灰の中の紋章
農夫の息子ケイルは、獣の暴走によって村が襲われ、父を失う。父の最後の言葉は「この紋章の背後にいる者たちを見つけろ」というものだった。ケイルの手に押し付けられた「灰の中の紋章」は、永遠の炎の騎士団の最高位の一つを示すものだったが、ケイルにはそれを読むことができなかった。
残されたのは、記憶が真実と虚構の間をさまよう壊れた心を持つ叔父、アルドレン・セリウスだけ。ケイルは彼を車椅子に乗せ、広い道へと踏み出す。
旅の途中で、偉大な魔法都市を目指す若き魔術師リズ・カナールと、彼を護衛する老傭兵ブラックに出会う。ケイルは初めて、冒険者や戦士たち、そして自分の農場よりはるかに広大な世界を目の当たりにする。漂流する司祭フェンウィック、魔女イサラ・ティアリス、そしてエルフの射手シアレも加わり、小さな一行は新たな王国へと足を踏み入れる。
しかし、何かがおかしい。焚き火のそばで、アルドレンは皆の歌に合わせて口ずさむ。旋律が高まるにつれて、魔術師たちが感じる共鳴も一音一音と高まり、頂点では大師範のレベルにまで達する。しかし最後の一音が消えた瞬間、アルドレンは眠りに落ち、調和は突然途切れた。
誰もその光
灰の中の紋章 - 焼けた教会の地下で——読めない遺言と、届かない手
冷たい石の床が、背中に張り付いていた。
息をするたび、脇腹の傷がズキリと脈打つ。熱を持った肉が、荒縄と泥の包帯の下でじくじくと疼いていた。ケイル・エルデンは薄く目を開けた。
暗い。
天井の石組みが、かすかな光を受けてぼんやりと浮かんでいる。ここは廃教会の地下だ。祭壇の裏手に崩れかけた壁があって、その隙間に三人で身を隠していた。空気は黴臭く、泥と古い蝋の匂いが混ざっている。
(五日、か)
村を出てから、どれだけ経ったか分からなくなっていた。追われて、逃げて、傷を負って。気づけばこの穴の中だ。
隣で、ノエル・グレンフィールドが浅い呼吸を繰り返している。赤茶色の髪は汗と土で固まり、顔は青白い。左肩を射抜かれた傷は、布を巻いた上からでも分かるほど腫れ上がっていた。それでも彼女は、残った右手で短弓を抱えたまま、目だけは閉じていない。
「……起きたか」
ノエルが、掠れた声で言った。
「ああ。……今、いつだ」
「夜。たぶん、もうすぐ明け方だ。外の気配が、少し変わった」
ケイルは体を起こそうとした。
脇腹が、焼けるように痛んだ。
「……っ」
息が詰まる。視界の端が白く明滅した。
「動くな。傷が開く」
「……動かなきゃ、死ぬだけだ」
ケイルは歯を食いしばり、なんとか壁に背を預けた。冷たい石が、熱い体に心地よかった。
反対側の隅で、リズ・カナールが膝を抱えて座っている。黒い短髪が顔にかかり、表情は見えない。両手はだらりと投げ出され、指先が時折、痙攣するように震えていた。
魔力を使い果たしたのだ。
あの夜、傭兵団に襲われた時、リズは最後の力を振り絞って火の魔法を放った。その代償が、これだ。彼女のマナ循環系は空っぽで、指先の震えが止まらない。
「リズ。水は飲んだか」
リズは、ゆっくりと顔を上げた。
銀色の瞳が、暗がりの中でぎらりと光る。
「……飲みました。泥水ですけど」
「そうか。……悪いな、こんな水しかなくて」
「謝らないでください。生きてるだけで、十分です」
リズの声は、ひどく乾いていた。
食料は、昨日のうちに尽きた。
最後の硬いパンを三等分したのが、もう半日前だ。水は、教会の外の水たまりから汲んだ泥水を、布で濾したものだけ。それも、あとわずかしか残っていない。
ケイルは、首から下げた銅の徽章を握った。
円環と炎。
父が、血の海の中で握っていたもの。
『この紋章の者を見つけろ』
最後の言葉が、耳の奥で繰り返される。
(見つけろって言われても)
(俺には、この模様が何なのか、読めない)
指先に、金属の冷たさが食い込む。
――ドクン。
脇腹が、大きく脈打った。
熱が、全身を駆け巡る。頭の芯がぼんやりして、視界が歪む。ケイルは、壁に頭を預けた。
(父さん)
(俺は、何も分からないままなのか)
瞼が、重くなる。
――気づくと、燃える村の中にいた。
炎。
