大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜
魔法の才を持たぬまま「とんがり帽子のアトリエ」の教師となったキーフリーには、誰にも言えぬ秘密があった。かつて彼は、今や自らが教鞭を執る大講堂で、魔法の力を得る驚くべき方法を発見したのだ。それは禁呪の「刻印の術」――特殊な墨を身体に刻むことで、誰であれ真の魔法使いへと変える技であった。
ある夜、キーフリーが大講堂の地下で密かに古書を漁っていると、背後からオルーギオが声をかけた。彼は長年キーフリーに報われぬ恋心を抱いてきた旧友だったが、キーフリーは気づかぬふりを続けていた。「何を読んでいるんだい?」とオルーギオが近づき、二人は昔話に花を咲かせる。
だが、次第に空気は変わり始める。オルーギオはキーフリーの手を取り、言った。「君は魔法がなくても素晴らしい教師だよ」。その瞬間、キーフリーは本音を告白する。「わかってる。でも、僕は本物の魔法使いになりたかったんだ」。オルーギオは優しく微笑み、こう応えた。「なら、僕が魔法を教えてあげる……そっとね」
その夜から、二人だけの秘密の夜間授業が始まった。しかしそれは普通の指導ではなかった。オルーギオはキーフリーの身体に直接、魔法の墨を塗りつけ、その一
大講堂の秘密 〜キーフリーとオルーギオの刻印〜 - 蜜夜の密告——嫉妬が引き金を引く夜
秘密の部屋の空気は、冷たく静かだった。
壁一面に刻まれた古い記号が、魔力灯のぼんやりとした光を受けてかすかに浮かび上がっている。石台の上で、キーフリーは上半身の服を脱いだ。
背中をオルーギオに向けて座る。
肌に触れる空気が冷たい。でもそれ以上に、オルーギオの視線を背中に感じて、胸の奥がじりじりと熱くなっていた。
(今夜、答えを出すんだ)
心の中で、自分にそう言い聞かせる。
「[gentle]少し冷たいよ」
後ろから声がした。
筆をインクに浸す、かすかな水音。でも今夜のインクは違う。黒い小瓶の中で揺れる液体は、さっきよりも重く、どろりとしていた。オルーギオの先祖が遺した、永久インク。一度刻めば、生涯消えない。
キーフリーは唾を飲み込んだ。
「[whispers]……ああ」
声が震えている。
オルーギオの指が、背中に触れた。筆を持つ左手だ。指先が肩甲骨の間をなぞる。昨夜はこれだけで心臓がうるさくなったのに、今夜は違った。もっと深いところで、何かが脈打っている。
(これを刻めば、俺は魔法使いになれる)
二十八年間、夢見てきたこと。指先に魔力を感じたあの夜から、ずっと欲しかったもの。
でも——。
頭の隅で、昨夜見た掲示の文字がちらついた。
七芒暦一八二四年・春。評議会令第七十七号。禁術関連物品の所持・使用に対する取締り強化。
見つかれば終わりだ。大講堂の教師も、オルーギオの研究員の立場も、全部消える。
「[gentle]筆を当てるよ」
穂先が、背骨の上のあたりに触れた。
——熱い。
キーフリーは思わず息を止めた。じんわりと、インクが皮膚に染み込んでくる感覚。普通の魔力インクとは全然違う。熱を持った液体が、皮膚の下まで浸透していくみたいだった。
(これが、永久インク)
筆が動くたびに、オルーギオの指が背中をなぞる。くすぐったいのと、熱いのと、それから——もっと別の何かが、背骨を駆け上がっていく。
「[whispers]……っ」
歯を食いしばった。
呼吸が浅くなる。オルーギオの吐息が背中にかかるたびに、肩が小さく震えた。
「[gentle]力を抜いて。記号が歪む」
優しい声だった。でもその声の奥に、いつもより少しだけ緊張が混ざっている。
筆が止まった。
指が、まだ背中に触れている。
「[whispers]……まだ、止められる。怖ければ、今夜は終わりにしよう」
耳元で、囁くような声。
キーフリーの胸が、ぎゅっと締まった。
(お前は、いつもそうだ)
自分のことより、キーフリーの気持ちを優先する。怖がるならやめようと、優しく言う。それがオルーギオだ。
でも——。
「[whispers]続けてくれ」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
オルーギオが小さく息を吸う気配がした。
「[gentle]……わかった」
筆が、再び動き始める。
その瞬間——
コツン。
廊下から、微かな物音がした。
二人は同時に動きを止めた。
キーフリーは背中をこわばらせたまま、耳を澄ます。オルーギオの指が、背中からそっと離れた。
