灰の中の紋章
農夫の息子ケイルは、獣の暴走によって村が襲われ、父を失う。父の最後の言葉は「この紋章の背後にいる者たちを見つけろ」というものだった。ケイルの手に押し付けられた「灰の中の紋章」は、永遠の炎の騎士団の最高位の一つを示すものだったが、ケイルにはそれを読むことができなかった。
残されたのは、記憶が真実と虚構の間をさまよう壊れた心を持つ叔父、アルドレン・セリウスだけ。ケイルは彼を車椅子に乗せ、広い道へと踏み出す。
旅の途中で、偉大な魔法都市を目指す若き魔術師リズ・カナールと、彼を護衛する老傭兵ブラックに出会う。ケイルは初めて、冒険者や戦士たち、そして自分の農場よりはるかに広大な世界を目の当たりにする。漂流する司祭フェンウィック、魔女イサラ・ティアリス、そしてエルフの射手シアレも加わり、小さな一行は新たな王国へと足を踏み入れる。
しかし、何かがおかしい。焚き火のそばで、アルドレンは皆の歌に合わせて口ずさむ。旋律が高まるにつれて、魔術師たちが感じる共鳴も一音一音と高まり、頂点では大師範のレベルにまで達する。しかし最後の一音が消えた瞬間、アルドレンは眠りに落ち、調和は突然途切れた。
誰もその光
灰の中の紋章 - 読めない契約書と、読める老人
街道は乾いていた。
雨が降ったのはいつだったか。少なくともこの十日間、ケイル・エルデンの記憶には青い空しかない。
丘を越え、森を避け細い道をひたすら北へ。麦の穂の揺れる畑も、羊の群れも教会の鐘の音もない。あるのは枯れた草と、轍の残る白い道とそれから——車椅子の車輪が砂利を噛む、乾いた音だけだった。
「……ううう……」
車椅子の上の老人が、低くうめいた。銀髪に白髪の混じった髪は埃と汗で額に張り付いている。灰色の瞳は、半分閉じたまま何を見ているのか分からない。
「叔父さん、水飲むか」
ケイルは立ち止まり、腰の革袋から竹の水筒を抜いた。栓を開けて老人の口元に当てる。アルドレンはわずかに喉を鳴らして、二口三口と水を飲んだ。それからまた虚ろな目を空へ戻した。
「……歌は、……永遠に……」
十日前と同じ呟き。ケイルはもう驚かない。叔父のこの言葉を、この十日間で何十回と聞いた。
(意味なんてないんだろうな)
ケイルは水筒の栓を閉め、首から下げた銅板に指を触れた。円環と炎の紋様。冷たい。
父は、これを握って死んだ。
「この紋章の者を探せ」
その一言だけを残して、腹を貫かれて。
(探すって言ったって)
(どこにいるんだ、一体)
ケイルは唇を噛んだ。
母の喉を裂いた獣。父の腹を貫いた仮面の男。燃える家。村。空を覆う黒い煙。
——考えないようにしていた。
考えたら、足が止まる。
「……行こう叔父さん」
ケイルは車椅子の取っ手を握り直した。手のひらは、農作業で鍛えられた堅い皮膚で覆われている。その皮膚の下で、まだ震えている何かがある。
取っ手を押す。車輪が回る。砂利を噛む音。
それが、この十日間のケイルの世界のすべてだった。
昼を過ぎた頃、街道の先に小さな村が見えた。
石造りの家が十数軒。茅葺きの屋根が半分。村の入口に、古びた木の看板が立っている。
リド村。
「……村だ」
ケイルは思わず足を速めた。喉が渇いている。腹も減っている。何より——宿があるかもしれない。
三日前から、野宿が続いていた。
道端の枯れ草を敷いてケイルは地面に横になった。叔父は車椅子のまま、背もたれに体を預けて眠った。夜は冷えた。獣の遠吠えが聞こえた。ケイルは一睡もできなかった。
村の入口に、衛兵が二人立っていた。
簡素な革鎧。錆びた槍。眠そうな目。王国の正規兵ではなく、村の自警団だろう。
「止まれ。旅の人かい?」
年配の衛兵が、槍を軽く持ち上げた。
「ああ。王都の方へ向かってる。宿を探してるんだ」