家が、畑が、全て燃えている。
父が倒れている。腹から血を流して、それでも手を伸ばしている。
「ケイル……これを持って……」
父の声。
「この紋章の者を……見つけろ……」
手渡された銅板。血で濡れて、ぬるりと滑る。
「父さん、待って。俺、字が読めない。この模様が、何か分からないんだ」
「見つけろ……」
「父さん!」
「ケイル……」
父の目が、こちらを見ている。
「読めなくても……お前は……」
言葉が、炎に飲まれる。
「父さん!!」
――目を覚ました。
心臓が、ばくばくと暴れている。全身に汗をかいていた。熱のせいか、悪夢のせいか、呼吸が荒い。
「……うわごと、言ってたぞ」
ノエルが、静かに言った。
「……何て」
「『父さん』と『読めない』を、ずっと繰り返してた」
ケイルは、黙った。
息を整えようと、ゆっくりと吸って、吐く。
(情けない)
(こんな時に、うわ言なんか)
でも、違う。情けないなんてものじゃない。
(俺は、本当に何も知らない)
(父さんが何を伝えたかったのか。この徽章が何なのか。あの仮面の連中が誰なのか。叔父さんがどこへ連れて行かれたのか)
全部、分からない。
分からないまま、逃げて、隠れて、傷だけが増えていく。
「……外の様子を見てくる」
ノエルが、壁に手をついて立ち上がろうとした。
左腕が、だらりと垂れる。
「無理すんな。肩、まだ動かせないだろ」
「動かさなくても、耳は使える。少し外の気配を探るだけだ」
「俺が行く」
「あんた、まっすぐ歩けないだろ」
「お前だってそうだろ」
「……違う。あたしは、片腕が使えないだけだ。あんたは、熱で頭が揺れてる」
ノエルの琥珀色の目が、まっすぐにケイルを見た。
「……分かった。無理はするなよ」
ノエルは、ゆっくりと祭壇の裏から這い出し、崩れた階段の方へ消えていった。
地下に、静けさが戻る。
水が滴る音が、どこかから聞こえる。
――ポタン。
「……ケイルさん」
リズが、小さな声で呼んだ。
「なんだ」
「……私のせいです」
リズは、自分の指先を見つめていた。
「私が、魔力制御に失敗しなければ。あの時、もっと早く魔法を撃てていたら。そしたら、ノエルさんも、ケイルさんも、こんな傷を負わなかった。アルドレンさんも、連れて行かれなかった」
声が、震えている。
「私が、みんなを巻き込んだんです」
「リズ」
「私、魔法院を目指してるのに。推薦状も、宛名が読めない。魔力も、すぐに空っぽになる。知識ばかりで、何もできない。こんな私が、何の役に立つんですか」
リズの銀色の瞳から、涙がこぼれた。
黒い睫毛を濡らして、頬を伝う。
「……私、本当は怖いんです。このまま、何もできずに死ぬのが。誰かの足を引っ張って、迷惑をかけて、それで終わるのが」
リズは、声を詰まらせた。
ケイルは、何も言えなかった。
(違う、と言いたい)
(でも、俺も同じだから)
(俺も、何もできない。字も読めない。戦い方も知らない)
(ただ、逃げてるだけだ)
――しばらくして、ノエルが戻ってきた。
「……まだ遠い。でも、確実に近づいてる」
ノエルが、元の場所に座り直す。
「追手か」
「たぶんな。足音の数は、四人か五人。それと、獣の匂いがする」
「獣……ヴェルグリムか」
「かもしれない。風向きが悪くて、はっきりとは」
ケイルは、目を閉じた。
(もう、時間がないのか)
(ここで、終わるのか)
(何も、分からないまま)
「……なあ」
ケイルは、目を閉じたまま言った。
「二人とも、聞いてくれ」
ノエルとリズが、ケイルを見た。
「俺は、字が読めない」
ケイルは、ゆっくりと言った。
「だから、父さんの遺言の意味も、この徽章の模様も、何も分からない。あの黒ずくめの連中が何者かも、叔父さんがどこにいるのかも、全部、分からないままだ」
声が、震える。
「俺は、何も守れなかった。村も、父さんも、母さんも。叔父さんも。リズのことも、ノエルのことも。俺は、ただ逃げてるだけで」
喉が、締まる。
「字が読めないから、父さんが何を伝えたかったのかも分からない。この徽章に何が書いてあるのかも。全部、分からないんだ」
涙が、溢れた。
