大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜
魔法の才を持たぬまま「とんがり帽子のアトリエ」の教師となったキーフリーには、誰にも言えぬ秘密があった。かつて彼は、今や自らが教鞭を執る大講堂で、魔法の力を得る驚くべき方法を発見したのだ。それは禁呪の「刻印の術」――特殊な墨を身体に刻むことで、誰であれ真の魔法使いへと変える技であった。
ある夜、キーフリーが大講堂の地下で密かに古書を漁っていると、背後からオルーギオが声をかけた。彼は長年キーフリーに報われぬ恋心を抱いてきた旧友だったが、キーフリーは気づかぬふりを続けていた。「何を読んでいるんだい?」とオルーギオが近づき、二人は昔話に花を咲かせる。
だが、次第に空気は変わり始める。オルーギオはキーフリーの手を取り、言った。「君は魔法がなくても素晴らしい教師だよ」。その瞬間、キーフリーは本音を告白する。「わかってる。でも、僕は本物の魔法使いになりたかったんだ」。オルーギオは優しく微笑み、こう応えた。「なら、僕が魔法を教えてあげる……そっとね」
その夜から、二人だけの秘密の夜間授業が始まった。しかしそれは普通の指導ではなかった。オルーギオはキーフリーの身体に直接、魔法の墨を塗りつけ、その一
大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜 - 覚醒の刻印——絶望の底で、愛が灯る
光が、なかった。
窓を塞いだ厚布のせいで、昼か夜かもわからない。湿った空気が肌にまとわりつく。キーフリーは安宿の床に座り込んでいた。膝を抱えたまま、背中を壁に預けている。冷たい石壁が、薄いシャツ越しに容赦なく熱を奪っていった。
(何日だ)
頭の隅で思う。たぶん四日目だ。わからない。机の上の皿には、手つかずのパンが一つ。表面が乾いてひび割れている。水差しの水も減っていない。飲まず食わずの体は、動かすだけでめまいがした。でも、それでよかった。体が重ければ、余計なことを考えずに済む。
右手を見る。そこには、ミラエルが差し入れたメモが握りしめられていた。ドラスヴェン議員が刻印の技術を軍に売る取引を進めているという、あのメモだ。でも、証拠にはならない。どうすればいいのか、何も思いつかない。
(俺は、何も……)
その時だった。
コン、コン、コン。
扉を叩く音が、静かな部屋に響いた。三回。強く、はっきりと。キーフリーは顔を上げた。体が動かない。いや、動く気がしない。誰にも会いたくなかった。
コン、コン、コン。
もう一度。間隔が正確だ。迷いのない叩き方。キーフリーは仕方なく立ち上がった。ふらつく足を引きずるようにして、扉に手をかける。
開いた。
そこに立っていたのは、見知らぬ少女だった。
紫色の短い髪。左右で色の違う瞳——左は赤、右は銀。オッドアイと呼ばれる珍しい目が、じっとキーフリーを見上げている。小さな体。150センチくらいだろうか。襟元から、かすかに魔力紋章のタトゥーが見えた。大講堂の予科生が入学時に受けるものだ。
「[cold]あなたがキーフリーさんですね」
声は落ち着いていた。十四歳とは思えないほど、感情の起伏が少ない。
「[serious]……誰だ、お前」
キーフリーは警戒した。今の自分に関わろうとする人間がいること自体、おかしい。教師資格を剥奪された男に、十四歳の少女が何の用だ。
「[cold]私はヴェルテリア。大講堂の予科生です。オルーギオさんの先祖の研究を調べています」
オルーギオ——その名前に、キーフリーの胸がぎゅっと縮んだ。
ヴェルテリアは構わず続ける。
「[cold]これを見てください」
懐から、一冊の古びた手帳を取り出した。表紙は傷み、ページの端が黄ばんでいる。でもそれは、明らかに「写し」だった。誰かが書き写したものだ。
