大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜
魔法の才を持たぬまま「とんがり帽子のアトリエ」の教師となったキーフリーには、誰にも言えぬ秘密があった。かつて彼は、今や自らが教鞭を執る大講堂で、魔法の力を得る驚くべき方法を発見したのだ。それは禁呪の「刻印の術」――特殊な墨を身体に刻むことで、誰であれ真の魔法使いへと変える技であった。
ある夜、キーフリーが大講堂の地下で密かに古書を漁っていると、背後からオルーギオが声をかけた。彼は長年キーフリーに報われぬ恋心を抱いてきた旧友だったが、キーフリーは気づかぬふりを続けていた。「何を読んでいるんだい?」とオルーギオが近づき、二人は昔話に花を咲かせる。
だが、次第に空気は変わり始める。オルーギオはキーフリーの手を取り、言った。「君は魔法がなくても素晴らしい教師だよ」。その瞬間、キーフリーは本音を告白する。「わかってる。でも、僕は本物の魔法使いになりたかったんだ」。オルーギオは優しく微笑み、こう応えた。「なら、僕が魔法を教えてあげる……そっとね」
その夜から、二人だけの秘密の夜間授業が始まった。しかしそれは普通の指導ではなかった。オルーギオはキーフリーの身体に直接、魔法の墨を塗りつけ、その一
大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜 - 隠し部屋の魔力インク——君の手に、初めて触れた夜
禁書庫の鍵が戻る、かすかな金属音。
キーフリーは自分の耳が、その音だけを追っていることに気づいた。オルーギオが振り返る。銀髪の柔らかいウェーブが、ぼんやりとした魔力灯の明かりに揺れて、深い蒼色の瞳がこちらを見ている。
「[gentle]さあ、こっちだよ」
声はいつも通り穏やかだった。でも今夜は、その穏やかさの奥に、何かがきゅっと詰まっているような気がする。
キーフリーは小さくうなずいた。
なんだろう。さっきから胸の真ん中が落ち着かない。秘密のレッスンをしようと言われた時から、ずっとだ。嬉しいのか、怖いのか。自分でもわからない。ただ、オルーギオの背中を追いかける足は、迷わずに動いていた。
地下二階への階段を下りる。
石造りの壁が湿気を含んで、ひんやりとした空気がまとわりつく。自分たちの足音だけが、コツ、コツ、と規則正しく響いていた。
「[whispers]この先だ」
古書庫の一番奥。誰も来ない、忘れられた区画。オルーギオは迷わず歩いていく。その背中が、この場所を知り尽くしているように見えた。
(いつから知ってたんだろう)
キーフリーは思った。
オルーギオは立ち止まった。壁の前に立つ。何の変哲もない、古い石壁だ。でも彼の指が、ある一箇所の隙間にするりと入っていく。
カチリ。
小さな音がして、壁の一部が奥に引っ込んだ。
「[gentle]ここだよ」
オルーギオが振り返って、少しだけ笑った。左頬の小さな星形の痣が、かすかに動く。
キーフリーは息を止めた。
壁が、開いた。
中は小さな石造りの部屋だった。広さは二十平方メートルくらいだろうか。壁一面に、何かが刻まれている。古い、古い記号だ。キーフリーは一瞬で、それが魔法記号だとわかった。見たこともない形のものも混ざっている。
部屋の中央には、ひとつの石台。
魔力灯がぼんやりと光って、壁の記号をゆっくりと浮かび上がらせている。
(ここは——)
「[gentle]二百年前の、刻印魔法の研究室だ」
オルーギオの声が、静かな部屋に落ちた。
キーフリーは壁に近づいた。指を伸ばす。そっと、壁の記号をなぞった。冷たい。ざらざらした石の感触。記号は深く刻まれていて、指の腹にその跡が伝わってくる。
「[serious]先祖が、日記に残していたんだ。大講堂の地下に、隠された研究室があるって」
オルーギオも壁に歩み寄った。
「[serious]ここで、刻印魔法の研究が行われていた。でも魔導戦争で、深紅刻印団が悪用した……だから七芒評議会は、この部屋の存在ごと封印した」
