灰の中の紋章
農夫の息子ケイルは、獣の暴走によって村が襲われ、父を失う。父の最後の言葉は「この紋章の背後にいる者たちを見つけろ」というものだった。ケイルの手に押し付けられた「灰の中の紋章」は、永遠の炎の騎士団の最高位の一つを示すものだったが、ケイルにはそれを読むことができなかった。
残されたのは、記憶が真実と虚構の間をさまよう壊れた心を持つ叔父、アルドレン・セリウスだけ。ケイルは彼を車椅子に乗せ、広い道へと踏み出す。
旅の途中で、偉大な魔法都市を目指す若き魔術師リズ・カナールと、彼を護衛する老傭兵ブラックに出会う。ケイルは初めて、冒険者や戦士たち、そして自分の農場よりはるかに広大な世界を目の当たりにする。漂流する司祭フェンウィック、魔女イサラ・ティアリス、そしてエルフの射手シアレも加わり、小さな一行は新たな王国へと足を踏み入れる。
しかし、何かがおかしい。焚き火のそばで、アルドレンは皆の歌に合わせて口ずさむ。旋律が高まるにつれて、魔術師たちが感じる共鳴も一音一音と高まり、頂点では大師範のレベルにまで達する。しかし最後の一音が消えた瞬間、アルドレンは眠りに落ち、調和は突然途切れた。
誰もその光
灰の中の紋章 - 聖火の間——千歳の焔守と、読めない遺志
水の音が、暗い洞窟の壁に反響していた。
膝まで浸かった地下水は、夜の森の空気よりもずっと冷たい。一歩進むたびに、氷のような水が革靴の中へ染み込んで、足の感覚がじわじわと抜けていく。ケイル・エルデンは、唇の間に噛んだ布をぎゅっと強く噛みしめた。歯を食いしばるたびに、脇腹の古い傷が、ずくん、と疼く。
(音を、立てるな)
心の中で、自分に言い聞かせる。
水路の上流から、かすかに松明の灯りが漏れていた。見張りの影が、水面に揺れている。あと少しで、あの灯りの下をくぐる。見つかれば、終わりだ。
前を行くイサラ・ティアリスが、静かに右手を上げた。
黒褐色のねじれた長髪が、彼女の肩から滑り落ちる。深い琥珀色の瞳が、暗闇の中で、ほとんど光を反射していない。彼女は、左右の前腕に刻まれた微細な魔法陣のような紋様を、水面すれすれに浮かべた。すると、上流の見張りの影が、ふらり、と揺れた。
(呪術か)
イサラの力で、見張りの感覚が、ほんの少しだけ狂わされている。今なら、気づかれない。
「……進む」
イサラの声は、水音よりも小さかった。
ケイルは頷き、後ろのリズ・カナールを振り返った。
リズは、杖を持っていなかった。黒い短髪が、水路の冷気で湿って、白い額に張り付いている。銀色の瞳は、疲れのせいで、いつもより少しだけ潤んでいた。それでも、彼女は杖に頼らず、自分の足で水を掻き分けて進んでいた。マナを、一滴でも無駄にしないために。
「リズ、大丈夫か」
ケイルは、口の端から、ほとんど息だけで言った。
「……大丈夫です。君こそ、足元に気をつけて。滑りますよ」
リズもまた、囁くように答えた。
最後尾のノエル・グレンフィールドが、短く息を吐いた。左肩を射抜かれた傷は、包帯の上からでも分かるほど腫れ上がっている。彼女は、残った右手で短弓を握りしめ、矢筒の位置を何度も確かめていた。
「……あの灯りの向こうに、乾いた通路がある。そこから先は、見張りがいない。あたしが、さっき偵察で確かめた」
ノエルの声は、いつもの軽快さを失っていた。だが、その分だけ、言葉に重みがある。
