大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜
魔法の才を持たぬまま「とんがり帽子のアトリエ」の教師となったキーフリーには、誰にも言えぬ秘密があった。かつて彼は、今や自らが教鞭を執る大講堂で、魔法の力を得る驚くべき方法を発見したのだ。それは禁呪の「刻印の術」――特殊な墨を身体に刻むことで、誰であれ真の魔法使いへと変える技であった。
ある夜、キーフリーが大講堂の地下で密かに古書を漁っていると、背後からオルーギオが声をかけた。彼は長年キーフリーに報われぬ恋心を抱いてきた旧友だったが、キーフリーは気づかぬふりを続けていた。「何を読んでいるんだい?」とオルーギオが近づき、二人は昔話に花を咲かせる。
だが、次第に空気は変わり始める。オルーギオはキーフリーの手を取り、言った。「君は魔法がなくても素晴らしい教師だよ」。その瞬間、キーフリーは本音を告白する。「わかってる。でも、僕は本物の魔法使いになりたかったんだ」。オルーギオは優しく微笑み、こう応えた。「なら、僕が魔法を教えてあげる……そっとね」
その夜から、二人だけの秘密の夜間授業が始まった。しかしそれは普通の指導ではなかった。オルーギオはキーフリーの身体に直接、魔法の墨を塗りつけ、その一
大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜 - 深夜の禁書庫——魔法を持たぬ先生と、封じられた文字
「[serious]元素魔法の基本は、周囲にある火・水・風・土の四つの力に干渉することです」
キーフリーは白いチョークを手に、黒板に魔法の記号を書き連ねていた。
星芒大講堂の午後の教室。窓から差し込む光が、浮遊するチョークの粉をきらきらと光らせている。四十人ほどの生徒たちは、みんなとんがり帽子をかぶっていた。まだ小さい一二年生だ。
「[serious]治癒魔法は体内の生命力に語りかけ、変性魔法は物の性質そのものを一時的に書き換えます。この三系統が、七芒評議会の定めるとんがり帽子の魔法体系です」
キーフリーは振り返らずに話し続けた。
後ろの席で、ひそひそ声が聞こえる。
「[whispers]先生って魔法使えないんだって」
「[whispers]え、じゃあなんで先生やってるの?」
「[whispers]魔法が使えないのに、何が教えられるんだろうな」
キーフリーは黒板に向かったまま、少しだけ笑った。口元だけで、ぎこちなく。
耳には全部、入っている。
でも、もう慣れた。
魔法が使えない先生——この星芒大講堂で、二百人の教員の中で、そう呼ばれているのは自分だけだ。
「[gentle]はい、今日の授業はここまでです。質問がある人は残ってください」
チョークを置く。白くなった指先をハンカチで拭いた。右手の中指には、長年の筆記でできた小さなペンダコがある。
生徒たちはさっと立ち上がり、ぺらぺらの教科書を抱えて教室を出ていく。何人かはキーフリーに軽くお辞儀をした。でも、それだけだった。
最後の一人が出ていったあと、教室は静まり返る。
キーフリーは窓辺に歩いていった。
ガラスの外には、王都グラスフィリアの街並みが広がっている。放射状に区画された街。中心には星芒塔がそびえ、周りにはとんがり帽子のアトリエが三百以上、ぎっしりと並んでいる。この街は、魔法を中心に回っている。
人口のたった十五パーセントしか魔法使いになれない。でも、その十五パーセントが世界の全てを動かしていた。魔法使いの平均寿命は百二十年。でも、魔法の才能がない自分たちは、七十五年。
その差が、心のどこかに重く沈んでいる。
キーフリーは深い茶色の瞳で、遠くの星芒塔を見つめた。黒いショートヘアは今日も少し無造作で、右耳の小さな銀のピアスだけが光を反射している。
白いシャツに黒のスラックス。肩からは緑のマントをはおっている。きちんとしているけど、どこか頼りない。そんな雰囲気だった。
(今日も終わった)
心の中でつぶやく。
(誰にでも優しくできる。笑顔も作れる。でも——本当の自分を、知ってるやつはいない)
キーフリーは窓の外から目を逸らした。
肩が、かすかに震えていた。
夕食はいつも通り、大講堂の食堂で一人だった。
魔力酵母で膨らませた星光パンはふわふわで、一個二十セラン。キーフリーはそれをちぎりながら、スープをすする。周りのテーブルでは、同僚の教師たちが笑い合っていた。
「[laughing]いやあ、今日の演習は大変だったよ」
「[laughing]火の魔法で演習室を燃やしかけたって?」
魔法使い同士の、気軽な会話。
キーフリーはそこに入れない。
(別に、話しかけられないわけじゃない)
でも、入っていく気にもなれなかった。
誰かがこっちを見ている気がする。あの先生、魔法使えないのに食べてる——そう思われている気がして。
(考えすぎだ)
わかってる。でも、やめられない。
キーフリーは早々に食事をすませ、食器を戻した。
夜。
大講堂の廊下は静まり返っていた。
壁の魔力灯は最小限の明かりだけで、長い廊下はくらがりに沈んでいる。キーフリーの足音だけが、コツ、コツと響いていた。
階段を下りる。