「王都? ずいぶん遠いな。この先、次の宿場町までは三日はかかるぞ」
「……三日」
ケイルの顔が曇った。三日分の食料も、水も金もない。
「あんたその車椅子の人——親父さんか?」
「叔父だ。足が悪い」
衛兵が二人、顔を見合わせた。
「……まあ入れ。ただし身分証はあるか? この村は王国の識字税の取立てがあるからな。よそ者は記録が必要だ」
「身分証——」
ケイルは言葉に詰まった。エルデン村が燃える時、家のすべてが灰になった。母の形見も父の古い剣も、ケイルの名が記された羊皮紙も——何もかも。
「……ない」
「ない?」
衛兵の眉が上がった。
「村が——魔獣に襲われて。全部、焼けた」
衛兵は黙った。それから、ため息をついた。
「……そうか。西部の魔獣の森の近くの村か。ここ数年、あちこちで起きてる」
「魔獣が増えてるのか?」
「増えてる、ってよりは——」
衛兵は言いかけて、口を閉じた。
「……まあいい。今は通してやる。ただし宿代はあるんだろうな?」
「今は、ない。でも——」
「働けばいいだろ。ここは農閑期で人手が足りない。旅商人の荷運びでも探せ。広場に行けば、何人か商人が止まってるはずだ」
「……ありがとう」
ケイルは頭を下げ、車椅子を押して村の中へ入った。
村の中は思ったより賑わっていた。
広場に、馬車が三台。幌をかけた荷車が二台。商人たちが大声で交渉している。
「小麦は一袋、銀貨五枚! これ以上は無理だ!」
「ふざけるな! この辺りじゃあ、銀貨七枚が相場だぞ!」
「相場は王都で決まるんだよ。ここは辺境だ。銀貨五枚で我慢しな」
ケイルは、その光景をぼんやりと眺めた。
(王都じゃ銀貨七枚なのか)
(ここじゃ、五枚)
(同じ麦なのに)
世界はケイルの知らないルールで回っている。
広場の端に、一際大きな馬車が止まっていた。
四人引きの立派な馬車だ。幌は赤い布で、金の刺繍が入っている。荷台には布で覆われた箱がいくつも積まれている。
その前に、一人の男が立っていた。
四十代半ば。背は高い。腹は出ている。赤ら顔。絹の上着に、金の指輪を五つ嵌めている。目は細く笑っているようで笑っていない。
「おう、そこの坊主」
男がケイルに声をかけた。
「俺か?」
「他に誰がいる。その車椅子の人、連れてるのはあんただけだろ」
男は、にこにこと笑いながら近づいてきた。
「旅商人のグラドだ。この辺りじゃあ、ちょっとした顔でね。あんた宿を探してるんだろ?」
「……なんで分かる」
「そりゃあ、顔だよ。疲れ切ってる。三日は野宿してるだろ」
ケイルは、ぎょっとした。
「安心しな。俺は人を見る目がある。それで商売してるんだ」
グラドは、ふところから小さな木の札を取り出した。
「この村には、俺の知り合いの宿屋がある。『銀の匙亭』って言うんだが——紹介してやろうか? 宿代は、一日銀貨三枚だ」
「銀貨三枚——」
(銀貨三枚——ゴールドに直すと、そんなもんか)
ケイルは頭の中で計算した。旅商人の荷運びの相場は、一日銀貨五枚から十枚。三日働けば宿代は捻出できる。
「働き口も、あるのか?」
「あるさ。俺の荷運びをやらないか? この荷車を、王都まで運ぶ。日当は——銀貨十枚。悪くない話だろ?」
ケイルは、息を呑みかけた。
銀貨十枚。三日で三十枚。宿代を払っても、十分余る。
「本当か?」
「ああ。ただし——契約書が必要だ。うちは、でかい商売だからね。書面で残さないと」
グラドは、馬車の中から一枚の羊皮紙を取り出した。
「ほら、これだ。あんた字は読めるか?」
ケイルの顔が、一瞬で固まった。
(——字)
読めない。
自分の名前すら、書けない。
「……読めない」
小さな声だった。
グラドは、その言葉を聞いても顔色を変えなかった。