四人は、音を殺して、水路を進んだ。
冷たい水が、太ももまで達する。布を噛む歯の奥で、呼吸が荒くなりそうになるのを、必死に抑え込む。
――やがて。
洞窟の奥に、赤い光が滲んでいた。
松明の灯りではない。もっと、深い。もっと、どろりとした、血のような赤。それが、岩壁の割れ目から、脈打つように漏れ出している。
ケイルは、足を止めた。
(ここだ)
(この先に、叔父さんがいる)
胸の奥で、心臓が、どくん、どくん、と暴れ始めた。
「……あの扉、見えるか」
「ええ。あれが、聖火の間への入口……だと思います」
リズが、震える声で言った。
「焦げた書簡に、そう記されていました。『聖火の間は、赤き炎の扉の先にあり』……って」
「……あの赤い光、ただの炎じゃないな」
イサラが、低く呟いた。
「マナが、混ざっている。……あの扉の向こうは、もう、普通の洞窟じゃない」
「だろうな。あの爺さんが、こんな所に連れてこられたんだ。まともな場所のはずがない」
ノエルが、短弓を握り直した。
「行くぞ。……準備はいいか」
ケイルは、口に噛んでいた布を、ゆっくりと外した。
「俺が、先頭を行く。ノエルは、弓で援護。リズは、魔法の準備。イサラは……叔父さんを、頼む」
「……分かった」
「ええ」
「……承知した」
四人は、赤い光が滲む扉へと、足を進めた。
――扉は、思ったよりも、あっさりと開いた。
ギィ、と古い蝶番が軋む。
途端に、むっとする熱気と、甘ったるい香の匂いが、四人を包み込んだ。
聖火の間。
そこは、想像していたよりも、ずっと広い空間だった。天井は高く、岩壁には無数の燭台が並べられ、そのすべてに、赤い炎が揺らめいている。床は磨かれた黒い石で、足元に、四人の影が、幾重にも重なって映っていた。
そして、部屋の中央に、祭壇があった。
黒い石でできた、古びた祭壇。
その上に、痩せた老人が、縛りつけられていた。
「……叔父さん!」
ケイルの喉から、叫びが迸った。
アルドレン・セリウス。
銀髪に白髪が混じった髪は、汗と血で乱れ、深く落ち着いた灰色の瞳は、虚ろに天井を見つめていた。朽ち果てた体躯は、祭壇の上で、まるで枯れ木のように横たわっている。両手首と両足首を、黒い革の拘束具が、石に縫い付けていた。
「ケ……イル……」
アルドレンの唇が、かすかに動いた。
「来ては……いけない……のに……」
「叔父さん! 今、助ける!」
ケイルが、祭壇へ駆け寄ろうとした、その時。
「――ほう」
部屋の奥、赤い燭台の影から、ゆっくりと拍手の音が響いた。
「よく来たな、小僧。……いや、『よく来てくれた』と言うべきか。お前が来なければ、この老いぼれの頭を割って、歌を引きずり出す手間が省けなかったのだからな」
声の主は、オルバス・レイン。
黒い外套をまとい、顔の下半分を銀色の仮面で覆った男。彼は、十二導師の法衣を、その上から羽織っていた。赤と金の糸で、太陽と炎の紋章が刺繍された、教団の最高位の者だけが着ることを許された衣。
「オルバス……!」
ケイルの声が、怒りで震えた。
「お前が、叔父さんを……!」
「そうだ。私が、この老人を、ここへ連れてきた。そして、今から、この老人の頭から、歌の秘儀を、余すところなく抽出する」
オルバスは、仮面の下の口元を、歪ませた。
