいい」
ノエルは、そう言って笑った。
「……私は、別に一人で」
「一人で森に入るのは危ないよ。あんた、魔術は使えるかもしれないけど、まだ見習いだろ? 魔獣が出たらどうするのさ」
リズは、口を噤んだ。
「……分かりました。では、ご一緒します」
リズは、ケイルをちらりと見て、小さく頷いた。
「俺も、それでいい」
「よし、決まり。仕事の受注は、広場の東側の掲示板。薬草採集の依頼書を探して、受付に持って行くんだよ」
「……受注の仕方も、分からないのか」
「分かんないよ。あたし、こういうのやったことないから。二人で何とかしな」
ノエルは、手をひらひら振って、人混みの中へ消えていった。
――
結局、リズが依頼書を読み、ケイルが受付に持って行く、という分担で、二人は薬草採集の仕事を受注した。
報酬は、一人あたり十ゴールド。宿代一泊分と、少しの食料が買える金額だ。
「……あなた、字が読めないのに、よく今まで生きてこれましたね」
街の北門を出て、森へ向かう道すがら、リズが言った。
「村では、字が読めなくても生きていけた。ここでは、そうもいかないみたいだ」
「……そうでしょうね。都市では、文字は生活の基盤です。契約も、記録も、通信も、すべて文字で行われます。文字が読めない者は、そのすべてから締め出される」
リズの口調は、講義をしているように真剣だった。
「あんたは、字が読めるから、そんなことが分かるんだな」
「……当たり前です。私は、読み書きを五歳で習得しました」
「五歳で」
「……自慢じゃありません。私の家は、魔導師の家系で、文字は物心つく前から教えられました」
「魔導師の家系?」
「……そうです。でも、私の家は、今は没落していて。私が、家を再興するんです。魔法院に入って、正式な魔導師になって」
リズの銀色の瞳が、遠くを見た。
「……大変なんだな」
「大変です。でも、やるしかないんです」
リズは、きゅっと唇を引き結んだ。
(この子、すごいな)
(俺より一つしか違わないのに、ちゃんと目標があって、そのために必死で)
(俺は、ただ、父さんの言葉に従って、歩いてるだけだ)
ケイルは、胸の銅板に触れた。
(この紋章の者を探せ)
(でも、探してどうするんだ)
(見つけたら、何をするんだ)
(俺は、まだ、何も決めていない)
「……どうかしましたか?」
リズが、ケイルの顔を覗き込んだ。
「いや。何でもない。……森だな」
北の森は、思ったより深かった。
木々が生い茂り、昼間でも薄暗い。足元は落ち葉で覆われ、空気は湿っている。
「この辺りに、月露草が群生しているはずです。月露草は、銀色の葉の裏に露をためる薬草で、マナポーションの原料になります」
「マナポーションって、あの、魔力を回復する薬か」
「よく知ってますね。そうです。魔術師の必須アイテムです。だから、月露草は高く売れるんです」
リズは、腰をかがめて地面を観察しながら歩いていた。
「あんた、薬草に詳しいんだな」
「基礎課程で、薬草学を修めましたから。成績は、上位でした」
リズが、少し得意げに言った。
「へえ。あんた、やっぱり頭がいいんだな」
「……当たり前です。魔導師を目指しているんですから」
リズが、ふんと鼻を鳴らした。
(素直じゃないな)
ケイルは、苦笑いした。
「……あ、ありました」
リズが、木の根元にしゃがみ込んだ。
そこには、銀色の葉をした小さな草が、群生していた。葉の裏に、朝露のような水滴が光っている。
「これが、月露草か」
「そうです。採取するときは、根を傷つけないように、葉だけを摘みます。そうすれば、また生えてきますから」
リズは、指先で丁寧に葉を摘み始めた。
ケイルも、見よう見まねで葉を摘む。
「……あなた、意外と手先が器用ですね」
「農作業で慣れてるからな」
「農作業?」
「俺、農夫の息子だ。村で、麦を作ってた」
「……そうですか。農夫の息子が、なぜこんな街に?」
「……色々あってな」
ケイルは、それ以上言わなかった。
リズも、それ以上は聞かなかった。
二人は、黙々と月露草を摘み続けた。
――
「……何か、聞こえませんか?」
リズが、突然顔を上げた。
「聞こえないか?」
ケイルも、手を止めて耳を澄ませた。
風の音。木の葉の擦れる音。
それから——
低い、唸り声。
「……下がって」
リズの声が、鋭くなった。
木々の影から、獣が現れた。
一頭、二頭、三頭——
体長二メートルほどの、狼型の魔獣。灰色の毛皮。赤く光る目。
「ヴェルグリム……!」
リズが、叫んだ。
「ヴェルグリム? あの、群れで行動するっていう——」
「そうです! 危険度Cの魔獣です! 下がってください!」
リズは、ケイルを庇うように前に立った。
五頭のヴェルグリムが、ゆっくりと包囲を狭めてくる。
「あんた、魔法が使えるのか?」
「使えます! 見ててください!」
リズは、右手を前に突き出した。
「我が内なるマナよ、螺旋を描きて、氷の矢となれ——」