キーフリーは息を呑んだ。
(あの筆跡……)
見覚えがあった。オルーギオが家の蔵で見つけたと話していた、先祖の日記と同じ筆跡。細かく、几帳面で、でもどこか熱を帯びた文字。
「[whispers]……どこで、これを」
「[cold]大講堂の古書庫です。閉鎖された区画に紛れ込んでいたのを偶然見つけました。内容を独自に解読しました」
うそだ、と思った。でも、彼女の目はうそをついていなかった。
キーフリーは彼女を部屋に入れた。
―――
ヴェルテリアは机の上に手帳の写しと、いくつかの書類を広げた。整理整頓された動き。無駄がない。キーフリーは椅子に座り、彼女の説明を聞いた。
「[cold]永続の刻印は、生来の魔力資質がない者に永続的な魔力を与える術式です」
ヴェルテリアは淡々と語る。
「[serious]……それは知ってる」
「[cold]でも、あなたが知らないことがあります」
彼女は日記の一節を指さした。
「[cold]術式の強さは、刻む者と刻まれる者の精神的結びつきの深さに完全に比例する。つまり、二人の想いが深ければ深いほど、刻印は強くなる」
キーフリーは目を見開いた。
「[cold]これが、七芒評議会が本当に恐れて隠蔽した秘密です。軍事利用には向かない。兵士に刻んでも、想いが伴わなければ効果がほとんど出ない。だから禁術指定して、権力者が独占しようとした。200年前、深紅刻印団が脅威とされた理由もこれです。彼らは大義という強い信念で結ばれていた」
キーフリーの頭の中で、オルーギオの言葉が蘇る。
——刻む者と刻まれる者の、深い精神的結びつきが必要なんだ。
あの時は、ただの条件だと思っていた。でも違った。術式の核心は「想い」そのものだったのだ。自分たちの間に確かに存在したもの——。
背中が、じんわりと熱くなった。
刻印が燃えている。オルーギオが施した記号が、肌の下で脈打っている。
「[whispers]……っ」
胸が詰まって、言葉が出なかった。
―――
「[cold]これを見てください」
彼女は次の書類を机に広げた。キーフリーはそれを見て、息を止めた。
賄賂帳簿の写し。大講堂内の複数教員と評議員仲間への金銭授受の記録。それから、魔法使い見習いの少女たちを軍に斡旋した人身売買の証言メモ。そして——一番衝撃的だったのは、刻印魔法の知識を軍の将校に売る取引の密約書簡だ。
金貨2000枚。
取引日時。取引場所。すべて書いてある。
「[serious]取引は、いつだ」
声が震えた。
「[cold]明後日の夜明けです」
明後日——。キーフリーの中で、何かがはっきりと輪郭を持った。オルーギオが拷問されているのは、その期日に向けて知識を吐き出させるためだ。時間的な限界が、今、明確になった。
体の奥底から、無力感の層が剥がれ落ちていく。
代わりに、怒りが静かに燃え始めた。
「[serious]……お前は、どうやってこれを」
「[cold]好奇心と探索が得意なだけです」
ヴェルテリアは淡々と答えた。でも、そのオッドアイには強い知的昂揚が宿っている。キーフリーは初めて彼女の目をまっすぐに見た。
(この子は——本気だ)
―――
「[cold]公開審問の場に、この証拠を持ち込みます。私が証拠提出の役を担う」
ヴェルテリアは言った。
「[cold]ただし、審問の場を制圧し、ドラスヴェンが逃げ場を失う状況を作るためには——刻印の力を覚醒させたあなたが、議場に現れる必要があります」
キーフリーは黙った。
自分にできるのか。わからない。
「[whispers]……俺は、魔法を意図的に制御したことが一度もない。力を出せるかどうかさえ、わからない」
「[cold]永続の刻印は、あなたの感情が燃料です。技術の問題ではありません」