「この老人のマナ循環系は、もう、ぼろぼろだ。だが、それでも、歌の秘儀は、魂に刻まれている。……頭を割って、直接、マナの流れを読み取れば、私のものになる。そうすれば、焔守の座は、私のものだ」
「ふざけるな! 叔父さんを、道具みたいに扱うな!」
「道具? そうだ。この老人は、もう、道具だ。壊れた、ただの道具だ。……お前も、そうだ。焔守の徽章を持ちながら、その意味すら読めない、無能な小僧。お前も、道具以下の、ただの鼠だ」
オルバスの言葉が、聖火の間に、冷たく響き渡った。
「……お前たち、四人で、何ができる。女の斥候は、肩を射抜かれて、まともに弓も引けまい。見習い魔導師は、魔力を使い果たして、杖も持てない。放浪の魔女は……ふん、呪術など、私の前では、赤子の手遊びだ」
オルバスは、ゆっくりと、祭壇の横に歩み寄った。
「今から、儀式を始める。……見ていろ。お前たちが、どれほど無力かを、その目に焼き付けろ」
オルバスが、右手を掲げた。
その手に、黒い光が集まり始める。
――その時。
「やらせるか!」
ケイルは、腰の短剣を、鞘ごと、床に投げ捨てた。
ガチャン。
金属の音が、石の床に響く。
「……何の真似だ」
「剣なんか、いらねぇ。……お前を、この手で止める!」
ケイルは、全速力で駆け出した。
「――小賢しい!」
オルバスの手から、黒い光が放たれた。
だが、ケイルは、まっすぐに突っ込んだ。
光が、脇腹を掠める。焼けるような痛みが走った。それでも、足は止まらない。
(止まるな)
(止まったら、叔父さんが、死ぬ)
ケイルは、オルバスに、組み付いた。
「ぐ……っ!」
オルバスの体に、のしかかる。
「離れろ、小僧!」
オルバスの拳が、ケイルの顔面を殴った。
ゴッ。
視界が、白く明滅する。口の中に、鉄の味が広がった。
それでも、ケイルは、腰を落として、離れなかった。
「離さ……ねぇ!」
「この……!」
二発目。三発目。
オルバスの拳が、ケイルの頭を、肩を、背中を、何度も何度も殴りつける。
骨が軋む音が、頭蓋骨の内側に響いた。
(それでも……)
(俺が、ここで、離れたら……)
(誰が、叔父さんを、守るんだ)
ケイルは、オルバスの法衣を、指が白くなるほど、握りしめた。
「――ノエル!」
ケイルが、血を吐きながら叫んだ。
「分かってる!」
ノエルは、左肩の傷を、右手で、ぎゅっと押さえつけた。
激痛。
彼女の顔から、血の気が引いた。
それでも、ノエルは、短弓を構えた。
(あたしの肩は、もう、あの子を守れなかった)
(でも、今度は)
(今度こそ、守る)
ノエルは、矢を放った。
ヒュッ。
空気を裂く音。
矢は、まっすぐに、オルバスの左肩へと、吸い込まれていった。
ズブリ。
「ぐあああああっ!」
オルバスの叫びが、聖火の間に響き渡った。
矢が、オルバスの左肩を、深々と射抜いた。
「今だ、リズ! イサラ!」
ケイルの叫びに、リズが、地面に指を走らせた。
彼女は、床の埃に、あの夜、アルドレンが歌った歌の、旋律の断片を、指で描いた。
そして、口ずさむ。
「……♪」
それは、言葉にならない、かすかな旋律。
だが、その音が、聖火の間の空気を、震わせた。
「――なに!?」
オルバスの体が、びくり、と強張った。
「この旋律は……まさか、歌の秘儀の……!」
「……今です」
イサラが、両腕の紋様を、床に押し付けた。
「縛れ」
彼女の呪術が、オルバスの足元の石床を、這い回る。