止めようとしても、止まらない。
「分からないんだよ……何も……!」
ケイルは、声を上げて泣いた。
子供のように。
生まれて初めて、人前で、声を上げて。
「俺は……俺は、父さんの最後の言葉も、理解できないままなんだ……!」
地下に、泣き声が響く。
石壁が、その声を反響させた。
――しばらくして、ケイルは泣き止んだ。
いや、泣き止んだというより、涙が枯れただけかもしれない。
「……あたしもだ」
ノエルが、静かに言った。
「あたしも、守れなかった。戦場で、村の子を一人。まだ小さな、女の子だった。あたしが、もっと早く気づいていれば。もっと上手く弓を引けていれば。あの子は、死ななかった」
ノエルは、短弓を抱えたまま、天井を見上げた。
「あの子の名前を、今でも夜に思い出す。思い出して、眠れなくなる。何年経っても、忘れられない」
ノエルの声は、感情を押し殺したように平坦だった。
でも、その平坦さが、かえって痛々しい。
「……私もです」
リズが、震える声で言った。
「私も、守れなかった。いえ、守るどころか、私が、みんなを危険に晒した。私の制御ミスで、ケイルさんが傷ついて、ノエルさんが肩を撃たれて。私が、もっとちゃんとしていれば」
「リズ」
「私、魔術師になるのが夢だったんです。リューベルク魔法院に入って、大陸一の魔術師になるのが。でも、こんなんじゃ、夢どころか、足手まといで」
リズは、顔を覆った。
指の隙間から、涙が溢れる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
三人は、しばらく黙っていた。
互いを責める言葉は、なかった。
責めるなら、自分だけを。
――ポタン。
水の音だけが、地下に響く。
「……なあ」
ケイルが、顔を上げた。
「俺、字を覚える」
リズとノエルが、ケイルを見た。
「読めないから、負けたんだ。読めないから、父さんの遺言も分からない。この徽章の意味も分からない。だから、俺は字を覚える」
ケイルの声は、さっきまでと違って、はっきりしていた。
「読めれば、父さんの徽章の意味も分かる。次は、守れる。もう、何も分からないまま逃げるのは、嫌なんだ」
ケイルは、リズの方を向いた。
「リズ。俺に、字を教えてくれ」
リズは、涙で濡れた顔のまま、ケイルを見返した。
「……今、ですか?」
「今だ。ここで、今、始めるんだ」
「でも、追手が」
「だからこそだ。死ぬ前に、一つでも字を覚えたい。父さんの言葉を、読めるようになりたい」
リズは、しばらくケイルを見つめていた。
それから、震える指で、地面の泥をなぞった。
一画、二画。
「……これは、『火』という字です」
泥の上に、一つの文字が描かれた。
「火。炎の意味よ」
「火……」
ケイルは、その文字をじっと見つめた。
「これが、火なのか」
「ええ。あなたの持っている徽章の、炎の模様。あれは、この『火』の形を模しているの」
ケイルは、首から徽章を外した。
銅板に刻まれた、円環と炎。
その炎の形が、泥の上の『火』の字と、重なる。
(これが、火)
(父さんが、守ろうとした火)
ケイルは、泥の上に、指で『火』を書いた。
一画、二画。
歪んで、曲がっている。
でも、確かに『火』だ。
「……合ってるか」
「ええ。合ってます。上手ですよ」
リズが、小さく笑った。
涙の跡が残ったままの、ぎこちない笑顔だった。
「もう一回、書きます」
ケイルは、泥の上に、何度も『火』を書いた。
一画、二画。
指先が泥で汚れる。
脇腹が痛む。
熱で頭が揺れる。
でも、書いた。
何度も、何度も。
(これが、俺の武器になる)
(字を覚えることが、俺の戦いになる)
「……次は、『水』を教えてください」
「ええ」
リズが、また泥に字を書こうとした。
――その時。
遠くから、狼の遠吠えが聞こえた。
オオオオオオン。
三人の動きが、止まった。
「……近い」
ノエルが、短弓を構えようとして、左肩の痛みに顔を歪めた。
「リズ、魔法は」
「……撃てません。マナが、空っぽで」
「分かった。下がってろ」
ケイルは、周囲を見回した。