ヴェルテリアの言葉が、キーフリーの胸に落ちる。
二十八年前、魔法の資質がないと判定された。それからずっと、自分は劣った人間だと思ってきた。魔法が使えない自分を、どこかで許せなかった。でも——。
背中の刻印が、また熱を帯びる。
オルーギオが信じて刻んだものだ。自分は何かを変えられると、そう信じて。その熱を、四日間も胸に抱えながら、自分は何もできないと膝を抱えていた。
キーフリーは立ち上がった。
「[serious]……準備を始める」
声は驚くほど落ち着いていた。
ヴェルテリアは無言で彼を見つめている。
キーフリーの目に、四日ぶりに光が戻っていた。
―――
夜になった。
宿の部屋で、二人は机の上に星芒塔の簡易設計図を広げていた。ヴェルテリアがどこからか入手したものだ。地下通路の図面。警備の交替時間。見張りの死角。彼女は淡々と状況を説明し、キーフリーはそれを頭に叩き込んだ。
「[cold]私が審問の申請を、明日の朝一番で提出します。あなたは夜明け前に塔へ侵入し、オルーギオさんを救出。審問開始に合わせて議場に現れてください」
「[serious]……わかった」
役割分担が決まった。作戦の確認が終わり、ヴェルテリアが部屋を出ようとした——その時。
「[serious]待ってくれ」
キーフリーは立ち上がった。
背中の刻印に、意識を向ける。ヴェルテリアに言われた通り、技術ではなく感情が燃料だというなら——。
目を閉じる。
オルーギオの顔を思い浮かべた。蒼色の瞳。穏やかな笑顔。あの塔の石床で、傷だらけで耐えている恋人の姿。
(守りたい)
心の奥底から、想いが溢れ出した。
(助けたい)
その想いを、背中の熱に流し込む。
刻印が、金色に輝いた。
部屋中が光に包まれる。背中から熱が全身に広がり、指先に集中していく——。
かすかな波動が、指先から放たれた。
机の上の書類が数枚、ふわりと舞い上がる。
キーフリーは震える手を見つめた。生まれて初めての感覚だった。自分の中を流れる、意図的な魔力の感触。指先がじんと痺れている。
(これが——)
扉の外に出たヴェルテリアが、振り返った。
「[gentle]……できましたね」
彼女の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
「[serious]……ああ」
涙が出そうになるのを、キーフリーはぐっと堪えた。代わりに、拳を握りしめる。
「[serious]明日、必ず行く」
ヴェルテリアは静かに頷き、廊下の闇に消えた。
―――
一人になった部屋で、キーフリーは小さな窓から外を見た。
星芒塔の方角だ。
塔の明かりが、ひとつ、ひとつと消えていく。あの塔のどこかで、オルーギオが今夜も耐えている。それを思うと、胸が痛んだ。
キーフリーは、四日前の朝を思い出す。
逮捕される直前に、オルーギオが向けてきた笑顔。
——大丈夫だと言うように。心配しないでと言うように。
(あの笑顔を、返したい)
それだけだ、と気づいた。
刻印の熱が、背中からじんわりと全身に広がる。まるでオルーギオの手の温もりと重なるようだった。
三話目の夜——初めてキスを交わした後、オルーギオが言っていた言葉を、キーフリーは反芻する。
「急がない。君が決めるまで待つ」
永続の刻印は、生涯消えない。それを、オルーギオは施してくれた。その意味を、今更ながら全身で理解する。
(お前は、ずっと——)
窓の外で、夜明けの光が差し込もうとしていた。
キーフリーはコートを羽織り、立ち上がる。
背中の刻印が、まだ熱い。
オルーギオの想いが、確かにここにある。
「[serious]待ってろ」
ぽつりと呟いた。
覚悟が決まった。星芒塔へ。あの男を救い出すために——。
部屋を出る。
扉が閉まる音が、静かな朝の空気に吸い込まれていった。