深紅刻印団。二百年前、魔法の使えなかった者たちが刻印で力を得て反乱を起こした組織だ。三年にわたる戦い。死者は数万。戦後、刻印魔法は禁術に指定され、研究した者たちは魔法を剥奪されて投獄された。
「[gentle]見つかれば、僕たちは終わりだ」
オルーギオは穏やかな声のまま言った。でもその言葉は、キーフリーの胸に冷たく落ちてくる。
わかってる。
刻印魔法に手を出すということは、社会的地位を失い、牢獄に入るかもしれないということだ。大講堂の教師なんて立場は一瞬で消える。
(それでも——)
キーフリーは壁の記号から目を離せなかった。
これが、禁術。誰でも魔法を使えるようになる、禁断の技術。
オルーギオは懐から小さな瓶を取り出した。黒い液体が中で揺れている。もう片方の手には、細い筆。穂先は魔法生物の毛でできているのか、かすかに光を反射していた。
「[gentle]これは通常の魔力インクだよ。三十分で効力は消える。まずは……手に、一つだけ記号を描いてみる?」
キーフリーは唾を飲み込んだ。
「[whispers]……ああ」
自分の声が、かすれている。
オルーギオは石台のそばに腰を下ろした。キーフリーも隣に座る。石の冷たさがズボン越しに伝わってきた。
「[gentle]手を、ここに」
オルーギオが自分の膝を軽く叩く。
キーフリーは一瞬、動けなかった。
(手を……膝に?)
心臓がうるさくなった。
友達の膝に手を乗せるくらい、普通のことだ。そう思いながら右手を伸ばす。指先がかすかに震えているのを、自分でも感じた。
オルーギオが、キーフリーの手を両手で包み込んだ。
温かい。
オルーギオの手のひらは、思っていたよりずっと温かかった。白く長い指が、キーフリーの手の甲をそっと支える。
(これは、友達のすることじゃない)
キーフリーの思考が一瞬でそう警告した。
でも、手を引っ込めることはできなかった。
オルーギオが筆をインクに浸す。黒い液体が穂先に染み込んでいく。彼の指が、キーフリーの手の甲に触れた。くすぐったい。冷たいインクが皮膚に乗せられていく。
筆が動くたびに、オルーギオの指が手の甲をなぞる。
(なんだ、これ)
キーフリーは息を止めそうになった。
目を伏せる。自分の手を見ていると、心臓がもっとうるさくなる気がした。顔を上げる。オルーギオの横顔が見えた。眉をわずかに寄せて、記号を描くことに集中している。真剣な顔。魔力灯の光が、彼の銀髪をぼんやりと照らしていた。
(きれいだな)
なぜか、そう思った。
男に対して思うことじゃない。わかってる。でも胸の奥が、じわりと熱くなるのを止められなかった。
筆が止まった。
「[gentle]できた」
手の甲に、複雑な記号が描かれている。黒いインクが、かすかに濡れて光っていた。
「[gentle]軽く意識を集中させてみて。手の先に、何か感じる?」
キーフリーは恐る恐る、手の先に意識を向けた。
(何も——)
いや。
違う。
指先に、ほんのわずかな温かさがある。チリチリとした、小さな感触。まるで静電気のような。でも、違う。これは自分の奥底から湧き上がっている。
(魔力だ)
生まれて初めて感じる、自分の中を流れる魔力の感触。
目が熱くなった。
何か言おうとした。でも喉がつまって、声が出ない。唇を噛む。歯の間から、かすかな震えが漏れた。
(俺の中に……魔法が)
二十八年間、一度も感じられなかったもの。ずっと憧れて、でも決して手が届かなかったもの。それが今、指先でチリチリと、確かに光っている。
「[gentle]……よかった」
オルーギオが静かに言った。
キーフリーは俯いたまま、うなずいた。涙がこぼれ落ちないように、ぎゅっと目をつぶる。
オルーギオはまだ、キーフリーの手を握っていた。
「[gentle]三十分だけだけどね」
少しだけ笑った声が聞こえた。でもその握る手は、離れなかった。
(この温もりは、三十分じゃ消えない)
キーフリーはぼんやりと思った。
手の甲のインクはいずれ消える。魔力の感触も消える。でも、オルーギオの手の温もりだけは、消えない気がした。