崩れた祭壇のそばに、燭台が転がっている。真鍮製の、重い燭台だ。蝋がこびりついている。
ケイルは、それを拾い上げた。
ずっしりと重い。
「ノエル、出口は」
「祭壇の裏の壁に、崩れた隙間がある。子供一人が通れるくらいの穴だ。外に繋がってる」
「よし。二人は先に、その穴から出ろ」
「ケイル、あんたは」
「俺が、時間を稼ぐ」
「無茶だ。あんた、熱があるんだぞ」
「無茶でも何でも、やるしかない。お前は肩が使えない。リズは魔力がない。俺がやる」
――階段の上から、足音が聞こえた。
複数。
石段を下りてくる。
「……来たぞ」
ケイルは、燭台を握り直した。
手のひらに、冷たい金属の感触。
(大丈夫)
(俺は、やれる)
(父さん。見ててくれ)
足音が、近づく。
三つ。いや、四つ。
松明の光が、階段の上から漏れてくる。
「……地下に誰かいるぞ」
低い男の声。
「ネズミが隠れてやがる」
「殺せ。生かしておく必要はない」
ケイルは、祭壇の影に身を潜めた。
心臓が、痛いほど脈打つ。
(落ち着け)
(落ち着け、俺)
松明の光が、地下を照らす。
黒ずくめの男たちが、階段を下りてくる。
仮面をつけている。
あの夜、村を襲った連中と同じ、無表情な仮面。
「リズ、ノエル。今のうちに、穴から出ろ」
ケイルは、小声で言った。
「でも」
「行け!」
リズとノエルが、祭壇の裏の穴へ向かう。
ノエルが、片腕でリズを押し上げる。
「……ケイル、死ぬなよ」
「ああ」
ノエルが、穴から外へ這い出した。
リズが、続く。
「ケイルさん!」
リズが、振り返って呼んだ。
「先に行ってろ。すぐ追う」
リズの姿が、穴の向こうに消えた。
ケイルは、一人になった。
男たちが、地下に降り立つ。
四人。
先頭の男が、剣を抜いた。
「隠れてるだけ無駄だ。出てこい」
ケイルは、祭壇の影から飛び出した。
「うおおおおお!!」
燭台を、先頭の男の膝に叩きつける。
――ゴキリ。
骨が折れる音。
「があっ!?」
男が、膝を折って倒れる。
ケイルは、そのまま燭台を振り上げ、二人目の男の鳩尾を突いた。
「ごふっ……」
男が、前のめりに崩れる。
「このガキ……!」
三人目の男が、剣を振り下ろす。
ケイルは、横に転がって避けた。
石床に剣がぶつかり、火花が散る。
(速い)
(でも、見える)
脇腹の痛みも、熱も、今は感じない。
アドレナリンが、体を突き動かす。
ケイルは、燭台を横薙ぎに振った。
男の手首に、鈍い音。
「ぎっ!」
剣が、床に落ちる。
「お前ら、何してる! さっさと殺せ!」
四人目の男が、弩を構えた。
(まずい)
ケイルは、祭壇の影に飛び込んだ。
――ヒュン!
弩の矢が、石壁に突き刺さる。
「ちっ、外した」
ケイルは、穴に向かって走った。
「逃がすな!」
背後で、男たちの怒号が響く。
ケイルは、崩れた壁の隙間に体をねじ込んだ。
狭い。
石の破片が、脇腹の傷を擦る。
「……くそっ」
痛みを無視して、前に進む。
外の空気が、顔に触れた。
夜の森の匂い。
土と、木と、冷たい風。
「ケイルさん!」
リズが、穴の外で待っていた。
ノエルもいる。
「走れ!」
三人は、夜の森へ駆け出した。
――背後で、轟音。
振り返ると、廃教会が燃えていた。
男たちが、火を放ったのだ。
炎が、地下への入り口を塞いでいく。
「……助かった」
ノエルが、木の幹に寄りかかって、荒い息を吐いた。
「まだだ。追手が来る」
「ああ。分かってる」
三人は、森の奥へと走った。
月のない夜。
木々の枝が、顔や腕を引っ掻く。
根に足を取られ、転びそうになる。
それでも、走った。
――どれくらい走っただろう。
森の浅い窪地で、ケイルは足を止めた。
「……ここまで来れば、大丈夫か」
膝をついて、息を整える。
脇腹の傷が、熱を持って脈打っていた。
「……ケイルさん、傷が」
「大丈夫だ。それより、二人は」
「あたしは、なんとか」
「私も、動けます」
ケイルは、周囲を見回した。
夜明け前の森。
空が、わずかに白み始めている。
――その時。
ケイルの目が、あるものに留まった。
窪地の奥。
木の根元に、何かが落ちている。
「……あれ」
ケイルは、ゆっくりと近づいた。