黒い蔦が、石の隙間から、生え出した。
蔦は、オルバスの両足に、絡みつき、締め上げる。
「く……! こんな、雑草ごときが……!」
オルバスが、足を振りほどこうとする。
だが、蔦は、彼の動きに合わせて、ますます強く、絡みついていく。
「……止めを」
イサラが、ケイルに、短く告げた。
「……ああ」
ケイルは、オルバスから、ゆっくりと体を離した。
殴られて、腫れ上がった顔。
口からは、血が滴っている。
それでも、ケイルの目は、まっすぐに、オルバスを見据えていた。
「……お前は、叔父さんを、道具だと言った」
ケイルは、床に落ちていた短剣を、拾い上げた。
「……お前も、今、ここで、終わる」
ケイルが、短剣を、逆手に構えた。
――その時。
「そこまでじゃ」
声が、した。
赤い燭台の、さらに奥。
部屋の隅の、深い影の中から、ゆっくりと、一人の老婆が、歩み出てきた。
白髪。
腰まで届く、真っ白な髪。
皺の刻まれた顔には、年齢を感じさせない、鋭い光が宿っている。
彼女は、杖を持っていなかった。
ただ、よぼよぼの、小さな体で、ゆっくりと、歩いてくる。
「……だれだ」
ケイルが、短剣を構えたまま、老婆に問うた。
老婆は、ケイルの問いには答えず、オルバスの前に立った。
「……お、お前は……!」
オルバスの声が、初めて、恐怖に震えた。
「……ロザリンド・エテルナ……! なぜ、ここに……! お前は、とっくに、死んだはず……!」
「死んでおらんよ。……千年以上、この聖火を守り続けてきたのじゃ」
ロザリンドと名乗った老婆は、静かに、そう言った。
「オルバス。お前は、十二導師の法衣をまとい、この聖なる間で、何をしておる」
「……う、うるさい! 私は、焔守の座を、正しき者の手に取り戻そうと……!」
「正しき者? お前のことか」
ロザリンドは、オルバスの前に、歩み寄った。
「……やめろ! 来るな!」
オルバスが、黒い光を、ロザリンドに放とうとした。
だが。
ロザリンドの動きは、光よりも、速かった。
彼女の右手が、オルバスの鳩尾に、吸い込まれる。
――ドッ。
たった一撃。
杖も、魔法も、何も使わない、ただの掌底。
それが、オルバスの体を、くの字に折り曲げた。
「ぐ……ぇ……」
オルバスは、白目を剥き、その場に、崩れ落ちた。
ピクリ、とも動かない。
聖火の間に、静寂が、落ちた。
「……うそ、だろ」
ノエルが、呆然と呟いた。
「あのオルバスを、一撃で……」
「……千年、生きておれば、これくらいは、できて当然じゃ」
ロザリンドは、ケイルの方を向いた。
「……お前が、ケイル・エルデンじゃな」
「……ああ。そうだ」
ケイルは、短剣を下ろした。
「……その首元の、銅の徽章。見せよ」
ロザリンドが、ケイルの胸元に、手を伸ばした。
ケイルは、一瞬、迷った。
だが、この老婆には、逆らえない。
そんな、不思議な圧力を感じていた。
ケイルは、首から下げた、銅の徽章を、差し出した。
ロザリンドは、皺だらけの指で、徽章を、ゆっくりと、撫でた。
「……間違いない。これは、もう一人の焔守が、持っていたものじゃ」
「……もう一人の、焔守?」
「そうじゃ。……お前の叔父、アルドレン・セリウスは、かつて、私の相棒だった」
ケイルは、言葉を、失った。
(叔父さんが……焔守?)
(この、壊れた、車椅子の老人が?)