地下へ。
夜間監視員の巡回ルートは長年の観察で知り尽くしている。今この時間なら、北側の廊下を巡回中だ。あと十五分は、こっちには来ない。
キーフリーは地下三階への扉の前に立った。
鉄製の冷たい扉。右上のプレートには「禁書庫——七芒評議会許可がない者の立ち入りを禁ず」と刻まれている。
(また、来てしまった)
手が、ポケットの中の鍵を探る。
本物じゃない。一ヶ月前に、こっそり作った複製だ。管理の隙間を突いて、模型を取っておいた。こんなこと、見つかればただじゃすまない。
でも、足は動かなかった。
鍵穴に差し込む。
カチリ。
重い扉が開いた。
禁書庫の中は、古い紙とインクの匂いがした。
魔力灯はほとんど消えかけていて、かろうじて本棚の輪郭がわかるくらい。キーフリーは目的の棚に向かった。足音をしのばせて。
(いつも、ここだ)
背の高い棚の、一番奥の列。
指が、すうっと背表紙をなぞる。その動きは、もう習慣になっていた。
そして、一冊で止まる。
『刻印魔法:禁術研究記録・七芒暦一五八三年封印』
キーフリーは息を呑んだ。
何度も手に取った本だ。でも、開くたびに、心臓がうるさくなる。
ページを開く。
魔力インクで書かれた古い文字が、薄暗がりの中でぼんやりと浮かび上がる。
——生まれつきの資質がなくとも、魔導の力を行使する手段は存在する——
——身体に魔法記号を直接、刻む——
——用意するもの:永久インク、刻印筆、そして「施す者」と「受ける者」——
キーフリーはページを静かにめくった。
そこには、魔法記号の図面がある。人の背中に刻まれた、複雑な円と線。光を放つような模様だ。
(これさえ、あれば)
胸の奥で、何かが疼く。
(俺も——)
でも、後ろのページには、警告が記されていた。
——七芒暦一五八〇年、深紅刻印団、反乱——
——この技術を悪用し、魔導戦争を引き起こす——
——三年の戦い、死者数千——
——一五八三年、深紅刻印団壊滅——
——七芒評議会、刻印魔法の研究・使用・所持を禁術指定——
——違反者:魔力封印刑、及び終身投獄——
キーフリーは冷たい石床に腰を下ろした。
指が、かすかに震える。
(捕まったら、終わりだ)
(でも——)
キーフリーは目を閉じた。
まぶたの裏に、今日の教室が浮かぶ。
「魔法が使えないのに、何が教えられるんだろうな」
あの声が、耳から離れない。
(俺は、教師なのに。正規の課程を教えているのに、杖も持ってない。一度も、魔法を使ったことがない)
魔法が使えないのに教師になれたのは、単純に知識の量だけで評価されたからだ。試験で最高点を取った。面接で、過去の魔法理論をすべて暗唱した。審査員が驚くほどに。
でも、それだけだった。
(誰かに、必要とされたい)
そう思う。
(弱いところを見せるのが怖い。でも一人は嫌だ)
キーフリーは膝を抱えた。暗い禁書庫の中で、スレンダーな身体が小さく見える。
誰も、この場所を知らない。
誰も、この本を知らない。
秘密は、いつも一人きりだ。
——その時。
ギィ。
背後で、扉が開いた。
キーフリーは跳ね起きた。禁書を棚に押し込もうとして、手が滑る。心臓がばくばくと音を立てている。
(見つかった——)
振り向くと、そこに立っていたのは——
「[gentle]やっぱり、ここにいたか」
銀色の髪を柔らかくウェーブさせた、長身の青年だった。深い蒼色の瞳が、暗がりの中でも優しく光っている。
彼は怒っていなかった。驚いてもいなかった。
ただ、穏やかに笑っている。
「[serious]……オルーギオ」
キーフリーは声がうわずってしまった。
「[gentle]昔からそうだったよね、君は」
オルーギオは歩み寄ってくる。長い脚で、ゆっくりと。
「[gentle]隠れて本を読むのが好きで。みんなが寝静まったあとに、こっそり図書館に忍び込んで」
彼はキーフリーの隣に、自然に腰を下ろした。
近い。
肩が触れそうな距離。
「[whispers]……怒らないのか」
「[gentle]怒ることなんて、何もないよ」
オルーギオは首を振った。銀の髪がふわりと揺れる。
彼はいつも笑顔を絶やさない。誰に対しても優しくて、声も柔らかい。でもキーフリーは知っている。その青い瞳の奥に、誰よりも強い意志があることを。
七芒評議会の下級研究員として働く彼は、大講堂の卒業生でもあった。
学生時代から、ずっと——。
「[gentle]最近、どう?」
聞かれたのは、それだけだった。
なのに。
「[sad]……ずっと、本当の魔法使いになりたかった」
口に出してから、しまったと思う。
キーフリーは慌てて口を押さえた。深い茶色の瞳が動揺に揺れている。
(なんで、今——)
自分でも驚くほど、するすると本音が出た。
オルーギオが隣にいるだけで、張りつめていた何かが緩んでしまう。
「[gentle]……そうか」
オルーギオは静かにうなずいた。
笑わなかった。
ただ、まっすぐにキーフリーを見つめている。深い蒼の瞳が、暗がりの中で何かを考えるように細められた。
少しの間があった。
「[whispers]……実は」
オルーギオがつぶやく。
「[whispers]方法が、ないわけじゃないんだ」
キーフリーは息を呑んだ。
(え?)