焼け焦げた、車椅子の残骸。
金属の車輪が歪み、座面は炭になっている。
「叔父さんの……」
車椅子のそばに、外套の切れ端が落ちていた。
銀色の糸で縁取られた、アルドレンの外套。
「アルドレンさんの車椅子……」
リズが、震える声で言った。
「……あいつら、ここで叔父さんを」
ケイルは、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
(くそ)
(くそくそくそ)
「……ケイル、あれ」
ノエルが、地面を指さした。
車椅子の残骸から少し離れた場所に、一枚の紙が落ちている。
焦げて、端が黒くなった書簡。
ケイルは、それを拾い上げた。
手に取ると、紙は乾いていて、かさかさと音を立てた。
「……字が、書いてある」
ケイルは、書簡をじっと見つめた。
文字。
たくさんの文字。
でも、読めない。
「リズ、これ、何て書いてある?」
リズが、ケイルの手元を覗き込んだ。
「……これは」
リズの顔色が、変わる。
「教団の……印」
リズは、そう呟くと、意識を失った。
「リズ!」
ケイルが、リズの体を支える。
「魔力切れと疲労だ。休ませないと」
「ああ」
ケイルは、リズを地面に横たえた。
それから、もう一度、書簡を見た。
紙の端に、押されている紋章。
円環と炎。
「……これ、父さんの徽章と、同じだ」
ケイルは、首から下げた徽章を外し、書簡の紋章と並べた。
同じ。
円環と炎。
「なあ、ノエル。これ、どういうことだ」
「……あたしにも、分からない。でも、あの車椅子の残骸のそばに落ちてた。アルドレンが、持ってたんだろう」
「叔父さんが、これを」
「教団の印が押された書簡。それを、あの老人が持ってた。……あたしには、あの人が教団の内通者なのか、それとも、教団に追われる側なのか、判断できない」
ケイルは、書簡を握りしめた。
(読めない)
(何が書いてあるのか、分からない)
(叔父さんが、これをどうして持っていたのかも)
(でも、これが、何かの手がかりだ)
(絶対に、失くしちゃいけない)
「……この書簡を、誰かに読んでもらわないといけない」
「ああ。でも、誰に? 字が読める者で、信用できる者なんて」
「リズが読める。でも、今は意識がない。……それに、リズは『教団の印』とだけ言って、倒れた。この書簡が、よほど危険なものなんだろう」
「……そうだな」
ケイルは、書簡を服の内側にしまった。
「とにかく、ここを離れるぞ。明るくなれば、追手に見つかる」
「ああ。リズを担いで、もっと森の奥へ」
「俺が背負う」
「あんた、脇腹が」
「大丈夫だ。リズは軽い」
ケイルは、リズを背負った。
熱い。
リズの体も、熱を持っている。
「……ケイルさん」
リズが、うわごとのように言った。
「……火の、字……覚えましたか……」
「ああ。覚えた。ちゃんと書ける」
「……よかった……」
リズの呼吸が、浅い。
「行こう」
「ああ」
三人は、森の奥へと歩き出した。
東の空が、白み始めている。
夜明けだ。
でも、三人の足取りは、暗い。
背負ったリズの重みと、脇腹の痛みと、胸の内の書簡の重み。
(俺は、字を覚える)
(絶対に、覚える)
(そして、この書簡を読む)
(父さんの徽章の意味も、叔父さんの秘密も、全部)
ケイルは、森の奥へと足を進めた。
背後で、廃教会の炎が、まだ空を焦がしていた。
黒い煙が、夜明けの空に、細く昇っていく。
――その煙を、遠くの丘の上から、見つめる影があった。
黒い外套。
銀色の仮面。
教団執行官オルバス。
彼の足元で、ヴェルグリムが低く唸る。
「……見つけたぞ、小僧」
仮面の下の口元が、歪む。
「焔守の徽章を、持って逃げ回る鼠が。……だが、もう逃げ場はない」
オルバスは、手に持った銀色の笛を、口元に当てた。
――ピィィィィィ。
耳障りな高音が、森に響く。
ヴェルグリムの群れが、一斉に遠吠えを上げた。
オオオオオオン。
「狩りの時間だ」
オルバスの笑い声が、朝焼けの空に消えていった。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。