沈黙。
壁に刻まれた記号が、金色の光を放っている。二人の息だけが、部屋の中に響いていた。
誰かいるのか。
キーフリーは振り返ろうとした——
「[serious]動かないで」
低く、抑えた声。
キーフリーは固まった。
オルーギオは筆を静かに石台に置き、隠し扉のほうへと歩いていく。足音を殺して、そっと扉に耳を当てた。
長い沈黙が流れた。
やがてオルーギオが振り返る。
「[gentle]……もう大丈夫。誰かが通っただけかもしれない」
声はいつも通り穏やかだった。でもその目は笑っていなかった。
キーフリーは深く息を吐いた。
それから、自分の手を見る。指が震えている。
(怖いのか、俺は)
でも、さっき言った言葉は本心だ。続けてくれ。魔法を、俺にくれ。
キーフリーは背中を向け直した。
「[whispers]……終わらせよう」
オルーギオは静かにうなずき、再び筆を手に取った。
———
ミラエルは、薄暗い廊下を一人で歩いていた。
(なんでこんな時間に資料なんか取りに来ちゃったんだろ)
明日の朝一番の実技授業。元素魔法の応用編で、古い文献を参考にしたかった。大講堂の地下二階には古書庫があって、そこにちょうどいい資料があるのを思い出したのだ。
でも、今にして思えば、明日の朝でよかった。
地下へ続く階段を下りるたびに、魔力灯の明かりが弱くなる。石造りの壁が湿気を含んで、ひんやりとした空気がまとわりついた。
(ちょっと怖いかも)
ミラエルは自分の腕をさすった。
赤い長い髪が、肩の上で揺れる。左耳の炎の形のイヤリングが、かすかに光を反射していた。
ふと、廊下の先に、光を見つけた。
(え?)
立ち止まる。
いつもは何もない壁の、その一部分だけが、かすかに金色の光を放っている。細い線のように、光が漏れていた。
(あそこ、壁のはずじゃ……)
ミラエルは恐る恐る近づいた。
近くで見ると、光の線は扉の形をしていた。隠し扉だ。大講堂の地下には、昔の研究室や隠し部屋があるって聞いたことはある。でもまさか、こんなところに本当にあるなんて。
耳を押し当てた。
中から声が聞こえる。
「[gentle]力を抜いて。記号が歪む」
(この声……)
ミラエルは目を見開いた。
知っている声だ。星芒塔の研究員で、たまに大講堂にも来る人。キーフリー先生の昔からの友人だって聞いた。
それから、もう一人の声。
「[whispers]……まだ、止められる。怖ければ、今夜は終わりにしよう」
キーフリー先生の声だ。
ミラエルの胸が、ドキリと跳ねた。
(なんで先生が、こんなところに)
どうしても気になって、扉の隙間から中を覗いた。
——見てはいけないものを見た。
石台の上で、キーフリーが上半身裸で座っている。その背中に、オルーギオが細い筆で何かを描いていた。黒い液体が、肌の上で不気味に光っている。
石台の端には、小さな黒い瓶と、古びた木箱。
ミラエルは魔法の勉強をしている学生だ。その黒い液体が何か、すぐにわかった。
(永久インク……)
それに、あの筆。普通の魔力インク用の筆じゃない。穂先が魔法生物の毛でできていて、柄には魔力増幅の宝石が埋め込まれている。
(刻印筆だ)
刻印魔法。禁術。
でも、その理解よりも早く、もっと激しい感情がミラエルの胸を突き刺した。
オルーギオの指が、キーフリーの背中に触れている。
その距離が、近すぎる。
(なんで、あの人なの)
ミラエルは唇を噛んだ。
キーフリー先生は、特別な先生だった。魔法が使えないのに、一生懸命に知識を教えてくれて、いつも優しくて、でもどこか寂しそうで——。
気づいたら、目で追っていた。
(私、先生のこと……)
なのに。
先生の背中に触れているのは、自分じゃない。
ミラエルはその場に座り込んだ。涙が出るより先に、腹の底から熱いものが込み上げてくる。
(ずるい。ずるいよ、あの人)
廊下の冷たい石の上で、ミラエルはしばらく動けなかった。
目を閉じる。
でも、さっき見た光景が焼きついて離れない。
(禁術なんて、どうでもいい)
そう思った。
(でも——あの人が先生に触れてることだけは、許せない)
ミラエルは立ち上がった。
金色の瞳が、暗い廊下の中でぎらりと光る。
頭の中で、キーフリー先生の授業の言葉が蘇った。
「七芒評議会のドラスヴェン議員は、禁術の取り締まりに厳格な人物だ。違反者には一切の容赦をしない」
ミラエルは、大講堂を飛び出した。
———
夜の王都グラスフィリアは、星明かりだけが頼りの街だった。