「ああ、そうか。安心しな。この村には代筆屋がいる。読み書きができる男でね、俺の知り合いだ。そいつに頼めば契約書を代わりに読んで、サインもしてくれる」
「代筆屋——」
「ああ。『銀の匙亭』の裏手に事務所がある。ちょっと待ってな、呼んでくる」
グラドは、村の中へ消えていった。
ケイルは車椅子の叔父のそばに立ったまま、その場を動けずにいた。
(契約書)
(俺はあれが何を書いてあるか、分からない)
(でも——)
(働かないと明日の飯も食えない)
叔父を見た。アルドレンは、相変わらず虚空を見つめている。
「……叔父さん」
「……う、む……」
アルドレンの口が、わずかに動いた。
「……紙は……読むな……」
「え?」
「……読めないなら、……なおさら……」
アルドレンは、それだけ言ってまた黙った。
意味が分からない。
(読むな、って)
(読めないから代筆屋に頼むんだろ)
ケイルは、首を振った。
叔父の言葉はいつもこうだ。断片的で、脈絡がない。
十分後グラドが戻ってきた。
隣に一人の男を連れている。
三十代。痩せている。眼鏡をかけている。指が長く、白い。学者風の貧相な男だった。
「こちら代筆屋のロイドだ。読み書きはこの辺りじゃ、一番できる」
「ロイドと申します。どうぞ、よろしく」
ロイドは丁寧に頭を下げた。
「あんたの代わりに、契約書を読んでサインをしてやる。手数料は——銀貨二枚だ。報酬から引いてやるよ」
「銀貨二枚——」
(銀貨十枚の報酬から、二枚引かれる)
(それでも八枚は残る)
ケイルは頷いた。
「頼む」
ロイドは、羊皮紙を広げた。
グラドがケイルに羽根ペンを渡した。
「ここに、名前を書いてもらう。あんたの名前は?」
「ケイル・エルデン」
「ケイル・エルデン——ふむ。では、ここに——」
ロイドは、羊皮紙の下部を指差した。
ケイルは羽根ペンを握った。
(自分の名前も、書けないのに)
(でも——)
ケイルはペンを紙に当てた。
ロイドが、ケイルの手を取った。
「私が導きます。この通りに」
ロイドは、ケイルの手を動かした。
ぎこちない線が紙の上に刻まれる。
(これが、俺の名前)
(こんなに汚い字)
ケイルは歯を食いしばった。
「——はい、結構です」
ロイドは羊皮紙を巻いた。
「では、明日の朝出発だ。ケイル・エルデン——その車椅子の叔父も、一緒に乗せてやる。荷台の隅なら寝られるだろ」
「ああ。助かる」
グラドは、にこにこと笑って馬車の方へ歩いていった。
ロイドも、その後を追った。
ケイルはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
(これで——)
(明日から働ける)
(宿代も、食い扶持もある)
(——よし)
ケイルは深く息を吐いた。
その夜、ケイルは『銀の匙亭』の軒下で叔父と一緒に眠った。
宿代を前払いする金がなかったので、宿の主人に頼み込んで軒下を借りた。主人は渋々、許可してくれた。
「朝出る時には銀貨三枚だ。いいな」
「分かってる。明日、働いて稼いでくる」
「ふん。まあ、頑張れ」
主人はそう言って、店の中へ消えた。
ケイルは叔父の車椅子のそばに、体を横たえた。
石畳は冷たい。
空を見上げると星が出ていた。
(母さん)
(父さん)
(俺は——)
ケイルは、目を閉じた。
眠ろうとした。
でも眠れなかった。
朝、ケイルは馬車の前に立っていた。
馬車にはすでにグラドとロイドが乗っている。護衛が三人、馬に跨っている。
「おう来たか。じゃあ——」
グラドが、手を挙げた。
その時ケイルの肩を誰かが掴んだ。
「おい、坊主」
振り返るとグラドが羊皮紙を広げていた。
「契約の確認だ。あんた、俺に銀貨六十枚の借りがある。宿代と食い扶持と、それから契約手数料。全部前借りだ」