オルーギオはゆっくりと、右手を持ち上げる。
その指に挟まれていたのは——一本の小さな筆だった。
穂先は魔法生物の毛でできている。柄には魔力増幅の宝石が、かすかに光を宿している。古びていて、でも、特別なものだと一目でわかった。
(刻印筆——)
キーフリーの目が、その筆に吸い寄せられる。
「[whispers]お前……それ」
「[gentle]君が望むなら」
オルーギオは、穏やかに微笑んだ。
でも、その目は真剣だった。
「[gentle]ボクが、やさしく教えてあげる。魔法を」
彼の声は、あくまでも柔らかい。
でも、キーフリーにはわかった。これは冗談じゃない。
オルーギオは、本気だ。
「[serious]……どうして、そんなものを」
「[gentle]先祖が、刻印魔法の研究者だったんだ」
オルーギオは筆をそっと自分の胸元にしまった。
「[gentle]実家の蔵で、古い日記と一緒に見つけた。ずっと、君に渡すべきか迷ってた」
「[serious]いつから、それを」
「[gentle]ずっと前からだよ」
オルーギオは言った。
「[gentle]君が夜中に禁書庫に来てることも、知ってた。ずっと、見ていたから」
キーフリーは言葉を失った。
見られていた。
秘密が、ばれていた。
でも——そのことが、ひどく安心させる。
「[whispers]……なんで、今まで言わなかった」
「[gentle]君が、本当に望むんだって確信が持てるまで」
オルーギオは立ち上がった。
「[gentle]さあ、戻ろう。見回りが来る」
彼はキーフリーに手を差し伸べる。
白く長い指が、魔力灯の淡い光に照らされていた。
キーフリーは少し迷って、その手を取った。
オルーギオの手は、温かかった。
「[whispers]……秘密のレッスン、始めるか?」
耳元でささやく声に、キーフリーの心臓がうるさくなる。
(なんだ、この感じ——)
心の奥が、じわりと熱い。
「[whispers]……ああ」
返事は、たった一言だった。
でも、それだけで十分だった。
二人は禁書庫をあとにした。
廊下には誰もいない。魔力灯がちらちらとかすかに揺れている。
オルーギオは振り返らずに、前を歩いている。キーフリーはその背中を追いかけた。
(これから、何が始まるんだろう)
怖い。でも、それよりも——。
(本当の魔法使いに、なれるかもしれない)
そんな期待が、胸の中で静かに膨らんでいた。
オルーギオは、地上への階段の前で立ち止まった。
振り返って、また穏やかに笑う。
「[gentle]明日の夜も、ここで」
キーフリーはうなずいた。
二人は別々の方向に歩き出す。キーフリーは教員宿舎へ。オルーギオは大講堂を出て星芒塔の研究員宿舎へ。
でも、しばらく歩いてから、キーフリーは振り返った。
オルーギオも、振り返っていた。
暗い廊下の両端で、二人は見つめ合う。
オルーギオが小さく手を振る。
キーフリーも、ぎこちなく手を振り返した。
(明日)
胸の中で、その言葉がくり返す。
キーフリーは夜の廊下を歩きながら、知らず知らずのうちに、口元がゆるんでいるのに気づいた。
教員宿舎の自室に戻ると、キーフリーは窓を開けた。
夜風が入ってくる。涼しい。
王都グラスフィリアの夜景が広がっていた。星芒塔の先端がかすかに光っている。七芒評議会の大賢者たちは今もあそこで、魔法の秩序を考えているのだろう。
——でも、俺は。
キーフリーは右手のひらを見つめた。
オルーギオとつないだ手だ。
(温かかった)
恥ずかしいけど、でも。
(明日が、楽しみだ)
初めてそう思った。
キーフリーは窓を閉めて、ベッドに横たわった。天井を見つめる。
(オルーギオは、何を知っているんだろう。刻印筆を持ってるってことは、もしかして本物の手順も知ってるのか)
(魔法が使えるようになったら、生徒たちはなんて言うかな)
(——いや、まだ誰にも言えないけど)
いろんな考えが頭をめぐる。
でも、一つだけはっきりしていることがある。
(始まる)
明日の夜、秘密のレッスンが。
キーフリーは目を閉じた。
指先がまだ、ほのかに熱かった。