ケイルは、祭壇の上のアルドレンを、見つめた。
アルドレンは、相変わらず、虚ろな目で、天井を見ていた。
「……嘘だ」
ケイルの口から、掠れた声が、漏れた。
「叔父さんは、ただの、足の悪い老人だ。記憶も、おかしくなってて……。焔守なんて、そんな……」
「……お前が、信じられぬのも、無理はない。この男は、今は、ただの壊れた老人じゃ。……じゃが、この男の魂には、歌の秘儀が、刻まれておる。それは、紛れもない事実じゃ」
ロザリンドは、祭壇に歩み寄り、アルドレンの拘束具を、外し始めた。
「……アルドレン。相棒よ。……私が分かるか」
ロザリンドが、アルドレンの耳元で、静かに囁いた。
アルドレンの灰色の瞳が、ゆっくりと、ロザリンドの方へ、向けられた。
「……ロザ……リンド……」
アルドレンの唇が、かすかに動いた。
「……オルバス……の、歌……は……」
「……ああ、まだ、全部は、取られておらん。安心せよ」
ロザリンドは、アルドレンの体を、優しく抱き起こした。
「……私は、この男を、保護する。この男の記憶は、もう、戻らぬかもしれぬ。……じゃが、たとえ記憶が混濁しておっても、この男は、歌の秘儀を、覚えておる。それだけで、この大陸を守る、最後の盾になるかもしれぬのじゃ」
ロザリンドは、ケイルたち四人を、見渡した。
「……お前たちに、協力を申し出たい。……どうじゃ」
ケイルは、しばらく、黙っていた。
(叔父さんは、ただの老人じゃなかった)
(焔守。歌の秘儀。教団の最高位)
(俺は、何も知らなかった)
(何も知らないまま、父さんの徽章だけを、握りしめて)
ケイルは、床に、膝をついた。
「……お願いします」
ケイルの声は、震えていた。
「俺に、焔守の後継者として、学ばせてください」
「……後継者?」
ロザリンドが、ケイルを、じっと見下ろした。
「俺は、字が読めません。……でも、読めないからって、何もできないままじゃ、嫌なんです。父さんの遺志も、叔父さんの秘密も、この徽章の意味も……全部、知りたい。……だから、お願いします」
ケイルは、深く、頭を下げた。
ロザリンドは、長い沈黙の後、静かに、言った。
「……その志は、立派じゃ。じゃが、即答はできぬ」
「……どうしてですか」
「……お前には、まだ、読めないものが、あまりに多い。……焔守の後継者とは、そういうものを、すべて読めるようになってから、目指すものじゃ」
ロザリンドは、そう言って、アルドレンを、車椅子へと、移した。
車椅子は、祭壇の裏手に、置かれていた。
「……撤退するぞ。オルバスが、いつ目を覚ますか、分からぬ」
――洞窟を、撤退する時。
アルドレンの痩せた手から、一枚の紙が、はらり、と零れ落ちた。
ケイルは、それを、拾い上げた。
古い、羊皮紙。
表面には、封印された円環と炎の紋章。
そして、その下に、びっしりと、見たこともない文字が、並んでいた。
「……なんだ、これ」
ケイルは、その紙を、ロザリンドに、差し出した。
ロザリンドの顔色が、変わった。
「……これは、教団の極秘書簡じゃ」
「極秘、書簡……」
「……お前の叔父が、なぜ、これを持っておったのかは、分からぬ。……じゃが、これは、今、お前が読んでよいものではない」
ロザリンドは、ケイルの手から、書簡を、取り戻そうとは、しなかった。
「……今は、読むな。読めるようになった時、その中身が、お前の父の死の理由を、教えるじゃろう」
「……父さんの、死の理由」
ケイルは、書簡を、胸の内ポケットに、押し込んだ。
(読めない)
(今の俺には、読めない)
(でも、絶対に、読めるようになる)
(そしたら、父さんが、何のために死んだのか、分かる)
ケイルは、拳を、ぎゅっと握りしめた。
――治癒の宿。
野営地から、南へ半日ほど歩いた、小さな村の、小さな宿だった。
ロザリンドは、アルドレンを、奥の部屋で、看病していた。
ケイルたち四人は、宿の一室で、傷の手当てをしていた。
「……痛みは、どうだ」
ケイルが、ノエルの肩の包帯を、巻き直しながら、聞いた。
「……平気。あんたの顔の方が、よっぽど、ひどいよ」
ノエルが、腫れ上がったケイルの顔を見て、苦笑いした。
「……そうか? まあ、畑仕事で、よく石にぶつかってたから、こんなもんだ」
「石にぶつかって、あんな顔になるか。……あの導師の拳は、石どころじゃないだろ」
「……まあ、そうだな。……でも、離さなかった。それだけは、俺の勝ちだ」