「——は?」
ケイルは、耳を疑った。
「銀貨六十枚——」
「そうだ。契約書に、そう書いてある」
グラドは、羊皮紙をケイルの眼前に突きつけた。
「見ろ。ここに、こう書いてある。『前借り金銀貨六十枚也』。あんた、サインしただろ?」
「そんな——俺は、銀貨十枚の報酬って——」
「報酬は銀貨十枚だよ。でも、前借りが六十枚ある。差し引きであんたは俺に、銀貨五十枚の借りがある」
「な——」
ケイルの顔から、血の気が引いた。
「嘘だ! そんな話聞いてない!」
「嘘? 契約書に書いてあることが嘘か? あんた、字が読めないんだろ? じゃあ代筆屋のロイドが読んだはずだ。なあ、ロイド?」
グラドはロイドを見た。
ロイドは、眼鏡を押し上げて頷いた。
「ええ。確かに私が読み上げました。『前借り金、銀貨六十枚也』。ケイル殿も同意の上でサインしたのです」
「そんな——」
ケイルは、ロイドを睨んだ。
「お前そんなこと——」
「事実です。証拠に、契約書にはケイル殿の署名があります」
ロイドは、羊皮紙の下部を指差した。
そこにはケイルの——ぎこちない、汚い字で——サインが刻まれている。
(——)
ケイルは、言葉を失った。
(俺は)
(何も読めなかった)
(何も分からなかった)
(だから)
(だから、こんな——)
怒りと無力感が同時にこみ上げてきた。
手が震える。握り拳を作っても、震えは止まらない。
「——ふざけるな」
絞り出すような声だった。
「ふざけてないさ。商売だ。あんたが、読めなかったのが悪い」
グラドは、笑っていた。
「まあ心配するな。働けばいい。銀貨五十枚、返せるまで俺のところで働け。十年かけて返せばいいさ」
「十年——」
「ああ。それとも、今すぐ返すか? 返せないなら——その車椅子の叔父さんを、質に入れてもいいぞ。年寄りだが売れるかもしれない」
「——ッ!」
ケイルは、グラドに掴みかかろうとした。
その時——
「——その紙を、私に見せなさい」
声がした。
低く、明晰な老いた声だった。
全員が振り返った。
車椅子の上で——アルドレン・セリウスが、背筋を伸ばしていた。
灰色の瞳がはっきりとグラドを見据えている。
虚ろではなかった。
「……叔父さん?」
「紙を、見せなさい。今すぐに」
アルドレンの声には、逆らえない響きがあった。
グラドは一瞬たじろいだ。
「な、なんだじじい。俺は——」
「その契約書だ。羊皮紙。今、お前が手に持っているものだ」
「見せたところで、どうする。あんた読めるのか?」
「読めるか、読めないかは関係ない」
アルドレンは、車椅子の肘掛けに手を置いた。
「お前の言葉遣いが、おかしい。それだけだ」
「——は?」
グラドの顔が、歪んだ。
「おかしいだと? どこがだ」
「さっきから、お前は『契約書に書いてある』と繰り返している」
アルドレンは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「だがその言い方には、矛盾がある。お前は『契約書に書いてある』と言うが——普通、契約の内容を確認する時『書いてある』とは言わない。『書いた』と言う。なぜなら、契約書はお前が作ったものだからだ」
グラドの顔が、硬直した。
「お前は『書いてある』と言った。まるで自分が作ったものではないかのように。それは、おかしい。契約書を用意したのはお前のはずだ。なのに、なぜ他人事のように言う?」
「そ、それは——」
「それにもう一つ」
アルドレンは、続けた。
「お前は『前借り金銀貨六十枚也』と読み上げたな。だが——その読み方には、違和感がある。『也』は文語だ。契約書の文面で『也』を使うのは、古い様式だ。今時の商人は『である』と書く。お前は、読み上げただけだと言うが——本当に読み上げただけか?」