これが友達に対する気持ちなのか。
それとも。
(違う、のかもしれない)
心の奥で、何かが静かに動き始めているのを感じた。
廊下は静かだった。
秘密の部屋を出て、二人で地下の通路を戻る。魔力灯がちらちらと揺れて、長い影を壁に落としている。キーフリーは自分の手の甲をチラリと見た。
もうインクは消えている。三十分が経ったのだ。
でも手の甲はまだ、かすかに温かい気がした。
「[whispers]次の夜は、もう少し難しい記号を……腕に描こうか」
オルーギオが前を向いたまま言った。
腕に。
キーフリーの頬に熱が集まった。直接、肌に。今度は手だけじゃなくて、もっと広い場所に。
(これは魔法の練習だ)
自分に言い聞かせる。
(魔法への期待で、胸がドキドキしてるだけだ)
でも完全には信じられなかった。
地下二階から一階への階段を上がる途中で、キーフリーは壁に貼られた紙に気づいた。
立ち止まる。
「[serious]……新しい告示だ」
声が少し低くなった。
オルーギオも無言で見ている。
七芒暦一八二四年・春——評議会令第七十七号。禁術関連物品の所持・使用に対する取締り強化。学術機関の夜間立入禁止区域への無許可侵入は、即刻通報の対象とする。
キーフリーは紙の下に書かれた日付を確認した。つい昨日の日付だ。先週までは、この貼り紙はなかった。
(タイミングが悪すぎる)
胸の中が冷たくなった。
自分たちが今夜始めたことは、これに完全に引っかかる。禁術関連物品の所持・使用——魔力インクはまさにそれにあたる。夜間立入禁止区域——地下二階の隠し部屋なんて、最悪の場所だ。
「[gentle]……最近、評議会内部の強硬派が動いているらしい」
オルーギオの声は相変わらず穏やかだった。でも、いつもより少しだけ低い。
「[serious]禁術取締りを強化して、気に入らない者を次々に追い落としている。汚い手も平気で使う連中だ」
七芒評議会——魔法行政の最高機関。でもその内部には、腐敗した派閥が存在している。賄賂、人身売買、証拠捏造。禁術の名のもとに、気に入らない者を社会的に抹殺することも厭わない連中だ。
(もし見つかったら)
キーフリーの背中に冷たいものが走った。
でも。
「[whispers]……また、来てもいいか」
自分の口から、その言葉が出た。
オルーギオが振り返った。深い蒼色の瞳が、キーフリーをまっすぐに見つめる。
しばらく、沈黙があった。
オルーギオが目を細めた。いつもより少しだけ、柔らかく。何か、抑えているような温度で。
「[gentle]……もちろん」
その笑顔を見たとき、キーフリーの胸の奥が、またじわりと熱くなった。
友達の笑顔に、こんな気持ちになるのはおかしい。
わかってる。でも。
(でも、明日も会いたい)
キーフリーは心の中で、そうつぶやいた。
二人は禁書庫の前で別れた。オルーギオは星芒塔の研究員宿舎へ。キーフリーは大講堂の教員宿舎へ。
別れ際、オルーギオが小さく手を振った。キーフリーも、ぎこちなく手を振り返す。
廊下を一人で歩く。
足音だけが、コツ、コツと響いていた。
キーフリーは右手を持ち上げた。手の甲をじっと見る。インクは消えている。魔力の感触も消えた。でも、手の甲がまだ温かい。オルーギオの手のひらの感触が、まだ残っている。
(次の夜は、腕に)
想像して、頬が熱くなった。
これは魔法への期待だ、と言い聞かせる。でも、心のどこかで、それは違うと知っていた。
部屋に戻ってベッドに横たわる。天井を見つめた。
目を閉じる。浮かぶのは、魔力灯の光に照らされたオルーギオの横顔。眉を寄せて、筆を動かす真剣な顔。
キーフリーは胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
(これは、友達に抱く気持ちじゃない)
心の中で、はっきりと認めた。
でも、それを本人に伝える勇気はまだなかった。
眠れないまま、キーフリーは天井を見つめ続けた。手の甲の温もりだけが、闇の中でまだ、消えずに残っていた。