ミラエルは走る。
石畳を蹴って、街路を曲がり、評議会の議員たちが住む高級住宅街へと向かう。ドラスヴェン議員の屋敷の場所は、前に授業で配られた資料に地図が載っていた。
門番に話を通し、深夜にもかかわらず書斎に通された。
ドラスヴェン議員は、初老の肥えた男だった。冷たく光る目が、ミラエルをじっと見る。
「[cold]こんな夜更けに、学生が何の用だ」
ミラエルは唾を飲み込んだ。
「[serious]……大講堂の地下室で、禁術が使われています」
声が震えている。でも止まらなかった。
「[serious]七芒評議会の研究員が、刻印筆と永久インクを使って、非魔法使いの教師に刻印魔法を施そうとしています。私はその現場を、目撃しました」
ドラスヴェン議員は、しばらく無言でミラエルを見つめていた。
それから、静かに口元を歪めた。
「[cold]……よく来てくれた」
ミラエルは胃がギュッと縮む感覚を覚えた。
でも、もう引き返せない。
(だって、あの人が先生に触れてるなんて、許せないんだ)
———
翌朝。
授業開始の鐘が鳴る直前、大講堂に評議会の騎士団が押し寄せた。
銀色の鎧を着た騎士たちが、正門と裏門を封鎖する。教頭が慌てた様子で地下への階段を下りていくのが、廊下から見えた。
キーフリーが騒ぎに気づいたのは、教員控え室で授業の準備をしていた時だった。
廊下に出る。
ちょうど、地下二階への階段の前で、オルーギオが騎士たちに囲まれているのが見えた。
銀色の髪が揺れる。
オルーギオのコートの内ポケットから、騎士が取り出したもの——古びた木箱。蓋を開けると、中には刻印筆。鞄からは、黒い小瓶。
「[serious]禁術関連物品の現行所持。七芒評議会の名において、お前を拘束する」
キーフリーは駆け寄ろうとした。
「やめろ!」
でも、別の騎士に腕を掴まれ、押しとどめられる。
「[serious]動くな! お前も共犯者だ!」
オルーギオが振り返った。
深い蒼色の瞳が、キーフリーをまっすぐに見つめる。
それから——オルーギオは、静かに笑った。
まるで、大丈夫だと言うように。心配しないでと言うように。
その笑顔が、キーフリーの胸を引き裂いた。
「オルーギオ——!」
名前を叫んだ。
でもオルーギオはもう前を向き、騎士たちに連れられて階段を上がっていく。
その背中が、廊下の向こうに消えた。
———
教頭室に呼ばれたキーフリーは、机の上に一枚の書類を置かれた。
「教師職の即時剥奪だ。異論はあるかね」
キーフリーは何も言えなかった。
大講堂の教職員証を机の上に置く。
私物だけを手に、教頭室を出た。
廊下に出ると、騒ぎを聞きつけた学生たちがざわついている。
その中に、ミラエルが立っていた。
赤い髪の少女は、廊下の端でキーフリーを見つめている。でもその顔は青白くて、何かを言いたそうに唇が震えている。
(そういうことか)
キーフリーはすぐに理解した。
昨夜、廊下で物音がしたのはミラエルだったのだ。そして彼女が誰かに——おそらく評議会に——伝えたのだろう。
目を合わせることはできなかった。
キーフリーはそのまま正門へと歩いた。
大講堂の重い扉を押し開ける。
外は晴れていた。
王都グラスフィリアの通りには、朝の光が差し込んでいる。市場の喧騒が遠くに聞こえた。
キーフリーは一人、石畳の上に立っていた。
(全部、消えた)
二十八歳になって、やっと手に入れた居場所。大講堂の教師という肩書き。魔法の知識を教える喜び。
それから——秘密の恋人。
全部が、朝の数時間で消え去った。
右手を見る。
昨夜、あと少しで刻印が完成するはずだった手。でも今は、そこには何もない。
(オルーギオ)
胸の奥が、張り裂けそうだった。
今頃、オルーギオは星芒塔の地下牢に拘束されている。七芒評議会の本部だ。魔法も地位も持たない自分には、あの場所に近づくことさえできない。
キーフリーは唇を噛んだ。
鉄の味が広がる。
空を見上げる。
星芒塔の先端が、遠くにそびえている。あの中に、オルーギオがいる。
(何もできないのか、俺は)
握りこぶしを作った。
指の震えが止まらない。
歯を食いしばって、地面を見る。
石畳の上に、朝日が自分の影を長く落としていた。
一人きりの影。
風が吹いて、キーフリーの前髪を揺らした。
春の風なのに、冷たかった。
キーフリーは、一歩踏み出した。
どこに行くあてもない。でも、立ち止まっていることはできなかった。
——この街には、もう居場所がない。