「——」
グラドの額に、脂汗が浮かんだ。
「つまりだ」
アルドレンは、静かに言った。
「お前はその契約書を自分で作ったな。そして、その内容をケイルに読ませなかった。なぜなら——最初から、騙すつもりだったからだ」
「——ッ!」
グラドの顔が、真っ赤になった。
「そそんなの——証拠が——」
「証拠なら、ある」
アルドレンは、ちらりとロイドを見た。
「そこの代筆屋。お前今『私が読み上げました』と言ったな。だが、お前は契約書を読む時——一度も羊皮紙を見なかった」
「——」
ロイドの顔が、青ざめた。
「お前は契約書の内容を完全に暗記していた。それは、なぜだ? 本当にその場で読んだだけなら暗記などできないはずだ。つまり——お前は、最初からこの契約書の内容を知っていた」
「——あ、ああ——」
ロイドは後ずさった。
「これは、詐欺だ。契約は無効だ」
アルドレンは、はっきりと言い切った。
「無効——」
「そうだ。ケイルは、契約内容を知らされていなかった。これは詐欺による契約であり、法的に無効だ。もしこれが王国の法廷に持ち込まれれば——お前たちは、罰金では済まない。詐欺罪は懲役だ」
「——く、くそ——」
グラドは一歩、後ずさった。
「覚えてろよじじい——」
グラドは、契約書を投げ捨て馬車に飛び乗った。
ロイドも、慌てて後を追った。
馬車は砂埃を巻き上げて村を出て行った。
ケイルは、その場に立ち尽くしていた。
(何が——)
(起きたんだ——)
ケイルは、車椅子の叔父を見た。
アルドレンは——もう背筋を伸ばしていなかった。
車椅子の背もたれに、もたれかかっている。灰色の瞳は再び虚ろに戻っていた。
「……叔父さん?」
「……う、うむ……」
「さっきの——」
「……さっき、……何か……言ったか……?」
アルドレンは、ぼんやりとケイルを見た。
その目にはもうあの明晰な光は、なかった。
(——戻った)
(元の叔父さんに)
ケイルは、拳を握った。
(何なんだ一体)
(あの人は——)
ケイルは、叔父に対する恐怖と畏敬を同時に覚えた。
記憶が混濁した、車椅子の老人。
でもその老人は話し言葉の論理だけで、商人の詐欺を見破った。
それは——とても普通の老人にできることでは、ない。
「——あんた」
声がした。
ケイルは、振り返った。
そこに一人の少女が立っていた。
十八歳くらい。短く切った栗色の髪。日に焼けた肌。革の胴着に、ショートソードを下げている。肩には小さな弩弓。目は、琥珀色。
「あんたそのじいさん何者だ?」
「——え?」
「いや、今の見てたんだ。あの商人グラドはこの辺りじゃあ、有名なペテン師でね。契約書で旅人を騙すのが手口なんだ。それを——あのじいさん、一発で見破った」
少女は、感心したように言った。
「私はノエル。ノエル・グレンフィールド。この村の護衛を、やってる」
「……ケイル・エルデン」
「ケイルね。で——そっちのじいさんは?」
「叔父だ。……アルドレン」
「アルドレン——ふうん」
ノエルは、車椅子の老人をじっと見た。
アルドレンは相変わらず、虚空を見ている。
「……なんか変わった人だね」
「……ああ」
「まあ、いいや。あんた宿代ないんだろ? 荷物運ぶの手伝ってやるよ。ついでに、荷物の整理もな」
「——いいのか?」
「いいよ。あんたの荷、軽すぎるんだよ。あんなんで旅してたら体を壊す」
ノエルは、そう言ってケイルの荷物——麻袋一つ——を、持ち上げた。
「ほら中身これだけか? 着替えと水筒と、あと——」
「それだけ」
「はあ——」
ノエルは、大げさにため息をついた。
「あんた旅人として失格だな。食料も、薬も予備の靴も何もない」
「金が、なかったんだ」
「だろうね」