ケイルが、少しだけ、笑った。
「……あんた、ほんと、馬鹿だね」
ノエルも、笑った。
「……でも、その馬鹿さに、助けられた。……ありがとう」
ノエルの声が、少しだけ、震えた。
「……あたし、あの時、矢を放つ前に、思ったんだ。……あの子の名前を、今度こそ、口に出して言おうって」
「……あの子?」
「……あたしが、守れなかった子。……エリナ。七歳の、女の子。……あたしの、村の子」
ノエルは、洗い直した肩の傷を、じっと見つめた。
「……今まで、名前を、言えなかった。……でも、今、言った。……そしたら、少しだけ、軽くなった」
「……そうか」
ケイルは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、ノエルの肩に、そっと、手を置いた。
「……では、続きを始めますよ」
リズが、机の上に、紙とペンを置いた。
「……また、字の練習か」
「当たり前です。君は、あの書簡を、読めるようにならないといけないんですから」
リズは、紙に、大きく、一文字、書いた。
「火」
「……火。もう、覚えた」
「そうですか。じゃあ、書いてみてください」
ケイルは、ペンを握り、紙に、火という字を、書いた。
「……どうだ」
「……まあ、悪くないです。でも、ここ、はらいが、甘い。畑の畝で言うなら、ここが、こう、ぐっと深くならないと、水が流れないでしょ」
「……畑の畝で言うな。余計、分からなくなる」
「君が、畑の畝に喩えて、覚え始めたんでしょ。……ほら、もう一度。今度は、もっと、ゆっくり」
ケイルは、もう一度、火という字を、書いた。
「……うん。さっきより、いい」
「……本当か」
「本当です。……君、字を覚えるのが、遅いくせに、妙に、飲み込みは早いですね」
「……それ、褒めてるのか、けなしてるのか、どっちだ」
「……さあ、どっちでしょう」
リズが、少しだけ、笑った。
「……でも、君が、字を覚えすぎて、畑の畝が読めなくなったら、どうするんですか」
「……畑の畝が、読めなくなる?」
「ええ。だって、君の頭の中は、畑の畝で、字を覚えてるんでしょ。字が増えたら、畑の畝の場所が、分からなくなるんじゃないですか」
「……そんなわけ、あるか」
ケイルが、呆れたように、言った。
「畑の畝は、足で覚えてるんだ。頭じゃねぇ。……まあ、お前には、分からねぇだろうけどな」
「……そうですか。……じゃあ、今度、教えてください。畑の畝を、足で覚える方法」
「……お前が、畑仕事なんて、できるのか」
「やってみなければ、分からないでしょ」
リズの銀色の瞳が、机の上の火の字を、じっと見つめていた。
「……君が、字を読めるようになったら、私、君に、畑のことを、教えてもらいますから。……だから、私も、君に、字を教えます。……それで、お互い、知らないことを、埋めていくんです」
「……ああ。そうだな」
ケイルは、ペンを握り直した。
(俺は、まだ、何も知らない)
(でも、一人じゃない)
(こいつらがいる)
(だから、少しずつ、読めるようになる)
ケイルは、紙に、もう一度、火という字を、書いた。
今度は、さっきよりも、ずっと、力強く。
――夜。
宿の窓から、月明かりが、差し込んでいた。
ケイルは、胸の内ポケットから、あの書簡を、取り出した。
封印された円環と炎の紋章。
古エテルノ語で、びっしりと書かれた、本文。
(読めない)
(まだ、読めない)
(でも)
ケイルは、書簡を、月明かりに、透かした。
(この紋章だけは、分かる)
(円環と、炎)
(父さんの徽章と、同じ)
(これは、俺が、読まなきゃいけないものだ)
ケイルは、書簡を、もう一度、胸の内ポケットに、しまった。
(ロザリンドさんは、言った)
(読めるようになった時、その中身が、父さんの死の理由を教えるって)
(……読めるように、なる)
(絶対に)
ケイルは、窓の外を見た。
月が、静かに、森の向こうへと、沈んでいこうとしていた。
――遠くで、風が、木々を揺らす音がした。
その音は、まるで、何かが、ケイルを、呼んでいるかのようだった。
まだ、読めない、何かが。
まだ、知らない、何かが。
この夜の、向こう側で、確かに、待っている。Noveliaとは?
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