リズが、詠唱を始めた。
指先に、青白い光が集まり始める。
「——フリーズ・アロー!」
放たれた氷の矢が、先頭のヴェルグリムに向かって飛んでいく。
だが——
矢は、ヴェルグリムの肩をかすめただけで、後ろの木に突き刺さった。
「……外した!?」
リズの顔が、青ざめた。
「落ち着け! もう一度——」
「分かってます! もう一度——」
リズが、再び詠唱を始めた。
「我が内なるマナよ——」
その時、リズの体が、がくんと揺れた。
「……え?」
指先の光が、激しく明滅する。
「な、何——」
リズの体から、制御できない魔力が溢れ出した。青白い光が、リズの全身を包み、周囲の落ち葉を吹き飛ばす。
「リズ!?」
「だ、だめ——マナが、制御できな——」
リズの膝が、折れた。
「……っ、あ……!」
リズは、地面に手をついて、荒い呼吸を繰り返した。体が、小刻みに震えている。
「おい、大丈夫か!?」
ケイルが駆け寄ろうとすると、ヴェルグリムの一頭が、低く唸って一歩前に出た。
「……だめ、動けな……マナ循環系が、暴走して……」
リズの声が、涙で濡れている。
「……私、魔導師になるって、決めたのに……こんな所で……」
ヴェルグリムが、じりじりと距離を詰めてくる。
ケイルは、リズの前に立った。
「……何してるんですか、逃げてください!」
「逃げられるかよ」
ケイルは、腰の後ろから、短いナイフを抜いた。リド村で、ノエルがくれた護身用のものだ。
「……あんた、それで、あの魔獣と戦う気ですか? 無茶です!」
「戦わない。逃げるんだ」
「え?」
ケイルは、リズの腕を掴んで、無理やり背中に担ぎ上げた。
「つかまってろ!」
「ちょ、ちょっと——」
ケイルは、リズを背負ったまま、走り出した。
――
ヴェルグリムの群れが、後を追ってくる。
五頭の足音が、地面を叩く。唸り声が、背中に迫る。
(くそ、速い!)
(このままじゃ、追いつかれる)
ケイルは、必死に足を動かした。
「……あの、私、重くないですか?」
「今、それどころじゃない!」
「……すみません」
リズが、小さくなった。
「川だ!」
前方に、浅い川が見えた。
「あの川、渡れるか!?」
「え? あ、はい、浅そうです!」
「よし、行くぞ!」
ケイルは、川に向かって全速力で走った。
「——風下だ」
「え?」
「風が、こっちから向こうに吹いてる。川を渡って、風下に隠れれば、臭いが消える」
「……なんで、そんなことが分かるんですか?」
「農夫は、天気と風を読むんだよ」
ケイルは、川の浅瀬に足を踏み入れた。
冷たい水が、靴の中に流れ込む。
「つかまってろよ!」
ケイルは、リズを背負ったまま、川を渡り始めた。
水しぶきが上がる。足音が、水音に変わる。
後ろで、ヴェルグリムの群れが川岸に到達した。
一頭が、川に飛び込もうとして——
「……来ない?」
ヴェルグリムたちは、川岸で立ち止まり、水を舐めるようにして、こちらを見ている。
「ヴェルグリムは、水を嫌うのか?」
「……知りません。でも、渡ってこない」
ケイルは、対岸の岩陰に、リズを下ろした。
二人は、息を潜めて、岩の影に身を隠した。
ヴェルグリムたちは、しばらく川岸をうろついていたが、やがて諦めたように、森の奥へと散っていった。
――
「……行きましたね」
リズが、震える声で言った。
「……ああ」
ケイルは、大きく息を吐いた。
全身が、冷たい水で濡れている。背中で、リズの体温だけが温かい。
「……あなた、字は読めないのに、頭はいいんですね」
リズが、ぽつりと言った。
「……あんた、さっきと言ってることが違うぞ」
「……さっきは、失礼なことを言いました。謝ります」
リズは、ケイルの背中に顔を押し付けた。
「……別に、謝らなくていい。俺は、字が読めないのは事実だ」
「でも、あなたは、字が読めない代わりに、風が読める。私は、文字が読めるのに、風が読めなかった。……魔導師は、魔法だけできればいいと思ってました。でも、違うんですね」
リズの声が、くぐもっている。
「……俺は、字は読めないけど、明日の天気なら読める」
ケイルは、空を見上げて言った。
「……明日の天気?」
「ああ。雲の流れと、風の匂いで、大体分かる。明日は、晴れる」
リズが、ケイルの背中から顔を上げた。
「……本当に分かるんですか?」
「ああ。外れることもあるけどな」
ケイルが笑うと、リズも、小さく笑った。
「……変な人」
「さっきも言われた」
二人は、濡れた体を寄せ合って、しばらく笑っていた。
――
宿に戻ったのは、日が暮れてからだった。
「遅かったじゃない。心配したよ」
ノエルが、宿の食堂で待っていた。
「……色々あってな」
「色々って、あんた、びしょ濡れじゃない。何があったのさ」
「ヴェルグリムの群れに遭った」
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