ノエルは、自分の荷袋からパンと干し肉を取り出した。
「ほら、やるよ。食え。あんた顔色悪い」
「——いいのか?」
「いいよ。どうせ、余ってるし」
ノエルは、そう言ってケイルにパンを投げた。
ケイルはパンを、両手で受け取った。
まだ温かい。
(——温かい)
ケイルは、パンを一口かじった。
硬い。でも美味い。
(——こんなに、美味いパン初めてだ)
それは空腹のせいだけでは、なかった。
(——初めてだ)
(他人に助けてもらったの)
ケイルの目に、じわりと何かが滲んだ。
「——ありがとう」
「いいって。で、これからどうすんの?」
「王都を、目指してる」
「王都——あそこは、金がかかるよ。宿代も飯代もここの三倍だ」
「……そうか」
「まあ、頑張りな。あんたいい目してるから。なんとかなるよ」
ノエルは、そう言って笑った。
日が傾いてきた。
村の広場に、影が伸びていく。
ノエルは自分の持ち場に戻っていった。
「——あ、そうだ」
数歩、歩いてノエルは振り返った。
「ケイル。あんた気をつけな」
「——何に?」
「さっきのグラド。あいつ、出て行く前に黒ずくめの連中に手配書を見せてた」
「手配書——」
「ああ。あんたの顔じゃない。あんたの——その、首から下げてる銅板の模様だ」
ケイルは、ぎくりと自分の胸元を押さえた。
銅板がある。
「——なんで、分かる」
「あたしは、斥候だからね。目はいいんだ」
ノエルは、そう言って肩をすくめた。
「黒ずくめの連中はこの辺りじゃ、『教団の犬』って呼ばれてる。何を探してるのか知らないけど——あんた、目をつけられたかもしれないね」
それだけ、言ってノエルは去っていった。
ケイルはその場に、立ち尽くした。
(教団の犬——)
(黒ずくめ——)
(村を、襲った——)
(あの仮面の男——)
ケイルの背に冷たいものが、走った。
(——見つかったのか)
(俺は——)
「……ケイル」
不意に、叔父が名前を呼んだ。
「——叔父さん?」
「……宿に、……戻ろう」
「——ああ」
ケイルは、車椅子を押した。
その夜ケイルは『銀の匙亭』の軒下で、叔父と並んで眠った。
宿代はノエルが立て替えてくれた。
「明日、返せばいいよ」
そう言って、ノエルは自分の宿へ戻っていった。
(ノエル——)
(いい人、なんだな)
ケイルは石畳の上で目を閉じた。
眠れなかった。
夜が、更けて——
「……ラララ……」
叔父が、歌い出した。
小さな子守唄のような旋律だった。
「……炎は、歌う……灰の中で……ラララ……」
ケイルは、目を開けた。
(またこの歌か)
(毎晩毎晩——)
その時——
「——」
宿の中から、誰かが出てきた。
旅人らしい男だった。荷物を背負っている。
男は、アルドレンの歌を聞いて——
ぴたりと足を止めた。
硬直していた。
顔が、引きつっている。
「——ななんだ今の歌は」
呟いた。
それから、慌てて宿の中へ戻っていった。
ケイルはその様子を、見ていた。
(——なんだ今の)
(あの旅人——)
(叔父の歌を、聞いて——)
(なぜあんなに怯えた——)
アルドレンは、歌うのをやめた。
また虚ろな目に戻っている。
ケイルは、首から下げた銅板を握った。
冷たい。
(俺は——)
(文字が、読めない)
(何も知らない)
(でも——)
(この旅は——)
(俺の、知らない何かが——)
(動いている)
空を見た。
星が、瞬いている。
(父さん——)
(俺はまだ——)
(何も分からない)
(でも——)
(必ず、突き止める)
ケイルは銅板を握りしめた。
明日も、歩こう。
そう思った。
風が吹いた。
石畳の上を埃が、舞った。
遠くで犬が吠えている。
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